2011/10/31

新聞記事に思う

 ~教壇生活も遠くに霞み始めましたが・・・・~
 夢中に歩んだ教員生活も思い出すことは殆どありません。それは、「失敗を思い出したくないから」、ではありません。実は、殆ど記憶の外に出てしまっているのです。そこに「霞む」という症状が出始めたのですから重症なんでしょうかね(笑)。
 衝撃はその症状に刺激を与えるものを言うようです。
 穏やかなゆったりした老後の生活に慣れ親しむと、霞みの濃度が濃くなります。孫のリズムを中心にした生活を始めて半年も過ぎるとその症状が固定化するのかもしれません。それはそれなりに激務だった現職時代からの「夢」でもあったのですから決して不満があるわけではありません。寧ろ喜ぶべき症状なのかもしれません。
 しかし、先だってのある小学校からの相談を受けて、現状踏査と当事者からの現状報告と対応状況を数時間に渡って聞き取り調査に伺いました。耳に現状報告を入れながら脳裏を流れる血液の脈打つ音が聞こえる程までに大脳が活性化してしまった(笑)ようでした。帰路の電車の中に坐した一人の旅人は、「教員時代」の思考回路に戻っていました。哀しいかな??当事者には戻れないのです。自分なりの経験値を入れた対応策を指導した帰り道は「どうしようもない焦燥感」に襲われてしまいました。
 教育の根本。それは「先生の存在」です。
 不登校や学級崩壊の問題症状発覚に至るまでの該当教員の「自らの存在感」を蔑ろにしてしまった罪の意識が異常なまでに低いことが先ず要因です。間接的な原因があるとすれば現職教育に本腰を入れていない学校経営の甘さだと考えたからでもありました。『先生の存在感』をどこかに置き忘れ、今の自分と学級の現状だけを天秤にかけて、過去と同じ療法で学級づくりをしていることに気づかす、子供の抵抗ぶりに指導力でも落ちたかのような錯覚で落ち込んでしまう50歳代の教師集団の多いことは全国的な傾向なのです。
 なぜ??存在感の自意識を育てることに鈍感な学校教育従事者の責任があまりにも薄いからです。時代がどんどん・・・いやめまぐるしく急変する時代です。時代が変われば子供の実態も変わります。着想も驚くほどに急変しています。だからこそ、「先生の存在」が大きいのです。
 日本文化を支え続けてきた学校教育界に存在した「恩師」という言語が地に落ちてしまうようでは「先生の存在感」など存在しません。自信を持って子供たちの未来を夢見るような先生たちが多く育ってほしい。そんな思いがこの新聞記事で膨らみました。
 全国の「先生たち」に告ぐ!!
 この新聞記事をコピーして読み直してください。最終段落の冒頭の二行を抜き書きして職員室の机上に貼ってください。皆さんを頼りにして生きている子供やその親が皆さんの奮闘を期待しているのです。失敗?小生なんか多すぎて塚が出来ました(=『失敗塚』)。時々、先祖への供養のついでに(笑)、自製の「念仏」を唱えています。それは、「まっ、良いか。ゴメン!」です。どうぞ、真似してみてくださいませ。

2011/10/30

Trick-or-treat!???

 ~日本文化の中で芽生える異文化~
 現在の自宅は私道も行き止まりで、突き当りは栗畑である。
 夕暮れ時になった。どこかで見たような服装の女の子たちが4~5名で母屋の門周辺をうろうろしている。ハローウィンという異文化がここ土浦の自宅前にも浸透してきているのか!元・中学校の英語教師としては仄かに残るワンシーンが走馬灯を巡る。実際に留学した経験もない中学校英語教師が「・・らしいよ。・・・するんだってよ。」と、教科書で扱う Halloween なるキリスト教文化について講釈をしたのである。当時の中学生が、門前で蠢いている女の子たちの親の年代だろうか。走馬灯は急回転しながらその頃の英語の授業風景を映し出してくれるが、30年後の「親の世代」までの映像など在る筈がない。異文化の排除などの意識はさらさら無いが、「何でも取り入れる」コマーシャリズムに煽動されてしまう日本人の生活信条の緩さには警告を発したい気分でもある。
 孫たちを連れて今日は市内で最大のショッピングモールに行ったが、「かぼちゃ」(人面に刳り抜かれた)やキャンディやお菓子類が山になっているところには多くの人だかりが発生していた。今日は10月30日である。明日が欧米のキリスト教文化圏ではそのハローウィンであると、知識としてだけ小生は承知はしている。つまり「知っている文化」なのである。
 英語の授業とキリスト教文化は密接である。その文化の中で生まれた言語であれば当然である。担当教師ては「知識のばら売り」をして授業を成立させたが、重要な文化論と生活論は英語の授業では出来ていないような反省も蘇る。
 ただ一つだけ言いたいのは、商業主義に振り回されている若者文化の行く末が心配であることだ。バレンタインデーとチョコレート商戦はその最たるものとして今でも不愉快になるのは、その恩恵を受けないから??義理〇〇〇なんて、派生した日本文化として存在すること自体が恥ずかしい事態と捉えているのである。読者諸兄のお考えやいかに・・・!?
 夕暮れに雨も降り始めた。インフルエンザも流行している。学級閉鎖も実在している。正しい健康管理を優先させてほしいと願うだけで、子供たちの娯楽まで妨害しようと思っている訳ではない。これだけはご理解願いたい。
 ハローウィンが来るともう11月。新居も暖房準備のためにチョッピリ部屋の模様替えをしました。

2011/10/29

茨城県古河市を2日間で2往復!

 ~38キロの距離を電車と自家用車で・・・・~
 昨日は、上野駅経由でJR宇都宮線で古河駅まで行きました。飛び込みの訪問要請の電話を先週受けたので昨日が当日となったからです。お迎えをいただいた先生の車で学校まで行きましたが、帰りは校務の関係から訪問した小学校からはJRの乗車・降車駅までタクシーに乗りました。メーターで検出する料金に驚きました。車で30分かかる所のタクシー利用は久しぶりのことでした。貧乏性の老輩は、ガソリン代と換算してしまいました。帰路の電車の中ではそのことばかり考えていました。
 帰宅したら、妻が唐突にも訪問した学校の所在地と従姉の三男が住んでいる住所が近いのではないか、と言うのです。当人に直接電話を掛けることになりました。掛けて双方でビックリ仰天しました。そこの二人の子供たちが卒業した小学校だったではありませんか!!!l 
 そんな偶然に駆られて、今日は地図を頼りに(ナビは装着していない軽自動車)マイカーを飛ばして(笑)快適な『常陸路』ドライブを楽しむことになりました。昨日訪れた小学校の脇の道路で待ち合わせをして従姉の息子宅に行って来ました。道路標識の案内によると「片道・38キロ」のコースを走ったことになりました。車内から霊峰・つくば山を仰ぎながら若干冷たく感じる晩秋の風を時折車内に入れ込んで爽快なドライブとなりました。
 とても喜んで迎えてくれた家族と歓談を済ませての直帰となりました。
 土浦~上野~古河の電車の所要時間は実質は2時間26分ですが、乗り換えの時間や待ち時間を加味すると優に2時間半を超えることが判明します。片道の乗車券料金は1620円です。単純に倍にして計算しても驚くばかりです。軽自動車は満タンにしても4千円を割ります。マイカーで移動すると乗車時間は from door to door で片道1時間で到着することが判明しました。「腰が抜けそう」な計算になりました。
 茨城県で住むには「車なし」では生きて行けません。皆さんが言われます。
 そんな言葉を実証した二日間でした。茅ヶ崎市に住んでいた頃とは少々生活信条も変更しないといけないかも知れませんね。免許証の更新を終えたばかりの小生は、「次回はもう更新しない」との1つの信条を掲げているのでが、もろくも腰砕けの状況に陥りそうです。
 郷に入っては郷に従い・・・・・、ですかね(笑)。読者の皆さんはどう考えますか?

2011/10/27

秋空のフラワーパーク





 ~これもダリアの花??~


 茨城県立フラワーパークで観た花が本当にダリアの花かと疑うほどであった。

 新聞記事で確認した「ダリア展」が開催期間は未だずっと先まであることは知ってはいる、しかしながら、「花は旬」があり見ごろを過ぎると見る影もなくなるほどに萎れてしまうことが衆知の事実であることも承知している。今朝の青空を眺めていたら「行くのは今日が旬」とばかりに、驚く老妻を車に乗せて地図を頼りに目的地に向かった。道路は、ホントに神奈川県では想像もつかないほど空いている。殆どノーストップ状態での運行状況(笑)であった。自宅を出て、途中を1か所だけ道を間違ったが45分間で到着してしまった。妻が信じられないような顔をして入場券を買っていた。

 場内の敷地の広さにも驚くが、見晴らしと天空との近さも感じつつ別世界の空気を満喫しながらお目当ての「ダリア」の展示場所に向かう案内板に従って歩いた。「これってダリア??」という叫び声も耳に届くので同感と言うため息交じりの反応をしてしまった。歩を進めると写真のようなダリアの花が咲き乱れているではないか。蓮の花?牡丹の花?と見紛うほどのダリアの花に圧倒されてしまった。

 ダリアの花は「好きな花」の一つですか?

 その質問を受けたら、実は「大嫌いだった花」と過去形で答えることになったことだろう。それは何故?そして今は、反転して淡い郷愁にも似た思いで「好きな花」の一つと答えることに落ち着くのはどんな経緯があったことでしょうか?読者の皆さんには推測して戴きましょうかねぇ~。

 昨日、木枯らし一番が東京では吹いたとか。秋の深まりを感じつつ晩秋の常陸の空を満喫しながら、孫の帰宅時間を計算して帰宅しました。写真の「ダリアの花」をご鑑賞ください。

2011/10/26

珍客来たる!

 ~30年も前の同僚が来訪~
 小生が転勤3校目の職場で出会った。新採用として着任した彼は、専門教科が英語と言う共通もあり接触機会は他の新採用(当時は毎年3~5名の同期採用あり)の同僚より多かった。先輩の退職と同時に生徒数の激増で1学年10クラスもあった時代である。急増する生徒数に比例して新採用の数も多くなり学校教育環境も大きく変わらざるを得なかった。
 数年後から学校生活の秩序が乱れ始めて勤務校であった。瞬く間に「手の付けようのない」学年が出現した。我が物顔に新採用教員をからかう輩も珍しくなくなってしまった。
 本日の珍客はそんな新採用時代を過ごした元同僚である。
 生徒指導に明け暮れると授業の準備も疎かになる。授業の準備が不完全であると授業自体が面白味が半減するのだろう。授業中なのに廊下が生徒たちで混み合う状況になるのにそんなに時間はかからなかった。教員の真面目な性格と生徒たちの暴力的な言動とのアンバランスで精神状態が錯乱して採用後数年で退職してしまう教員が目立ったことも思い出話として登場した。
 なぜならば、次の学校に転勤した「本日の珍客」も、小生も全く気付かない内に退職していたのである。私的な関係ではあるが小生夫妻は仲人役も仰せつかったほどであったにも拘わらず、人知れず悩んだ彼は奥様の支援を受けて転職してしまった。発覚した時点で電話での追求(笑)となったことも懐かしい思い出話となった。
 この常磐線の駅を利用しての仕事で昨日から水戸市に来ているとの電話が飛び込んだのが、今朝の9時ごろの出来事だった。仕事を終えて帰路の途中下車で訪問したいとの説明だった。駅まで迎えに出向いた。積もる話には尽きないが、既に予約している来客があるので早めに来てもらったが、あっという間の時間が過ぎてしまった。
 旧友は良いモノだ。
 帰路は土浦駅の利便性を考えて車で送って行くことにしたが、片道15分の車中も思い出話でてんこ盛りになってしまった。二人のお子さんも大人になって立派に成長しているようだ。子育てには苦労は付き物である。そんな励ましを送りながら見送って帰ってきた。

2011/10/25

転居後の「鍼診療」再開2日目

 ~片道約3時間半の通院~
 それでも、「通うこと」を今日も夫婦で確認して帰ってきました。
 10時前に自宅を出て、診療所に到着するのは午後1時前。予約している時間ぎりぎりの到着ですが診療師は11年もの長きに渡ってのお付き合いであるので少々の時間のズレは十分にご理解いただいています。今日は、後「1駅」で到着の列車内で50分も待たされてしまいました。踏切内に自動車が侵入したという事故でした。車内から飛び出して診療所へ電話を入れました。診療師は笑いながら「今日中には届くでしょう。慌てずにいらっしゃい!」との答えで拍子抜けしつつ遅れて到着しました。
 玄関を入ると、何も言わずに「コーヒーは好きだったよね」と妻に問いかけられました。「味は個人によって違うので無理強いはできませんが、札幌に住む友人特製のモノですからご賞味願います」と、素敵なビンを差し出されました。ご好意に感謝して持ち帰りました。
 この診療師に勧められて「特製・水」を愛飲して11年の歳月を過ごしています。その間、国民健康保険証は歯科診療(夫は清掃のみ)以外に使用したことのないほどに「水」の恩恵を受けて元気で生活しているのが我が夫婦です。薬への依存を断ち切っていただいてから11年間の歳月が流れています。
そんな受診者が、往復7時間を要しても「通院・復活」を実現するのは当然のことでしょう?
 疲労の極限だった妻が診療後の爽やかな笑顔に変わってホッとしました。
 小生も全身が「元気復活」を覚える診療後であることを確認して、隔週に「往復7時間」のミニ・トリップをしようと確認することが出来ました。そんな一日が終わって帰ってくると孫・末息子が具合が悪いとの報告を受けて、爺婆は自分のことを忘れて明日の対応を考えている夜です。元気になった祖父ちゃん祖母ちゃんは可愛い孫のお役にたてるように明日は頑張ります!!

2011/10/24

もう、年賀状の購入申込書??

 ~自宅のポストに投函されています~
 先日郵便局に行きました。
 事務処理が終わって支払いを済ませると領主所と一緒に「年賀状購入申込書」もいただいた。自宅の郵便受けには既に届いているものだったが受け取って帰宅しました。
 来年は何枚注文するかね?と夫。ここは神奈川県じゃないからね、と妻。噛み合わない会話は夫婦らしい(笑)。つまり、お世話になった茅ヶ崎の隣人に送ることを妻の意識は先行したようです。地方版の年賀状には目が留まるのですから、来年の年賀状はご当地に合う絵柄を選んでみたくなっています。年賀状の存在価値の論争は別にしても、全国の皆さんに発送しようと夫婦の意志は一致しましたが枚数はこれから決めることにしましょう。
 日本にしかない「年賀状」だそうです。
 日本にしかない「・・・・・・」は、やっぱり意識の中で自分流にアレンジしても大切に保存していきたいものだと感じています。来年の干支は?そんな文化も風流なものとして大事にしたいですね。皆さんの中で来年が「年男・年女」になられる方がいらっしゃいますか?これも味のある日本文化らしい表現です。元祖は殆どがアジア大陸からだということは聞きかじっていますが、やっぱり日本文化として重宝したいものですね。いかがでしょうか? 

2011/10/23

今度は「たんぽぽの群生」??

 ~カメラを向けるチャンスを逸す~
 バッグには常備しているはずのカメラを不携帯のままで歩禅に向かってしまった。
 自宅を出て孫の通学路を途中から外れ、田んぼ一帯を通り抜ける立派な広い農道を選んだ。取り入れの済んだ田んぼからは大役を果たした安堵感すら感じ取れる。ここで収穫された米は放射能セシウム濃度レベルはだいじょうぶだったんだろうか?余計な心配が過るのが辛いご時世ではないか。
 農道であるので農作業の車が2~3台行き交うだけで、歩くのは快適である。地面であることが足裏にも安定感があり膝にも無理が無いような快適感なのである。この地に来て「人と人との距離」を近く感じることができるのが嬉しい。つまり、行き交う人の殆どが「挨拶できるモード」であるからだ。全く知らない我々夫婦にも人懐こく「こんにちは」「お早うございます」との声が掛けられ、当初は少々の戸惑いもあったが今では、こちらからも先を切って挨拶の言葉を掛けることが出来るようになっている。農作業中の人たちからも声がかかる。正に至福の瞬間でもある。
 今日は、いつも遠くに見える筑波山が見えない。西空には雲が多く、昨日からの天候不順を証明しているようだ。農家が立ち並ぶ街区を通りながら足が止まった。住居が撤去されたのか更地になっている住居跡のようだ。200坪はあるかな?更地には「たんぽぽ」の群生があった。綿毛が飛んでいくたんぽぽである。風もなく穏やかな夕暮れ時であるのでその情景は観ることが出来なかったが、確かに「たんぽぽ」であった。
 たんぽぽは「春の季語」では無かったですかね。そのうちに日本文化の俳句から季語が消える??そんなことを考えながら帰宅した。

2011/10/22

これって、紫陽花ですよ、ネっ?!

 ~歩禅の道端で見つけました~
 他人の庭先です。
 失敬して「写真で取りました(=撮りました)」ので花泥棒などと言う洒落た生業ではございません。午後3時に妻と一緒に農協出店の「野菜」を購入する主たる目的で歩き始めました。立ち止まった妻が指差す先にこの花が見えました。「これって紫陽花の花ですよね」と妻が不思議そうに声を掛けましたので注視してみました。草花にそんなに詳しくない小生でも紫陽花の花ぐらいはわかります。確かにそうだと思いながらも「季節感」の伴わない冷たい風に紫陽花の感覚がズレてしまいました。
 ふと思い出した画面が浮かんできました。
 それは今朝の天気予報の番組でした。気象予報官の方が、「今年も代々木公園の桜が咲きました」と言った場面でした。解説を聴いていたら、その桜は去年からこの時期に咲いたそうです。予報官の言葉に「やっぱり今年も・・」との頭出しがあり専門家の判断を揺り動かすような異変が地中でも起きているのだと考えたことでした。桜は春、紫陽花は梅雨時期との固定概念も崩れるのでしょうかね。
 思わず、妻に向かって「これって、狂い咲きだよな」と乱暴な言葉を発している自分が可笑しくなってしまいお互いに苦笑した瞬間でした。地中深い部分でも夏のような地変でも起きているのでしょうか。
 ラジオでは空から宇宙ロケットの破片が日本上空には落下する危険性があるとも報じていました。空からも思いがけぬ大きな破片が落下したり、地中では異常な暑さで花まで狂い咲きをしてしまうような時代になったのかな(笑)。
 世界中での「政治の異変」も気になりませんか?人間様も変わってしまっても変じゃないのかな?

2011/10/21

What's this ? Please guess .

 ~中身は「柿」でした~
 とうとう67歳になってしまいました。
 長兄も次兄も50歳代で他界していますので、その年代になった頃は独りで悩んだものでした(笑)。小生をご存じであればあるほど信じられない症状だろうと想像できます。還暦を迎え現職を退いた頃には旧友が連続して他界しました。その頃は第二波の苦悩でした。そうこうしている内に、悩む暇もない程の多忙さに襲われました。それは認知症を発症した義母の介護から始まったのです。待機時間が数年後と言う特別養護老人ホームの現状も思考回路がパニックに陥いる原因でした。自分のことなど考える余地すらなかったような日々でした。退職を待ってくれていたかのような発症にその介護は昼も夜も続き、わが親なるがゆえに気苦労する妻の健康まで気になる日々でもありました。
 義母が他界したことは健常な義父に知らせることも躊躇いましたが、3か月後に妻の後を追って他界した義父は知っていたそうです。孫である長男が明かしてくれました。8月に義母、11月に義父の葬儀を済ませてあの喧騒は一段落しました。義父母は同年齢で共に92歳での他界でしたので大往生とも言える最期でした。妻の惜別の思いは想像するより小さいモノであったようです。
 義父の死後、長男がここ土浦に墓地を求め義父母も安らかに眠っているでしょう。三回忌も終えホッとした頃から長寿系の妻の親族の高齢者の訃報が届き始めています。10月の前半はその渦中にありました。
 昨日は東京で出版社の要務があり懇親会を終えての遅い時間の帰宅になる予定でした。孫たちが楽しみにしている(お祖父ちゃんの誕生日に食べるケーキ)夕食会は延期されたようです。創立記念日でお休みの小学生の孫たちが、保育園に行く弟を連れて離れの爺婆宅にこの袋を下げてやってきたのです。中身は見えませんが直ぐにわかりました。それはお祖父ちゃんの大好物であると直感したからなのです。その通りでした。まだ今朝も食べていません。じっくり賞味したいと思っています。
 孫が一緒にビールを飲みたいとのことです。孫は現在10歳です。あと10年生きないとその夢の実現が出来ないので、ご迷惑でしょうが心密かに「10年カレンダー」でも購入しようかと長生きを企んでおります(笑)。
 今日は午後から孫たちの学校で「フリー授業参観」があるそうです。二人の孫たちから「是非、来てね」と時間の指定まで貰っているので老妻と「歩禅」を兼ねて授業参観に行ってまいります。

2011/10/20

「誕生日の花」って、どんな意味?

 ~ラジオでは毎朝、耳にする言葉~
 誕生日の花と花言葉
 アキノキリンソウ:安心
 と、アナウンサーの声が浴室に流れた。半身浴の友はラジオ。番組は『ラジオ深夜便』。今日、皇后陛下が喜寿をお迎えになったとのアナウンスが続いて、「お言葉」も朗読された。耳を疑いながら浴室を出てテキストを開いたのは聞き取れなかった「誕生日の花」の名称を知りたかったからである。アキノキリンソウと言う花の名前は、聴いたことも無ければ実物を観たこともなかったからでもある。ネットで画像を調べてみると左のような花である。群生するのかな?群生すればセイタカアワダチソウのように見えてしまうのではないだろうか?要らぬ心配をしながらちっちゃな知識を上積みした。この花が「安心」という花言葉を発するらしい。納得はしないが、最近気になる「花言葉」の意味合いでもある。開いたテキストのページにカレンダーがある。10月の「誕生日の花・花言葉」一覧がカレンダーに組み込まれている。言葉に注視してみていると「良い言葉」が並んでいる。
 「清楚」「あの日のことを思い出す」「永遠にあなたのもの」「思いやり」と今日までの数日間の花言葉を確認する小生は、やっぱり、正真正銘の「能天気な毎日サンデー爺さん」である(笑)。
 迷信??縁起担ぎ??
 もっとも軽蔑して生きて来た無謀な人間でもある。方角や干支、厄年等々については諸先輩からも様々なサジェスチョンを戴いたが一向に聞き入れることも無くがむしゃらに生きてきた。そんな人生の来し方を苦笑と共に振り返らせいるのがNHKのラジオ番組である。
 4歳になったばかりの孫に「おじいちゃんは大きくなったら何になりたい?」と数日前、真顔で質問されて回答に窮した。どんどん小さくなっている(笑)祖父ちゃんには大きくなったらの夢は、もう存在しない。
そこに10歳の孫息子から、先日他界した取手市に住む叔父のことに端を発したのかとんでもない要求が飛び込んだ。宿題をしながら話しかけてきたのである。前夜のこと。取手市の告別式から帰宅した父親と祖父が食卓でビールを飲みかわしながら叔父の思い出話をしていた光景を描写しながら、こう言った。
 「あと10年経ったら、僕もビールが飲めるから最低でもあと10年は生きててよ、祖父ちゃん」
 そうか!初孫もあと10年すると成人式を迎えるのか。大人になったらお祖父ちゃんとビールが飲みたい、とは彼の口癖であったことを老妻が説明した。胸がジーンと熱くなった。小学校1年生になった孫は通っている小学校の「創立記念日」(当地では休業日となって児童はお休み)が10月20日だと、大騒ぎしている。つまり、今日は小学校に入学して初めての特別休日なのである。お祖父ちゃんのお誕生日と学校の誕生日(「創立記念日」)が一緒であるのがそんなにも嬉しいことなのだろうか。
 孫たちと同居して半年が過ぎた。
 元気で大きく成長してほしい、としか願いは無い。10年も長生きしたら彼らも大きく成長して「相手にもならない」爺さんになっているだろうが、見てみたい。そんな素朴な願いを果たすためにも、「自然治癒法」を念頭に健康管理に気配りをして生きねばなるまい。珍しく神妙な思いの朝を迎えている。
 祖父ちゃんは大きくなったら孫とビールを飲むこと!としよう。

2011/10/19

急に気温が下がりました。



 ~癒しは「歩く」に限る・・・~

 立て続けに二人の親族を失うのは衝撃だったことだろう。

 そんな心情の妻を誘って久しぶりに歩禅に出かけてみた。転居して半年が過ぎると季節の移ろいをそこかしこに 感じ取れる光景が待ち受けていた。稲の取り入れが済んだ田んぼでは懐かしい風景を見ることが出来た(写真下)。モミ擦りが終わったぬか状態(もみ殻)に出来上がったものに点火され天然灰を作っている景色に出会い、煙の臭いが、また少年の日々の思い出として蘇ってきた。取れたてのサツマイモをその中に投げ入れてしまうと、仲間と一緒にその田んぼで野球ごっこをして遊んだのである。全体が焼けて真っ黒になると農家のおじさんたちもどこからともなく戻ってきてサツマイモを取り出してくれた。「あつ~い」と言いながらも二つ目や三つ目も口に頬張る元気者もいた。当時はそんな「おやつ」がいただけるだけでも幸運だった。いや、至福の時間だった。妻にそんな思い出話を語り掛けたが殆ど反応はなかった。

 歩禅の道路にムラサキシキブ(写真上)の鮮やかな紫色が目に飛び込んで来た。

 妻が叫ぶ。「茅ヶ崎の庭にも咲いているかしら!」と。十年以上も前に妻が友人から戴いたお気に入りの花の一つだった、何気なくその花との再会に「茅ヶ崎の自宅」を思い出したような妻の横顔にはここ数日間の憔悴した表情からホンの僅かだけ脱出したようにも感じた。歩きながら秋の野草や花が咲き誇ったであろう形跡を見詰めながら、今度は妻のつぶやきだった。「バタバタしているうちにもうコスモスの季節も終わったのね。今年の秋は何だかあっという間に過ぎた感じだわ」という声を耳にしながら10月の初めから昨日までの約20日間が妻には「あっという間」だったのだと推察できた。遠距離の九州への移動があったことが時の経つ感覚にズレを起こしていたこともわかるような気がする。昨日の叔父の葬儀を終えて帰る長男の車の中で、夫と息子や娘に言った「感謝の言葉」を思い出しながら帰宅した。

 次男孫の帰宅時刻より早く着いたのでほっとして妻が入れてくれるお茶を飲みながら付き添った20日間の疲れを小生も感じている。

 しかし、急に気温が下がりました。皆さんの周囲はいかがでしょうか?帰宅した次男孫の第一声は、「おじいちゃん、4年生の1クラスが学級閉鎖になったんだって」である。季節は確かにインフルエンザの待つ時期に向かっているようです。皆さんもくれぐれもお気をつけてお過ごしくださいませ!!

2011/10/18

やっぱり、疲れました!!

 ~『葬送の儀』の連続~
 いつかは?
 いや直ぐにでもご厄介になるのかと心中穏やかなる思いで執り行われる葬送の儀に参列しながらも考えることが多かった。双方とも妻の親戚縁者であったことが小生には余計に「学ぶ」理性を確保してくれたようである。
 今日は、孫のスピーチに脳天を割られてしまった。
 それは妻の叔父が生前に「孫と接した」生きざまを直に耳にすることが出来たからである。今夜は本日の「お務め」の疲労感で、感動のスピーチを再現できない。無様であるがお許し願いたい。当事者(叔父の孫娘)に依頼して、今日のスピーチのコピーを貰えることになった。その現物をこのブログでご紹介して心境を書き上げることを約束してお許しいただきましょう(勝手な判断!)。
 疲れました。おやすみなさい!!

2011/10/17

「故郷の夕陽」に見送られても・・・

 ~湘南電車の窓から見えた風景~
 やっぱり違和感が先行した。
 仕事を終えて茅ヶ崎へ帰る習慣が48年間も続いた。その人間が仕事を終えて茅ヶ崎から帰るというのはやっぱり違和感である。「茅ヶ崎駅」という交通公共機関は「心の玄関口」でもあった訳である。勇んで改札口を出たこともあり、落ち込んで帰路に着いたこともあの「心の玄関口」は見詰めていただろう。励ましてもくれなかったし、喜んでもくれなかった改札口を茅ヶ崎の仲間達に見送られて帰路に着くのが何とも不自然に感じたのは今回が初めてであった。
 電車に飛び乗って東京駅に向かう。
 どの地点を電車が走る時にどんな光景が見えるかも、ほぼ100パーセントわかる。辻堂駅北口の開発工事が進んでいる個所を除けば、の話ではある。真っ赤な夕焼けの空に富士山のシルエットが目に入った。長年見飽きる程眺めた光景である。しかし、何と、「懐かしい」と言葉を発してしまったではないか。18歳から住んでいた生まれ故郷に住んでいた年数の約3倍も住み慣れた(第二の)故郷である。しかし、ホンモノの「故郷」ではない。なぜならばそこには『竹馬の友』との幼い日々の思い出がないからである。そして、親やきょうだいの香りもない。小中学校と言う青春の胸を時めかした思い出もない。
 大人になって、所帯を持って懸命に働いた「働き蜂」には、そこは汗の涙の結晶が苦い思い出だけが詰め込まれたままで存在しているのかもしれない。働き蜂は働き仲間と群れを成しながらその日暮らしで時間が流れて行ってしまうのだろうか。働き蜂には働く場所がなくなれば存在感や威厳も消滅するものらしい。生まれ故郷とは感傷の度合いが違うのはそんな諸々の条件が加味されるからだろう。見慣れた車窓と語り掛けながらの帰路は妙に冷めていた。
 今夜、別れる(妻の)叔父も、同郷の熊本県八代市に誕生して高校を卒業と同時に社会人になった。東京~大阪~福島~宮城と転戦(?)した働き蜂である。前夜式では、親族代表として故人を紹介する立場を仰せつかっている。家族への遺言で(姪の夫である)小生を生前に指名してあったようである。故人が生前に書いている職歴や自らを紹介するメモ用紙がA41枚で手元に届いている。その用紙を昨日の帰路の車中で活字を追いながら今日の「挨拶の骨子」を作った。
 夕陽に映える富士山の雄姿を見詰めながら77歳の生涯を、晩年は生まれ故郷に戻ることも無くこの世を去る叔父に思いを馳せた。殆ど行き来のない叔父であったのが、今度の我が転居で至近距離に住むことになった。これも、唯一と言うほどに可愛がっていた姪(小生の妻)を近くに呼び寄せたのだろうか、と夫婦で語り合うほどである。
 そろそろ取手市の教会に向かう時間である。「千の風に乗って・・・」九州の生まれ故郷の空にでも行くのであろうか。心置きなく妻が別れることが出来るようにサポートすることにして出発である。 

2011/10/16

葬送の合間を縫って第二の故郷へ

 ~今日は里帰りです~
 10日に九州の伯母(102歳)とお別れして帰宅。
 13日には病状が悪化している取手市に住む叔父(77歳)の見舞いに行った。2週間余り会わなかった間にこんなにも症状が進んでしまったのかと落胆して帰宅した。翌朝(14日)息を引き取った。生前の最後に見舞ったのが妻だった。伯母も叔父も妻の両親との関係である。クリスチャンである叔父の葬儀は土日を避けることも知った。そんな事情もすべてが小生の「出講を妨害しない」リズムになっているのが不思議に思える。
 立て続けの葬儀に遭遇しているが、妻との対話に登場する言語は「怖い」というキーワードである。
 それは、あいだみつお氏の言葉・『育てたように子は育つ』という書である。愚かな我々夫婦にも生まれて育った子供が3人もいる。現在はそれぞれに所帯を持って子育てに勤しんでいる。負の再生産に至らないことを祈りつつも「育てたように」しか育っていないと心を決める。この現実を「怖い」という言葉で妻が夫婦の対話を締めくくることが多くなっている。
 一つの命がこの世から消えることは一大事件である。
 当該関係者の狼狽は隠せない。予行練習のない事件である。身内の悲しみの中に「人間の生き様」を垣間見るのである。我が目と耳を疑うような言動に接することは当然のことかも知れない。しかし、「生き方」は親から学ぶしかないことはやっぱり避けられない事実である。人としての『生き方』は、「家庭という園」で生活をする中でしか学べないのであるならば、両親と言う『幹』の偉大さを認識せざるを得ないのである。そんな対話を妻と交わしながら、後戻りできない「子育て」の日々に思いを馳せ「怖い」という結語に至ってしまうのもご理解いただけるのではないだろうか。
 今日は葬送の合間を縫って第二の故郷・神奈川県茅ケ崎市に向かう。楽しみにしている懇親会も辞退させてもらってセミナーが終了次第直帰する日程にした。
 我が家は、昨日の東京ディズニーランドに行った孫軍団の興奮で朝から活気に満ち溢れている。興奮冷めやらぬ元気な孫たちの声が母屋から伝わって聞こえてくる。曇り空からは止まない雨が小降りにはなったものの未だ栗の木々の葉っぱに落ちている。そんな音を聴きながら故郷への出発準備である。
 朝から湿っぽいお話で失礼しましたね。許されたし!!行ってまいります、

2011/10/15

多年の連続講座の担当でも緊張します!

 ~世代交代は確実・・・・~
 講演の途中で脱線する(笑)のが得意芸であるが、聴講者の話題を振って驚くことがある。
 それは、例えば「東京オリンピック」の話題に触れながら聴講者の反応を測ると聴講者との時代のズレを実感する。「生まれていません」なんて反応が返ってくると愕然としてしまう。東京でオリンピックがあった時代に誕生している人は47歳であることを知るにつけ「世代交代」は確実であるとその事実を飲み込むだけである。
 昨日の聴講者集団も例外ではなかった。
 次世代に継げる内容に編曲して吟じることが必要であることを実感しながら講演の任を果たした。しかし、真剣なまなざしで聞き入ってもらう会場に身を置くことは講師冥利である。どんな会場でも、どんな話題を提供しようと聴衆の心を揺らすのは「自らの体験談」である、とりわけ、失敗談を取り込むとその瞬間の言いようのない安堵感で会場が和むことも事実である。講師と言う立場の人材には「成功者」のレッテルが事前に貼られているようである。そんな誤解を解くには失敗談が必需品である。そんな気付きを実感できたのも至福であった。
 夕刻の懇親会はまた楽しかった。
 数年にわたって通い続けている講座である。担当の指導主事さんも複数になった。そのメンバーとの懇親会は「過去の思い出話」に花が咲いて大盛り上がりであった。感謝の意を告げて帰路についた。常磐線の車中は「居眠り」状態であっという間の時間だった。さわやかな疲労感が短くしてくれたようだった。
 さいたま市に出向く数時間前に、取手市に住む妻の叔父が他界した旨の通報があり、さびしい思いでの出講でもあった。叔父はクリスチャンなので「お別れ式」は土日を避けて来週の月・火曜日である。親族代表の挨拶が依頼されている。長兄と同年の叔父であり、何よりも高校の先輩でもあるので敬意を表する言葉も挨拶の中に入れて考えることにしよう。
 

2011/10/14

今日も「責任の重さ」を意識して出講します!

 ~教育課程に活かす「標準語」と「方言」の使い分け~
 “そうなが”。
 僅か4つのひらがなで表現されても純粋な地元民でないとこの言葉は理解されないだろう。これは高知市で使われている方言の一つらしい。前回(7月6日)の高知市立一宮小学校での公開授業の最中に男児が発した言葉だった。授業者の小生に意味が通じなかったのがわかったらしく隣の席の女児が、「な」を付け足してみるように促した。そして、その男児が改めて「そうながや~」と方言らしく感情を込めて発した。授業者にもニュアンスは受け止めることが出来た。驚きと感動と、そして納得の三拍子を含んだ素晴らしい「方言」(言語)である。何気なく受け止めあっている言動を日常生活とすれば、学校における教育課程の編成にこの論理を当てはめることは、日常的な学校生活を「学び」の組織作りの基盤にすることができるのではないかと閃いた。
 折しも、出版社より原稿の執筆依頼が届いたばかりであったので、この児童の発した「そうながや~」という土佐弁(と言うようである)にヒントを得て書き上げることが出来た(悠+10月号)。
 そして、今度の高知市訪問は運動会で演じる組体操がヒントとなり英語の授業として教材化して授業を実践公開してみた。その授業の感想文集が昨日自宅に届いた。開いてみて、児童の感想文から前回と同様な感情を受け止めることが出来た。全国のすべての学校の運動会で行われているのが「組体操」である。表現も学校により異なることは当然である。つまり全国共通に理解される教育課程の中身の独自性にある。実際にその中身を深く追究すると「その学校だけの伝統や取り組み方」があることに気づくのである。どの学校にも無い、その学校だけに存在している「組体操」は正に「方言」と言えるのではないだろうか。その方言を、英語の授業の中に組み込んで「方言の醍醐味」を醸し出したかったのである。これを「特色ある学校づくり」に沿って考えると教育課程の独自性(小生は敢えて「方言性」と表現した)が浮かんでくると確信したのである。
 公開授業を希望した小学校(写真)には、運動会当日のVTRを見せてもらうことを要望した。その画面から「だいじょうぶ だいじょうぶ」という言語を拾い上げて授業化に挑んでみた。小学生の英語習得過程の常識的な教育的判断では授業化は不可能である。通訳的な発想では挑戦できない。画面から何回となく聞こえてくる「だいじょうぶ」という日本語を英語で発声する前に日本語の本質的な意味をしっかり考えさせることに、先ず固執して授業構成に取り組んだ。
 どんな状況下で「だいじょうぶ」と言う言葉を使用しているか。
 これを基にして授業を組み立てた。運動会の組体操で何回となく発する場内アナウンスを聴きながら英語の勉強をする。こんな場合の「だいじょうぶ」って、英語で何て言うのだろうか。これが言語習得の基本であるからだ。この教材こそが、その学校独自の現状を考えるから、「方言」を基盤にする教育課程を具現化する授業と判断したのである。
 感想文を読みながら、深い反省もあるが充実感で老脳が充血したようだ。教材化の基本事項として「身近な話材」を考えるという基本的な発想に基づくだけである。
 今日は、これからさいたま市教育研究所に出講する。将来の地元教育担う教員集団への講座を担当している。3年越しの通所である。責任の重さを楽しく受け止めながら後輩教師への糧を与えれられるように、今回も全力投球である。昨日の当ブログにご登場いただいた映画監督の新藤兼人氏の言葉ではないが、「燃え尽きるまで燃えなければいけない」の苦言を胸に、意義ある仕事をいただいた恩返しに誠意を尽くして務めてまいります。行って来ます!!

2011/10/13

目出度く「運転免許証」更新なる!



 ~72歳まで有効とは言うけれど・・~

 運転免許更新者講座でVTRを視た。

 茨城県の交通事故状況データを画面と説明で受け止めながら高齢者の交通事故死の高率を認識した。免許証の更新も「70歳」がキーパーソンであることを実感しながら手渡された「最後の免許証」(と、考えている)を握りしめて不案内な市街地を抜けて帰宅した。反射神経の衰えは、ひょっとすると自意識が少ないのかもしれない、とハンドルを握りしめる手に異常な力が入るのに苦笑しながらの運転であった。

 閑かな離れ屋で、ごろりと横になったらいつの間にか眠ってしまったらしい。30分も眠ったのだろうか。目を覚ますと「長旅をさせてしまって・・」と老妻が、先般の九州への旅のことを遠慮がちに謝りの言葉にして発した。「そんなことを言うもんじゃない」と突き放しながら、枕元に置いてくれていた朝刊に目を通した。

 映画監督の新藤兼人さんの言葉が新聞のコラムで紹介されていた(写真版)。

 最後の段落での表現には、この老脳まで刺激をいただくような嬉しさである。内容の登場事例人物とは立場は違うが、内側に流れる「生き方」は共通であると思うからである。記事の中に紹介されている氏の著書をネットで調べたが、もう絶版になっているようだ。新年早々には、氏の母校(小学校)の研究発表会の記念講演に招かれている。校舎内に特設された「新藤兼人・資料館」をまた覗くことが出来る。氏の偉大な足跡に、この記事の文章を照らし合わせると直接に対面しているような気分になるのだから至福である。蛍が乱舞する母校周辺にも秋の訪れはまた違った趣を醸し出していることだろう。

 なるか、ならないか ではなく するか しないか である。

 この氏の言葉を大切にしたいものである。

 運転免許証も更新して深まりゆくわが人生である。年齢相応の黄昏に没することなく、「燃え尽きるまで燃える」人生の歩調を大切にしたい、と改めて心している爽やかな朝である。



 

2011/10/12

「自動車運転免許証」の更新

 ~「多発する高齢者の交通事故」に憂いながら~
 気が付いてみたら、昨日でご当所に転居して『半年経過』となりました。いつの間にか土地柄にもなじみ始め親しくお付き合いできる人たちとも出会い快適な生活が広がりつつあります。
 今回の九州への帰省で会う人の多くが「何で、地震の続く土地に引っ越したのか」と問われました。第二の故郷・神奈川県茅ケ崎市の皆さんからもその類の質問を沢山いただきました。理由は簡単です。計画していた人生設計に従っただけです。若干の遅延がありましたが、長男一家との約束を取り入れた老後生活の人生設計に則っただけなのです。少しでも元気な内に同居することは長男との約束だったのです。
 さて、自動車運転免許証の更新時期がやってきました。
 転居以前は、新居では「もう車は運転しないでいようかな」と更新には非積極的な発想でいました。それは、高齢者ドライバーが起こす交通事故が多くなっているという情報が基準となっていました。他人を巻き添えにしてしまっては残された家族に迷惑を掛けると案じたからです。 
 ところが、当地に来て考えは一変しました。
 つまり、公的交通機関が少ないことが要因です。まだ、県内でも数か所しか出講していないのですが、長時間を掛けて目的地に行き着くことを「自家用車で移動する」と置き換えると、交通費も時間も大幅に縮小出来ることに気づかされたのです。茅ヶ崎市では全く予測はできませんでした。
 細心の注意を払って運転することにしますので、もう少しだけ(時期は未定)運転をお許しいただきたいと神棚に願いを済ませました。
 地元警察署まで出向いて、本日は免許証の更新をさせていただきます。

2011/10/11

生まれ故郷の空気は、やっぱり美味!

 ~大往生の伯母を葬送するための帰省~
 8人の「きょうだい」も、9人の「わが子」も全員健在の目出度き一族の長老女が逝った。
 高知の講演旅行から帰宅したばかりの所に従姉から訃報の電話であった。満102歳での大往生はいつやって来てもおかしくない年齢でもあった。思いがけない訃報ではなかったが「ついに来た」と思いながら妻と一緒に郷里に向かった。金木犀の香りに迎えられお通夜の月は十三夜でもりあり何とも言えない葬送の情に駆られてしまった。
 大往生には涙は無い。そんな思い込みも崩れた。安置されている遺体に向かい合った妻は号泣した。もらい泣きする従姉妹たちの声に小生の胸も熱くなった。妻の義理の伯母である。血縁の度はほとんど無い老女なのであるが、深い人間性と温かい愛情を全身に受けて育った妻としてみれば実母の他界に匹敵する哀しさのようであった。一人っ子で育った妻は、この伯母の所にいる9人の「いとこ」達は実の「きょうだい」としてこの伯母が接してくれて戴いたことが妻の泣き声が証明していた。
 長寿の伯母は「きょうだい」の長女。末弟さんが81歳で全員が健在とはこんな目出度いきょうだいも多くない。伯母が産んだ9人の子供たちは末娘が還暦を迎えた。これも9人全員が健在である。目出度さの二重奏である。
 九州新幹線の駅(=新八代駅)で降りた瞬間の故郷の空気は、やっぱり美味しかった。訃報で帰省したにも関わらず空気は美味を添えて迎えてくれた。小生の両親はとっくにいない。小生の九州に住んでいた「きょうだい」3人とも既に他界している。迎える親きょうだいは誰もいないが、やっぱり生まれ故郷は健在であった。
 当座の務めを全て済んだ妻は安堵したことだろう。冥福を祈りつつ昨夕、自宅に帰宅した。元気のいい孫たちに笑顔で迎えられ、哀しさも疲れも吹っ飛んで行った。しかし、ひそかな疲れを感じながら一日が始まった。

2011/10/07

九州へ「とんぼ返り」です。

 ~104歳の大往生~
 伯母の訃報が届きました。高知から帰宅したばかりの時間でした。従姉から午後6時の永眠の知らせの電話がありました。早速、航空便を調べると早朝便を除いてすべて満席です。ここ土浦からは早朝便には乗れませんので、東京駅まで出て新幹線で行くことにしました。
 遠くに生まれ故郷があると「訃報」が届いた時点が一番の苦悩になります。気持ちだけが空回りしながら準備をすると「落ち」がいっぱい生じます。しかし、血縁の先代人への最期の別れは欠かすことはできません。今夜の通夜には間に合う交通網に感謝しながら、次世代の人間としての任務を果たすべく故郷まで行ってまいります。
 帰宅するまで数日間のブログ休刊となります。
 昨日までの四国での素敵な話題を掲載する予定でしたが延期です。ご理解お願いします。100年以上元気で生き抜いた伯母へ敬意を表して来ます。

2011/10/06

三人像との再会を念じつつ・・

 ~「足を使う」と見えるものが見える~
 帰路はホテルから公共交通機関を使って空港に向かう。
 送迎の恩恵を受けてしまうと殆どが「足を使う」ことがない。つまり、意志で動くことが無いと「見える」モノが固定化してしまうようだ。今回は、久しぶり(初回の高知訪問以来)の空路での訪問であった。その間は、新幹線で岡山駅下車で、乗り換えて四国路を2時間半を掛けて高知までの陸路であった。それはそれで、とてもお気に入りのコースでもあった。しかし、何だか長時間の車中が、「後日の疲労度」を高めているようなので、ここで時間短縮の試運転に踏み切ってみた。
 楽だった!!
 高知空港から羽田空港までの所要時間が季節風の関係もあるだろうが、僅か60分である。こうしてブログに記録をしようとする意欲も時間もあるではないか。
 高知駅前に「三人像(=ネーミングは小生)」があった。
 着いた日はゆっくり鑑賞もできなかったが、今朝は高知駅前の「空港行きバス」乗り場を探しているとこの素晴らしい三人像に出会った。6月の訪問の際には未公開の段階で分からなかったが、今回はじっくりと真下に立って見つめることが出来た。「また、来るぜよ(笑)」と、ずいぶん慣れ親しんだ土佐弁を吟じながら苦笑いを残してバスに乗った。
 今回も、将来に期待できる有能な「後輩・教師」を発掘できたことは大収穫である。嬉しさは隠せない。大きく成長して高知の教育界で羽ばたいて欲しいと願うばかりである。

2011/10/04

久しぶりの空路で出講

 ~どうして新幹線??~
 出講先で主催者サイドからの質問の常識。
 飛行機が嫌い?と問われれば「ノー」とも断言できないが、出講をお請けする目的の一つに「旅をする」という醍醐味を捨てきれないのが空路を使わない理由の最大の要素であることは事実である。岡山駅で乗り換えて瀬戸大橋を渡りながら瀬戸内海の島々を視野に、うっとりできるのは正に旅の中の至福の時間なのである。土讃線が走る山中で、眼下に見える「大歩危小歩危」の絶景は何度見ても「命の洗濯」になるので中々捨て切れないのである。
 例を挙げれば限がない。
 たまたま、本日の出講先が四国・高知であるので土讃線の話題を提示した。全国の出講先からの講演要請が「ほとんど断った」ことがないほど、「旅への憧れ」への執着は強い。鳥取砂丘も出雲大社も、能登半島も天橋立も、そして平泉の中尊寺に瑞巌寺・・・・、と走馬灯に張り付けた旅の風景はそんなに簡単に消え去ることは無い。
 しかし、長時間の旅の醍醐味に浸って現地に到着と同時に「お仕事」バージョンに切り替えることが、最近になって少々億劫になってしまった。つまり、長旅の疲れを引き摺る状態では講演へのエネルギーが半減するような気がして恐縮してしまうのである。まして、今日・明日の訪問校では、児童といっしょに「授業をする」ことが要請のメインイベントとなっているのである。四国山地の山の緑や絶景に浸りながらの長時間「座り旅」は全身の疲労が授業への情熱と体力をむしり取ってしまうと考えたのである。
 今日は、高知竜馬空港にほど近い小学校で午後一番の授業が予定されている。
 溌剌として(老体には期待はできないが)教壇に立って授業をするために空路を選んだ。そして、元気な子供たちと正面から「勝負する」意気込みが失せることのない状態で臨みたい。授業の上手下手の問題ではない。授業者の意欲と情熱が最も重要であることを後輩の教員集団に全身で訴えて来ようと心して準備も完了した。
 往きの空路の1時間半。
 もう一度、私製・指導案を読み直して展開をなり直すことにしましょう。また、当ブログで様子を報告する予定であるのでご期待願いたい。
 帰路の空路は「疲労困憊の老体」を速やかに東京・羽田空港まで運んでくれることだろう(笑)。す!!

2011/10/03

ラジオを聴きながら・・・(5)

 ~喜劇役者「伊東四朗」氏の重い言葉~
 昨朝に続く「私の役者人生を語る」というラジオ番組。
 個人的にも関心がありファンでもある氏の登場を心待ちにしていた。期待通り?いや想定通りに『重い言葉』をいただける至福の時間を過ごすことが出来た。教員生活しか知らないまま、間もなく70歳になる凡庸な人生を振り返りながら傾聴した。
 
 アドリブは準備万端整えて「待ってました」とばかりに出す演技ではない。その場の空気を相手にして、とっさに飛び出す演技でなければ観客には受けない。受けを狙って準備して舞台に立っても反応を無視して準備されたセリフを発したらしらけるのが「喜劇」の世界である。喜劇役者は人を、心から笑わせる力量があって初めて一流であり、人に笑われている時代は喜劇役者とは言えない。そんなに厳しい世界である。アドリブだけでは生きて行けないので、無駄と思える『稽古』を飽きることなく続けているのである。一度も陽の目を見ずに、その世界から消えてしまう人の数が遥かに多い。しかし、苦しかった稽古は決して無駄なことはなかった、と自信を持って言える。
 
 だから自分の息子には違う世界で苦労をしてもらいたかった。本人がやりたいと言うので断ったり禁止したり権利はオレ(親)にはないので不安な視線で見詰めなければならない自分の今の人生はきつい。親心の不安定さとの闘いが氏の演技に更に幅を付けるのだろうなぁ。全て喜劇役者の「血と肉」になっていることを実感として受け止めることが出来た。
 明日から2日間、この爺が教室に立たねばならない。授業をすることを請け負っている。
 高座に出る心境なのか。授業でも、やはり「楽しく・受けて」もらえる準備に明け暮れる。まだ見ぬ観客の実態も分からないままに準備をしているのは舞台稽古にあたるのだろうか。伊東氏の言葉が被ってくる。昨日の舞台で受けても、今日のお客には全く受けない。その日のその場のその視線を受け止めて「本能で動く」しかない。感性の鈍い奴にはその能力が欠ける。それは、日常的な努力を怠っているからではないか。そのために『稽古を積む』という理論がどの世界でも重要なのである。
 老脳の味噌を掻き混ぜられたような衝撃が走る。しかし、何故か新鮮で嬉しい気分である。

2011/10/02

8000歩の対話

 ~久しぶりの歩禅を意識して~
 老妻を促して墓参りをしようと試みる。
 出発は10時過ぎ。義父母の眠る墓地が歩禅①コースである。そろそろ転居して6か月が過ぎる。つまり半年も住んだとなれば種々の思いも錯綜する時期である。小生は一月の半分近くを定住地から離れた時間を過ごしている、ほぼ定住している老妻には、細やかな苦労が積み重なる時期なのかもしれない。無神経を装う主としても気になる事象は幾つもある。
 朝夕の気温の下がり具合も心地よくなっている。
 午前10時でも酷暑の時間帯とは異なる。比較的大型のリュックを背負って老夫妻が自宅を出るのです。小生をご存知の方には「似合わない」との酷評を受けそうですが、それは大間違いです。こんな姿が凡人の生活としての常態なのです。公務として壇上から、あるいは講師として発する「言語」を優先させて評価される人間にもこの状態があって初めて成立することを心底からご理解いただきたい。
 片道30分間。義父母の眠る墓地の途中にスーパーで買い物をして帰るコースである。往復で8000歩は快適な疲労感を伴う場所でもある。教員現職時代にも「対話」の考え方を工夫して生徒指導をした実績もあり、そのスキルで大人社会でも対話力の効果を得たことがある。「歩きながら話す」対話もあることを読者の皆さんにもお勧めしたい。対話と言うと向かい合うと曲解する人が多い。進路相談も、生徒と対応する場合に、「掃除をしながら」とか「窓から見える富士山を見ながら」対話をして本音を探ることで成功した例は数多い。
 転居してからの老妻の苦労や悩みを「横で」聴きながら歩く。いい加減な爺のいい加減な対応と思いきや、本音が語れる隊形であることを今日も感知した。お試しあれ!
 お彼岸に供えた花がもう枯れている。きれいに片づけると「心も洗われる思い」になる。そんなコースが設定できることは至福である。

2011/10/01

運動会のプログラムに出場(笑)

 ~力むんじゃないぞ、祖父ちゃん~
 名古屋の友人から出がけにメールを受信して苦笑しました。
 孫の運動会ですぞ!主役を考えなさいませ!!
 の意の苦言(?)を目にしながら末孫息子の保育園の運動会に家族そろって出向きました。上の孫たちも卒園生なので同行しました。卒園生の出場プログラムもありますので彼らも張り切っての出発でした。
 4歳になった孫息子の演技に成長を感じつつ、昨年の運動会を思い出しました。人間らしく(笑)成長した演技に感動する愚かな爺でもありました。昨年までは神奈川県茅ケ崎市からの出張参観でしたが今年からは違いました。嫁が「お祖父ちゃん、このプログラムに出場登録してい良いですか」と言ったことが今日は現実となり、「初体験」の出場です。わが子の運動会(幼稚園も含む)に出向いたことも無かった親父ですから、前代未聞の姿であるわけです。
 孫はそのことは知りません。三人の孫たちの声援が大きかったらしい(本人には聞こえていません)。お祖父ちゃんが孫の運動会のプログラムに出場するとあっては孫も大喜びだったのでしょう。転ぶことも無く失敗することも無く大役を終え、賞品をいただいて応援席に戻ると小学生の孫たちが「お祖父ちゃん、凄いね」と褒めてくれました。正に初体験の感激です。
 夕暮れになりました。
 今日は、ここ土浦市は「大花火大会」の開催日です。息子一家はそちらの鑑賞に出かけるとのことですが、爺婆は運動会疲れが全身に漂います。筋肉痛は未だありませんが疲労度は高いようですので丁重に同行を断りました。
 筋肉痛がいつになるか?年齢に因る症状だそうですね。早いほど若い??そうですよね。4日から四国に出講です。その頃までにも症状が出なかったらどうしましょう!!(笑)
 そんな取り越し苦労をしている幸せなお祖父ちゃんでございます。
 

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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