2012/04/30

金字塔を立てた教え子

~終日落ち着かないまま・・~
 NHK・TVのスポーツ放送があることを朝刊で知った。
 先発予告で「教え子」が登板することを知っていたので、その瞬間からいつにない緊張感に襲われてしまった。小生が36歳の中学校教員時代の教え子が、こんなに長いプロ野球生活を続けるとは、まさに『想定外』の出来事である。
 去る22日(日)には前回の登板があったので、逝去された実父の葬送の儀も日程を変更して営まれた。こよなく息子を愛した父親は、今日の晴れ姿は他界先でしっかり見届けられたことだろう。プロ野球入団時のお父さんと小生の会話はマル秘であるが、そんな思いのオトナの期待を見事に裏切って大輪の花を咲かせている教え子に大きな拍手を送らねばなるまい。
 昨夜から名古屋に向かおうか、と久しぶりに悩んだ。その分だけ、取り分け午後の全身の動きは我ながら変だった。入団した球団で可愛がっていただきながら大好きな野球を続けることの出来る果報者の頑張りに、恩師の端くれとしては自分なりの頑張りを見せなければならない。「今季が最後になるだろう」、とエールを送って分かれた正月の定例OB会だったが、不思議な感覚で期待へと変貌しつつあるのが嬉しい誤算となっている卯月最後の夕暮れである。
 プロ野球に関心の無い読者諸兄には大変失礼いたしました。

2012/04/29

考えてみれば「霞ヶ浦」は至近距離

 ~孫守りのGW大作戦~
 昨日、かすみがうら市の運動公園まで孫を迎えに行った。
 市内の立て看板で運転手の目に飛び込んできたのが『帆引き船フェスタ』という文字だった。何だろうか?と考えて待機時間を運動公園の事務所に入ってみると、風を受けて一杯に帆を膨らませて水面を移動する「帆掛け船」の映像が放映されていた。数年前の光景らしいが以前、TV画面で見たような記憶がある。その帆掛け船は、「霞ヶ浦」の有名な風物詩であることがわかった。今年度の最初の運航日がこの5月4日・5日となっていることも判明した。
 千葉の孫たちは3日にやって来るとの一報が入っている。
 そのフェスタ開催日には滞在している、心ひそかに「孫守り」の一環として観光客として連れて行ってみよう、と考えてみた。しかし、まだ湖畔までも行ったことがない。「眼と鼻の先」にある霞ヶ浦と言っても孫を乗せて行くには不案内過ぎる。
 そこで、今日は夏服に着替えて妻と一緒に当日の会場を探して「下見」に出かけたのである。展望台が推奨の場所だそうで登ってみた。眼下に会場になる広場が湖面と並行して帯状に広がって見えた。展望台からは対岸が見えるとの案内だったが霞んで良く見えなかった(写真)。 
 汗をかきながら駐車場まで降りたので持参した水の美味しかったこと。片道30分未満の近距離である。近隣に引っ越して来たのだからあの風物詩を拝めるのである。当日が雨天でありませんように、と祈るばかりだ。

2012/04/28

歩禅記(58)

 ~花も季節の移ろい~
 午前中の曇天から午後は強い陽射しの好天になった。
 膝と腰に痛みがあるので妻は歩禅には同行しなくなったが、この陽射しを見ていると「歩いてみたくなった」らしい。嫁が外出から帰宅したのを確認して出発した。陽射しは強いが外を吹き抜ける風の冷たさはまだ十分だった。しかし、もう心地よい体感もあり、野道の散歩を楽しむことができた。
 たんぽぽの群生があるかと思えば、アイリス(?)と芝桜の競演もある。隣家の庭にはハナミズキの花が強い風が吹けば散りそうなほどの満開状態である。玄関先の鉢植えのカサブランカももう15センチほどの丈にまで成長している。
 季節の移ろいも自然界の微妙な揺れでもあるのか、季節混合の花の競演をして道行く歩禅人の目を楽しませてくれた。1時間ばかりの田園地帯の歩禅ではあったが、歩き切った妻はご機嫌である。
 小生は、歩数計を装着して毎日の歩数をカレンダーに書き込んでいる。体重計が体脂肪も告知するので体重測定の時点で体脂肪も記録している。歩かない日が続くと体脂肪の増加も実感する。記録し始めてから(約10年)体重は6キロの自然減少であり体脂肪は17あたりで歩留りである。加齢と共に微妙な増減に一喜一憂しながらも「記録に留める」効果は十分に意識として計上できているのではないだろうか(笑)。

2012/04/27

『対話』の無い用務

~「コミュニケーション能力」って?~
 ただ今!!小雨だったので車で近所のコンビニまで行って来ました。
 一言の対話もせずに用務を済ませることが出来ました。プリントアウトした用紙を持参してレジに提示しただけです。店員さんの業務用対話の「いらっしゃいませ」「ありがとうございました。また、どうぞ」は、本質的には対話とは言えない。何故ならば「心が通い合う」言葉の交換ではないからです。言及すれば、小生と言う個人は、どのお客も同様に単なる個人としての相手であり商売用語を発しているだけなのです。きっと、そぼ降る雨の中の来店のマニュアルには無いのかも知れません。
 6月末に高知市へ出講予定である。
 学校と言う企業は(全国共通で)、校長という経営者が自由に使える金銭は皆無に等しく、工面する才能があっても苦労は筆舌し難い。経験者だから良くわかる。そこで訪問校の苦労を少しでも軽減させたいとの思いで、窓口の先生には急いて日程の決定を要求した。やっと55日前の特典が受けられる航空券購入がぎりぎり間に合ったのである。昨日、ネットで航空券の早割の予約が済んだ。購入期限が本日の9時半から受け付け開始であり29日が締め切りとなっている。今朝の一番の仕事はこの購入手続きをすることだった。無事にネット業務で購入手続きが完了した。一番近いのはコンビニなのでそのスタイルでの支払い用紙を申請したのである。
 購入用紙を見て店員さんは手際よく、請求額を発して支払いを済ませた小生に受領書を手渡してくれた。その間、一言の「生きた言葉」の交換は無かった。
 連休明けから要請に従って出講するが、主催者からの講演内容依頼事項が「コミュニケーション能力」に関するではないか。親として、教員として、表題の欠乏に対する処方箋を求めているとのことである。
 コンビニでの店員さんと来客とのコミュニケーションはあったのだろうか?いや、この業務成立のためにコミュニケーションが必要だったのだろうか、と考えながら帰宅した。玄関先で出迎えた妻は、「雨、大丈夫だった?本降りでなくて良かったわね」と言葉を発した。「うん、何とか降り出す前に行って来れたよ」と夫は応えた。これって、コミュニケーション能力の基礎基本ではないだろうか。
 若い世代にはコンビニは生活必需品?そこで使われる対話がこの体ではコミュニケーション(=他者とのスムーズな人間関係づくり)など、むしろ不必要な手段になってしまったとしても若者世代にモノを言えまい。
 コミュニケーション能力の基盤は「思いやり」なのであることを聴講者に向かって語りかけようと考えている。小生とコンビニの店員さんとの対話以前の小生の心情を読み取って欲しいのである。つまり、高知の小学校の財政的実情への思い遣り(=少しでも安い航空運賃で出講すること)が、人間関係の成立のための必要条件なのだと説きたいのである。
 講演レジュメと睨めっこして、この思いを主催者にどのように伝えようかと思案である。

2012/04/26

31年前の思い出の地

~「施設名称」も変更していた~
 中学校の英語教員としてこの地に訪れたのが31年前のこと。
 全国からの参加者の中に入って開講式を受けた思い出が蘇る。あの日以来30年余の歳月が流れる間に一度も訪れたことがない。それは、『つくば研究学園都市』(=当時は地名も〇〇郡▽▽町・・)の一角にあった。その当時の面影は建物自体には十分に残っていたが周囲の外観は100パーセントと表現しても過言ではないほどの変貌ぶりだった。地元の人の案内なので目的地に直行できたのだが、思い出を弄るために自らの運転で訪れたとしても通過してしまうほどのギャップにわが記憶を疑うほどであった。
 正面玄関前の道路に車が止まった。
 独立行政法人・・・名称が目に飛び込んできた。当時は国立教育会館・・・であったのだから、道路交差点の信号機の上の地名表示も恐らく別物として読み取って通過してしまっても決して不思議ではないだろう。正面玄関の佇まいを車の中から見つめ直すとその当時の記念撮影をした風景が蘇ってきた。ただ、30年間に成長した樹木の存在感が大きくて佇まいは大きく変容していた。
 研究学園都市という名称だけあって、通過する町並みはまさにコンクリートジャングルになっている。都市計画上では、以前からの自然林等は十分に残されてはいるだろうが、1か月間缶詰め状態で研修した場所の空気は全く別環境になってしまっていた。
 30年間と言う時空は途轍もない「変遷」を産むようだ。研修生として当地にやって来た時点で、小生の子ども達も全員が小学生だったのだから変遷には納得せざるを得まい。高層建築物も無く、筑波山が聳えて見えたのが今となれば懐かしい。

2012/04/25

俄仕込みの「園芸士」

~何十株ものスイセンの球根~
 自転車の荷台に積まれた段ボール。
 そこからは未だきれいに咲いている水仙の花が見えた。来客用のインターホーンが鳴り、庭先から回って出た妻の話声が聞こえた。訪問者は孫の友人のお祖母ちゃんであることは直ぐにわかった。窓から見える二人の光景は「水仙談義」だったようだ。妻の好きな花にスイセンがある。ホームセンターに行ったら園芸コーナーを覗く。買うのかと思えば、「やっぱり勿体ないから・・」と購入しないで帰宅する。そんな妻との付き合いには慣れっこになっている。
 お祖母ちゃんには妻が水仙の花が好きである事は伝えたのだそうだ。妻の故郷から送って来たミカンを届けに行った折に、先方の庭先に乱舞して咲いたスイセンを愛でながらの会話になったそうだ。
 お届け戴いた夥しい数の球根を段ボールから取り出したまま呆然としてしまっている妻。庭先にでた小生は、「植えるしかないぞ」と声を掛けるが妻は返事も出来ない状態だった。
 物置にしまってあるスコップ等を運び出して、この老体はスイセンの「移植場」の耕作を始めた。とにかく沢山の球根だった。先日のチューリップの移植に続く作業である。小生には園芸のノウハウは殆どない。しかし、お祖母ちゃんの妻への愛情とご厚意を無駄には出来ない。「今夜あたりから雨だそうだから、今朝掘り出した」とのこと。届けていただいた経緯のご説明に「やるっきゃない!」と長靴に吐き直して俄か園芸士に成り切ることにした(笑)。
 膝の調子が悪い妻には園芸作業は無理である。出来る範囲に動いてもらいながらの老・園芸士は孤軍奮闘であった。約2時間の農作業で家の周囲の空き地に移植が完了した。妻は大感激であった。来年の春の楽しみが増えたと喜んでくれたのだが、咲くかどうかの保障はございません。

2012/04/24

公私混入のスケジュール

~武蔵野平野を一周する~
 常磐線~山手線~東海道線~相模線~横浜線~中央線~総武線~山手線~常磐線、と列記するだけで気が遠くなるほどの電車の旅が今日のスケジュールである。茅ヶ崎駅までの往路は、葬儀に参列するためである。開始時刻が9時30分との連絡を受け、従来の予定(定期鍼診療)を断念することも無いことに安堵する。特に関係の深い卒業生の実父の告別式であるので、公務と判断しても差し支えあるまい。卒業生の全ての親御さんの悲報に対応することは出来ないが今日の場合は参列しなければなるまいと判断した。
 会場の茅ヶ崎からは相模線に乗って終点(橋本駅)まで1時間少々。そこで八王子駅行きの横浜線で隣の駅で下車して、診療所まで15分の徒歩。今日は妻が先に診療を受けているので後半での診療となる。診療時刻は13:00~15:00までの予約である、終えて再び横浜線に乗って八王子駅へ。そこからは上述した行程で電車の旅である。
開業間近のスカイツリーが634メートル。高さの語呂合わせが『ムサシ』だそうだ。東京辺りは、昔、武蔵野と呼ばれていたらしい。そんな武蔵野平野を一周することになる本日の公私入り混じった日程である。
 未だ雨戸を開けていないので天候は読めないが、何とか降雨は避けられそうだ。喪服を着て長時間移動するのは心身ともに疲れる。先着する妻の背負うリュックには着替え用の普段着を詰め込んでおいた。
 こんな日もある?
いや、告別式がかなり早い時間に特設されたことが私的予定もキャンセルせずに済んだことを寧ろ感謝する。心を込めて務めを果たすことが出来る。故人の優しさと偲んでしまう。卒業生の進路に関する対話も浮かんでくる。息子の将来を夢見ながらも決して強要することも無く、優しく見守る父親の姿勢には学ぶことが多かった。その卒業生も仕事を終えて広島から既に茅ヶ崎の生家に帰っている。故人のご冥福を祈るばかりである。行ってまいります!

2012/04/23

旅日記(4/20~22)

 ~長女宅訪問と授業参観~
 同居している長男の孫たちの授業参観にはすっかり慣れたが、長女の子ども達の授業参観(運動会等も含めて)には殆ど行っていない。上の孫(現・小5)の時も、下の孫(小・新入学児)の時も幼稚園の保育参観には訪問したことはあるが、小学校の授業参観は初めてであった。
 長女は千葉県内に住んでいる。
 電車を利用すると常磐線~成田線~総武本線と乗り継いで片道1480円である。老妻も同行するとなると往復の電車賃だけで軽く5000円を超えてしまう。当方の愛車は、軽自動車なのでガソリンを満タン(=約5000円)にしておけば片道63キロの道程は2往復しても十分に残部が出るのである。不案内な道程ではあるが「背に腹は代えられない」状況で道路地図帳購入に財源を注ぎ込んでも(笑)勝算はありそうだ。その考えで計画実施に踏み切った。地図と実態のギャップに翻弄されながらも2時間で長女宅に辿り着いた。運転手もナビゲータ(老妻)もクタクタとなってしまった。
 駄弁を労するが、本来の当方にはこのような精算方式で行程を決定することは無かったので、老妻も長女夫婦も少々調子はずれの感じだったようだ。年金生活者になると「無駄遣い」とわかっていることは避けたくなっているのは人情である。
 さて、本論。授業参観はやっぱり苦手だ。従来の本業が頭角を現して視線の向こうには、孫の授業態度では無く授業者の担任が映ってしまうからである。孫の姿勢を後ろから見詰めつつ、小学1年生らしい幼さと親以外のオトナの指示事項を聞き取って懸命に行動に移す姿は微笑ましいモノだった。あせらずにじっくり見つめ直して成長を見守って欲しいと(祖父ちゃんは)願うばかりである。
 授業参観の前日には、学校ぐるみで参加するという「チューリップ祭り」(写真)の会場にも足を運んでみた。見事に咲き誇るチューリップの花に誘われて「10個500円」の球根を買ってしまった。長女宅に戻ると5年生の孫娘が庭に植えたいとの申し出により祖父ちゃんと祖母ちゃんは懸命に孫が選んだ3個の球根を植える羽目になった。ここでも爺婆の孫への甘さを吐露してしまった(笑)。
 滅多に訪問しない「土浦の祖父ちゃん・祖母ちゃん」なので、おねだりもある。夕食はお目当てのお寿司屋さんがあるらしい。大変混雑する人気店らしいので早めの出発にした。婿は仕事場からその寿司屋に直行するということで早速注文が始まり美味しそうに食べ始めた。ご機嫌な孫たちの笑顔で爺と婆は満腹感でお腹いっぱいになってしまった(笑)。お断りしておくが、お勘定の支払額がチラついたからではござらん!
 2泊の旅。
 講演では全国へ旅する機会も多い当方である。4泊も5泊もして行脚したこともある経験者がたった2泊(3日間の滞在)に関わらず疲れてしまうのが不思議である。帰路も愛用車の運転では地図を頼りに懸命な運転だった。
帰宅して疲れたことを口にしたら長男曰く、「ナビを付ければ良いじゃないか」と。爺は嘯く、「ナビまでつけて旅する気はないよ」と。

2012/04/20

ラジオを聴いて

~生態系の変容でチョウも滅ぶ~
 自らの関心領域ではないので今までは全く頓着をしたことがない。関心が無い、では済まされないと考えながら、ラジオから流れる日本チョウ類保全協会理事の話の内容に耳が傾いてしまった。木炭一つを例に挙げて説明されただけで山林の生態系の変貌ぶりが理解できた。木炭がガスや電気に移行されただけの現実面を直視してみただけでもゾッとする。
 以前、童謡の変遷に興味があって少々研究した(?)ことがあった。それが「お山の杉の子」という童謡である。国の指導の下で全山に杉の苗を植え付けて植樹推進に取り組んだ。40年も経つと立派な大木に育った杉山が全国あちこちに誕生した。これは、歌詞にもあるが「お国のために」取り組んだ植樹であった。それから20年も経つと植えた樹木から花粉症なる現代病が発生した。
ブナやコナラという実のなる木を刈り倒して杉に換えてしまった植樹は人間に花粉症をもたらしただけでは収まらない。木の実は、森に生息する小動物の貴重な餌であるそうだ。餌が無くなれば生きるために動物の死にもの狂いになるだろう。自然科学分野に興味の無い小生でも理解できるプロセスである。餌を求めて人里まで降りてくる動物たちに言い分を聴いてみることが出来ないのが残念だ。
 そして、今日の話題の『ヒメギフチョウ』という蝶もラジオで初めて知った。
 絶滅種に指定されるほどの危機に瀕していると専門家が語る。現状を理解した地元の小学校が地域ぐるみで20年間保護に取り組んでいるとの報告を聞いた。素晴らしい実践に教師集団の細やかな意識の素晴らしさを感じ取った。
 生態系の変容は、人間様の利己主義が追求した副産物なのだろう。自身への反省は当然ながら、真剣に考え直さなければならない時期が少々手遅れ状態だと無関心派の小生にも理解できる。
 たかがチョウ。
いや、そのチョウが人間生活の横暴に因って絶滅まで追い込まれているようでは自然界運命共同体の最高責任者として申し訳ないではないか。ネットで登場したチョウを調べてみると「きれいだ!」と唸ってしまうほどの自然美である。絶滅なんて勿体ない!!

※今日から千葉県に住む長女宅に行って来ます。小学校に入学した孫のランドセル姿を見に行きます。宿泊しますので当ブログは明日は休刊です。

2012/04/19

歩禅記(57)

~ちょっと北風が冷たかった~
 膝痛の妻が、「少しなら歩いてみたい」と言いだしてから数日が過ぎてしまった。その間は雷雨だったり急な来客の対応だったりと実現が延び延びとなってしまった。今日は時間的にもゆとりがある(いつも毎日サンデーではあるのですが、色々と野暮用がありまして・・・)ので、「歩きたい時」は復活の狼煙を揚げる好機とばかりに意気揚々と出発したのが9時半だった。
 夫の「お気に入り」の田園コースは、今朝のこの冷たい北風を全身に受けそうなので妻同伴であれば住宅地の方が良いだろうと選定して歩き出した。転居して1年しか経っていない住民にとっては「未知の道」だらけなのでコース選定は、より取り見取りである。基点になる建物も多くなっていることも助け舟である。
 住宅地の庭先の「春の営み」を覗かせていただきながらの歩禅は、まさに心和むばかりの目の保養にもなってくれる。茅ヶ崎市と大きく違うのは庭先の面積である。広すぎるほどの広さに、十分に咲き誇る芝桜は圧巻であった。「家でも植えましょうよ」との妻の申し出には軽い返事をしながら、今や葉桜になろうとしている桜並木の下を歩き続けた。共同住宅が4棟立ち並ぶ風景も、満開のスズランとチューリップ、そして樹木になっているようなカイドウの花の満開が歩禅人の足を引きとめた。木瓜の花ももう散り始めている。気温は今朝も低いが、季節の花々の変容ぶりに季節は確かに春の頂点を超えてしまったようだ。
 暫く歩いていない妻に無理がないようにして6000歩を目途にしながら歩いたので帰宅したのが10時半一寸前であった。妻も疲れたようだが、「歩ける」自信が戻ってくれれば有難い。ちっちゃな歩禅を繰り返しながら万歩の歩禅を復活させたいモノである。

2012/04/18

雷雨に反応したわが「老脳」

~「懐中電灯は?」と叫んで苦笑~
 むかしむかしのおはなしです。
 貧乏な百姓家には祖母と母と、そして5人の子どもが住んでおりました。夏になると決まったように酷い夕立がやってきました。その都度、村一帯が「停電になる」のでした。当時は家に「ろうそく」の無い家はありませんでした。ろうそくとマッチは仏壇に常備されていました。ある日の夕立は夕方遅い時間に襲ってきました。そして、お決まりの停電になりました。おばあさんが「蝋燭に火を点けて持ってきなさい」と大きな声をあげました。大声を出さないと聞こえないほどの外は土砂降りでした。子どもたちは仏間に走りました。探してもマッチはあっても蝋燭はありません。一番上の姉が、「この前の停電の時に使い終わったんじゃない?」と呟きました。台所でご飯を炊いている母親にその旨告げました。
 その夜に限って遅い時間まで雷雨だったので停電も長い時間続きました。家の中は真っ暗です。手探りで布団を敷いて、風呂も入れず(五右衛門風呂は外にあるので雨中では入浴は無理です)寝ることにしました。
 夜が明けても電灯は点きませんでした。朝食も薄暗い土間で済ませながら学校に行く準備をしました。宿題が済んでいないのが気がかりながらもランドセルを背負って登校しました。
 雷鳴と停電。
 60年も前の体験が、老けた脳に刻まれていたのであります(笑)。現代では停電など殆どあり得ません。昨夜は珍しい雷雨だったのです。停電でもしたら母屋も困るだろうと、血流が老脳の思考回路を駆け巡ったために大声で「懐中電灯は?」と発してしまったのでありましょう。
 今朝、雨戸を開けて日の出を迎え入れました。
老夫婦の会話は、「懐中電灯は電池がキレていて、役不足だったね」「防災用グッズの懐中電灯を購入した方が良いね」と会話が進展している長閑な朝でございます(笑)。

2012/04/17

田園の空は春だった!

 ~雲雀の囀りは輪唱~
 風の冷たさに、この冬は老体が戸外を拒んだ(笑)。
 湘南の温もりに48年間飼い馴らされた身体はやはり嘘はつかなかった。当地も東北地方や北海道と比べれば温暖な地なのかも知れないが、環境の動物である人間には移住に伴う「気温の低下」は堪えると痛感した。朝夕の温度の低さが老体を直撃した裏付けは「下着の交換」の対処にあった。
 昨日は早い昼食を妻に依頼した。久しぶりの「田園・歩禅」に出向きたくなったからである。午前中の妻のショッピングに付き合った歩数が4000歩だったので、追加して1万歩を超える歩きをしたくなったからである。
 独り歩禅は、広大な土地が田園となっている「お気に入り」スポットである。
 空高く舞い上がって囀る雲雀の声の輪唱である。遠い少年の日に戻ってしまうのがこの風景である。何羽の雲雀が囀っているのか数えきれないほどの声が頭上で聞こえる。畦道にも雑草らしき緑色がすっかり増えていた。直ぐ近くに見える孫たちが通う小学校の校庭に咲く桜の花も満開だった。
 もう寒さも遠ざかる頃だろう。
これからの北風は爽やかな五月の風になるだろう。転住後1年が過ぎた。来年の今頃は、少しは老体が冷たい風にも慣れているのだろうか。そんな独り言を言いながら歩数計と睨めっこしつつ帰宅した。下着の交換をするほど汗ばんだ。心地よい昼下がりはソファで午睡を愉しむことも出来た。

2012/04/16

久しぶりの分刻みスケジュール

 ~「のんびり」リズムも良いけど・・~
 4月15日は新年度初めての仕事日だった。
 当方にとっては、毎年のことながら3~4月は(専門業務)請負稼業は休閑期である。昨年度はその期を利用して「転住」の予定を組んでいたのである。それはそれなりに大変な作業であったが、大震災直後の転住であったので通常の「引っ越し」とはちと違ったようだ。
 そして、今年。
昨年は中止になった「かすみがうらマラソン」が、昨日実施された。招待選手の発表もあり「意中の選手」がいたので沿道応援に出かける予定にしていた。しかし、午後1時半から水戸市で(本務)仕事もスケジュールに入り込んでいた。9時半ごろのランナーが通過と言う情報を得て、自宅から徒歩10分ばかりのコース沿道まで行くことは諦めていなかった。下の二人の孫を連れて勇んで出かけた。
 予定では、「意中の選手」はトップグループであることは分かっているので通過したら即刻の帰宅で、仕事の準備をして11時半の常磐線に乗るスケジュールにしていた。ところがハプニング!お目当ての選手が視野に入らないので焦った。老妻が、「ともかくトップ集団を撮っておけば!」との囁きにシャッターを押した。しかし、視線は後続のランナーを追い続けていた。時間が経つばかりでとうとう意中の選手を肉眼で捉えることができないまま意気消沈の帰宅になってしまった。
 帰宅後は雑務も有り、簡単な事務処理をそこそこにして早い昼食を頬張って駅に小走りとなった。無事に講座を終えて水戸駅に戻った。帰宅する電車が途中で急ブレーキで停車した。車内放送で、点検に時間がかかることを知った瞬間、睡魔に襲われ停車時間中眠ってしまったようだった。束の間の休養時間となったのが滑稽でもある。
 帰宅すると、ひっきりなしの電話攻勢。受話器を下ろすとまた呼び鈴。合計8回は最近の最高回数(笑)である。それは、教え子のプロ野球選手の今季初勝利達成のお祝いの電話だった。日本プロ野球最高齢の投手であるので、違った注目を浴びている。当方も例年になく力が入っているのも事実である。
 慌ただしい時間の流れだったが、暫し堪能していた「のんびりムード」のリズムともそろそろお別れとなる前兆の一日だったのかも知れない。
 電話やメールをいただいた皆さん、有難うございました。

※写真解説:お目当ての選手はこの中にいました。トップ集団は4名です。カメラの向こうには3人でしょ?足しか見えない選手がお目当ての選手だったのです。猛スピードのランナーを追うことのむずかしさを肉眼は知りました(笑)。

2012/04/15

世相に疎い人生を生きて来た!

~何かが変?~
 のど元過ぎれば熱さ忘れる、って、まさか!
 官僚や大臣の高学歴は誰も知っている事実ならば、その高学歴集団が発する方向性には誰もが納得づくで従えるモノである筈だろう。大震災の傷跡は物心両面から見ても充足されているとは誰も考えていない。しかも、今回は大きな二次災害が付随していて「国民の目線」等で終結する問題ではないことぐらいも誰もが危惧している。そこに、「政府」と言う名の指導機関から思いも寄らない方向性が打ち出された。世相に疎い人生を生きて来てしまった小生ですらも、首を傾げてしまった。何かが変ではありませんかね。
 ここ土浦市を通るJR本線は、宮城県仙台市までの道のりに「福島県」を通過する常磐線である。仕事でいわき市へ行った時も、この常磐線を走る特急電車に乗った。常磐線は終点まで全線開通していない。つまり、大震災の爪痕は未だ癒えずして、避難したままの住民の皆さんは避難所生活が1年になろうとしている。住み慣れた故郷を逃げるように去った住民の皆さんこそが、政府が護るべき「今の国民の皆さん」であって然り。福島県から遠く離れているとは言え、打撃を受けた根源を再稼働させる方向性を打ち出すとは「無神経」極まりないと思うほか言いようがない。
 手元に、講演依頼が届いている。
 依頼主は小学校のPTAである。講演内容の依頼に関してのメールの一部(会長の言葉)を借りると以下の本文である。

 先生の持っておられる引き出しの中から何でも!と言いたいのですが、最近私が感じている問題意識は、「コミュニケーションってなんでこんなに難しい??」ということです。
 相手への配慮に欠ける言葉を選んで口からでてしまったり、あるいは受け取る側の背景によってゆがんでとられてしまったり・・。「相手がどう受け取るだろう」「なんであの人はこうなのよ」・・。憶測やかんぐり、計算、思い込み、決め付け、こだわり、噂話、否定的なものの見方、自分の問題を人のせいにしてぶつけてしまう、打たれ弱く傷つきやすい・・。
「あ~~、めんどくせぇ~~!!」と叫んでしまいたくなる時があります。言葉を口にするのが怖くなります。

 文科省という国家機関が「コミュニケーション能力の育成」を学校現場に下ろしてもう20年以上が過ぎている。1つの機関の提唱ぐらいでは効果は少ない。国家全体の意識を統率する方向で進まなければコミュニケーション能力を培うことは不可能である。学校教育に委ねてしまうような権力意識であるから、今回のような優柔不断な結論が飛び出してしまうのである。この発信者である小学校のPTA会長には小学生のお子さんいる。子育てに懸命な親たちが全国にもたくさん存在する。その親世代が「相手への配慮に欠ける言葉を・・・」と悩んでおられる。この小学校だけの問題ではない。
 福島の痛みは世界全体の痛みである。
 その本家本元の我が国の中枢に「相手への配慮に欠ける」ようでは被害を受けた人たちは浮かべない。のど元過ぎても「熱さ」は忘れてはなるまい。能天気で世間知らずのこの老輩が、(ブログで体制非難をするほど)憤っているのだから賢い読者の皆さんならとっくに「怒り心頭」の状態だろうと推察できる。学校教育関係者も、より一層の努力が要求される。頑張っていただきたい!

2012/04/14

テレビを視て考える

~「終活」という造語~
 何気なく点けるテレビ。妻の特長の一つでもある(笑)。
 そこに飛び込んできた日本語が『墓友』という活字だった。なに??メル友とかママ友e.t.c. ついに『墓友』なる造語が目に飛び込んできた。追いつけないほど枝葉に付いている造語があふれる時代になってしまった。これも時代の変遷かな?
 画面に映し出された元・教員と自己紹介をしながら『墓友』になった理由の説明をする。何となくわかるような気がして、視る筈だったプロ野球観戦を忘れて見入ってしまった。
 田舎の集落墓地が浮かんできた。
 盆と正月、それに春と秋のお彼岸には「お墓の掃除」は避けられないが、若い頃と違って足腰も弱って来ると墓守りも楽じゃない。都会に出て行った奴らは、帰りたい時帰ってきてきれいな花を挿して数秒拝んで戻って行ってしまうが、枯れた花の片付けも全て地元に残った者たちが追うことになっているのが常識になってしまった。叔父や叔母が愚痴った言葉が浮かんできた。お酒が入ると叔父の愚痴が始まるのが常だった。
 百姓の三男坊で育った小生も、そんな「割の合わない」生活が嫌になって(?)故郷を捨てるようにして上京してしまった。生まれ故郷で生活している人たちには、「ご先祖様」という宗教的思想が根底にあり、逆らうことが人生を裏切ることになるような切迫感があるようだ。そして、愚痴を言いつつも「墓守り」を続けてくれているのだ。
 親戚縁者ではない集団で『墓友』が出来るそうだ。
 「我が子に迷惑を掛けたくない」と、次に登場した夫婦が語り始める。子どもたちが同居を勧めたが拒んだのも同一理由だと説明が続いた。我が子に気兼ねをせずに老後はのんびり暮らして、逝きたいのだそうだ。既に会員としての費用も納入して遺影の撮影も終わったと言う。我が子は、来たい時に墓参りをしてくれればそれで十分だと言う。つまり、墓の管理費も当事者が生前に納めておくシステムのようである。画面からその夫婦の姿は消えたが、収録は、夫婦同居の老人ホームからであった。他の画面に観た『墓友』集団はかなりの人数だったことが妙に脳裏に残ってしまった。
 思想も変わる。
 「お世継ぎ」の話題は皇族界にも波紋が生まれている。次世代への思い方もかなりの変化が生じているように思える。現代流造語も「世代を映す」鏡なのか。番組が終わっても我が老夫婦には言葉がなかった。
 長男夫婦に請われてこの地に新居を構えて転居した、この老夫婦も次世代のご厄介になってしまうことは否定できない。考え込んでしまった夜だった。

2012/04/13

笑わないで欲しい!

 ~手植えの球根に新芽が~
 登校前の孫たちが大声を上げた。
 「お祖父ちゃん、芽が出ているよ」、と。離れに向かって声を発したがこの祖父ちゃんは「何の芽」なのか皆目見当もつかず聞こえてはいるものの反応がイマイチだたようだ。4歳の孫が「きれいな花が咲くの?」と、鉢植えを覗きこみながら祖母ちゃん(老妻)に訊いている声が届いて、ハッと我に返った。
 昨年10月末に茨城県立フラワーパークセンターに「ダリア鑑賞」に訪れた。その折にカサブランカの花の球根を老妻が購入した。高価だったことだけは記憶に留めている。しかし、大きめの鉢を買い込んで玄関先に植え込んだことは、孫の歓声を聞くまですっかり忘れていた。と言うより「植物の栽培」など、小学校時代に花壇づくりで何やら戯れた(やらされた?)経験以来、「お手植え」など経験がないのである。笑わないで欲しい(笑)。
 「人を育てる」ことのプロとして君臨(?)し続けた当事者としては草花を育てる醍醐味はついぞ味わったことがない。写真のように「大きな芽」が出ているにも関わらず、この老人の眼には飛び込んで来ていなかったということであろうか。
 これからどんな展開になるのか?何か手を加える必要があるのか?肥料が必要なのか?水分は??老脳にはこんな回路はなかった。しかし、孫たちが楽しそうに成長を見届けている姿を見るにつけ、祖父ちゃんが「何もせずに」花が咲くどころか枯らしてしまった、となったら存在感も消え入りそうだ(笑)。
 読者の皆さんのアドバイスを待っています。この無能な爺をお助け願います。

2012/04/12

「120411購入」という文字文化

~プリンターの購入日~
 「もう、これが最後だと思うよ」、とパソコンを買ったのが7年前のこと。「もう、プリンターも買い替えることはないだろうな」、と妻に言いながら購入したのが5年前だったようだ。プリンターの横に貼ってある私製の『070819購入』ラベルが時の流れを実証している。
 妻はこの種の『ラベル』で育てられたのかも知れない。
義母の文字が妻の実家の屋内のありとあらゆる物品に書き残されていた。義母の几帳面さだけが気になって確かな理由も無く受け入れられない文化として共生して来た。人生哲学も変容していることに気付き始めたのがここ数年である。記憶を辿るとその不鮮明さに、加齢を痛感することが多く不愉快に陥ると、打開策を考えるのに悪足掻きをするモノである。「日付を記す」ことの昔流の生きざまに辿り着いたのも加齢の為す業なのかも知れない。
 我が家に今度こそホントに「最後になる」(笑)プリンターが届いた。
 何の抵抗も無く新品のプリンターに『120411購入』と書き込んだ。ラベルに書き込んで貼ることもなく、直に書き込んだ。妻は黙って見ていただけだった。夫が母親の文化を受け入れた、等と深く考える妻ではないが、受け入れるどころか喜んで伝承しようとしている小生はやはり能天気者か?
 日に日に、「忘れる」ことが日常的になっている生活は決して気分のいいものではない。しかし、日付が明記されていることでホッとする。決して記憶が完璧に復元されるわけではないが、精神安定の拠り所になることは確かである。パソコンでの事務処理でも気づかされた。それは、パソコンと言う天才器物は、使用日時が自動的に時計に刻まれているのである。従って、整理する上でも「日付」を文書名のトップに記入しておけば放っておいても並べ直してくれる。指定さえすれば遅い(古い)順にも並べ替えてくれる。
 新プリンターにご厄介になってもう一息お仕事をさせてもらいましょう。

2012/04/11

4月の歳時記を実写しつつ

~『新』らしき姿に勝手な思い~
 詰襟の学生服のホックを外して「暑~い」と言っている男子高校生。襟章には地元の有名高等学校のバッジが輝いている(ように見えた)。私用を済ませて妻と一緒に電車の旅を繋いで帰路の常磐線に乗った。下車駅の一つ手前の大都市の駅を電車発車した時の光景である。昔取った杵柄?高校生の服装と態度は妙に目に飛び込んでくる。転居して丁度1年が過ぎた今、ご当地の「一流高校」と言われている高校は自然に情報として脳裏に刻んでいるのだから職業病は未だ健在(笑)。
 降車駅の改札口を出ると「今ならでは」の光景と遭遇するのも全国共通である。
 先着した新・高校生がたむろしている。そこに到着した新・高校生が「きゃぁ~、〇〇ちゃ~ん、おひさ(=久しぶりの意味らしい)」と抱き合う。地元の中学校の同窓生だろう。進学先が違うので入学式を終えた制服で再会を懐かしがっているようだ。しかし、いつも怪訝な視線になるのが構内に座り込んでいる高校生の群れである。しかも、スカートを穿いたままの姿勢である。「恥じらいの乙女」姿を追う小生は、正真正銘の昔の爺である。買って貰った制服は、まだ数日間しか穿いていないだろうに!と時として腹立たしくもなる。思わず心中で「税金の無駄遣いだな」と嘯いてしまう。それは高校3年間の学びを危惧しての老婆心からである。
 リクルートスーツ(と言うのかな?)は黒色に統一されているようだ。腕も千切れそうな大きなバッグを2個も持った3~4人の新入社員姿は都内・山手線の車中で多くを見た。小集団はいずれも無口で緊張感が漂う。乗降駅はバラバラではあるが、都心部を走る車内も郊外の駅を乗降するその類の軍団も大差は無い。高校生のような緩慢さは全くない。厳しい就職活動(今は「就活」という現代用語の代表)の先に掴んだ社会人としての意識が表出しているからだろう。又しても老婆心が先行する。社会の厳しさに潰されるのではないかと案じてしまい、思わず心中で「頑張れよ!」と叫んでしまう。
 ランドセルがきらきら輝く都内の有名私立学校(らしい)の小学生の姿を発見した。母親らしい女性と手を繋いで車中に入り込んできた。特急電サで約30分ばかりの乗車で降りて行った。その間、一言の会話も無かった。7歳の女児が30分間立ったままで、しかも母親に甘える素振りも全くなく下車していく姿を追いながら、これから6年間の無事の通学を祈ってしまう。「お友達と道草をしながら帰宅できる進路(地元の小学校入学)でも決して人生に遅れは無いと思うけどね、お祖父ちゃんは」と、我が孫たちとオーバーラップさせながら呟いてしまった。余計なお世話かな?
 加齢症候群には歳時記が似合う(笑)。
 様々な光景と遭遇すると、あの時はこうだった!と懐古する。そんな風景を老脳に実写するのは、片道2時間半の電車の旅(=鍼診療日)を満喫するための処方箋である。時は「4月」。入学・就職の始発時点である。一言も交わす言葉など無いのに映る光景で想像力が勝手に稼働する。そして、老脳に血液が巡って瞼を閉じると走馬灯が回転する。
視線の先で演技をしていただいたピカピカの「新・人類」の皆さん、ありがとう。お陰様で退屈することなく小さな旅を満喫できました。皆さんのこれからが健康で奮闘出来ることを心より祈っております。措辞ながらお礼まで。

2012/04/10

枯れ木も山の賑わい

 ~ミニサイズの「鯉のぼり」~
 わが長男が12月に誕生した時、祖父母である両親は即刻に注文したのが「武者人形」と「鯉のぼり」だったとか。親としてはそのような『玩具』は単なる散財としてしか眼中には無かった。そんな散財より生活費の工面が大変だった。誕生した長男は茅ヶ崎市で生きているが、「鯉のぼり」は祖父母の住む九州の空に羽ばたいていたことも今となればほのぼのとする人間模様である。ビッグサイズの鯉のぼりも長男の意識には殆ど存在していない。親ですらも無いのであれば「文化の伝承」は親世代では無く祖父母世代だと痛感するようになっている。これも、同居による副作用症状なのだろう(笑)。
 アパートで誕生した孫にはベランダ「鯉のぼり」を買ってあげた。大事に持っていた長男夫婦が日曜日に、今年も外に出してきた。昨年は引っ越し騒ぎで孫の「鯉のぼり」に注目する余裕も無かったが、今年は違う。時間的なゆとりが出てきたのである。
 保育園児の末の孫が出発寸前に鯉のぼりの下に走り寄る姿を発見した祖父ちゃんは、建て直しをして帰宅後の孫の喜ぶ顔を見たくなって古材を利して作り上げた(写真)。不器用極まりない祖父ちゃんでも「孫のため」には、なりふり構わず取り組むモンだと苦笑しながらも感心した。
 今朝は6時には庭先に鯉のぼりを立てた。
 母屋の雨戸が開くと孫の歓声も聞こえて来た。日本「文化を伝える番頭頭は祖父母である」という(自論)意識を再確認した朝である。

2012/04/09

子どもの数は確かに減っている!?

~入学式当日はランドセル姿が・・~
 黄色い帽子と新品のランドセルで飛び跳ねるような子供達の光景が見えない。
 ランドセルが大きくて重すぎてひっくり返りそうになった長女の小学校入学式前夜の我が家を思い出した。小柄だった(今は大柄)長女は、祖父母に買って貰って喜んで背負ったランドセルが重すぎたのが立ち上がれなかった。笑うより心配が先行した「第一子」の入学だった。
 近所に同級生が居なかったので近所の上級生の女の子がいたので連れて行ってもらって登校したようだった。それにしても、近年の「少子化」は意識しなくてもわかる程に少なくなっているようだ。同居する孫たちが通う小学校にも「登校班」があるらしいが、6年生がいないので5年生の孫が班長だそうだ。幸か不幸か?新入学児童もいないらしく班長を仰せつかった孫は「遣り甲斐が無いな」と嘯くのが現状である。
 近所に新入学児童の姿を見ることができなくても、ちょっと足を延ばすとそれらしい雰囲気との出会いは沢山あるものだった。しかし、本当に子どもの数が減っているようだ。孫の通う小学校は単学級の超小規模校である。「いずれは統廃合の憂き目を見るのでは」、と嫁が心配しているのもわかるような気がする。
 「子どもは国の宝」とは良く表現したモノだ。
 『宝物』が少ない状態のままで進展して行って、国家はこれからどうなるのだろうか?祖父ちゃんの観点からすれば将来に憂いさえ感じる。我が家は、千葉に住む長女一家に今年新入学の第二子がいる。今日が入学式のようである。張り切ってスタートする孫(新入学児)が、元気で楽しい集団生活が出来ることを祈るばかりである。

2012/04/08

転居して、早や1年間

 ~昨年は中止のマラソン大会~
 4月号の広報誌を転載します。
 「震災直後につき、今回のマラソン大会は中止します」との公報を他人事のように聞き流してからもう1年が過ぎたようです。来週の日曜日開催予定の大会案内が広報誌に掲載されました。あの「公務員ランナーも参加するのか」とか、「有森さんも走りに来るのか」等々広報誌の顔写真に魅せられてミーハーとなってしまった能天気祖父ちゃんです。
 我が家のすぐ傍がコースになっています。以前の居住地(=神奈川県茅ケ崎市)は『大学箱根駅伝』のコースの近くに住んでいましたがこれほどまでの至近距離ではありませんでした。何回かは沿道で小旗を振りましたが、多くはテレビ観戦で終わってしまいました。今回は、妻を誘いながら興奮していると、頗る冷静に、「何時に水戸に向かう電車に乗るんですか?」と水を向けられ(掛けられ)てひんやりとした老脳であります。
 当日は請負仕事日です。午後1時半の業務開始になっている水戸での講義を担当します。マラソンは9時20分にはスタート予定との文字を追いつつ、行程との摺り合わせに懸命になってしまいました(笑)。「大丈夫!トップが通過してから帰宅して準備すると間に合う」と独り言を発してしまいました。組織の中で育成される選手とは違う市民ランナーが、自力でオリンピック候補にまで伸し上がるのはわが国では至難の業であろう。そんな悪条件の中で『自分育成』力を発揮する埼玉県立高校事務職員ランナーには大変興味があるのです。陸上競技には全くの素人の小生が、走っている姿を見てわかるモノではないのですがひと目拝んでみたくなっているのがファン気質なのでしょう。
 今日は、クリスチャンだった叔父が他界して初めてのイースターだそうです。葬儀に参列できなかった長女(千葉県在住)も今日は参列するとの事。約束の時間に間に合うように準備に取り掛かりましょう。
 急な冷え込みで風邪など召されぬようお気をつけてお過ごしください。

2012/04/07

皆さんはどうしてるのかな?

 ~「住所録」の整理~
 小生は、毎年(何時ごろからは不明)ゴールデンウィークまでの間に完了することを心がけていました。従って住所録更新の日付は殆ど5月5日になっています。それ以降はその都度の変更や追加で処理していました。パソコンソフトを使用し始めてから10年も経ちました。整理するのにはとても便利ですが、サッと使おうとするとパソコンの立ち上げからソフトを開いての手作業が時としては不便な感じがしない訳でもありません・しかし、保管しておくには「流石にパソコンソフト」と唸る時も多く10年以上もの間愛用していることになっているのでしょう。
 ところで、読者の皆さんはどのようになさっていますか?
 退職して8年間がこの3月31日で過ぎました。前半の6年間はスケジュールに追いまくられる日々でしたので、ほぼ現役時代と「時間の流れ」は同様でした。従って5月の初旬までを住所録整理の期限としてのリズムでした。しかし、昨年あたりから3~4月の日程がゆるやかになりました。昨年は「転居」と言う人生最大の仕事に対応したので、そんな空間は貴重でした。住所録の更新も遅れるほどでした。
 ところが、今年。
 自由な日々を過ごしていてもリズムは意識しないと変わりません。のんびりと構えて過ごしている爺の脳を掠めるささやきが聞こえました。「暇だったら住所録の更新でもすれば?!」と。ふと我に返って、今年は行動に移しました。その主な仕事は「年賀状の整理」なのです。多かった時代の半分も無い量ですが、まだ200枚は積まれている年賀状の束があります。最終確認は「お年玉年賀はがき」の当たり葉書のピックアップです。小学1年生の孫の協力を得て楽しく作業が出来ました。僅か3枚の「切手シート」の当たり葉書に、孫は「えっ、たった3枚?」と、面倒な作業の成果の少なさに驚きの声を上げてひっくり返りました。毎度のことです(笑)。
 遅まきながら郵便局に出向いて、きれいな「切手シート」をいただいて来ました。保存ケースに入れました。ちらっと見ると昭和54年度の「20円切手シート」もありました。葉書や封書(切手)代金の変化もこれでわかるような懐古の念(昨日ブログ)に立ち至り心長閑な気分にも浸れました。
 そして、今度は老眼鏡(妻)の援助を得ながらの作業に移るのですが、昨日は一気にその行程までは辿り着けず終了しました。今度は、本格的「更新作業」です。明日は私的公務(?)が入っているので、今日中に作業に取り掛かれると良いのですが、孫たちが休日ですので先が読めません(笑)。

2012/04/06

偏屈な私・哲学(1)

~懐古と回顧~
 「回顧する」心は成長過程にあり、「懐古する」心は充実期にある。
 偏屈な哲学ですなぁ~。懐かしく少年の日々を思い出す老輩となった小生には成長の兆候などは無い。しかし、失敗で悲哀にくれたシーンを回顧して次のステージでの自らを鼓舞していた現役時代には成長の伸び代が存在していた。懐かしく思い出すのは「是非善悪」の様々な色合いがほぼ一色に変色して全てを容認できるようになる時期である。やっぱり偉そうですなぁ。
 成長過程にある「教え子」からのメールをご紹介して、同時に本人の今後の伸び代に期待したい。(原文のまま。冒頭の『根知和』とは「こんちわ」と読みます。中学校野球部で部訓としてしようした合言葉です。)
 
2012-04-03-22:40受信
角田先生;
 根知和。
 早速の葉書での写真送付、ありがとうございました。本日、拝受致しました。連絡が遅くなり、申し訳ございません。
先日はお疲れ様でした。同席させて頂き、とても懐かしく感じました。31年前、いつも先生の隣に居た時のことを、僕も”走馬灯”の中で「中学生」に戻っていました。マサ自身、復活の手応えを感じていつつも、不安を抱えてのマウンドであったと思います。カズをはじめ、仲間の皆も理解し、祈っていたに違いありません。 結果、勝利投手にはなれませんでしたが、皆が一様に「勇気・元気をもらった」と健闘を讃えておりました。思えば”縁”というのは本当に不思議ですね。我らが歩んできた46年間の内、共に過ごしたのは「たったの3年間」です。しかしながら今振り返っても「されど3年間」です。年数では一緒にいた3年間よりも遥かに多くの年数を様々な人々と出会い過ごしてきたにも関わらず、皆の心の中心には、いつも中学時代の仲間がいます。40代も半ばを過ぎ、各々が組織の中心となっている今、色々な葛藤と闘い、苦悩を感じている様です。しかし再会する時には皆がいつも一緒にいた”あの時”と同じ感覚で語り合い、”故郷”で”充電”している様に思います。
 僕の勝手な解釈かも知れませんが、その根幹にあるのは、やはり中学時代に学んだ”相手を思いやる心”ではないでしょうか。1年半振りの登板で当人以上に周囲が騒いでいる中、好投し後輩に後を託したものの、失点してしまった後輩に対しての”労り”のコメントを報道で聞いても、彼自身の本心からの発言であることがよく分かります。また突然の身内の不幸に同行が適わなくなった人、自身の都合がつかなかったら単身で大阪へ赴任している仲間を誘うべく提案してくれたりと、いつもは口の悪い仲間達ですが、本音では皆が仲間に対し、常に”思いやり”ある付き合いをしています。
 僕自身、中学時代に途中で投げ出すことなく、最後まで在部出来たのも、角田先生のお陰であることは基より、仲間の”思いやり”に何度救われたか分かりません。市内3連覇を達成し、全校朝礼での表彰で選手でない僕に優勝杯を持たしてくれたこと、公立高校の受験であるにも関わらず、僕の第一志望校の合格発表に職員室の廊下で周囲を憚ることなく喜んで下さった先生、その直後グラウンドに下りた時の野球部全員から頂いた拍手等、鮮明に覚えています。
 たまたま同じ時代に同じ学校となった”縁”での出会いがもたらしてくれた沢山の財産を、それぞれの立場で後輩達に伝えていく事が、角田先生や仲間達への感謝の証だと思っています。
 『信じる者は救われる』を実体験した者として『信じられる』人間となれる様、今後も精進して参ります。
 文才なく乱文となり恐縮ですが、略儀ながら御礼とさせて頂きます。再会出来る日を楽しみにしております。お身体、ご自愛下さい。 
 

2012/04/05

二転三転の人生模様

~『春の嵐』と「孫台風」がガチンコ!~
 楽しみにしてやって来た(長女の)孫たちが帰って行く日。
 日本列島を吹き荒れる『春の嵐』様が、ここ土浦へもお立ち寄りになった日。台風銀座で育った小生は亡き祖母が、立ち往生して動かず被害だけが重なる台風の傘下で発した言葉を思い出す。「お茶菓子でも足りんのか?台風様は中々去らないね」と母に向かって発した言葉だった。意味などわからなかったが、春の嵐が吹き荒れる日中、雨戸を閉めてじっとしている様があの日の祖母の言葉に何とも言えない親近感を抱いたのである。自然界への畏敬の念を学んだ思い出である。
 当初の予定では、長男一家(長男夫婦が公休を取って)で車に乗せて他の娯楽施設でも巡りながら長女宅に向かうことになっていたようだ。当然ながら娯楽施設も我々老夫婦も同行させる予定と聞いて、4月1日のナゴヤドーム往復から翌日の孫を迎えに移動した電車の旅の疲がピークに達している爺としては「拒否反応」が自然体であった。その意向を踏んで変更先が市内のシアターでの「春の子ども映画」鑑賞になった。そこも爺はパスする。映画を見て千葉の孫たちを土浦駅まで送るので、(土浦駅で合流して)、電車で千葉まで連れて行く、と変更された。
 約束の時間に合わせて土浦駅まで向かおうと最寄駅まで徒歩で到着。
 春の嵐はJR常磐線を麻痺させていた。小さな駅の構内には人っ子一人いない。「復旧の見通しは無い」との駅職員の対応に爺婆は立ち竦む。婆が映画鑑賞を終えて土浦駅に向かっている車に向けて電話する。自宅に戻って来るとの反応を受けて待機する。嫁と(土浦の)孫たちを下ろして爺婆が乗り込んで、千葉に向けて出発した。1キロも走らない車内に携帯電話が鳴る。千葉の長女からである。業務の関係で、千葉から水戸市に向かう車の中からと言う。
 水戸で営業が終わった帰途、土浦に立ち寄って連れて帰るから・・・、と。
 急遽、自宅に引き返す。いとこ達が帰るのが不満だった土浦の孫たちは「戻って来たいとこ達」と合流して元気復活。そして、延々と8時過ぎまで「遊び飽きる」ことも無く遊んで、夕食と入浴を済ませて千葉の孫たちや両親と帰って行った。
 ホッとした時間。爺と婆は放心状態。
 二転三転は孫たちのこれからの人生そのもの。人生を二転も三転もさせる要因は「ひと」だけでないようだ。ここにも「自然界」との絡みがあることを幼い孫たちは知るわけがない。ちっぽけな「春休みの思い出」としても記憶にも残らないだろうが、親は「語り」を通して教えていかねばならない。こんなちっぽけな出来事の積み上げが子育てだと意識してもらいたいモノである。

2012/04/04

祖父ちゃんの『創り話』

~子ども時代に聞いた話の再話~
 分校で入学した小生は3年生から本校(=約5キロ)に通うことになった。4年間の小学校生活の中でキラキラ輝く瞬間の光景は70歳を前にしても明確に思い出されるのが不思議な程である。
 学校に校長先生がいることは知っていたが、教頭先生と言う存在は知らなかった。しかし、今となると校長先生の記憶は殆ど記憶には無い。教頭先生の氏名は覚えてはいないが愛称(=子供たちの間での呼び名)はしっかりと記憶している。『ひこいち先生』と呼び合っていた。ひこいち先生は、担任の先生が出張だったりお休みだったりすると教室にやって来た。担任の先生から与えられた課題を確認すると、必ず次の言葉を発した。「みんなが終わったら、楽しいお話をしてあげる」と。「お話」を聞きたい子どもは課題を懸命に仕上げた。「みんなが・・・」と言葉を理解したのか、「聞き合い・助け合って」皆が30分もすると終えた。「教頭先生、みんなが出来ました」と級長であった小生が立ちあがって伝えた光景も覚えている。
 おもむろに本を広げながら、「ひこいっちゃん(=「彦一」ちゃんの地方弁)がな、球磨川の橋のところまでやって来るとな・・・・」と話が始まります。全国的にも有名な『とんちの彦一』話の始まりだった。彦一は、わが故郷・熊本県八代市に伝わる民話の主人公として誰もが知っている有名人である。教頭先生の彦一話は、民話独特の「方言」で展開され、熟睡してしまう級友が何人もいたほど心の奥までしみとおる話として子どもたちにとっては大好きな「夢の世界」となっていた。
 孫たちが少々成長して、親から離れて祖父ちゃん・祖母ちゃんの家に「お泊り」にくるようになった。大好きな祖父母であっても「お母さん」の声が聞こえない夜を迎えるのは心寂しく、帰りたくなってしまう。最初の夜、寝付けないお姉ちゃんが声を殺して泣いていた。祖父ちゃんも祖母ちゃんも思案した。
 ふと、熟睡してしまった級友を思い出した祖父ちゃんは、孫娘を抱きしめながら、「お祖父ちゃんの生まれたところにね、大きな川があってさ。そこには河童がたくさん住んでいたんだって。その河童と一番のお友達が「ひこいち」って言う男の人だったんだって。ある朝、ひこいちが洗濯しようと思って球磨川まで行くと、いつも居る河童が居ないから、おかしいなぁと思ったが洗濯を始めたんだってさ・・・」
 記憶は素晴らしい。教頭先生(『ひこいち』先生)のお話が淀むことなく口をついて出てきた。記憶を紐解く快感に酔いながら話を続けていて、ふと、抱きしめていた孫から寝息が聞こえるのに気付いた。ホッとして祖父ちゃんも眠ってしまった。翌朝、再話をする孫に仰天しつつも昔話の威力を痛感したモノだった。
 そんな日々が遠くなった。その孫は小学5年生になった。
 二泊目の夜も、1年生になる下の孫と一緒に布団に入ると同時に、「今夜はどんな河童のお話でしょうね」と、弟に声を掛けている。師匠(=「ひこいち」先生ご本人は既に故人?)譲りの語りかけが孫たちに伝わり始めているのに妙な気分になる。孫たちは、「ひこいち」ではなく「祖父ちゃんの河童話し」としていつの間にか定着している。回数を重ねるごとに「違う」話材にするのは苦労だ。しかし、創作する愉しみもある。祖父ちゃんの『創り話』もそろそろネタが尽きそうだが、孫たちもそろそろ一緒に寝ることもなくなる日が近づくだろうから何とかなりそうだ。
 明後日は下の孫の入学式らしい。だから、今日は父母の元にに戻って行くと言う。すっかり成長した孫たちと(母屋の孫と加えて)狂騒の時間も終業式である。

2012/04/03

『爺・稼業』には体力が不可欠

~外孫(千葉)の誘導を依頼されて~
 前日(4月1日)は、土浦(茨城県)から東京駅を経由してナゴヤドームまでの旅程は日帰りの強硬だった爺さんに、婆さんが「千葉の孫が春休みに遊びに来たいそうですよ」と囁く。孫は可愛いモノとは通念ではあるのか、例外なく千葉までの移動を拒むことが無い爺さん。その爺さんの起床時刻が7時過ぎ。「えっ、そんな遅い時間に?」と訝しがられるほどの遅い目覚めであった。それだけ爺さんは心身ともに疲れていたという証。なのに、連続の強行日程が襲ってきた。
 遅く起きた朝は、爺婆揃い踏み(笑)の6時半からのラジオ体操を回避。そんな朝でも孫たちの母親(=爺婆の長女)からの要請があれば「動きたくなる」意識が凄い!!(笑)常識なのか非常識なのか?苦笑しつつも結論は出ず!!
 辿り着いた長女宅から孫を連れて最寄りのJR駅を出る。2回乗り換えの行程である。順調に進んでいた旅程が、最終乗換駅に到着するとホームは人で一杯。「人身事故のために、ただ今全線止まっています」の構内アナウンスを確認した時は夕暮れの6時過ぎだった。夜の帳が降り始め、風も冷たくなってしまっていた。回復の見通しも無いままにホームで待つ身になってしまっていた(泣)。
 遅れて到着した電車を2度乗り換えて、何とか帰着。
 孫たちは正月に会ってからの久しぶりの再会となり、双方が興奮状態。それでも慣れない電車の旅に、事故延着もあり疲れたのか布団に入ると忽ちの熟睡。寝顔を見詰める余裕も無く爺・婆もいつの間にか眠ってしまったようだ。
 寝相の悪い孫息子の足で起こされて起床である。「孫って可愛いけど疲れるね」と、爺婆が目線で苦笑する幸せな朝である。そして実感する。爺婆稼業には体力は不可欠である、と(笑)。

 ※小生のHP管理人さんより一報:5月20日でホームページのアドレスが変更になるそうです。詳しい事情は知らせられても当方にはわかりません。ホームページにも予告が入っています。

2012/04/02

走馬灯には30歳代の「私」

 ~身体は確かに記憶している~
 「教え子」と言っても今日の主人公は(現在)46才だろうか?
 小生が36歳の頃の中学3年生だった主人公たちは今や、社会の屋台骨として活躍しているようだ。特別窓口でチケット(入場券)を受け取ってはしゃぐ孫二人。同行した長男(当時の小生の年齢)が、「転売等禁止」という活字に注目しながら息子二人に何やら話しかけていた。何回もその恩恵を受けている小生は、一度もその字句に注目したことが無かったので感度の鈍さを感じてしまった。
 同席したのは、同じ時代のチームメートである。奥様とお嬢様の同伴で観戦することになった。ナゴヤドームの中央で躍動するチームメートを凝視する彼は、中学生の時代に「選手を断念させられて」、ベンチの隣席に座らせられてスコアブックに情報を書き込む業務を強制させられた中学生であった。彼も小学生時代から所属したチームの主将を務めさせられたほどの有望な部員の一人であったことは今でも忘れたことは無い。選手生命を断つ宣告をした指導者・張本人には責任がある。中学校を卒業する時点で、部員には数多くの高校から勧誘の言葉が届いている。しかし、スコアブックのプロ(当時は稀有)部員には声など掛かるわけがない。そこで、責任を感じた小生は彼の「第一志望高校」を探り出して、選手以上に厳しい難関であった第一志望校の合格青写真を創り上げ、また、彼にそれを強いた。
 結果だけが人生ではない。とは言うモノの彼だけには第一志望校への合格証を受け取らせたかった。提示した青写真を悉く踏破していく涙ぐましい程の彼の努力を垣間見るにつけ、「もし、失敗したら?」と不安が過った。信じられることが「こんなにも恐ろしい」ことだとは、この年代の中学生たちに学んだ。
 彼の努力で見事に難関を突破して、高校~大学と人生を広げつつも片時も中学時代の「部活動仲間」のことを忘れることなく彼の人生のスコアブックは現在も健在であるのが至福である。
 プロ野球選手最年長者となる中学時代のチームメートを激励するために茅ヶ崎市から車で馳せ参じたようだ。30年もの年月が流れても交わす友情はホンモノだろうと確信できる。次世代への橋渡しをすべき教員稼業従事者としては充足感そのものである。
 マウンドで未だ活躍する教え子。それを見詰めるチームメート。ひっきりなしに携帯電話で連絡し合っている相手もあの時代の同級生なのだろう。どの卒業生をとってもこの稼業でしか得られない「至宝」に間違いない。幸せな時間をナゴヤドーム過ごさせて貰って帰路の新幹線の車中にマウンドで躍動した選手からお礼のメールが着信した。

2012/04/01

日付変更線

~真理はわからないままに~
 地球は丸いんだって!?オーストラリアは今、秋だって!?
 どうして??説明を求めると先生が真剣に説明していただいた。中学校の職員室の思い出が蘇ってくる。そんな先生が、「今日から居ないよ」と知って愕然とした少年時代を、天井を見詰めながら思い出した。3月31日の午後11時58分ごろだった?数分後に、枕元のラジオから深夜0時の時報が流れた。「眠れぬ夜」は殆ど関係ない人生を送っては来たが、時に小用に立って妙に眠れぬひと時を過ごすことはある。どの時もいつの間にか熟睡するタイプなので「眠れぬ夜」体験者に属しないと決め込んでいる。
 この時期は良く咳き込んでしまう。鍼診療師のアドバイスは簡単明瞭。悪いモノは身体から「出す」作動をするのが肉体のメカニズムである。咳も痰も体内から出すための自然現象である。どんどん出せ!と。
 とは、理解しても深夜に苦しくなるほどに咳き込むのは苦しい。横になったままでは苦しくて睡魔も何もあったモンじゃない。久しぶりにその症状と遭遇したが身体のメカニズム(神秘)を学んでいるので「出るモノは拒まず」スピリットで昨夜も暫し「咳」くんと時間を過ごしてしまった。咳止めや痰切りの『くすり』の力は借りることは絶対にしない。身体を温めることで対応する。
 そんな時、「今日から4月か」との着想で冒頭の思い出を辿ったのである。とても怖かったのに大好き(だった?)な先生が、転勤でその中学校からいなくなられたことを、部活動を終えて職員室に部室のカギを返しに行って知ったのである。先生の机の上だけが何もない状態だった。55年経った今でもハッキリ覚えている。苦手な理科の先生だったが、疑問を発すると授業時間を超えて、所構わず説明してくれる先生だった。
 日付変更線や季節の違いを「地球が丸い」からと何度説明されても理解できなかった中学生の自分の姿が天井に映し出される。今でも自然科学分野への理解度は低いから遺伝子の所為なのだろう(笑)。
 眠れなかった時間のうちに「日付」が変わった。
 昨日は3月31日。今日は4月1日。しかし、単なる日付変更線を跨いだ訳ではない。行政的感覚からすれば「全てが新しくなる」日である。そんな思いに心を巡らせながらもいつの間にか眠ってしまった。
 今日は長男一家と一緒に名古屋までミニトリップだ。昨夕から興奮状態の孫たちは良く眠っただろうか。日帰りのプロ野球応援旅行である。卒業生の招待に応じての楽しい新年度のスタートである。

自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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