~「ご挨拶状」を読みながら~
母屋の郵便受けに届く郵便物を孫たちが運んでくる。
たくさんの量に驚きつつ、「角田明先生」という宛名に小学生の長男孫も違和感が少々消えようとしているようである。「お祖父ちゃん」に「せんせい」の敬称が付けば、小学校の「先生方」と混同するのかも知れない。やむを得ない現状とは言え不思議な感情の揺れはあることだろう。わが子たちが、「絶対、学校の先生にはならない」と豪語して憚らなかった少年少女時代を思い出した。取り分け中学校に通うようになってからの「反撃」は強かった。しかし、今となれば懐かしい時空でもある。親業と教員業を上手に演じきれなかった(笑)、未熟な自らの生活ぶりも懐かしい。
離任や退職のご挨拶の葉書も届いている。「え、もう退職?」と思わず年齢を数える自分がおかしい。自らの年齢を忘れている「痴呆」症状が愉快ではないか。時々、怪訝な顔に変容する葉書も届く。それは、非日常的な交信を見せつけるような「ご栄転の証」を送りつけてくる葉書である。ご栄転を批判する気持ちなど無いが、教師道への軌道修正を乞う心境になってしまうのだから読者の皆さんにはご理解いただけないかもしれない。
偶然にも、『悠プラス』5月号(ぎょうせい)も茅ヶ崎経由で届いた。
執筆原稿が掲載されているが、毎度のことながら読み返すと赤面する。もう少し美文にならないものか、と。ストレートな表現しかできない未成熟な作文能力を恥じ入るからである。しかしながら「反面教師」という人生哲学を成す生き方は未だに燦然と輝いていることは事実でもある。昇任・昇格を知らせる葉書と対面する度に、この反面教師という人生哲学が蘇ってくるのがその証である。
引っ越し荷物の段ボールの山は、当分の間は片付きそうもない。GW明けからはお請けしている本務が再開する予定だが、段ボール達に見送られての出講になりそうである(笑)。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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