2012/11/11

38年前の『手作り産着』

 ~最後の「晴れ着」にまで到達~

 38歳になる長男が誕生した折に、義母(長男にとっては祖母)が丹精込めて「お宮参り」の初着(=産着)を縫ってくれた。呉服屋さんまで義母を連れて行った小生が着物柄の見立てである。小生にとっても第三子目に誕生した男児だったことと、妻は一人っ子で育っているので義父にとっては「血縁の男子」は初めてであったことが宮参りの準備から肝煎り状態だったのだろう。

 ところが長男は病弱で5歳のお祝いの「ひもとき」(九州では七五三のお祝いをこう表現)が祖父母や両親の思いに反して出来ない状況であった。義母は諦めきれずに着物に仕立てて晴れ着として保存してくれていた。26年間のブランクの後に、長男には三人の息子たちが誕生した。父親が着ることができなかった晴れ着を三人が着られるように成長してくれた。三人とも5歳の七五三の晴れ着は曾祖母の手作りを身に纏うことができた。その最終回が今日であった。

 嫁から今日の日程を聞いた老妻は、和箪笥から1週間前に出して皺がとれるようにと干していた。この図柄を見る旅に「日本文化の重さ」を痛感していた。38年前に作ってもらった着物を今日も着ることが出来る。物を大切に使うという文化の重さを感じるのである。この最終日までの間には、長女の子ども(男児)もこの晴れ着で七五三の祝いをやってもらっている。4人の曾孫に着られた「晴れ着」も果報者である。

 九州流に表現される「ひもとき」の意味もわかるような気がしてきた。産着のひもを解いて正規の着物に変えて着るという「成長の証し」のお祝いであることをこの歳になって知ることになった(恥)。

 通常は浜松で仕事をしたら一泊するのであるが、昨夜はこの日のために直帰した祖父ちゃんである。末弟のお祝いに神社まで同行した二人の兄たちにも「お前たちもこの晴れ着を着たんだぞ」と父親が語りかけていたが、記憶は無いらしい。そんなモンだろう。しかし、38年前の義母の力作が今も息づいていることが何とも嬉しい孫の七五三のお祝いだった。神社の帰路、長男の運転するワゴン車が祖父母の眠る墓地へと向かうのに気が付いた。座って暫く拝んでいた長男は祖父母に感謝の意でも伝えたのだろう。改めて問い質すことでもなさそうだが、小生の直観は正解だろう。

 九州の方は雨らしい。間もなくやってくる雨に降られずに済んでホッとしている。チョッとだけの午睡の時間にしようか!

2012/11/10

「年の瀬」の前哨戦

~『喪中』の葉書が届き始める~

我が家の義父母は同年齢(92歳)で、同一年に他界した。米寿のお祝いは義母には慶びは通じなかったが、義父には十分理解してもらったと意識している。義母が8月に、義父は11月に逝ったので年忌供養も一緒に出来る。僧侶が、娘である我が妻に向かって、「あなたのご両親は娘孝行ですよ」と言われた。耳慣れない表現に唖然としてしまったが、日が過ぎる度にその言葉の意味を噛み締めている。親孝行は耳に慣れているが「娘孝行」とは聞いたのが無かった。読者諸兄は如何であろうか。新年が来ると、その「娘孝行の義父母」の7回忌である。

今日は11月も10日になっている。

手元に、今年も数通の「喪中の葉書」が届いている。もう、そんな時期になった?年の瀬の風物詩の一つであると小生は考えている。夏は「暑中見舞い」の葉書を入れ、この時期になると「喪中」を知らせていただく葉書と入れ替える特製の「葉書入れ」(マグネット付き)を冷蔵庫の横に装着している。

一通ずつ読みながら文面からご存命の頃から親しくして頂いた友人や知人(卒業生も含む)の縁者の尊顔が浮かんでくる場合もある。そんな喪中の葉書を受け取ると、やっぱり哀しくなる。ご冥福を祈るばかりである。

今日は浜松に出講する。年に2~3回の講座に10年以上も通い続けている。共に頑張ってくれている同業者(浜松市内の小学校教員)から「母親の介護」に苦労をしている旨のメールが届いた。90歳を超える高齢者になられたそうだ。以前、ご自宅に招かれた折にお会いしている。息子思いの素敵なお母様のご自身の苦悩を考えると心も痛む。後輩同僚には「息子だよ、親孝行しろよ」と言いつつ、親不孝だった自己反省は拭うことは出来ない。
今年も、年賀葉書も売り出された。若い時代には「面倒だ」と嘯いた日々もあったが、お世話になってご無沙汰の諸先輩に感謝の意を添えて今年も年賀状を書くことにしましょうか、ね。

2012/11/09

『本屋さん』へのノスタルジー

  ~高校時代の友人宅は本屋さん』だった~

 ノスタルジアを思郷病(=故郷を懐かしみ恋しがること。郷愁)と訳すそうだ。昨日(11月8日)の朝刊(地方版)の記事に目が飛びついた。「ただでさえここ数年、売り上げは下がりっぱなしなのに・・・」とのコメントを発した「本屋」経営者の記事が妙に心を抉った。高校時代の友人のお父さんの声が聞こえて来たような気分になった。友人の家は『本屋さん』だったのである。

 通学していた高校から友人の家までは歩いて10分は掛からなかった。市内本町にあったアーケード通りの外れではあったが市内でも3指に数えられる「憧れの本屋」であった。時には「勉強する」という名目で泊まらせてもいただいた。夜中の本屋さんの中央に立つとリッチな気分になったものだった。夕食のテーブルで店主である友人のお父さんは、「これからの時代は本屋では喰ってはいけない」との理由で息子には東京の大学を出て都会で生活することを勧めているとのことだった。「父親の話」をこうして聞いたことが無かったので未だに印象に残っている。

 埼玉県に居を構えた友人は故郷の親を引き取ったと、ずっと経ってからの情報を得た。あの本屋さんのその後は関知していない。二階の自宅にお邪魔するのに、開業中の本屋の中を通り抜ける瞬間の「本の匂い」に憧れが執着した。貧乏人の子倅にとって、数冊の私物の本を所有(笑)することだって大きな文化だった。何百冊と並ぶ「見たことも無い」本の並ぶ光景は忘れ難いのは自然なのかも知れない。

 当地に引っ越して何が寂しいか?!

 それは駅前に本屋さんがないことである。新聞記事にある買い物客の主婦のコメントに同感である。立ち読みを主眼にしている訳ではないこともわかる。常磐線は1時間に2本の上下の電車が走るだけである(これへの不満はゼロ)。だからこそ、その間の「つなぎ」に駅前書店は相応しいと執着する。隣接するつくば市に向かって行く途中に大型スーパーの3階にチェーン店の本屋さんがあるだけで自宅からは、車で15分も掛かる距離である。

 利益追求の経済社会だから倒産する本屋さんが多くなっている現状も十分理解できる。小生ですらも、最近はネット書店で本を注文している。これはこれで「購入目的が確立している書籍」の即時注文と即刻配達は重宝なシステムで有難い。しかし、やっぱり「本屋さん」の佇まいは欲しい。これがノスタルジアなんだ!!

2012/11/08

読者に贈る「読み物資料」(1)

『社会人』と『会社人』

 漢字を1個だけ位置をずらせて出来た熟語でも、こんなに違ってしまう。先日手にした月刊愛読誌(当ブログで紹介済み)の11月号に次のような記事が登載されていました。

 こんな記事に触れると、小生は直ぐに自らに置き換えて考えてしまいます。時には造語を考えます。そして、その理由づけまでして楽しみます。そのホンの一例が「教員採用試験」と「教師採用試験」です。前者は存在しますが、後者は架空の造語となります。それに、無理な添付理由を考えるのです。

 そんなきっかけが、以下のような記事に遭遇した時なのです。読者の皆さんも暫し、この記事と対峙してみてください。

・・・・・・(前・略)・・・・・

アメリカのアイゼンハワー大統領が1953年に唱えた「原子力の平和利用」によって、世論は「原子力」に好意的なイメージを持っていました。私自身も、石油や石炭は近い将来なくなってしまうという意識があったので、これからは原子力の時代が始まるのだろうと思っていました。だから、科学技術の最先端に携われる、という期待感すら抱いていたんです。

 しかし、年月が経つにつれ、私は「社会人」ではなく、「会社人」になっていました。「社会人」とは、自分と社会の関係性を持ち、行動できる人のこと。一方、会社の言うことにきちんと従って、少しずつ出世し、社長を目指すというのが「会社人」。だから。“会社のため”なら、なんだってしてしまう。「利益」さえ大きければ、倫理や道徳は見て見ぬ振りをする。私はいつの間にかそのような人間になっていました。

 私か、福島第一原発4号機用の原子炉圧力容器の違法な「ゆがみ修正作業」に携わったのは、1974年、夏のことでした。もう少しで完成という製造最終段階で、原子炉圧力容器が大きくゆがんでしまったのです。私は、その直前に人事異動があって再び火力発電所の設計部に戻っていましたが、突然上司から原子力設計部に手伝いに行くよう指示され、初めてその事実を聞かされました。そして、急濾、その数ヵ月前まで私がグループリーダーをしていた部署に戻って、どうすればゆがみを修正できるかを考えることになったのです。

 ゆがんでいるならば、その形を正せばいいと思うかもしれませんが、そんな単純なことではありません。原子炉圧力容器というのは、ウラン燃料が核分裂を起こす容器で、高い圧力に耐えるための鋼の強度がとても重要です。鋼を無理に曲げればその部分の強度が落ちる上、鋼の性質として、瞬間的にパリンと割れてしまう可能性もあります。だからこそ、設計技術者は細かい強度計算をし、製造技術者は細心の注意を払って製造に当たらなければならないのです。

 しかし、このときは強度など関係なくどんなことをしてでも、ゆがみを直さなければいけなかった。原子炉を造るためには二年半の歳月と、いまの貨幣価値で言えば何百億円という莫大な費用がかかっています。そうやって造られてきた原子炉圧力容器ですから、なんとしても電力会社にも国にも安全だと認めてもらわないと、会社はつぶれてしまいます。 結局、圧力容器は秘密裏に、高温の炉の中で強引にゆがみが修正され、まるで何事もなかったかのように東京電力に納められました。普通の「社会人」なら、やってはいけないことだとすぐ分かっても、「会社人」だった私はもはやそれがわからなくなっていた。「会社のピンチを私か救えるかもしれない」とさえ思っていたのでしょう。修正が無事に終わると、会社から評価され、賞状や褒賞を頂きました。自分がいかに恐ろしいことをしたかなんて考えることもなく、むしろ「会社を救った」「良いことをした」と得意顔になっていたように思います。

・・・・・・(後・略)・・・・・

2012/11/07

距離の遠近と所要時間

「小田原駅」までは遠かった!!

 文明の利器がもたらすギャップを感じつつ帰宅した。

 9時前の小田原駅始発・東海道線の電車が東京駅に着くのは10時半前だった。およそ90分の車中は昨日の歩禅記に記したとおりに間違いは無かった。東京駅から上野駅まで乗り継いで11時前の常磐線に乗って降車駅に到着が正午過ぎである。1時間半までは要しない。しかし、この所要時間を新幹線を使って東京駅を発てば「新大阪駅」に到達する計算となる。距離と時間と所要時間の三角関係は小学校の算数で苦労したが、理屈を述べる要素にもなっているのが滑稽ではないか。

 距離と時間と所要時間で算出できるのは、心情的なデータは疲労度かも知れない。しかし、言及すると同じ計算で算出しても、この心情的疲労データ度には、更に2種類があるようだ。それは同じ行程の往路と復路の差である。これぞ、まさしく物理的な疲労度に複雑な要素が含まれることになることは誰にも察しが付くことではないだろうか。

今朝、宿泊先のホテルから小田原駅に着いて写真を撮った。小田原城と駅ビルである。周囲の風景が変わると小田原城もこんなに変わって見えるのかと不思議だった。高校生と格闘した日々の光景には、いつも小田原城があった。立派になった駅ビルの橋上から見る小田原城の風景は、しかし、「やっぱり懐かしい」ものだった。

 昨夜のような時間設定の講演は殆ど無い。

 文科省からの指定研究(本年度より2年間=「魅力ある学校づくり」)の一環として「地域・保護者を巻き込んだ研究」としての講演会だった。いただいたテーマを分析して3本の柱を立ててレジュメを創って臨んだ。関東一円は朝から豪雨に見舞われた荒天で主催者も集客に気を揉まれた事だろうが、小生が小田原駅に着いた5時過ぎにはすっかり上がっていた。

 講演は「聴講者の分別」ないとやり難い。不特定多数、たとえば地域住民であったり一般市民等、と年齢にも幅があると焦点ボケになり説得力にも欠けるからである。演題が「思春期における・・・・」とあれば、小学生以下の子どもを持つ若い層の保護者は少なくなる。元・小学校の校長とすれば「我が子が小学生である」日々に今回のような話題提供しながらの講演を聞くべきだと思うのだが、やっぱり現実は危惧だけで終わったようだ。小学校長時代に校長塾(月例)を創設し、任期期間中「親育ち」を支援する講座として30回近く開講したのも、そんな危惧を追い払いたかったからである。無責任にも成果や効果は全く関知していない。

 「~になってからでは遅い」は、一つの我が人生哲学である。思春期に差し掛かった我が子に遭遇(笑)すると狼狽する。つまり、「なってからでは遅い」のである。昨夜の講演は「夜間教室」の雰囲気があり集中できたようだ。真剣にメモを取る鉛筆の音が聞こえた。ホンの少しでも役に立った話であったことを願うばかりである。

 各駅停車の車窓を眺めながら遠い小田原から自宅まで座ったままだと腰が痛い。これも遠距離の疲労度を増す要因の様である。

2012/11/06

「小田原駅」の思い出

 ~50年前を懐古して~

 午後6時半からの「しごと」のために今日は午後から出勤です。当地から東京まで90分、東京から目的地まで90分のミニトリップを予定しています。出向先は神奈川県小田原市です。新幹線口の待合指定場所に午後5時半に到着することで日程が始まります。

 小田原駅も50年間を経てその変化は筆舌し難いモノがあります。

 高校を卒業したばかりの18歳の青年が、九州からボストンバック1つで上京して25時間も掛かって乗って来た急行列車から降りた「駅」が小田原駅なのです。大学を卒業した23歳の青年が、社会人としての「第一歩」を踏み出したのも、同じく小田原市でした。

 茅ヶ崎市に住んでいた48年間は、新幹線の乗降駅は小田原駅でした。繁忙な時期は毎日のように小田原駅を利用していました。頻繁な活用には鈍感性が生まれます。だから懐古の思いなど皆無となってしまっていました。

 ところが、今日は一昨年に転居した茨城県から「小田原駅」に向かうのです。1時間も掛からなかった所から、今日は3時間も掛けて「小田原駅」に向かうのです。転居してからは一度も「小田原駅」での乗降はしていません。東京駅から利用する往復の新幹線は「小田原駅」を通過しています。

 そんなセンチメンタルな思いを抱いて「里帰り」となります。

 出向先の地名を聞いても、学校名を聞いても「わかる」ほど忘れ得ぬ当地なのです。保護者を対象にした講座に出向です。小田原の高校で教えた生徒は、もうこの学校に通う生徒の「お祖母ちゃん」だそうです。学校から配られたチラシ(案内版)を見て反応がありました。

 やっぱり、あの時代は懐古の世界になってしまっても仕方が無いですかね。

2012/11/05

旅を終えて

 
5日間も休刊いたしました。少々感覚の鈍さも感じながらキーボードを叩いています。記憶を弄るほどの時間を経ている訳でもないのに執筆思考回路が凍結してしまったような錯覚も覚えつつパソコンに向かっています。土浦では今朝も地震がありました。そして、暖房器も機能し始めました。昨年の今頃は「現住所」の感覚さえ疎く、鈍感さに振り回されていたことに苦笑を添えて思い出している朝です。皆さんの地方でも寒さを感じる朝になっているのではないでしょうか。風邪など引かぬようにお気を付けください。

~「2日間の公務」に感じる~

 10月30日に出発して11月4日の昼過ぎに帰宅しました。

私的なスケジュールを入れての移動もあったので思った程の疲労感もなく過ごせたのかも知れません。しかし、連続して5泊もするとなると老体には違和感が無いわけでもありません。

 公務としては、①10月31日:高知市立大津小学校②11月2日:広島市立庚午小学校での双方が終日の業務でした。初めての学校訪問と、7年間も通い続けている学校とでは、訪問の温度差は確かにありますが今回の両校には極端な心情温度差を感じなかったのも「疲れなかった」要因だったようです。

 ★異物でも呑み込む様な光景を呈するような初訪問校。

そんな学校も多い中で、今回は全く感じることも無く終日過ごした初訪問の学校での「我が心情」に驚きました。学校長自身の研究経緯に、茅ヶ崎市立浜之郷小学校の研究会参加が存在したこと自体には驚きは無かったのですが、浜之郷小学校の「研究への思い」が言及されると、特に関わりが深かった小生としては聞き捨てることも出来ない程に親近感を抱いてしまいました。正に、こちらも個人的な感情表出で時間があっという間に過ぎたのでしょう。それは、単なる回想を超え、10年も前の実践が遠く四国の当地で息づいていることへの感傷でもありました。同時に、必死に取り組んだ浜之郷小学校の初代校長はじめ教職員の懸命な姿勢が、種となって高知市まで飛んできているのだと感動が先行したのです。暫く対話から遠ざかっていた初代校長の奥様にまで電話をしてしまうほどの言動に繋がりました。

 ★研究協議会の「持ち方=展開法」へ言及できる。

 退職後の稼業としている「研究への指導助言」者としては、これが生命線なのです。授業の評価や指導は個人的なモノでそんなに苦になることではありませんが、学校全体として設定される協議会への箴言は、その学校自体に根付いている歴史もあるので気遣いには大きなエネルギーを必要とします。その協議会の本流を発見するのに時間が必要なのです。ホンの数回の訪問で発見できる学校もあれば、なかなか本質が掴めない学校もあり、『疲労度』の格差は筆舌し難い程です。

 ズバリ直言!!直球勝負の性格であればある程、それが危険球にもなってしまうことも考えている内に機会を逸してしまう訪問校も少なくありません。放言の後始末で校長さんに苦労を掛けないようにとの気遣いもあるのです。しかし、今回は言及できました。潮時と直感したからです。

 今回の講演旅行も、「こんな重い」感情と共に出向きました。今回の結果は次回の訪問で判明します。心して次回に備えたいと覚悟しています(笑)。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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