2011/09/30

重い言葉を聴き留めながら・・・

 ~原爆体験を世界に・・・~
 被爆者の橋爪文さんの体験談を二日間に渡って聞いた。
 早朝の湯舟に半身を浸けながらラジオから流れてくる声を受け止めて涙が流れて止まらなかった。その涙は、語り手の苦しい体験談の内容に対しては当然ながら、そんな歴史的事実を、67年間も被爆国と言われる国に住んでいながら、小生の意識の中では何ら成長していないことに自らの人生に哀しくなったからなのである。
 「ひろしま」という被爆地に、縁を戴いて何十回も足を運んでいる一人の人間としてでもある。
 意識と言う学びを深めていない高学歴者(だろうと自負している)として、そして浅学のために職業を通して次世代に何も伝えて来ていないことがこんなにも哀しい時代を作ってしまったのではないかと思う「自責の念」からの涙であったことも嘘ではない。
 NHKラジオ深夜便「明日への言葉(=4:00~)」の番組から流れてきた被爆者の心底からの叫び(下記)に大きく老脳が揺れた。浴室で聞いたので書き取った訳ではない。従って、一言一句にズレはあるだろうが、こんな内容だとご理解の上で受け止めていただきたい。
 20世紀から21世紀にかけて生きている人間なんて、人類や自然界の生物の生存歴史から見れば、「ホンの僅かな日数」を生かして頂いているだけなのに、その自然界との共存を拒むような利己的な生活の道を選んでいることに気づきましょう。
 御年80歳と言う語り手の生きざまを(言葉だけを聴かせていただいて)耳にしながら早朝から身の引き締まる思いをさせてもらえた。至福の時間であった。東日本大震災で被災され、未だに復旧の恩恵を受けずに苦悩しておられる方々にはお掛けする言葉の力もありません。しかしながら、細やかな口伝だけでも意識して全国の会場で言葉を繋いでみよう。そして、自然界との共存の重要性を説いていくことだけでも意識しなけばいけないと心深く感じた番組であった。
 今日は、神奈川県横須賀市の小学校訪問日である。
 午後から関東は雨らしい。放射能の雨??少年時代に注意された言葉を思い出す。その危険性さえ意識の中で薄らいでしまうことが心配な朝でもある。

2011/09/29

明日で今月も終わる!

 ~明日は横須賀の小学校訪問~
 この学校からの指導要請をお引き受けした時点で、住居は神奈川県茅ケ崎市にありました。
 気軽にお請けしたのですが、(人生の先は読めません!!)その後、家庭の事情(笑)によって引っ越しました。転居先が東京を越えた茨城県土浦市です。茅ヶ崎からの所要時間とは雲泥の差です。明日は6時半には電車に乗ることになります。訪問する学校の最寄りの下車駅に午前9時に到着しなければならないのです。お断りしておきますが、その行程に不満など全く御座いません。
 明日も張り切って出発することにします。
 大した指導はできませんが、11月末日の研究発表会に向けて全校一丸となって走り出していることを考えると能天気な老・指導者もウカウカできないのです。
 明日で今月が終わると思うと、朝夕の冷え込み具合から秋の深まりを一足早く感じる地方に転居したことを膚で感じるのが実感です。明日も全力投球で「温かい・優しい指導」(笑)をしてまいります。

2011/09/28

マイカーの1年点検

 ~自動車点検整備工場を訪ねる~
 長男の紹介で整備工場まで車で行った。自己紹介をするとすぐにわかられたらしく実に親しい言葉づかいで対応をしていただいた。孫たちの存在や、両親が神奈川県から引っ越してくることもご存じだったのには度肝を抜かれる思いだった。
 「どうですか?少しは慣れましたか」と立て続けに問われるので正直に応えている間に、初対面での距離がぐっと近くなったような親近感が漂った。対応して戴いたのは(恐らく)社長夫人ではなかったのでは?技師らしいつなぎの服装の男性は笑顔で点検への対応をしてもらい、連絡手段を確認されたので当方の携帯電話番号を告げて工場を後にした。徒歩で10もかからずに帰宅できる。
 歩きながら、昨日あたりから朝夕の気温の下がり具合が脳裏をよぎった。
 何事も「初」モノである。今日の整備工場も初めてであったが、ここまでに、自転車、名刺の印刷、床屋、クリーニング等々日常的に接することの多い業者さんを挙げていけば徐々に増えていることを気づくに至った。日常的な人間的触れ合いという観点から考えると都会と田舎では相違点がありそうだと考えてしまった。茅ヶ崎は都会だったの?そんな自意識はなかったが、「個人的な触れあい方」に焦点化して「都会」という文字を分析すれば、親しみを込めた対話に関しては、当地とはチョッと違うような気がしてくる。それは、「語る」部分が違うのかもしれない。都会という地域には「自らを語りながら生活をすること」には縁遠いような気がする。つまり、自らのことも語らない代わりに相手のことも情報収集をしないで人間関係を保つことを主流とするのである。
 決して他人行儀ではないが、しっとりとした潤いのある人間関係は成立していない。是非を問う訳ではないし、どちらが良いという問いかけでもない。
 今日の整備工場での「初対面」の扱いにも(長男の存在は確かであるが)、チョッピリ以前の人間関係とは異なることを実感した。午後には整備完了の通報を受け、再び車を受け取りに行った。丁寧にお礼を述べて帰って来ながらも心がぽかぽかする対応であったことを再び感激したほどであった。人間関係成立の条件は「自らを語る」ことを外しては無理なのだろうなぁ~。
 

2011/09/27

鍼診療の復活日

 ~県外出講の翌日が・・・~
 9:52~10:00~10:56~11:20~12:18~12:20~12:32
 誰が見ても全く見当はずれの「ダイヤグラム」ではありますが、本日の「鍼診療のための行程」を表示しただけです。神奈川県茅ケ崎市からマイカーで診療に移動していた日々から、もう半年が流れてしまっていました。転居先での「生活バイオリズム」の調整を慣れのリズムで創り上げる「診療への日程」が出来上がるまでに半年を要したということになるのです。
 診療して戴くまでにかなりの時間が必要であることを転居先から「初めての行程」を設定して実動して感じ入った。妻も診療者の同僚である。半年間の「自助力」をお話ししながら元気の源を自らが創りだす講和を聴きながら帰路の道中の対話に載せて帰ってきた。鍼診療の影響は明日から全身が感じるが、半年の「休診療」の反動が、どのような体調として自覚できるのかがとっても楽しみな夜です。
 今回の県外出講も、大きな感動と他人の好意に胸を熱くする時間となりました。広島県から神奈川県を一跨ぎするには強靭な神経と気力と体力が必要であると、敬愛して止まない鍼診療師との対話で再認識することもできました。また、元気が復活しそうですが・・・・(笑)・・・良いでしょうかね。

2011/09/24

お彼岸の墓参も終えて・・・



 ~5人の孫たち同伴で両手を・・~

 合わせながら、暫くの時間、墓前に額づいて報告を済ませました。

 春の彼岸は大震災直後と引っ越し準備とで墓参は出来なかったからです。転居したこと、この墓地にも震災の余波が強く情報によると多くの墓石が倒壊したということも報告しました。県内の取手市に住む義母の弟(=妻の叔父)が余命の宣告を受けていること等を頭を過るままに報告していると、「お祖父ちゃん、帰るよ~」との末孫の声が耳に飛び込んできました。

 次女夫妻は仕事の関係で墓参に時差が生じるとのことであることは告げることもできずに鐘楼を突きながら大きな音を響かせて帰宅しました。近日中に墓参りに来てくれることでしょう。

 今日から、3日間県外に出向日程です。従って当ブログは、26日まで休刊です。ご了解願います。

2011/09/23

爺バカぶりもここまで・・(笑)

 ~デジカメの動画で・・~
 とうとうここまで到達いたしました。
 爺バカと言われるだろうな、と自戒しつつもカメラを向けてしまう自分が不思議でした。園児たちがそろっている教室で「お祖父ちゃん・お祖母ちゃん」の自己紹介も乞われました。小生は「じぃじ・ばぁば」との呼称は意味は無いが好きではない。文字通りに「お祖父ちゃん・お祖母ちゃん」と呼んでもらいたいのです。そこで、自己紹介も「〇〇のお母さんのお父さん」という言い方をしてみました。園児たちの多くは「じぃじ・ばぁば」に慣れているらしく、小生の自己紹介にはシーンと静かになってしまいましたが、わかったようです。
 演技を撮り終えてから娘宅に返り、園児である孫の帰り時刻まで待って土浦の自宅に帰りました。予想通りに孫息子は付いて移動です。離れの自宅に着いたのは9時前になっていましたが、興奮状態に輪をかけるかのように母屋で起きていた長男孫たちとの再会が待っていました。嬉しそうに明日の朝の遊びを約束させて一緒に休みました。
 どっと疲れが襲ってきたのか朝まで熟睡でした。
 寝顔を見ながら、「やっぱり爺バカ」で良いんだ!と自分に言い聞かせて苦笑でありました。

2011/09/22

笑える「日本語の誤解」

 ~「たいふういっか」の秋晴れの中・・~
 小学校の運動会で朝礼台に上がったPTA会長である友人のお父さんから発せられた言葉が、なぜかとても印象深く幼い日々の思い出として残っている。子供心に「いっか」という表現に当てはまる漢字と言えば「一家」しかないではないか。
 台風一家の秋晴れ。
 全く辻褄の合わない四字熟語であっても、鉢巻を締めて張り切っている開会式の中で耳にした言葉には正確な意味など追求する余裕もない。いや、考える程の清聴でもなかったのである。時々、台風にも家族があるのかなぁ、ぐらいの可愛い疑問も無かった訳でもない。生きる力には、そんな分別など必要ではないこともわかりかける頃になると意味がわかってくる。学歴と教養だけが生きる力を培養するのではないことを証明していたようなものである。
 今朝は、「台風一過の朝焼けの綺麗な空」である。
 台風一過の数日は異常な暑さだったことも九州と言う生息地(笑)で体験学習済みである。今日は暑くなりそうだ。そんな予感をさせながら私的小旅行の準備を始めている。千葉県に住む孫の「発表会」へのご招待である。幼稚園児の発表会とは何をするのかも知らないが、転居したこともあって至近距離にもなったので妻と二人で開始時刻に間に合うように電車で行くことにしている。
 昨日の貴重な経験(?)から、老脳の意識革命が起こり始めている。
 神奈川県で生活している日々には考えたことも無い行動計画である、つまり公共交通機関を利用するよりも自家用車で移動する方が遥かに便利で安上がりと言うことを実感し始めたのである。小生の愛車は「軽自動車」であることが費用軽減の決め手にもなっている、意識革命を後押ししている要素でもあることも否めない。
 ただ、遠距離の運転は疲れてしまう。
 24日から広島市~神奈川県横須賀市と連続の要務が待っている。最近は連続3泊の日程は厳しさを感じるようになっている。従って、今日~明日と千葉への往復もマイカーとなると次の行程への影響があると恐れてしまうようになっている。数年前までは4泊しても平気だった老体に、加齢症の兆しが確かに潜んでいることを実証し始めているからである。
 台風一過の秋晴れの中を、のんびりと常磐線~成田線~総武線と乗り換えて孫の待つ幼稚園までたどり着くことにした。
 笑える日本語の誤解はシリーズでも書けそうなほどある。タイムリーな機会を見つけてまた、ほろ苦い思い出もそえてご紹介しよう。では、行ってまいります。

2011/09/21

やっぱり『異常気象』!!

 ~またしても迷走する台風~
 科学や医学が想像を超える進歩を遂げていることは鈍な小生でもわかっている。

 この迷走する台風を「進路調整」する科学力は無いのか。自然界の動きをコントロールできる科学力は未だ無いらしい。もし、科学力が自然界を制したらどんな生活が展開するのだろうか?地震予知の科学力が顕在すれば今回の東日本大震災も・・・・、と空想したくもなる。

 自然力と科学力の対決!?

 読者諸兄はどちらに勝利の判定を下すのだろうか。少年時代を過ごした九州は「台風銀座」(=教科書で活字発見)と言われ、しょっちゅう台風に見舞われた。幼心に「こんな所には住みたくない」と決め込んでしまったことを苦笑している。そして、それを実現させて(笑)関東に住み着いたはずの小生であるが、時代も変わり気象環境も様変わりしたのか、最近の台風は九州より東側を常道軌道に変更したらしく関東方面にも多くやってくるのだから少年の夢も砕けてしまった。

 四国や近畿地方への今年の台風被害は同情に値する。

 知人友人の安否と言うより、地域全体の被害が大き過ぎて同情の枠も超えてしまうほどである。今夕には関東に向かって台風15号が進んでいるらしい。その影響で、我が家の孫たちは本日は臨時休校らしい。一日ぐらいは「楽しいお休み」であるが、数日間も続くとウンザリするものだ。小学校時代にそんな経験があるのが何とも言えない。

 そんな思いで孫たちを温かく見つめる祖父ちゃんは、実は、これから公務が入っているのである。県立高校の教頭先生たちの研修会に出講することになっている。県内なので車で出向くが、降雨量や風の強さの心配もさることながら「道路状況」が不案内の方が心配である。

 心密かに「延期の一報」を期待しているのだからどうしようもない講師ではないか(自責)。

 

2011/09/20

孫の「宿題」にはまり込んだ祖父ちゃん


 ~おじいちゃん達の時代の生活を調べよう~

 他人事のように感じて過ごしている「昔の生活」という世界を、孫の直撃インタビューで抉られた。隣で聞いていた老妻も興味深げに仲間入りをする。「大昔・・・」と言う言葉が何回か飛び出したので老夫婦は目を合わせては苦笑いであった。

 鉛筆削りは日常品。

 ナイフ(写真版)、正式には『肥後守』という小型ナイフである。保管している実物のナイフを取り出して実際に鉛筆を削って見せた。孫の反応は速かった。「やってみたい!」との一声に、怪我でもさせてはいけないと老妻が心配そうに歩み寄るが、孫は迷惑そうである。そこで、危険なポイントだけ指示して実技に入った(笑)。案外、上手く削ることが出来たので祖母ちゃんが褒めると、立て続けに3本の鉛筆を削り終えて満足そうであった。その孫が、「お祖父ちゃんが削った鉛筆は機械で削ったのより書きやすいよ」と褒め返すではないか(笑)。少年時代に鉛筆削り名人を競って一回もチャンピオンになれなかった祖父ちゃんの過去をばらしても孫は、でも上手いなぁ~と褒めちぎってくれた。

 いつの間にか姿を消した老妻が「洗濯板」を持参して登場した。孫が、「変わったまな板だね」と言いながら大根おろし器のお化けかと思った、と付け足した時点では爺婆は大声で笑ってしまった。話はいつか「大昔」(笑)の時代絵巻を広げてしまうほど、現代っ子の生活から道具がかけ離れてしまっているのに驚きの連続となった。

 友達にも聞かせたい、との要望に応じると電話一本で数名が駆け付けてきた。今日は彼らにとっては最も退屈な運動会の「代休日」であったのだ。質問攻めに合いながらも笑顔で答える祖父ちゃんはすっかり、「孫の宿題にはまった」そのものであった。疲れましたが楽しくもありました。

2011/09/19

『敬老の日』に思う

 ~「今年 60の おじいさん」という歌詞で~
 しみじみと時代の流れと長寿の延長を痛感する朝である。
 村の渡しの船頭さんは 今年 60のおじいさん 年はとっても 櫓を漕ぐ腕は 元気いっぱい 櫓がしなる それ ぎっちらぎっちら ぎっちらこ 【記憶を弄るため「不明瞭な部分あり」(笑)】
 この歌が作られて歌われた時代はいつごろだろうか?
 少なくとも小生には耳なじみの歌であることからすると昭和初期だろう。当時、渡しの船頭さんで60歳を過ぎても櫓を漕げるのは達者なおじいさんだったのだろう。小生にも村のおじいさん・おばあさんでお元気な方が『60歳』という年齢で健康度を話題にしていた母たちの話題ぐらいは記憶に残っている。自転車も少なかったころ、洒落たおじいさんが銜え煙草でペダルを踏んで町に向かっておられた後姿はかっこ良く目に映ったものだった。母や祖母に年齢を確認したことなど無いが「おじいさん」であったことは事実である。
 先日の情報で、65歳以上の人口の伸び率が過去最高になり全人口の23%を超えたと知った。瞬間は、「自分は含まれていない」状況下で勝手に唸ってしまった。滑稽な話ではないか。栄養状況の良好さに加え医療技術の目覚ましい進歩や手軽に入手できる良質の薬の普及等々が、「長寿の環境」を整備してしまった(?)ことの証明なんだろう。
 妻の伯母は次の誕生日で満103歳になられる。
 耳も健在で電話での通話が容易なことも含めておめでたい長寿であり元気さに驚くばかりである。更に驚くのは、その伯母の「きょうだい」7名が全員健在で末弟が83歳である。しかも未だ農作業に精を出しておられると言うのである。更に驚きたいのは、その伯母から誕生した子ども(妻のいとこさん方)は9名。全員が健在で末娘が昨年還暦を迎え現職バリバリの主婦である。伯母のすぐ下の妹さんも100歳を超えてお元気だというのだから、「長寿」にもそのDNAがあることがわかるような気がする。参考までに(参考にならないが)、父親は戦死しており、小生の母親は既に十三回忌を終えている。きょうだいはと考えれば、6人きょうだいも4歳年上の次姉が健在であるだけで、比較対照の歴然さには言葉を継ぐことができない。
 ともあれ、今日は敬老の日である。
 年金生活を始めて「老人」意識の世界に突入している自意識は確かに存在するが、ここまで同年代以上の人口が多くなると老人意識も増幅できない(笑)。しかし、明らかに世代交代を意識してしまう。それは、自らの足元に「孫世代」が確かな息吹で成長していることを直視するからである。
 せめて、子や孫たちに手かせ足かせにならないようにしたいものだと、妻との会話がそんな話題が多くなったことは「敬老の日」を確かに意識する年代になったことであると潔く自認しよう。

2011/09/18

水分の補給と休憩時間

 ~大相撲の「水入り」に思いを馳せつつ・・~
 現状を考えれば誰からも異存はない。
 しかし、観客席の若い保護者にでも違和感は生じていた。周囲のつぶやきで察知できた。小生が目を見張ったのは主役たちに『テント席』が準備されていたことだった。これも、日本列島をひた走りに走っている言語「熱中症」への予防策の一つ、と瞬時に判断した。夕刻のテレビニュースで、「運動会の練習で熱中症で救急車での搬送・・」という情報として仰々しくも報じられる事が多い。敬老席に招待されたお客様方には、競技や演技をする場所を挟んだ対面に異様な数のテント村が特設されていることがどんなふうに目に映ったのだろうか。
 もっとも驚いたのは次のアナウンスだった。
 只今より20分間の休憩時間をとります。児童の皆さんは水分補給をして自分の席で休憩をしてください。
 驚いた、と言うより気が付いたと表現したほうが元同業者であろうか。
 玄関先で孫たちが登校するのを「行ってらっしゃい」と声を掛けるのがお祖父ちゃんの日課である。いつの間にか持ち運ぶ水筒の大きさが4月より一回りおおきくなっていることに気が付いた。それは、練習が佳境に入ったころだったようだ。重くないか、との質問に孫たちは、重いけど熱中症になりたくないので頑張って運んでいる(笑)ような顔つきであった。
 考えられないような出来事と運動会と言う学校行事で遭遇した。
 数年前には「想定外」との日本語が流行した。想定外な事案が、その後は想定外に多くなっているようだ。運動会本番にプログラムに無い「水入り」の時間が設けられているなんてまさに想定外である。
 そんなにまで過保護になったのか?オトナの多くが考えているとすればこれも想定外である。日射の量の問題ではなく、温度の問題である。気温30度は、我々の時代では信じられない暑さであった筈である。それが35度の気温が日本列島の西や南の地方に限らず東北地方にまで分布されるような自然環境になってしまっていることを考えねばなるまい。学校教育の現状対応策として、「過保護」と非難することはできまい。この環境になるまで50年以上は掛かっているというではないか。地球の温暖化が叫ばれその言葉も市民権を得た。温暖化の影響が、ここにきて気温の上昇だけに限らず、台風進路にまで異常なほどの症状が見られるではないか。自然の異常さは子供たちをその危険から守ることは大人の責任である。多くの関係者にとっては不本意であっても・・・。
 「組み立て体操」も今年のプログラムから消えたそうだ。練習の時間に地面との接触も多いからだと聞いた。つまり地面に染みている「放射能」への防疫対策だと知って、ここが茨城県土浦市だと改めて認識した。応援席の近隣からも「何だか、子供たちも可愛そうだな」との声が耳に入った。
 教育的な取り組みと放射能の事故とは無縁にして考えて欲しいが、昨今の現状ではこの決断も止むを得ないことなのだろうと帰路の老夫婦の会話であった。

2011/09/17

今日は孫たちの運動会

 ~9月になっても「酷暑」~
 新聞記事やテレビのニュースで話題になったのが、運動会練習中の「熱中症」。
 孫たちと同居して初めての運動会である。以前は前夜から電車を乗り継いで馳せ参じた。そして観戦の疲労感と一緒に再び電車で帰った。かなりの重労働でもあった。運動会の後日は数日間は疲労感との勝負であった、と今朝は苦笑してしまった。と言うのは、孫たちからのリクエストが「お祖母ちゃんの唐揚げ」だったらしい。老妻は3時に起床してそれに応えようと必死だった。わが子の運動会の時でさえ、こんなに真剣に弁当作りをしなかったと豪語(笑)する老妻が、今朝は異常な形相で台所に立っている姿をこの目で確認したからである。
 夏休み明けの運動会の練習はかなり厳しかったようだ。それは異常気象下での練習だったようである。熱中症に神経を遣う学校教育関係者のご苦労が偲ばれる。10年ばかり前には当事者だったことが、今となれば単なる郷愁になってしまう。異常気象以上に異常気遣いの教育界がこのまま続いていくのかと考えるだけでも心が痛む。
 学校教育とは、本来「厳しさを与えそれに耐える」訓練の場である。決して逃避の練習場ではない。言い訳も時には飲み込みながら忍耐と向かい合うことで成就感に浸ることが醍醐味であった筈である。持久走も順位ではなかった。走破することで「人生の厳しさ」に立ち向かう自信を養成してもらった経験値は「学校ならでは」の副産物でもあった。
 厳しさを避け、辛さを省いては「育つものも育たない」ことぐらい大人であればだれでも理解できた。そんな時代を復元しなければ我が国の将来は覚束ない。運動会の練習で倒れるわが子を親はどのように理解しているのだろうか。倒れるまで練習する学校体制が悪いという矛先を向ける大人社会に大きな声で忠告をしたい。倒れないような身体は一朝一夕には出来上がらない。誕生して6年間で学校教育に入会してくるとなれば、誕生後の6年間は実に貴重な時間ではないか。基本的な生活習慣は「贅沢と利便」さでは培えない。規則正しい生活リズムの確立と好き嫌いなく何でも食べられる食生活の習得を避けてしまったのでは小学校の運動会練習で倒れてしまうのは仕方あるまい。その現象に気づいた時点でも、子育ては出直しが出来る。
 異常気象には太刀打ちできないが、気遣い過ぎる程気遣いをして練習を課す学校教育関係者の努力に、せめて感謝することぐらいは要求してもおかしくないと思う。
 孫たちが元気で運動会に取り組む姿を応援するために出かけることにしましょうか。
 

2011/09/16

「栗」ってこんなに美味かったっけ?

 ~罰当たりの言葉でした!~
 嫁の実家から今年の初物「栗」をいただいた。
 今朝、老妻が「食べますか?」と聞いたので拒否もできずに時間は過ぎた。そして茹で立ての栗が食卓に置かれ試食の案内を受けた。包丁で半分に割ってくれたのでスプーンを持って口にして食感に驚いた爺は、思わず「栗ってこんなに美味しかったかい?」と質問とも呟きとも取れる言葉を発して我に返った。そうだ、これは嫁が昨日、「今年の採れ立てだそうです」と言いながら持って来てくれたことを思い出したのである。聞こえる程の大声ではなかったにせよ、不謹慎極まりない発言であったことを美味に痺れた老脳は深く反省したのである。
 栗は、秋の果物の中で決して好物の中に入っていなかったことは事実ではあった。
 しかし、今朝の「初物・栗」の味は、本当に美味だった。何と立て続けに3個もご馳走になってしまった。老妻に失言を諌められつつも、贅沢に慣れた舌がその味に酔ってしまったようである。
 そこに、母屋の玄関ベルがなったので老妻が玄関に向かった。数分の会話が続いて紙袋を持って離れの台所に帰ってきた。長男孫の友人宅から朝もぎたてのきゅうりが大量に入っている袋を見せられ、数日前の台所の風景を思い出した。いただいたきゅうりを「お祖母ちゃん、洗って!」と言って塩を出してきゅうりをそのままに頬張った孫達の満足げな顔を思い出して苦笑した。そこに、老妻が、「お祖父ちゃんも洗って塩を掛けて食べますか?」と詰め寄るではないか。そうだね、と応えながら今度は、幼いころの田舎の畑の風景を思い出した。お腹が空いて食べるものが無いのできゅうりをかじった光景である。
 時代は変わった。
 野菜しかない!と嘯いて仕方なく齧った不味かったきゅうりが、今では「新鮮なお野菜」として重宝がられているではないか。しかし、今朝のきゅうりも珍味であった。至福の時間として計上しても罰は当たらないだろうと、神妙な顔つきになったのが失言への罪滅ぼしでもあった。茨城に引っ越してきて連日のように「旬の食材」に巡り合う幸せを満喫している午前のひと時である。

2011/09/15

「十六夜の月」で思い出す高校時代

 ~国語教師の言葉を重く受け止めて・・・~
 青春時代の儚くも空しい恋心(笑)を、年に2回ほど思い出す。それは熱心に古典(=国語乙)の授業に傾聴した証である。お断りしておくが、小生のことではない。当時の級友から好きな女生徒への恋心を本心として打ち明けられ、経験の浅い小生は回答手段を考えるだけでも疲れてしまった。ところが、その日の午後1限目(第5校時)に古文の授業があったのだ。受験校であっても古文の授業は多くが「心ここに非ず」境地での受講が常識であった。先生の口から「十六夜の月の出」の時刻の話が飛び出した。何気なく耳を傾けていると昼休みに打ち明けられた友人の悩みの心情をまるで先生はご存じではなかったかと思うほどのタイミングであったので驚いた。級友が相手の女生徒の反応が遅すぎて半ば諦めなければならないと自分に言い聞かせていたのだある。すっかり聞き入った小生に、授業を終えた先生が、「どうかしたのか?恋でもしているのかい?」と大声だ質問され、応え方が「十六夜の月の出」のタイミングになって躊躇したがために当分の間はお門違いの誤解で級友からからかわれしまった。淡い思い出ではないか!今となればもう大昔のお話となってしまった。
 つまり、満月の月の出の時刻より遅く東の空に上がってくる月の出にイライラして待って、満を持するかのようにして逢瀬に出かけることもあった、という雑談もされたことを今でも覚えている。文学的には、前夜より遅く昇ってくる月が、まるで躊躇しているかのように時間が遅れてしまったように思われることらしい。恋でもすると、自分の思いとは裏腹な相手の出方や表現に「イライラしてしまう」ほどに時差の大きさに戸惑ってしまうことらしい、と学んだ小生は級友に「あせるなよ」と忠告したような記憶が残っているが定かではない。
 満月を眺めて過ごした12日の夜。
 13日は豊橋の夜だった。訪問した小学校の先生方との懇親会で気分も高揚して電車で豊橋から浜松まで移動することにした。浜名湖周辺を移動しながら車窓から見えた「十六夜の月」の高さは真上ではなかった。やっぱり前夜とは出遅れた月の出であったようだ。ほろ酔い気分の大脳に、高校時代の友人と絡んだ国語の授業が浮かんできた。
 小学校の「素晴らしい授業」で緩んだ琴線が、十六夜の月の光に透かされて遠い昔の高校時代を思い出すことに大きな一助になった。意義ある一日であったことに感謝した。

2011/09/13

うっとり見とれて撮影チャンスを逸す!

 ~満月の十五夜?~
 十五夜は常に「満月」との思い込みは70歳近くになるまで続いていたようです(笑)。
 必ずしも満月ではない、とのラジオのコメントに「えっ、そうなのか?!」と小さな声で呟くのはホンのちょっぴりでも恥ずかしい思いが過ったのでしょうね(=他人事的表現)。横須賀での仕事を終えて京浜急行に飛び乗りました。横浜に向かう車中に飛び込んで来た「瞬間の満月」が、丁度ランドマークタワー越しに見えました。都会の十五夜も乙なもんだ!!と自讃しながらうっとりとしてしまいました。シャッターチャンスは逃したのですが老脳にはきちんと(?)映ったことは事実です。保存度は自信ございません。
 電車を乗り換えて最終路線・常磐線に乗ると、今度は北千住駅を通過するころにはスカイツリーが車窓全景にして飛び込んで来ることは予想できました。上野駅で買い込んだ夕食代わりのビールやサンドイッチに舌鼓を打っている間に、座る位置も反対側になっていたこともあって「スカイツリーと満月」をテーマにしていた大脳がビールに痺れてしまいました。通過してしまってから夜の景色を追う始末と相成りまして、歓迎してくれたはず(?)のスカイツリーと満月様に申し訳ない思いで電車は江戸川を渡ってしまいました。
 空きっ腹にはアルコール度の高低は無関係でしょうか。
 出講の疲れを解してくれたビールの愛はすっかり睡魔に代わって老脳が襲われてしまったのです。あっという間に下車駅に到着となっていました。駅からは徒歩で5分で自宅に到着します。九州の友人とウォーキング・トークを楽しみながら満月を愛でつつ帰宅したのでございます。
 孫たちと長男夫婦と「十五夜」の宴を楽しんだらしい離れの老人ホーム(笑)には、楽しかった空気が未だ漂っていました。お祖父ちゃんは団子は食べないから、との一方的な結論で既に母屋に運ばれていました。お月見団子はお祖父ちゃんの口には今年も入りませんでした。
 入浴を済ませてすぐに就寝。明日、つまり今日は愛知県豊橋市に出向する日程ですから夜更かしは老体には強敵となります。お陰様で今朝も定時(4時)に起床できました。準備も整いました。そろそろ荷物の最終チェックをして出かけモードに移行します。
 脳裏にはきれいだった「満月」が残っていました。小さな書斎のテーブルには「用を終えた」ススキさんが3本だけまだ挿してありました。宴の後に浸っている暇もなく今日も新幹線で西に向かいます!!

2011/09/12

ススキを探すのに一苦労

 ~今夜は晴れますように・・~
 今日はこれから神奈川県横須賀市の小学校に出講します。
 帰宅は夜になりますので、こんなきれいなお月様に迎えて、送っていただけますように・・!
 そんな思いで、昨日は「独り歩禅」で約1時間ばかり、「ススキを探して」歩いてみました。ぱらぱらと降雨もあり、空模様も心配しながらの歩禅でしたが、周囲1.3キロという沼の周囲を歩きながら視線は「ススキの穂」に集中でした。しかし、やっと3本だけ摘み取って帰宅することが出来ました。沼の周囲を歩きながら自宅にいる妻に「ススキは無いぞ!」と携帯電話で知らせておいた。収穫を期待されるのを避けるためであった。電話の向こうで妻が、ずいぶん昔の話を始めた。子供たちを車に乗せて「ススキの穂」を探し回った日のことであった。当然ながら覚えていた。40歳になるわが子が小学生時代の話であるから相当の年月が過ぎている。
 自然界の不協和音もあるのだろう。この時期、と言うよりピンポイントで要求されれば自然界も堪ったモンじゃない(笑)。しかし、やっぱりタイムリーな要求は当然だろう。必死に探しながら、釣り人にも数名に声を掛けてススキの樹勢地を訊いた。驚いた答えは「ススキって何ですか?」との逆質問でした。形を説明すると似たような植物が生い茂っている場所を教えてもらったが、それはススキではなかった。
 中秋の名月。素敵な日本語ですね。
 独り歩禅から帰宅すると母屋では嫁と孫が「お団子」を拵えていました。老妻は、「明日の夕方に間に合うように作りますよ」と、こちらからの質問を察知して答えたのに苦笑してしまった。縁側に供えられた団子が食べたくて食べたくて仕方なかった少年時代が浮かんできます。棄てられて行ってしまう日本文化を愛おしむのは加齢症候群なのでしょうね。
 
 昨夜も(小生にしては)夜更かしをしてしまいました。
 また、なでしこちゃん達の奮闘に心を奪われて最後まで観戦してしまったからです。戦力を一新して対戦させる監督者の遠大な計画にも感動しました。カネにまみれて多くのスポーツ人生を闇に葬るようなシステムに安閑としている他のスポーツ関係者に警鐘を鳴らしている彼女たちの健気なまでの奮戦ぶりは、名実ともに「頑張ろう東北!」と声高に叫んでいるようで、昨夜も爽やかであった。
 今日から今秋の仕事が始まり明日は愛知県豊橋市に出向するという強行スケジュールを認知しつつも興奮して眠れる昨夜でした。しかし、また良いモノでした。撫子という秋の七草が、日本文化を支える植物としても好機を迎えているのだと思いつつ、・・・・。この老体も撫子の奮闘に負けぬように気合を入れて出かけます。行ってまいります!!

2011/09/11

「あの日」から〇〇日!?

 ~だから、どうしたの?~
 同時多発テロから10年が経った。東日本大震災から半年の時間が流れた。
 こんな表現は多すぎる程多い。そこで、「だから、・・・・?」。つまり、何を言いたいのか、と言うことである。我が国では出来たての内閣で、また、大臣が辞任した。東日本大震災から半年も経ったのに回復の目途も立たないのに担当の大臣として就任しながら、「もう辞めるのか」と言いたい。昨日のブログでも触れたが、そこに「主語と目的語」が不鮮明な関係が存在することを認識し合いたいのである。大臣は(主語)、国民の幸せを(目的語)追求する責務は無いのか!と言うことである。
 基準日。
 年度は4月1日であるとすれば、「あの日から」どのくらいの時間が経ったのかは算出は容易である。辞任した大臣の就任期間を算出すのは簡単であるが、国会議員として世に出た基準日を検討してみるのも一考あるようだ。さらに、その代議士を選出した国民の「判断の基準日」は誰が問うのだろうか。最近、軽々に「辞任・退任」する社会文化が日常的になったのは哀しい現状であるとしか思えない。その修飾語として「引責」が付いて回ることを考えると基準日を、視点と観点を変えて「国民の責任」としても追及する必要があると考えるのは可笑しいだろうか。
 大震災で被災された方々の悔しさと辛さを、「国民全体の(責任)意識」として意識し直すべきである。高地位にある人材(特に政治家)には、その選出の時点で洗礼を受けた「選挙」があったという事実を思い出すべきでは無いだろうか。そのように考えれば小生のぼやきも読者諸兄にはご理解できると確信している。
 半年間の時間の流れが被災地にはどのような苦悩を生んでいるのか。
 夥しい数の犠牲者の身内の悲しみを拭い去るには、かなりの歳月が必要だ。ニューヨークで思いもかけないテロ行為で命を落としてしまった被害者を身内に持つ人たちも、「あれから10年」を経て、心の動揺は消えたのだろうか。少しでも消えたという人にとっては、「責任問題」に対応する国家の姿勢が大きなウエートを占めているのではないかと推察する。我が国は・・・?
 ともあれ、「大人げない」風潮の堆積に危機感を覚えて仕方がない。
 政治家諸兄の責任感を疑いたくなるほど対応が生ぬるい。非日常的な事態に、それ以前の法律が有効かどうかはトップリーダーとなる国会議員の「せんせい方」には、既に学習済みではないのか。議員「勉強会」とは保身のための処世術を身に着けるためのモノかと穿って見たくなる。とにかく、急いで「特例中の特例」的発想を前面に出したリーダーシップを期待してやまない。
 大臣として就任して9日間で辞するな!発言の内容には人間性も疑いたくなるが、大臣としての責務とは、失言を顧みて、国民の目線(乱発される美辞麗句)で粉骨砕身(選挙カーから流れる美辞麗句)と取り組んでいくのが政治家ではないのか。
 小生のこんな『ボヤキ』は、加齢症候群として一笑に付して戴いて構わないが、読者諸兄には訴えてみたくなった日曜日の朝である。

2011/09/10

頑張れ・頑張る・頑張ろう!!

 ~「頑張らなくても」良いんだよ!!~
 我が子の不登校に悩む母親がカウンセラーの相談を受けた。カウンセラーが優しく心を解しながら発した印象的な言葉を(後日、聞いて)知って凡庸な担任教師は悩んでしまった。それは、以下の表現であった。記憶に拠るもので一言一句まで正確ではないのはご理解いただきたい。
 「お母さん、ガンバレ・ガンバレと言ってお子さんを追い込むのは良くありません、頑張らなくても良いんですよ。むしろ、こんな状況では頑張らない方が回復が早いんですよ」。
 それは中学2年生の時だった。その後、がんばらないままに卒業まで一日足りと登校して来なかった。3年次は担任ではなかったが、とても気になった生徒でもあった。3年次の担任の報告では、母親まで鬱病になってしまって家庭崩壊の状態であると聞いて、無能な教員として居た堪れなかった。
 写真のマークは3・11東日本大震災後に発生したものである。この種のメッセージは日本列島にあふれる程にまで増殖した。こんな広報表現を目にする度に、主語と目的語がはっきりしないことに苛立つことがある。このメッセージは誰が誰に向けて発したんだろうか。

 頑張るんだよ。
 頑張れるところまで頑張るんだよ
 一番辛いキミが頑張らなければ前進できないよ
 頑張ってもできないことがあったら応援するよ
 オレに出来ることだけでキミを応援する
 キミに負けないぐらいオレも頑張る
 だから、キミも頑張ってほしい
 一緒に頑張ろう

 小生は、こんな精神で生徒指導に対応した。
 家庭問題で悩んでいる女生徒の話を聴いても解決策などなかった。入り込めないだけではない。当事者が前向きな言動を起こさない限り激励の言葉も空転するからである。吹けば飛ぶような大人の言葉ほど成長期の子ども達にオトナ不信感を増幅させるものは無い。軽率な言葉で話の分かる教師を演じると、気が付いた時には手の届かない自分の殻に閉じこもってオトナを拒んでしまう。
 
 また、近畿地方に大きな自然災害が発生した。東日本のそれとは異質ではあるだろうが、根本的には被災者の意識を鼓舞できる体制が要求されていることは誰も否定しない。誰が、誰に向かって支援するのかを明確にしないと打開策も前進できるわけがない。
 支援体制の究極の目的は、「自立を促す」ことにあると確信している。自立は、「自ら」の意識を鼓舞しない限り育つまい。そのためには、自らの「頑張り」は大小、多少に拘わらず必要であることを決して避けては通れまい。他力本願では自立は確立しないと考える。耳触りの良いきれいごとで自立できるなどと甘く人生を考えてはなるまい。教育に関しては特に多い。きれいごとでは人は育たないことをこの哀しい事故(災害)が教えてくれている。
 だから、小生はいつでもどんな場面でも、あせらないで現状の「自ら」を見詰め直して、絶対にあわてないで、そして決してあきらることなく「自ら」しか出来ない悪あがきをすることを念頭に置いて生きてきた。大した人生ではないのでこのようにブログで語り掛けることもて照れてしまうが、照れている場合ではないと思い直した。
 
 また、首相が変わった。少々なりとも関わりのあった『松下政経塾』の第1期生が首相となられたとあれば応援せざるを得ない。前述の駄詩は届きもしない首相への応援のメッセージであるとも受け止めて欲しい。ちっぽけな元・教員が、もう首相と同年代になっている卒業生に語り掛けた精神をお届けしたかっただけである。当事者が当事者の責務を頑張らなければこの苦境は突破できないからである。
 

2011/09/09

夜の10時までTV画面と過ごす??

 ~滅多にない現象の主因は~
 番組案内になかった「変更された」番組を知ったことにある。
 これは昨夜の出来事。遅くとも午後10時以降には我が家のTVは休養の時間となる。早ければ8時には就寝態勢に入ることもあるぐらいの生活リズムである。その分だけ(笑)、午前4時には起床する。しかし、その時点でTVのスイッチオンは全くない。TVとの共生は無縁であるということである。
 ところが昨夜はどうした?
 NHK BS 20:00~ 番組案内では「サッカー女子五輪予選 日本ー北朝鮮(再放送)」となっていた。夕方のライブ放送では観戦できなかった。結果はわかっていた。少しだけ覗いてみようと画面を選んだら驚いた。「お断り」のテロップの裏には、中国とオーストラリアの試合をライブで放映しているではないか。日本チームの今大会の行方を決定づけるゲームであることぐらい知っている小生にとっては気持ちが昂ってしまった。NHKも洒落た配慮をする時もあるんだ!まるでマニアック的な発想で座り込んで画面を注視してしまった、試合終了まで「就寝せず」に見終わった。試合が終わった瞬間に画面には文字が流れた。~3大会連続4回目のオリンピック大会出場が決定しました~ 妻はとっくに眠っているので独りでこの画面を反芻した。「3大会連続」という偉業すら知らなかった小生は思わず「本当かい!?」と独り言を発してしまった。
 テレビを消して数か月前のワールドカップ優勝という途轍もない偉業に仰天した瞬間を思い出していた。そんな甘い世界ではない。同情や互譲精神での優勝などあり得ない。これは、何かがある。そんな興味関心が頭を過ったことも事実である。その延長戦が昨夜に繋がっていた。
 今夏、読んだ本の中に「スポーツは良い子を育てるか」がある。経験豊かな著者が具体例を示しながら意見を述べている。その中の印象深く残っている部分が浮かんできた。一朝一夕に世界のトップに座ることなど考えられないとすれば、この偉業を普段着のまま(金を掛けて貰えなかった)に創り上げた集団には、それに負けない「何かが」あったはずである。前述の本で著者は鋭いメスを入れている。それはスポーツへ誘う親や指導者の歪んだ精神とスポーツと経済経営原理であった。俗にいうスポンサーのことである。何十回頷いたことか!
 人気のあるスポーツ(と誤解している経済利益団体)への関わりとは全く無縁の「女子サッカー」というスポーツが、2011年になって一躍「陽の目を見る」ようになった。喜ばしいことではないか。その証拠が昨夜の緊急変更番組の放映である。スター(決して好みではない表現)になるまでの顔つきと豹変してしまわないことを願いながら眠ってしまったのは「親心」であると理解願いたい。
 余計な心配?
 目が覚めてネット情報で昨夜の様子を探る。母屋から新聞が届くまで時間があるので小生の最新情報取得の手段はインターネット検索である。快進撃を続ける『撫子』たちの活躍と女子サッカー界の繁栄を祈るばかりである。発奮するスポーツ団体にも期待したい。撫子の次は「サムライ」だろうか。
 興奮は消えているが、今朝の日の出の美しさに、この「日の出の勢い」が天上まで上り続けることを期待する熱い思いは今朝も健在である。

2011/09/08

先輩との電話から

 ~「死に支度」を始めたのよ・・~
 電話の向こうの先輩の声は元気だった。
 電話の要件はこちらからお送りした『湘南の葡萄』のお礼であった。届いたであろう日付からは少なくとも1週間近くが過ぎてしまっていたので内心では、「何事も無ければ良いが・・」と案じていたのである。この先輩は、教員時代に僅か2年間の学校現場での仕事仲間なのだ。このページでは思い出や苦労話に触れる余裕が無いので省略することにしよう。彼女とは退職後のお付き合いが長い。茅ヶ崎から故郷の仙台に戻られ新居を構え、かなりの高齢で再婚されたがご主人はその後他界され温泉付きの立派な御家に一人住まいをしておられる。偶然にも愚息が大学生活を4年間、彼女の住む仙台市で過ごしていた関係から我々夫婦もご自宅を訪問して一泊させていただいた経緯もある。ご主人のことも明確に記憶している。
 読者の皆さんも信じられないだろうが、茅ヶ崎市に住む知人夫婦が栽培する「湘南のぶどう」は信じられないほどの珍味なのである。先輩も教員生活は全て茅ヶ崎市の中学校なので思い出の地である茅ヶ崎特産品を選んで「謝意」を添えて毎年お送りしている。彼女も心待ちにしているほどの逸品である。今回の電話もそのお礼の内容に終始していた。しかし・・・。
 「角田先生、来年も送ってくれるよね。とても嬉しいけど、一つお願いがあるの」と、しんみりとした口調で始まったので異常性を感じつつも耳を傾けた。「私ね、独り住まいでしょ?先生が送っていただいても受け取れない状況に至った場合は申し訳ないので・・・・。これから送るけど良いかな?」との一言を一報してほしいとの要求であった。
 「良いですよ。了解しました。」と言うと、もう、『死に支度』を始めたのだと解説が続いた。言葉が尋常ではないので「冗談は止めてくださいよ」と返すと、80歳になるという独人人生には「自らができることはできる時にやっておかないと周囲に迷惑がかかるから」と言及され、遺言書も完成して、お弔いをお願いするお寺さんにも既に費用を収めているとの話が展開され、啞然とするやら納得するやらの複雑な心情で電話は終わった。
 電話を切って妻に内容を伝えた。神妙な表情で聞き取る妻にも老域がわが身にも降りかかる年齢になっていることを実感したようである。先輩にはお子さんがいない。言葉の端端に「私は独り者だから」が何回となく繰り返されたことが、我々夫婦間のその後の対話の根っこになってしまった。
 子供がいれば、子供に全ての負担がかかるのが当然と思っている親がいるとすれば、請け負う子供のサイドでも大変なことだろうな。4年前に妻の両親を看取って臨終から葬儀等々の対応をしたのは「子どもの立場」からでしかなかったし、子供としての当然の要務だと信じて疑うことも無かったが、先輩の「身の処置法」が、子供を抜きにして考えておられる姿勢に心が動揺してしまった。
 老後の面倒を看てもらうために、ここに引っ越してきた訳ではない。そんな自負も先輩から見ると「子どもに厄介になる」幸せ(?)を当然のように思い込んでいる後輩夫婦として映っていたんではないかと考えてしまった。しかし、『死に支度』は、できるだけ自力でしておくべきだと、素直な気持ちで受け止めることが出来たのは、やはり敬愛する先輩であるからだろう。
 しかし、相変わらずの元気なお声には、支度が終わってもなかなかその準備が成就しないのではないかと失笑した昨日の夕暮れの電話であった。

2011/09/07

感謝の「意」を込めて・・・

 ~休刊する愛読誌に思いを寄せて~
 10月号の発行で一時休止するという情報が編集部から届いたのが7月だったろうか。
 我とわが耳を疑ってしまった。まさに「青天の霹靂」の思いに漬かった。本誌との出会いは今から遡ること20年以上も前になる。学校教育現場では知る由もなかったハイレベル(=無学無教養の教員だった小生下の勝手な思い込み)な月刊誌であった。営業の方が市教委のデスクに宣伝に来られて手にしたことが、目から鱗の状態と化し気が付けば「初恋の相手」と意識するほどまでになってしまった(笑)。
 愛読者がいつの間にか執筆者に変容するのだから人生はわからない。
 2年間のロングランで連載原稿の執筆経験もさせていただいた。全校版?と人は言うが、根拠はこの月刊誌にあると言っても過言ではない。講演依頼が内容を指定されたのも演題が執筆原稿のタイトルとそっくりそのままだったことが何よりの証明である。
 写真は義理で掲載したものではない。そんな性分でもない。9月号の本誌に掲載されている、敬愛する曽野綾子氏の連載記事の1ページである。学校教育関係者への警鐘が鳴り響く玉稿でもある。遠い昔に現場を退いている小生には物申す資格も肩書も無いが、彼女の「反面教師論」には全く同感である。記事を通して意を伝え、後輩諸兄に一読いただきたいと願うばかりである。
 16年間も続いている小生が主宰する 教育実践『響の会』の夏季特別セミナーには本誌の執筆者の諸先輩にもご登壇願ったこともある。今となれば至福の思い出として振り返り、それだけでも胸が熱くなる。校長の初任者として勤務した年(平成8年・夏)に『響の会』(創設当時から名称は変更している)を立ち上げることができた。当時の同志(神奈川県茅ケ崎市教委時代の同僚)たちの強いバックアップに深く感謝する思いである。
 歴史は流れる(歳月が流れるから歴史となるのか?)。
 小生には愛読月刊誌が本誌の他に数種類存在する。他は「教育関係専門誌」ではない。小生が愛読した教育関係の雑誌はこの1冊だけであった。他誌が低級であるとは全く思っていない。愛読の理由などないが、20年以上も読み続けたことが確固たる証拠であろうか。
 最後に、何と小生はこの休刊する最終号に「執筆者」としてご指名の栄誉を承ったのである。執筆者冥利に尽きる、という興奮状態で執筆してしまった(笑)。故に最悪のでき具合ではないだろうか。手にする機会がありましたらご一読をいただいて感想等をお寄せいただければ嬉しい。
 神妙な思いになってしまい、今朝の秋風が冷たく感じるのも加齢の為せる悪戯なのだろうか。

2011/09/06

『一念発起』って言えば・・・。

 ~少々大袈裟な表現?~
 そんな苦笑と共に、道路マップを頼りにしながら数日前から「机上案」と睨めっこを続けました。それは、以前のブログに紹介しました「茨城県・市街道路地図」上での格闘だったのです。自他ともに認める「方向音痴」の小生は、進行方向の「方角」と大脳との格差が大き過ぎて「堂々巡り」の常習犯となってしまう常習犯なのです。「小生のことを知っている」(=親しい人間関係)証は、この現実を実例を提示して語ることができるのが認定証モノです。
 枚挙に遑の無い」程の武勇伝(笑)があります。全く反対の方向に1時間以上も歩き続けて、やっと風景が異なものと感じる程の鈍感な性格でもあるからです。その道程を全く不平も言わずに同行してくれた友人は正に「人生の竹馬の友」でもありました。そんな思い出ももう語ることのできない世界に逝ってしまいました。
 話がズレました。
 茨城県の公共交通手段の現状と道路状況を併せて考えることに遭遇してそろそろ5カ月になります。転居先の近隣のお宅には最低でも3台は車庫に常駐しています。たっぷりと確保されている駐車場がこの地の「生活と車」の密接な関係を物語っていることがやっとわかりかけたと言うところでしょうか。
 末の孫息子が嫁と一緒に出掛けて行きました。孫を保育園に預けて会社へ出勤するわけです。それを見送ってから、同伴すると言う(=実は夫の方向音痴が心配なだけで)老妻が準備を始めました。8時35分に出発しました。想定通りに土浦市の中心地に近い道路は未だ混んでいましたが、以前の「茅ヶ崎市」周辺とは雲泥の差です。むしろ混んでいる方がスピードも出ないので方向音痴の症状は表出しないので安心なのです(=助手席の老妻の心理を分析して)。
 市街地を抜けて、次は「つくば学園都市」周辺を通過することになりました。
 地図で見る距離感とのズレが出始めましたが、老妻が信号機の上にある「地名」標識を確認してくれて無事通過でした。混雑を想定していた学園都市周辺も午前9時を回っていたので殆ど自然渋滞はありません。学園都市の外れにある最後の目標点で左折すると(=地図では)、最終目的地まで一切「右左折」がないのです。
 交通量も少なく、しかも道路も広いし、筑波山を反対側から眺めつつ運転は順調です。黄色く色づいた稲穂の広がりに助手席から感嘆の声が上がりました。快適なミニ・ドライブは出発して1時間で最終目的地に到着してしまいました。「呆気なかったわね」との老妻の言葉はどんな評価の意味合いだったのでしょうか。
 この目的地は来る21日に、講演のために赴く会場です。
 こちらに引っ越して驚くことはたくさんあるのですが、駐車場の収容台数の多さ、つまり面積の広さにはただ茫然と立ち尽くすほどです。今日の目的地の駐車場もご多分に漏れず「めっちゃデカ」い規模でした。会場周辺をぶらぶらと歩きながら驚きました。駐車場の西側には「お城」があったのです。ここは城下町?との妻の問い合わせは想定外の質問でした。聞こえないふりをして施設内に入ってトイレをお借りして現地踏査も完了です。
 すんなりと帰路に着きましたので、何と11時前には帰宅です。気持ちの上でも安心しましたので、主催者に「自家用車で直行する」という変更のメールを送信する段階まで上り詰めてしまいました(笑)。
 秋の日差しを受けながら心地よい筑波下ろしの風の歓迎を受けての「県内での初の」運転でした。これからはこんなリズムが多くなるのでしょうか?11月には免許証の更新が待っています。そろそろハンドルから手を放す年齢と「人生設計」を立てていた年齢になっています。しかし、今回も更新手続きが必要な気配になりました。

2011/09/05

季節の移ろいは「日没」に感じる

 ~夕暮れの5時半と言う時刻~
 思えば遠くへ来たもんだ、という歌があったような気がする。
 秋の夕暮れはヒンヤリとした空気に忍び寄る季節の移ろいを感じる時期になったようだ。特に、以前住んでいた地とは気温の差が肌で感じるようになっている。終日を孫たちのリズムに独占され、一つの季節「夏」を過ごした。祖父ちゃんとしての初体験であった。当然ながら老妻も同じであるが、性差を痛感するほどに老妻の猛烈な働きぶりには目がテンになることが多かった。献身的な母性の復活であったのが、とても気になった。こんなにまで懸命に対応したら「夏の疲れ」が涼しい風が吹き始める初秋になると表出してくるのではないか、と思いながら時折セーブしたこともあった。
 一昨日と昨日は息子夫婦が休業日である。孫たちもお休みである。夏休みのリズムとは少々違い勝手も狂った。
 遊びに来ているお友達が帰って行く時間になる。夏場は5時半ごろだった。同じように母屋の賑わいも静まる。しかし、夏の日の空気と何かが違う。それは、単なる「時間」の感覚がずれていることだけである。つまり、5時半の「夕暮れ」の色合いが濃くなっていることである。お迎えに来られたらしい方との会話が漏れ聞こえる。日没時刻が急に早くなる時期であることを実感し合う言葉も聞こえてきた。
 季節の移ろいは日没から感じ取ることができる。
 孫たちが両親との生活をエンジョイしている休日は、祖父ちゃん・祖母ちゃんは、有難い静養日(笑)である。夏休み明けの「嬉しい静養日」では、届いたばかりの単行本に没頭して2冊を読破した。その中の一つをその見開きのページで紹介したい。梅原猛・瀬戸内寂聴氏の『大媼・大翁』対談が最新刊として『生ききる』と題して発行された。話題は東日本大震災を基点とした「哲学論争」であった。見開いたページから感じることが多く、立ち止まり読みになってしまったので読者諸兄にもご紹介したくなった。対談が実現する前に絶不調であったらしい寂聴媼の現状を活字で知りながら「この世の話」ではないのでは?と現実離れした世界を覗いてしまった。読書前の感動として感情の先走りをさせながら読み込んだ。初秋の「夕暮れ」が近づいたのを気づかないままに没頭してしまった。こんな光景は今始まったことではない。長年に渡って家人に多くの顰蹙をかった光景でもある。
 楽しく遊んだ孫たちが帰って行くお友達と別れを惜しんでいる頃、我に返って秋の夕暮れを満喫した(?)昨日の夕刻でありました。
 
 奈良県や和歌山県を中心に死者や行方不明者の多いことをニュースで知る。安否を覗いつつ、ご冥福を祈りながら被災を受けられた方々にお見舞いを申し上げるばかりです。
 


2011/09/04

高知~善通寺~岡山~鳥取・・・・・。

 ~『台風12号』さんに真似されて苦笑~
 朝の浴室で、時折り自傷行為のような強い雨足にかき消されるようなラジオから流れる気象情報に耳を傾ける。
 高知県に上陸したらしい台風は、自転車並みの速度で北へ向かっているとの情報は昨日の午後にはわかっていた。その後、午後4時ごろ「ただ今善通寺市を・・」との情報を得ると、高知や善通寺の先生方にメールを打った。その後、岡山県新見市の友人にも心配のメールを送信したことを記憶を辿りながら、浴室という独房(?)で一人で苦笑してしまった。
 多くの機会で出講する土地ばかりだからである。
 つい、2か月前に訪れた鳥取市の光景も浮かんできた。広島市や浜松市を除けば、最も多くの時間を過ごしている地名が、この台風の進路で明るみに出てしまった(笑)。
 浴室の窓の外では、まるで呼吸でもしているかのように、降っては止み、止んでは降りつける降雨現象の連続である。雨音が聞こえなくなると、この時とばかりに浴室の窓の下から虫たちが存在感を訴えるかのように一気に鳴き始める。すると、また、強い雨が虫たちの声を打ち消すかのように雨粒を地面に叩きつける。まるで天敵同士の闘いのようだ。
 台風が運んだ雨雲が1000ミリ以上の雨量を齎したらしい。死者も出ているようだ。自然界の脅威をまた感じる。人間界は、ご自慢の「科学」とやらで対応するのだが、自然界はびくともしない。3月の地震・津波の自然災害で「為す術もない」科学力を、なお信じ続けて直進したらどうなるのだろうか。恐ろしい事態に追い込まれていくのだろうか。人類の生死をかける状況下にあっても、「自らの勢力」を鼓舞するための戦争が地球上から消え去らない。政治力の権力争いに明け暮れしている人間どものの愚かな行為は留まる所を知らない、とは?
 『湯禅』のひと時。
 旅の情緒を満喫させていただいている大好きな土讃線や因美線からの車窓が浮かんできた、被害の少ないことを祈るしかできないちっちゃな人間の哀しさでもある。

2011/09/03

やっぱり『車社会』に身を投じますか!

 ~郷に入っては郷に従え!~
 交通網の発達した社会で48年間も過ごすと、無意識の上に「当然だ」という基準が出来上がっていたようだ。それが移動手段の決定である。茅ヶ崎から「出向く」手段は、まず電車の利便性を検討することだった。マイカーで出向することは全くと言って良いほど存在しなかった。存在するとすれば茅ヶ崎市内か、あるいは隣の町や市ぐらいであった。県内でも横浜や川崎、あるいは相模原という大都市に向かう時は、送迎車がある時でなければ「車」を利用することは全くなかった。ここに転居してその部分だけでは大きなカルチャーショックを受けている。茨城県は広大な面積であるが、公共交通手段の整備が行き届いていない。(決して批判をしているのではないが)、現実問題として直面すると大問題になってしまう(笑)。
 前回、「初めての県内」への出講に対応すべく交通手段を考えた時点で驚いた。一旦、上野駅まで常磐線で出て(1時間20分)、宇都宮線に乗り換えて目的地駅まで行くのに1時間20分掛かることを知った。県内の地図帳を見ると一瞥できるのに現地到着までの所要時間を考えただけで時間の無駄を感じてしまったのである。初めての体験であった。主催者のご好意で駅までの送迎はしていただいたが、会場までが車で片道30分間を要したことも今回の「発奮」(笑)に繋がったのかもしれない。
 写真の道路地図を買ってきた。
 月末の移動(21日)は老人ドライバーに変身して移動することに意を決した。買い込んだ地図帳を寝転んで見ているだけでも若返る気分になったような気がする(笑)。講演は「使用前・使用後」の感度に大きな差がある。電車での往復は観点を変えるだけでも利点が多い。取り分け、(使用後?)疲労感を癒すには自力運転の場合は不可能であるが電車では容易である。往路も車中で、車窓と語りながら「講演の構想」に思いを巡らすこともできる。これも大きな利点である。こんな利点から「自立して」(笑)、湘南ナンバーの軽自動車で移動することに意を決したのであります。
 これも、茨城県民になった意識を高揚させるための「天のお告げ」なのかもしれません!!
 


2011/09/02

台風の中で育った『力』

 ~お祖父ちゃんはね、小さい頃・・・~
 話し出すと真剣に耳を傾ける孫たちがいる。
 小学生のころ、台風が「のろのろして」いたので4日間ばかり学校がお休みになったんだよ。我が子たちにもその話題は提供したことがある。うっすらと記憶しているようだが確認はしていない。孫が「良いなぁ~」と叫んだ。「そんな時は宿題は無いよね」と、質問してくる。当然のことである。これが学校教育に漬けられている証拠でもあり苦笑しつつも成長さえ感じる瞬間でもある。昨日は始業式だったらしいが、「宿題がたくさんあるんだよ!」と言葉を繋がれると同業者(だった)の頭脳が揺れる。宿題を課さねばならない現実問題があるのだろう。余計な心配までしてしまう。
 お祖父ちゃんの口から伝えたいことは山ほどある。効果は期待しないが、「昔々のお話」としてでも同じような自然環境や生活条件に遭遇した時の方が印象付けには効果があると判断している。
 天気図を見ながら「のろのろ台風」の話を蒸し返す。
 小学校4年生だったと記憶しているのは根拠がある。それは担任の先生である。初任者として赴任して来られた先生だったので「指示が曖昧」だった。子どもなりの判断も狂ってしまった。電話の無い時代なので村内の有線放送(?)らしきものから聞く情報が全てだった。来る筈の台風が、ずっと学校を休みにしているのに来ない。しかし、風雨は依然として強い。登下校の危険性も高い。今のように舗装道路完備の状況ではない。堤防の崩れも多かった。川の氾濫も多かった。休校措置は当然であった。しかし、孫世代は「お休みが多くて」良かったとなるわけである。これも当然の人情である。
 雨の日は近所の友人宅に行くのも禁止だった。当然ながら友人の訪問もない。昔の「子育て」は雨天時の配慮もあったようだ。 雨が降ります 雨が降る 遊びに行きたし 傘は無し・・・ と言う童謡の歌詞も浮かんでくる。自転車も傘も予備など無い。そんな中で「子育て」された世代であることが、現状と比較するにつけ、「感謝の意」で振り返ってしまう。
 孫世代は雨の日でも、車で送り迎えで「子ども同士の遊び時間」を確保する時代になっている。かく言う、このお祖父ちゃんも昨日は孫のアッシー君であった。嘆かわしいとは思わないが、時代の流れの大きさを痛感しながら「お抱え運転手」の役目を果たしてしまった(笑)。
 今回の台風も長時間を掛けて日本列島を弄ぶようだ。
 こんな時だからこそ、こんな条件下で「お祖父ちゃんの昔話」をしてあげることに意を決しているバカ爺でございます。冗談は別にして、被害のより少ないことを祈るばかりである。


2011/09/01

流行する日本語「◎◎力」に思う

 ~『人とつながる力』をつけるには?~
 昨日の新聞記事を提供します。
 そして、ひと時を一緒に考える時間として共有して戴けませんか?日本列島から須らくパワーが失せたのでしょうか?消滅したのであれば、必要性を感じないからでしょうかね。つまり、この新聞記事で判断すると、「人とつながる力」を必要としなくなったからではないでしょうか。必要があれば求めるためのパワーぐらいは誰でもつけるに決まっているでしょうに!!
 そこで、この記事の最後の段の二段落を再度読み込んでいただきたい。
 小生は最後の3行に全てが凝縮されているように思えて仕方がないのですが、読者諸兄はいかがでしょうか?結婚の必要性を説いている論調ではないと判断しつつ読み干しながらも、筆者が女性であり、(多分)母親であり、しかも共働きをしながらこの地位を極めた優秀な人材だと考えたのです。それは、母親が子供を過保護に育てたために自立と言う道を拓くパワーが失せてしまっていると言及されているからなのです。
 就活?婚活?日本語の流行語大賞にノミネートされ続けている部類に注目する度に、時代の急変を感じてしまうのは小生だけなんでしょうか。「今の若いモンは・・!」と発せられるだけで、チョッピリの反発力は感じつつも、将来の立派な大人になるための試金石のように思い込ませた戦前生まれの人生観が育まれたのだろうと勝手な推測をしています。
 京都仏教界の重鎮である立花大亀老師と、松下幸之助氏との対談で、老師が発せられた言葉を読んで心臓が破裂しそうな恐怖心すら感じたものでした。『君のおかげで、こんなに心がなく物ばかりの嫌な日本になってしまった。君の責任で直してもらわねばならん…』と言う行です。松下政経塾が立ち上がったのがその4年後だったとの追記に、再度の心臓爆発寸前状態に陥ったものでした。
 最後に勤務した小学校の「学区」に松下政経塾がありました。塾生との接触も多々ありました。塾内での講義も講演も請けました。そして、塾も設立後30数年が経ちました。そして、その第1期生が新首相になられるようです。松下幸之助氏の創塾精神に薫陶を受けられた新首相の手腕に、小生が期待したくなるのも無理からぬことです。
 心がなく物ばかり・・・・・、
 心は意欲です。意欲がなければ『力』を必要ともしません。阪神大震災から20年も経ちました。そして今度は東日本大震災です。最新の大衝撃が列島を駆け巡ったあの日から、まだ半年です。しかし、また、いつもの物の豊富さと便利さが日常になりつつあることに胸が痛みます。震災と言う非日常的な事態を真摯に受け止めて、各家庭が「家庭力」を発揮することに「心を砕けば」人とのつながりが重要であることぐらい教えることは簡単なことではないでしょうか?
 この小さな新聞記事を読みながら、考え込んでしまっている早朝の爺ちゃんです。
 さぁ、今日から孫たちは新学期だそうです。元気で学校生活を送ってもらいたいと願うばかりです。夏休みのロングラン、老妻の「昼食づくり」の苦労にも頭が下がる夏休み明けの爺ちゃんでもあります。

自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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