2012/04/07

皆さんはどうしてるのかな?

 ~「住所録」の整理~
 小生は、毎年(何時ごろからは不明)ゴールデンウィークまでの間に完了することを心がけていました。従って住所録更新の日付は殆ど5月5日になっています。それ以降はその都度の変更や追加で処理していました。パソコンソフトを使用し始めてから10年も経ちました。整理するのにはとても便利ですが、サッと使おうとするとパソコンの立ち上げからソフトを開いての手作業が時としては不便な感じがしない訳でもありません・しかし、保管しておくには「流石にパソコンソフト」と唸る時も多く10年以上もの間愛用していることになっているのでしょう。
 ところで、読者の皆さんはどのようになさっていますか?
 退職して8年間がこの3月31日で過ぎました。前半の6年間はスケジュールに追いまくられる日々でしたので、ほぼ現役時代と「時間の流れ」は同様でした。従って5月の初旬までを住所録整理の期限としてのリズムでした。しかし、昨年あたりから3~4月の日程がゆるやかになりました。昨年は「転居」と言う人生最大の仕事に対応したので、そんな空間は貴重でした。住所録の更新も遅れるほどでした。
 ところが、今年。
 自由な日々を過ごしていてもリズムは意識しないと変わりません。のんびりと構えて過ごしている爺の脳を掠めるささやきが聞こえました。「暇だったら住所録の更新でもすれば?!」と。ふと我に返って、今年は行動に移しました。その主な仕事は「年賀状の整理」なのです。多かった時代の半分も無い量ですが、まだ200枚は積まれている年賀状の束があります。最終確認は「お年玉年賀はがき」の当たり葉書のピックアップです。小学1年生の孫の協力を得て楽しく作業が出来ました。僅か3枚の「切手シート」の当たり葉書に、孫は「えっ、たった3枚?」と、面倒な作業の成果の少なさに驚きの声を上げてひっくり返りました。毎度のことです(笑)。
 遅まきながら郵便局に出向いて、きれいな「切手シート」をいただいて来ました。保存ケースに入れました。ちらっと見ると昭和54年度の「20円切手シート」もありました。葉書や封書(切手)代金の変化もこれでわかるような懐古の念(昨日ブログ)に立ち至り心長閑な気分にも浸れました。
 そして、今度は老眼鏡(妻)の援助を得ながらの作業に移るのですが、昨日は一気にその行程までは辿り着けず終了しました。今度は、本格的「更新作業」です。明日は私的公務(?)が入っているので、今日中に作業に取り掛かれると良いのですが、孫たちが休日ですので先が読めません(笑)。

2012/04/06

偏屈な私・哲学(1)

~懐古と回顧~
 「回顧する」心は成長過程にあり、「懐古する」心は充実期にある。
 偏屈な哲学ですなぁ~。懐かしく少年の日々を思い出す老輩となった小生には成長の兆候などは無い。しかし、失敗で悲哀にくれたシーンを回顧して次のステージでの自らを鼓舞していた現役時代には成長の伸び代が存在していた。懐かしく思い出すのは「是非善悪」の様々な色合いがほぼ一色に変色して全てを容認できるようになる時期である。やっぱり偉そうですなぁ。
 成長過程にある「教え子」からのメールをご紹介して、同時に本人の今後の伸び代に期待したい。(原文のまま。冒頭の『根知和』とは「こんちわ」と読みます。中学校野球部で部訓としてしようした合言葉です。)
 
2012-04-03-22:40受信
角田先生;
 根知和。
 早速の葉書での写真送付、ありがとうございました。本日、拝受致しました。連絡が遅くなり、申し訳ございません。
先日はお疲れ様でした。同席させて頂き、とても懐かしく感じました。31年前、いつも先生の隣に居た時のことを、僕も”走馬灯”の中で「中学生」に戻っていました。マサ自身、復活の手応えを感じていつつも、不安を抱えてのマウンドであったと思います。カズをはじめ、仲間の皆も理解し、祈っていたに違いありません。 結果、勝利投手にはなれませんでしたが、皆が一様に「勇気・元気をもらった」と健闘を讃えておりました。思えば”縁”というのは本当に不思議ですね。我らが歩んできた46年間の内、共に過ごしたのは「たったの3年間」です。しかしながら今振り返っても「されど3年間」です。年数では一緒にいた3年間よりも遥かに多くの年数を様々な人々と出会い過ごしてきたにも関わらず、皆の心の中心には、いつも中学時代の仲間がいます。40代も半ばを過ぎ、各々が組織の中心となっている今、色々な葛藤と闘い、苦悩を感じている様です。しかし再会する時には皆がいつも一緒にいた”あの時”と同じ感覚で語り合い、”故郷”で”充電”している様に思います。
 僕の勝手な解釈かも知れませんが、その根幹にあるのは、やはり中学時代に学んだ”相手を思いやる心”ではないでしょうか。1年半振りの登板で当人以上に周囲が騒いでいる中、好投し後輩に後を託したものの、失点してしまった後輩に対しての”労り”のコメントを報道で聞いても、彼自身の本心からの発言であることがよく分かります。また突然の身内の不幸に同行が適わなくなった人、自身の都合がつかなかったら単身で大阪へ赴任している仲間を誘うべく提案してくれたりと、いつもは口の悪い仲間達ですが、本音では皆が仲間に対し、常に”思いやり”ある付き合いをしています。
 僕自身、中学時代に途中で投げ出すことなく、最後まで在部出来たのも、角田先生のお陰であることは基より、仲間の”思いやり”に何度救われたか分かりません。市内3連覇を達成し、全校朝礼での表彰で選手でない僕に優勝杯を持たしてくれたこと、公立高校の受験であるにも関わらず、僕の第一志望校の合格発表に職員室の廊下で周囲を憚ることなく喜んで下さった先生、その直後グラウンドに下りた時の野球部全員から頂いた拍手等、鮮明に覚えています。
 たまたま同じ時代に同じ学校となった”縁”での出会いがもたらしてくれた沢山の財産を、それぞれの立場で後輩達に伝えていく事が、角田先生や仲間達への感謝の証だと思っています。
 『信じる者は救われる』を実体験した者として『信じられる』人間となれる様、今後も精進して参ります。
 文才なく乱文となり恐縮ですが、略儀ながら御礼とさせて頂きます。再会出来る日を楽しみにしております。お身体、ご自愛下さい。 
 

2012/04/05

二転三転の人生模様

~『春の嵐』と「孫台風」がガチンコ!~
 楽しみにしてやって来た(長女の)孫たちが帰って行く日。
 日本列島を吹き荒れる『春の嵐』様が、ここ土浦へもお立ち寄りになった日。台風銀座で育った小生は亡き祖母が、立ち往生して動かず被害だけが重なる台風の傘下で発した言葉を思い出す。「お茶菓子でも足りんのか?台風様は中々去らないね」と母に向かって発した言葉だった。意味などわからなかったが、春の嵐が吹き荒れる日中、雨戸を閉めてじっとしている様があの日の祖母の言葉に何とも言えない親近感を抱いたのである。自然界への畏敬の念を学んだ思い出である。
 当初の予定では、長男一家(長男夫婦が公休を取って)で車に乗せて他の娯楽施設でも巡りながら長女宅に向かうことになっていたようだ。当然ながら娯楽施設も我々老夫婦も同行させる予定と聞いて、4月1日のナゴヤドーム往復から翌日の孫を迎えに移動した電車の旅の疲がピークに達している爺としては「拒否反応」が自然体であった。その意向を踏んで変更先が市内のシアターでの「春の子ども映画」鑑賞になった。そこも爺はパスする。映画を見て千葉の孫たちを土浦駅まで送るので、(土浦駅で合流して)、電車で千葉まで連れて行く、と変更された。
 約束の時間に合わせて土浦駅まで向かおうと最寄駅まで徒歩で到着。
 春の嵐はJR常磐線を麻痺させていた。小さな駅の構内には人っ子一人いない。「復旧の見通しは無い」との駅職員の対応に爺婆は立ち竦む。婆が映画鑑賞を終えて土浦駅に向かっている車に向けて電話する。自宅に戻って来るとの反応を受けて待機する。嫁と(土浦の)孫たちを下ろして爺婆が乗り込んで、千葉に向けて出発した。1キロも走らない車内に携帯電話が鳴る。千葉の長女からである。業務の関係で、千葉から水戸市に向かう車の中からと言う。
 水戸で営業が終わった帰途、土浦に立ち寄って連れて帰るから・・・、と。
 急遽、自宅に引き返す。いとこ達が帰るのが不満だった土浦の孫たちは「戻って来たいとこ達」と合流して元気復活。そして、延々と8時過ぎまで「遊び飽きる」ことも無く遊んで、夕食と入浴を済ませて千葉の孫たちや両親と帰って行った。
 ホッとした時間。爺と婆は放心状態。
 二転三転は孫たちのこれからの人生そのもの。人生を二転も三転もさせる要因は「ひと」だけでないようだ。ここにも「自然界」との絡みがあることを幼い孫たちは知るわけがない。ちっぽけな「春休みの思い出」としても記憶にも残らないだろうが、親は「語り」を通して教えていかねばならない。こんなちっぽけな出来事の積み上げが子育てだと意識してもらいたいモノである。

2012/04/04

祖父ちゃんの『創り話』

~子ども時代に聞いた話の再話~
 分校で入学した小生は3年生から本校(=約5キロ)に通うことになった。4年間の小学校生活の中でキラキラ輝く瞬間の光景は70歳を前にしても明確に思い出されるのが不思議な程である。
 学校に校長先生がいることは知っていたが、教頭先生と言う存在は知らなかった。しかし、今となると校長先生の記憶は殆ど記憶には無い。教頭先生の氏名は覚えてはいないが愛称(=子供たちの間での呼び名)はしっかりと記憶している。『ひこいち先生』と呼び合っていた。ひこいち先生は、担任の先生が出張だったりお休みだったりすると教室にやって来た。担任の先生から与えられた課題を確認すると、必ず次の言葉を発した。「みんなが終わったら、楽しいお話をしてあげる」と。「お話」を聞きたい子どもは課題を懸命に仕上げた。「みんなが・・・」と言葉を理解したのか、「聞き合い・助け合って」皆が30分もすると終えた。「教頭先生、みんなが出来ました」と級長であった小生が立ちあがって伝えた光景も覚えている。
 おもむろに本を広げながら、「ひこいっちゃん(=「彦一」ちゃんの地方弁)がな、球磨川の橋のところまでやって来るとな・・・・」と話が始まります。全国的にも有名な『とんちの彦一』話の始まりだった。彦一は、わが故郷・熊本県八代市に伝わる民話の主人公として誰もが知っている有名人である。教頭先生の彦一話は、民話独特の「方言」で展開され、熟睡してしまう級友が何人もいたほど心の奥までしみとおる話として子どもたちにとっては大好きな「夢の世界」となっていた。
 孫たちが少々成長して、親から離れて祖父ちゃん・祖母ちゃんの家に「お泊り」にくるようになった。大好きな祖父母であっても「お母さん」の声が聞こえない夜を迎えるのは心寂しく、帰りたくなってしまう。最初の夜、寝付けないお姉ちゃんが声を殺して泣いていた。祖父ちゃんも祖母ちゃんも思案した。
 ふと、熟睡してしまった級友を思い出した祖父ちゃんは、孫娘を抱きしめながら、「お祖父ちゃんの生まれたところにね、大きな川があってさ。そこには河童がたくさん住んでいたんだって。その河童と一番のお友達が「ひこいち」って言う男の人だったんだって。ある朝、ひこいちが洗濯しようと思って球磨川まで行くと、いつも居る河童が居ないから、おかしいなぁと思ったが洗濯を始めたんだってさ・・・」
 記憶は素晴らしい。教頭先生(『ひこいち』先生)のお話が淀むことなく口をついて出てきた。記憶を紐解く快感に酔いながら話を続けていて、ふと、抱きしめていた孫から寝息が聞こえるのに気付いた。ホッとして祖父ちゃんも眠ってしまった。翌朝、再話をする孫に仰天しつつも昔話の威力を痛感したモノだった。
 そんな日々が遠くなった。その孫は小学5年生になった。
 二泊目の夜も、1年生になる下の孫と一緒に布団に入ると同時に、「今夜はどんな河童のお話でしょうね」と、弟に声を掛けている。師匠(=「ひこいち」先生ご本人は既に故人?)譲りの語りかけが孫たちに伝わり始めているのに妙な気分になる。孫たちは、「ひこいち」ではなく「祖父ちゃんの河童話し」としていつの間にか定着している。回数を重ねるごとに「違う」話材にするのは苦労だ。しかし、創作する愉しみもある。祖父ちゃんの『創り話』もそろそろネタが尽きそうだが、孫たちもそろそろ一緒に寝ることもなくなる日が近づくだろうから何とかなりそうだ。
 明後日は下の孫の入学式らしい。だから、今日は父母の元にに戻って行くと言う。すっかり成長した孫たちと(母屋の孫と加えて)狂騒の時間も終業式である。

2012/04/03

『爺・稼業』には体力が不可欠

~外孫(千葉)の誘導を依頼されて~
 前日(4月1日)は、土浦(茨城県)から東京駅を経由してナゴヤドームまでの旅程は日帰りの強硬だった爺さんに、婆さんが「千葉の孫が春休みに遊びに来たいそうですよ」と囁く。孫は可愛いモノとは通念ではあるのか、例外なく千葉までの移動を拒むことが無い爺さん。その爺さんの起床時刻が7時過ぎ。「えっ、そんな遅い時間に?」と訝しがられるほどの遅い目覚めであった。それだけ爺さんは心身ともに疲れていたという証。なのに、連続の強行日程が襲ってきた。
 遅く起きた朝は、爺婆揃い踏み(笑)の6時半からのラジオ体操を回避。そんな朝でも孫たちの母親(=爺婆の長女)からの要請があれば「動きたくなる」意識が凄い!!(笑)常識なのか非常識なのか?苦笑しつつも結論は出ず!!
 辿り着いた長女宅から孫を連れて最寄りのJR駅を出る。2回乗り換えの行程である。順調に進んでいた旅程が、最終乗換駅に到着するとホームは人で一杯。「人身事故のために、ただ今全線止まっています」の構内アナウンスを確認した時は夕暮れの6時過ぎだった。夜の帳が降り始め、風も冷たくなってしまっていた。回復の見通しも無いままにホームで待つ身になってしまっていた(泣)。
 遅れて到着した電車を2度乗り換えて、何とか帰着。
 孫たちは正月に会ってからの久しぶりの再会となり、双方が興奮状態。それでも慣れない電車の旅に、事故延着もあり疲れたのか布団に入ると忽ちの熟睡。寝顔を見詰める余裕も無く爺・婆もいつの間にか眠ってしまったようだ。
 寝相の悪い孫息子の足で起こされて起床である。「孫って可愛いけど疲れるね」と、爺婆が目線で苦笑する幸せな朝である。そして実感する。爺婆稼業には体力は不可欠である、と(笑)。

 ※小生のHP管理人さんより一報:5月20日でホームページのアドレスが変更になるそうです。詳しい事情は知らせられても当方にはわかりません。ホームページにも予告が入っています。

2012/04/02

走馬灯には30歳代の「私」

 ~身体は確かに記憶している~
 「教え子」と言っても今日の主人公は(現在)46才だろうか?
 小生が36歳の頃の中学3年生だった主人公たちは今や、社会の屋台骨として活躍しているようだ。特別窓口でチケット(入場券)を受け取ってはしゃぐ孫二人。同行した長男(当時の小生の年齢)が、「転売等禁止」という活字に注目しながら息子二人に何やら話しかけていた。何回もその恩恵を受けている小生は、一度もその字句に注目したことが無かったので感度の鈍さを感じてしまった。
 同席したのは、同じ時代のチームメートである。奥様とお嬢様の同伴で観戦することになった。ナゴヤドームの中央で躍動するチームメートを凝視する彼は、中学生の時代に「選手を断念させられて」、ベンチの隣席に座らせられてスコアブックに情報を書き込む業務を強制させられた中学生であった。彼も小学生時代から所属したチームの主将を務めさせられたほどの有望な部員の一人であったことは今でも忘れたことは無い。選手生命を断つ宣告をした指導者・張本人には責任がある。中学校を卒業する時点で、部員には数多くの高校から勧誘の言葉が届いている。しかし、スコアブックのプロ(当時は稀有)部員には声など掛かるわけがない。そこで、責任を感じた小生は彼の「第一志望高校」を探り出して、選手以上に厳しい難関であった第一志望校の合格青写真を創り上げ、また、彼にそれを強いた。
 結果だけが人生ではない。とは言うモノの彼だけには第一志望校への合格証を受け取らせたかった。提示した青写真を悉く踏破していく涙ぐましい程の彼の努力を垣間見るにつけ、「もし、失敗したら?」と不安が過った。信じられることが「こんなにも恐ろしい」ことだとは、この年代の中学生たちに学んだ。
 彼の努力で見事に難関を突破して、高校~大学と人生を広げつつも片時も中学時代の「部活動仲間」のことを忘れることなく彼の人生のスコアブックは現在も健在であるのが至福である。
 プロ野球選手最年長者となる中学時代のチームメートを激励するために茅ヶ崎市から車で馳せ参じたようだ。30年もの年月が流れても交わす友情はホンモノだろうと確信できる。次世代への橋渡しをすべき教員稼業従事者としては充足感そのものである。
 マウンドで未だ活躍する教え子。それを見詰めるチームメート。ひっきりなしに携帯電話で連絡し合っている相手もあの時代の同級生なのだろう。どの卒業生をとってもこの稼業でしか得られない「至宝」に間違いない。幸せな時間をナゴヤドーム過ごさせて貰って帰路の新幹線の車中にマウンドで躍動した選手からお礼のメールが着信した。

2012/04/01

日付変更線

~真理はわからないままに~
 地球は丸いんだって!?オーストラリアは今、秋だって!?
 どうして??説明を求めると先生が真剣に説明していただいた。中学校の職員室の思い出が蘇ってくる。そんな先生が、「今日から居ないよ」と知って愕然とした少年時代を、天井を見詰めながら思い出した。3月31日の午後11時58分ごろだった?数分後に、枕元のラジオから深夜0時の時報が流れた。「眠れぬ夜」は殆ど関係ない人生を送っては来たが、時に小用に立って妙に眠れぬひと時を過ごすことはある。どの時もいつの間にか熟睡するタイプなので「眠れぬ夜」体験者に属しないと決め込んでいる。
 この時期は良く咳き込んでしまう。鍼診療師のアドバイスは簡単明瞭。悪いモノは身体から「出す」作動をするのが肉体のメカニズムである。咳も痰も体内から出すための自然現象である。どんどん出せ!と。
 とは、理解しても深夜に苦しくなるほどに咳き込むのは苦しい。横になったままでは苦しくて睡魔も何もあったモンじゃない。久しぶりにその症状と遭遇したが身体のメカニズム(神秘)を学んでいるので「出るモノは拒まず」スピリットで昨夜も暫し「咳」くんと時間を過ごしてしまった。咳止めや痰切りの『くすり』の力は借りることは絶対にしない。身体を温めることで対応する。
 そんな時、「今日から4月か」との着想で冒頭の思い出を辿ったのである。とても怖かったのに大好き(だった?)な先生が、転勤でその中学校からいなくなられたことを、部活動を終えて職員室に部室のカギを返しに行って知ったのである。先生の机の上だけが何もない状態だった。55年経った今でもハッキリ覚えている。苦手な理科の先生だったが、疑問を発すると授業時間を超えて、所構わず説明してくれる先生だった。
 日付変更線や季節の違いを「地球が丸い」からと何度説明されても理解できなかった中学生の自分の姿が天井に映し出される。今でも自然科学分野への理解度は低いから遺伝子の所為なのだろう(笑)。
 眠れなかった時間のうちに「日付」が変わった。
 昨日は3月31日。今日は4月1日。しかし、単なる日付変更線を跨いだ訳ではない。行政的感覚からすれば「全てが新しくなる」日である。そんな思いに心を巡らせながらもいつの間にか眠ってしまった。
 今日は長男一家と一緒に名古屋までミニトリップだ。昨夕から興奮状態の孫たちは良く眠っただろうか。日帰りのプロ野球応援旅行である。卒業生の招待に応じての楽しい新年度のスタートである。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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