2012/01/31

我が家にも『インフルエンザ』が上陸

~長男孫の発熱が原因究明されて~
 いずれは到来すること。
 4年生ぐらいになると外部との接触(少年スポーツ団等)も多くなるので感染は避けられまい。嫁が病院からメールを送信してきた。「お祖父ちゃんお祖母ちゃんもマスクを装着していてください」と。先週末訪問した豊橋市の小学校でも校長先生から手渡しされて装着した。この態勢は毎年の、いわゆる年中行事である。医療技術の進歩(?)によって流行する風邪の菌の種類が公表される。~型と~型のどちらかだと言われても目に見えるモノではないので素人にはわからない。神経質になればなるほど異常な不安を抱くモノである。
 風邪をひくことを極端に恐れると、人体自体の抵抗力までを低下させるようだ。雑菌の中には人体の抵抗力を支援する大事な味方もいるらしい。『共生する』という理念の基本的な発想である。人間は口先だけの立派なスローガンを掲げるが、現実は都合の良いモノとだけ共に生きることに傾くらしい。薬と共生する方法を選んでしまうのである。人間様の身勝手さはやがては自力と言う抵抗力を培うことから遊離してしまうのかも知れない。恐ろしい時代になる。抗菌・除菌・殺菌・滅菌を「売り言葉」とした商品が世の中に氾濫してしまうのがその流れなのだろうか。
 数年前、姫路駅で新幹線を降りて在来線の特急に乗り換えた時の光景を思い出した。

 あの時は、神戸の高校生がカナダに海外研修に行った時点で罹ったインフルエンザが大騒ぎの発端だった。空港や駅構内の完全消毒と言う珍事件が起きた。姫路駅で電車を待つ人でマスクをしていなかったのが小生だけだったらしく、近寄って来た駅員さんから「マスクが無かったら差し上げますよ」と声を掛けられ唖然とした。全員が白いマスクを付けている群衆をご想像できますか?宗教集団紛いの服装になっているのが当事者たちには「洗脳された状況下」にあることすら忘れているようだった。外国人観光客が苦笑したそうだ。結局、マスクは付けたが目的地の鳥取県に入ったら「どこ吹く風」のように、景色が一変していたのが妙に滑稽だった。
 予防は大事でしょう!!
「手洗い」と「うがい」の励行は十分に意識している。小生のうがい液は市販されているモノではない。生姜を黒酢に半年も浸けて作った秘伝のモノである。そしてその基になる水も特製であるので旅の常備品としても重宝している。90分の講演を一日に2回行っても咽喉の炎症は防げる。元気な声を発することが出来るのは妻が作るうがい薬である。10年も愛用している特効薬である。自然食品が原料なので薬害などとは無縁である。
 羅漢者の孫の回復が一日も早い方を願う老妻は、豆腐を使った自家製の解熱薬を懸命に作っていた。以前、その効能に驚いた孫本人が病院からの帰りに母親に豆腐を買うことを注文したらしい。この豆腐の解熱薬も孫が所望するほどである。
読者の皆さん、自家伝来の秘伝薬等がありましたらご一報願います!

2012/01/30

『匠の技』がここにもあった!(2)

 ~棋手(「将棋」)とコンピュータの勝負のニュースに思う~
 将棋と言う文化とコンピュータ業界が「勝負する」のは、単なる余興でありたい。
しかしながら、勝敗と言う結果でマスコミが騒ぐ。マスコミは「受ける・関心がある・興味がある」ソースには区別をしないらしくハイエナのごとく纏わりつくらしい。芸能界(と、総括して良いのかわからないが)に生きる人材もその津波のような強引さに潰されてしまうようだ。以下に示す情報は、去る1月14日のネットニュースである。
 コンピューター将棋、米長邦雄永世棋聖を破る
 コンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」と元名人の米長邦雄永世棋聖(68)が戦う第1回電王戦(中央公論新社など主催)が14日、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われ、ボンクラーズが113手で勝った。コンピューター将棋ソフトが、一般的な公式戦と同じルールで男性プロ棋士に勝ったのは初めて。ボンクラーズは、昨年12月に行われた、持ち時間各15分の早指しによる前哨戦に引き続き、同3時間の本番でも米長永世棋聖に快勝した。米長永世棋聖はタイトルを通算19期獲得し、2003年に引退した元トップ棋士で、日本将棋連盟会長。ボンクラーズは会社員の伊藤英紀さん(49)が開発し、昨年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝した実績がある。
 やっぱり、そうなった?!
 電子頭脳にはホンモノの頭脳は勝てない?と悔しい心情を小生の日記には書き込んでいた。そして、今日。その内容を読みながら『豊橋筆』製作(筆)所の仕事場の風景を思い出した。「手作業の筆」と「コンピュータ(機械)で制作された筆」のでき具合で勝負することに置き換えて考えてしまったのである。
へそ曲がりの小生は、先ず手作りで出来る物は「作品」であろうが、機械で作るモノは儲けるためだけの「商品」であるとの概念に括りつけるのである。将棋の指し方も、「棋士ならではの指し方」であれば、その指し方自体への価値観は比べられるものではない。出来上がった製品の温もりが違うのと同様に、指した駒への愛着には勝負とは別世界で愛情が注がれているのである。つまり、駒一枚への指先の温もりが存在すると言っても過言ではあるまい。
 豊橋筆の作業場には、何十年もの時間を「座って作業をする」姿勢を支える座布団の温もりが見えた。その忍耐と根気はコンピュータとは比較できない。
 教育も、「手作り」の労作を惜しんでしまい、「結果オーライ」で業者作成の学習用教材に流されている現状を見るにつけ、こんな記事に出会うと興奮してしまう。一つでも多くの「手作り」の温もりで「教室の子どもたちの低体温化」を擁護して欲しいのである。
 少々の観点ズレの争点は、読者諸兄の「温もり」で補充していただきたい。


〇早速写真(先日のブログ)のクイズのお答えが何通(メール)か受信していますが、正解はございません。

2012/01/29

豊橋も、寒かった!!

~インフルエンザの猛威は何処にも・・~
 体力勝負!
 1月26日午前9時前に常磐線(快速)に乗る。東京駅を11時前の新幹線で豊橋へ向かう。到着が午後1時過ぎである。新幹線車内での食事は常連の旅人には常識の時間帯でもある。妻は必ず手弁当を持参させる。時として「駅弁でも食べたいのに」と駄々っ子心情も動くが『おにぎり2個とフルーツ』の組み合わせ弁当は、市教委勤務が始まってからは定番になっている。昔の同僚なら全員がしているお昼のメニューでもある。今回も持参したその定番昼食を食べる。視線の先には見慣れた東海道沿線の景色が飛ぶように流れるがそれが豪華な副食となる。そんな旅を続けてかれこれ10年の歳月が流れる。ふと脳裏をよぎったのが、「この稼業は体力勝負だな」であった。
 午後1時過ぎに新幹線を降りるとお迎えいただく当日の訪問学校の校長先生の姿が改札口ある。そのまま乗り込んで学校に到着すると、すぐ本務の打ち合わせをして「授業観察」の準備に取り掛かる。教場に出向く。多くは全く面識のない教員の授業である。今回の2つの(小学校)授業も授業者とは言葉を交わしたことが無い。
 教室は嘘をつかない。
 それは純真な子どもたちが主人公だからである。大人(ここでは教員)は本質がなかなか見えない。いや、見えないというより見せないと言った方が妥当だろう。見えないベールをめくるには子どもたちの表情を観察するのが一番。授業開始して5分間も観察すると、そこに一人しかいない「王様」である教員の素性が必ず見えてくる。隠しきれない日常の王様の素顔を確認するまでの『子ども観察』(=透視力)の力量が本稼業の成否を左右する。まさに「子ども観察」は本務としての醍醐味である。
ホッとするのは教員の温かい眼差しである。射るような視線で子どもたちの学習を管理する教員に出会うと当方の心まで凍てついてしまう。教室から逃げ出したくなる気分は「学びから逃亡する子ども達」の心理と符合する。
 良い授業とは?
 今回の訪問校の1つでは、その分析を(1)子供目線から、(2)指導者サイドから、の2点で本音のトークをすることが出来た。真剣に2つの観点から表現を試みた教員集団の真剣さで寒さも忘れてしまうほどだった。(1)「えっ、もう終わりなの?」(2)「つぶやきを拾った授業」と一方的は結論を提示した。現役時代には考えてもみなかった結論を全国の学校を巡回して「拾い上げた」平易な表現を用いて披露した。反応も強かった。偶然なのか「観察授業」の授業内容に「つぶやき」とはどういうことか、の発問があったのは奇遇としか言えない。
 指導者の人柄は声の質でわかるような気になっている。大昔のNHKのアナウンサーで宮田輝さんという方がいらっしゃいました。ラジオ放送で声を聞きなれていた祖母が、テレビの画面で初対面した瞬間「声ほど美男じゃないね」と言った。憧れるほどの美声の持ち主だったのだろうか。幼い少年の日々、将来はアナウンサーになりたいと言った孫に、「時代はテレビになるらしいから、止めとけ」と祖母に優しく諭された。今となれば小生の人生を決める重大な笑い話である。
 2つの学校の授業者の性格は「小学校の先生」向きであると合格印を押した。何よりも学級の子どもたちへの愛情が深い。現代ではどの学級にも「発達障害」と括られる児童や生徒が必ずと言って良い程存在している。時として学級担任の「声」がその子供に負の刺激を与えるのだろう。信じられないような言動になるようだ。上辺だけの優しさなど障害と共に生きている当事者には教科書を勉強するより安易に解ける謎ではないだろうか。全国で「学級崩壊」という症状(誰のネーミングか知らない!)を露呈している場面に指導に入ると、小生の(動物的)本能でその虚像を見抜いてしまう。
 今日の2つの学級にもそんな児童が存在していた。しかし、45卯分間のドラマでは謙虚な実像は映らないほど学級全体の学習活動が彼らを包んでいたことになる。経験年数や指導技術だけでは今回のような授業は展開できない。双方とも指導案通りには展開できなかったが、そんなの関係ない!!
 学校全体の総力で「授業研究に挑む」姿勢を確立させたい。それは急務である。なぜならば、「今年の子ども」は来年度も「今年の子ども」として、誰かが学級担任をするのである。今年の子どもの現状を「授業を通して」観察していることが、生徒指導の根源になるからである。そんな観点からも今回の二人の授業観察提供者に拍手を送りたい。そして、「豊橋にも雪が降る」ような寒さの中でも「熱く語りかける」教員がいることに感激した、ことも添えておきたい。
 1月27日午後9時半過ぎに帰宅した。疲労困憊の老体には土浦の空気は堪えた。確かに豊橋も寒かったけど「教場はあったかだった!」、と思える幸せに感謝したい。

2012/01/28

『匠の技』がここにもあった!

 ~手作業と言う素晴らしい日本文化~
 見るモノ聴くコト。
 全てに目と耳がダンボ状態になったのは久しぶりだ。2日間の学校訪問は学校訪問専門家(?)なりの感激と着眼は今回の旅でも味わうことは出来た(学校訪問記は後日)。しかし、今回の圧巻は、何と言っても「経済産業大臣指定伝統的工芸品・豊橋筆」の職場にご案内戴いたことである(芳賀校長先生に感謝)。未知の世界に足を踏み込むときは、毎度のことながら想像力は働く。「筆を作る」職場の予想は容易だった。しかし、一歩踏み込んで飛び込んできた視界は予想とは全く違って思考回路はまさにマヒ状態になってしまった。「動物の毛」(筆の原材料)と出会ってから、ほぼ最後の行程を視察するまでの全てが『目から鱗』状況に追い込まれてしまった。
 「手作り」とは?責任の所在が明確であること。ご自身も伝統工芸士である経営者の言葉が一夜明けても耳の奥に留まり続けている。教育も「手作り」でありたい。授業も教員の手づくでありたい。小生がずっと描いている学校教育への理念である。ベルトコンベアーなる利器で大量生産の過程がこの職場には全く見当たらない。視野に入る数名の職人さんたちの手元には「自らの真心で大事に扱われている筆の子ども」(=筆になる前の状態)たちが手際よく、しかも丁寧に扱われていた。数名の職人さんたちの手には他の職人さん達の手元には無い種類の筆が作りあがって行くの醍醐味であった。
 手作業の細やかさに圧倒されてしまったのは、「指先が機械に勝る」という確信が立証されていたからである。教員バカと自称する小生には、学校教育が年年歳歳忘れていく「子育て」の無責任さと効率追求の国家体制打破へのヒントを得た感動である。結局、業務の邪魔しているご迷惑を忘れて長居してしまうことになってしまった。仕事の効率と利益の追及はこの職場は不似合いだと感じたことが感激の主因である。手作りの教育を取り戻したい!そんな思いをより深めた貴重な職場視察であった。 

 そこで、今日は読者の皆さんにクイズを提供しましょう。

 この道具(搭載トップ写真)は「筆作り」行程で、どんな役目をしているのでしょうか。想像の範囲ででもお答えください。解答は当方のメール chts415@jcom.home.ne.jp  にてお願いします。

2012/01/26

温暖な地・茅ヶ崎も寒かった!!(2)

~お母さんの頑張りが命綱だよ~
 可愛かった女子中学生が、今や悩み多き『お母さん』業に潰されそうだと言う。24日の茅ヶ崎への今年初の里帰りは小学校で開催されたPTA主催の「子育て講座」への出講であった。事前情報で会場に小生の中学校教員時代の卒業生が数名出席する予定であるとは知っていた。聴講者に話しかけながらその「母親」を探しながら、目線を逸らさない視線からほぼ当時の中学生の姿勢と合致した。終了後の校長室で改めて再会した。間違いなく本人であった。午後の出講があり昼食時間もあったのでゆっくり語り合えなかったのが申し訳ない思いであった。
 もう一人はPTAの役員を受けているようで昼食も共に出来た。そして、搭載しているメールも届いた。個人情報もあるので躊躇したが、読者の中にも同じような苦悩に潰されそうな「母親」もいるのではないか、との着想で卒業生の本音を共有してもらいたくて搭載した。
 「母親は太陽でありたい」というフレーズを以前に目にしたことがある。泣いた赤ん坊は涙を拭く術は知らないが、抱っこしているお母さんの胸に涙顔を擦り付けることで容易に乾いてしまう。拭いた涙の後はお母さんの「太陽のような温もり」が乾かしてくれるという論理である。そんな解説を読みながら父親である小生の無能さを嘆いたモノである。
 抱っこにおんぶ。
 これは、母系に似合う光景かな?お母さんやお祖母ちゃんには頗る似合うが、お父さんやお祖父ちゃんには不似合いのような気がしてならない。性差を論じることではない。単なる小生の主観論であるので反論等はご自由に交わしていただきたい。それは、きっと 胸にはおっぱいがある、からだろうか。
 父親には真似すら出来ないことが、自然体で出来る「お母さん」は、その伝家の宝刀を惜しむことなく発揮すべきであると主張したい。子育てには父性が不必要だと言う論理を述べているのではない。父性の重要な出番も確実に存在する。悩める母親(=妻)を支えることの重要性を意識してサポートを惜しんでほしくないからである。
 こんなことまで言及できるようになったのも「加齢のお蔭」である。片手間の祖父ちゃん業を遂行しながらこんな方向性も産まれたのである。ともあれ、「かあさん、がんばれ」と大声を張り上げている朝である。今日から2日間、愛知県豊橋市に行って来ます!明日の帰宅がかなり遅い時間になるので当ブログは休刊します。

1201250007便
角田先生へ
 もう到着されましたでしょうか?
 今日は寒い中、遠い所ありがとうございました。ほんとうにお変わりなく、パワフルな所も健在でうれしくなってしまいました。
今だから言えますが、当時秘かに私は、「先生のクラスだったらな~」と思っていました。転校前は小学校からの持ち上がりの友達に囲まれて意気揚々だったのが、すっかりアウェイに放り込まれ、信じられないくらい内気な自分になっていました。そんな時いつも先生は、はつらつとされていたので魅かれるものがあったのです。
 中3の1年間、英語を教わっただけの関わりしかなかった先生のことを私は忘れたことがありませんでした。何でだろう、と不思議な気持ちでした。それまで出会ったことのないタイプの先生だったからだ、とずっと思っていました。
 今日お会いしてお話を聞いて、「きっといつも本気で関わろうとしてくださっていたからなのだ」と腑に落ちました。当時はそんなこと思いもよらなかったですが、今になって思うと大人の本気は子どもには伝わるものなんだな~と実感しています。
 今日お聴きした先生のお話の中、日頃自分が心がけていることがたくさん出てきました。本当ならもっと自信を持って、「母」をすればいいのですが、子育ては結果がすぐに目に見えないので不安は尽きません。まして登校拒否の子を抱えているとなおさらです。「何だか私は間違ってはなさそうだ・・」という気持ちになりました。もともと私は傾向として、「どうせ何やっても私なんか・・」という発想になります。自分の一番嫌いな点です。性格と生い立ちのせいかな?と思うのですが、今更だれかのせいにしても仕方ないので一所懸命にコントロールします。でも気がつくと同じ事を繰り返していたりします。性分だと思っています。登校拒否中の子どもを見ていると、何でこんなに?と思うほど自分の嫌なところにそっくりです。子どもの事では自分の生い立ちや夫婦関係など避けて通れないです。
 私に遠慮と躊躇があるとすれば、そこまで先生にお世話になるのが申し訳ないからです。とはいえ恥だの外聞だのにかかわっている場合ではないですね~。
 私は子どもは社会からの預かり物だと思っています。いずれは社会に返さないといけませんのでいろいろな人の知恵を借りて、とりあえずは外の世界に連れ出す努力をしたいと思います。
 また先生にお目にかかれることを楽しみにしています。明日からまた一段と厳しい寒さになりそうです。お体お大事に。                 △△小PTA □□より

2012/01/25

温暖な地・茅ヶ崎も寒かった!!

~会場は双方とも凄い熱気~
 年年歳歳、確かに加齢していることを実感しながらの茅ヶ崎からの帰路であった。
早朝6時に家を出て風景に先ず驚く。辺り一面の銀世界。道路のアスファルトの上の凍結部分もあり揺らぐ足元を気にしながらの歩行も厳しかった。通常5分で到着する駅まで10分以上も掛かってしまったが妻が心配してくれた転倒もなく無事に出立。
 取手市周辺を走る特急電車の車窓から、積もった雪が風で舞い上がる現象を見た。茅ヶ崎の温暖な気候に慣れてしまった老体には、こんな日の遠出は少々厳しいかな?と少々弱気な発想が飛び出したのも自意識できた。そんな弱気とは正反対に、午前・午後の2本立てに設定した2会場での講演レジュメを鞄から取り出して読み返しながら老脳には熱い血液が既に巡り始めていたのだから「仕事人間」の病状は健在だった(笑)。
 他(県外)の会場と最も違ったこと。
 それは、殆どの聴講者がリピーターに近いことである。そうでないとしても「元・茅ヶ崎に勤務した教員」という情報はほぼ全員の意識に定着していることである。会場には若かりし頃に関わった卒業生がいることが、講師の意識にも他会場とは違う異常な雰囲気として押し寄せて来る。かつての「女子中学生」も、今や「母親」になって会場に座っている。そして、ご多分に漏れず『子育て』のプレッシャーに押しつぶされそうにして頑張っているようだ。
 浅草の会場(=1月21日・第10回新春教育講演会)との格差の違いは予想通りである。
 午後の会場から以前の住居までは徒歩で数分。前年度は3回の連続講座を担当した公民館である。自転車が交通手段だった。館長が卒業生であることもまた異趣となる。当然のこととして認識している。午前の小学校単独会場とは違い、公民館での講座の聴講者の年齢層にはかなりの幅があり講話の焦点化も難しい。しかし、講師としての力量(話材)も試されるのだから講師としては何とも言えない遣り甲斐でもある。
そんな異種の会場での任務を果たして「里帰り」から帰って来た。
 帰宅すると浅草会場での聴講者から数本の電話と、数通のメールが届いていた。妻から電話の内容の報告を受けながらも、「一刻も早く寝たい!」と入浴を済ませて床に就いてしまった。26日は愛知県豊橋市への出講が予定されているからである。

2012/01/24

小気味良い新年の『滑り出し』(3)



 ~いいえ、1日は24時間以上でした~
 受信したメールのトップの文字を読んでドキッとしました。
 まさしく『滑り出し』は順調です。今日は、新春教育講演会事務局長をお願いしている校長先生の小学校の訪問です。近くて遠いのが首都圏です。飛び道具(=空路や新幹線)が使えない旅程です。6時15分の常磐線・特急に乗って上野駅~東京駅と経由して東海道線に乗り換えます。下車駅の辻堂駅には快速アクティ号は停車しないので、9時までに到着するにはこんな時間で出発するしかありません。それでも「待ち人」がいる幸せに酔って、これから勇んで出発です。
 ラジオと一緒に行動する時間の中で今日の関東地方は「大雪」「積雪」注意報とやらが発令されているとの事です。雪に弱い首都圏の実態に向かって出発することになります。こんな日もあるんですよね。水を差される、のではなく雪も歓迎してくれているんでしょうか。(能天気者の能天気者たる所以がここにあり!)
 また素晴らしい出会いや再会が予感されます。行ってまいります。報告をお楽しみに!
 感激のメールを添付します。ホンの少しだけ削除した部分がありますが、送信者の意図は薄まっているとは思えませんのでご一読ください。

201201231143便
 一日は24時間以上でした
 角田先生,励ましのメール,ありがとうございました!!昨日は,学校に着くなり校長先生が「おかえり!お疲れさん!講演会どうだった?」学年団の先生方が「何だか,金曜日より元気になっちゅうね!行ってよかったがやろう?」と声をかけてくださいました。気持ちがリフレッシュされ,疲れを感じませんでした。
 昨日の参観授業は,1年生は各学級とも『できるようになったよ発表会』をしました。計算カードや漢字のクイズ,合奏にそうじなど,ひとりひとりができるようになったことを発表しました。最後に,お家の方から『感想』を発表してもらいました。ほとんどの方が「よくがんばった!」「2年生になれるよ!」とほめてくださったのですが,あるお父さんだけ「今日発表したことが,まだできない人もいるね。でも,今できなくても,いつかできるようになればいいのです。みんな,がんばる力を持っています。一生懸命がんばってください。」とおっしゃいました。さすが!と思いました。(1年生には,少々難しく,理解できていないようだったので,お家の方々が帰られてから,「できないことがあっても,あきらめずにがんばり続けることがとても大切,とおっしゃったんだよ」と補足説明をしておきました。)
 私も,自分自身のことも含め,わが子や学級の子どもたちの『今』だけで満足することなく,次の課題に向けてがんばり続けたいと思います。
 一日は24時間以上でした。
土曜日から,まだ一日が続いているような不思議な感覚です。とても心地よい充実感です。本当に,講演会に参加させていただいて良かったと思っています!ありがとうございました!!角田先生を独占してしまい,参加された先生方にご迷惑でなかったかと反省しています。「響の会」の先生方にもどうぞよろしくお伝えください。                          
追伸:いつもいつも長いメールになってしまい,申し訳ありません。

2012/01/23

小気味良い新年の『滑り出し』(2)

 ~1日は24時間ですよね~
 会場の熱気は高知市にも波及している?嬉しいメールを紹介しましょう。
 当日の早朝に自宅を出て、高知空港から東京・羽田へ。そして電車を乗り継いで会場の浅草まで。開始時刻直前に到着して・・・。休む間もなく2時間の駄弁の渦中に入り込んで4時半には会場を去って羽田空港に向かう高知組(と、送信者の表現)とは、じっくり話す時間も無く別れてしまいました(写真)。
 メールチェックしたのが翌朝(22日)の事です。ご自宅からの発信時刻は(21日・当日)23時35分でした。お詫びと感謝の言葉を添えて簡単なメールを送信しておきました。第2便を22日午後8時35分に受信しています。その2通をご紹介します。
 現代はスピード時代です。
 土佐の高知から東京で開催される講演に参加して日帰り旅程が完成する時代です。その実践を高知組が示してくれました。小生の驚きは「1日=24時間」という常識が背景に確認できることなのです。しかし、誰にでも出来ることではありません。何がそこまで高知組の行動をさせたのか?その観点で読者の皆さんと一緒に考えてみたい朝です。
 師匠と仰ぐ小学校時代の恩師の言葉を思い出しています。宿題を忘れて教団の前に立たされた毬栗頭の小生を含めた男児数名に向かって仰った言葉なのです。
「角田!キミの1日は何時間だ?」との開口1番の質問に咄嗟の解答に窮したのです。すると「時間は、神様がみんなに同じように与えられておられるんだよな」と始まり、「だから、時間は追われちゃいかんとばい。時間は追わんと立派な仕事は出来んとばい」と力強く押されました。このシーンは退職同窓会の会場でも話題になるほど同窓生には強く印象に残っている程でした。これが小生の人生訓の礎であります。それにしても、こんな間近で「高知~東京」を往復して、疲労を感じさせない熱気を感じたのも珍しいことです。新年早々、感激の『お年玉』を河内組からいただいた気分です。24時間を往復した感動のメールをご一読ください。

201201212335便
角田先生へ
 みんな無事高知に帰りつきました。本日は、本当にすばらしいご講話をありがとうございました。また、5年1組の子どもたちのために、お心遣いを本当にありがとうございました。『皆様の角田先生』を、高知組がかなり独占してしまいましたね。厚かましい高知組を、皆様が温かくみつめてくださって感謝いたします。
帰りの電車や飛行機や車の中で、みんな「来てよかった!」と言っていました。みんな興奮ぎみで、ハイテンションで帰りました。高知『響の会』を作りたい!by◎◎ 「誰が会長?」など、など、楽しい時間でした。
とりあえず、来年からも茅ヶ崎『響の会』に行く!と全員が一致しました!キーワードは、「柔軟な思考と変化更」だ!と私は心にとめました。それと、給料に見合う仕事をする!こと。脳天がかち割られたというより、洗濯された感じです!
 〇〇先生は、「どうしたら、角田先生に応えられるだろう?」と考えています。そうやって、今回参加した一人ひとりが、向上しようと努力している仲間であることを嬉しく思いました。角田先生の多大な激励に応えられる、高知組でありたいと思います。
 明日、△△校長があの激励のカードを見て、どんな反応をされるかも楽しみです。多分予想通りの反応があることでしょう。□□先生に会えなくて残念でしたが、また次の機会を楽しみにしています。言葉は整いませんが、感謝の気持ちをお伝えしたくて、メールしました。おやすみなさい。 ◇◇◇◇


201201222030便
角田先生
 メールありがとうございます。今朝の△△校長の反応を報告します。今朝、〇〇先生がカードを見せて報告しました。「・・・・!」絶句の校長先生でした。恐縮しきりで首をすくめ、目を白黒させていました。想像したとおりの反応でした。直接の言葉はなくても、(「あなたたち、どのように応えるのですか?」)と問われているのだと思います。がんばります!
ありがとうございました。  ◇◇◇◇



写真は「別れを惜しむ」場面です。付録く写真は、「目線を逸らしたくなるような」講師の写真ですが、カメラマンの力作ですので多くの写真の中から1枚だけ添付します。

2012/01/22

小気味良い新年の『滑り出し』



 ~会場の熱気に煽られた果ては・・・~
 ご参会いただいた皆様に、改めてお礼申し上げます。
 如何に鈍感な講師であっても、あの会場のあの熱気は伝わってまいりました。その煽動的な眼差しに驚きつつ踊り始めた講師は何と2時間にもわたり駄弁交じりの熱弁を吐いてしまいました。長時間の講演ならぬ「独演会」(笑)に堪えてお付き合いいただきました寛大なる聴講姿勢を、私的に強いてしまいました。ここに衷心よりお詫びし、且つ遠路からのお運び(散財をお掛けしたことも)に心底からお礼を申し上げます。
 さすがの能天気者。
 今朝は7時半まで眠ってしまいました。咽喉が少々枯渇状態です(笑)。さもありなん!!給水もせずに喋り捲った後遺症のようです。これを自業自得と申しましょう。しかし、一向に改善しない習癖と申し上げても過言ではありますまい(笑)。反省は出来ても向上が表出しないのが我が人生でもあることをお伝えして下手な言い訳とさせていただきます。
 数通のメールを受信しています。
 読みながら瞼が熱くなりました。「自分を語る」ことからしか「教育による他者の変容は無い」と豪語した下りから、それを実践されたかのようにご自分の現況をメールに載せてお届け戴きました。我が子への思いと同僚や先輩、そしてとんぼ返りの高知~羽田の空路による県外への出向に快諾された校長先生への感謝の気持ちが面々と綴られ、結句が「来て良かったです」となっていました。個人情報もあり伏せることも出来ないので当ブログではご紹介できないことをご容赦願います。素敵なメールを有難うございました。
 鳥取、愛知、そして高知と遠路からのご参加には身銭を切って駄弁をお聴き留めいただき恐縮至極に感じています。また、何なりとご用命ください。老兵は去るのみ、との古諺は重々承知していますが、ホンの少しでも「役立つ」ことがあれば(我が身を省みずに)馳せ参じます。それが聴講への「恩返し」を意識しています。
 そのためにも、更に自己研鑽に励むことを約束します。
 現役時代から今日まで、とりわけパソコンで収集した「資料」および「資料紛い」の雑記帳やらメモ書き、あるいは新聞・雑誌・機関誌(紙)記事、さらには出版社より依頼され執筆し掲載された原稿を含め収集したままの資料を今年は整理してみようと「意欲の高揚」が沸々としてまいりました。他愛もない経験値を味づけに使いながらまとめることにします。
 第11回新春教育講演会では、参加者のお手元にお届けできることをここでお約束をしておきましょう。当方の予定では2013年1月19日(土)をその日、と心の片隅に置いて準備に取り掛かります。
関係各位のご協力とご支援を心よりお願いして昨日の興奮を納めさせていただきます。

 感謝・感謝・感謝・感謝・感謝・感謝・感謝・感謝・・・・・

★参加者が交代して撮影して頂きましたので写真を2部搭載しました。

2012/01/21

『適度の緊張感』という自意識

~いつもとは違う鼓動と足取り~
 加齢がホンモノになっても、何かあると緊張するモノか。
 翌日に「仕事」が予定されている前日は、やはりいつもとは違う心境になるようだ。先般の当ブログでも記したが「泥縄式事前準備」が佳境に入ったことが偽らない証しである。遊び心でやって来た孫たちが、お祖父ちゃんの様子が変??とでもキャッチしたのか、「どうした?何か用かい?」とミニ書斎から反応するが、「別に」との一言を置いて母屋に戻って行った。
 乾燥警報が出ていたほどの長期間の降雨ゼロ地帯に冷たい雨が降る。
 今年の「仕事始め」を予定している前日から降り始める雨を憎らしく感じても不思議でも無いだろうに、「お湿りがあって良かったね」と感じる辺りは正真正銘の加齢症候群に属すると苦笑いをしてしまった。
 準備万端??とまでは行かないが当日のレジュメへの書き込みを終えてプリントアウトしたA4版の用紙を見直しながら、「ま、良いか」と自分に向かって発した言葉が老妻にも聞こえたらしい。「何か用ですか?」と近寄って来た。孫のセリフを真似て「別に・・」と返して失笑する。
 依然親しくお付き合いをさせていただいた神奈川県藤沢市の元・市議から電話が入った。気温の下がり具合と降雪の状況では現状の体調が心配なので講演会の参加は見送る旨のご丁寧な内容であった。転居したことへの驚きの心境も伝えられ、何だか悪いことをしてしまったような気分に陥った。
 直後に卒業生からは、「何とかスケジュールが調整できたので講演会に飛び入り参加をしたい」旨の電話が届いた。
 こんな立て続けの電話の対応も通常にはない。
 そんな緊張感も程よく、老体に快い刺激を与えてくれている。遠路から空路で東京の会場まで来られるらしい参加者の熱意を思うと流石に気が重い。十分に応えるのは難題ではあるが、誠意で接することで我慢してもらおう。
 『雨降って地固まる』、らしいので雪が降ったら何が固まるのだろうか?
 雪が降ったら「人間関係が深まる」ことにしよう。能天気な小生は勝手に決め込んでしまったが、読者の皆さんはどう思いますか(笑)。久しぶりに再会できる喜びと感動を分かち合える好機として、今年の「仕事始め」を新スタートの起爆剤になることに期待したい。

2012/01/20

抉られるような衝撃

~元同僚の奥様の逝去~
 同居する長男の憔悴ぶりに思うことがある。同一の衝撃は無いが、同種の辛さに遭遇したことはあるからだ。
 通夜・告別式の務めが終わった長男と離れの我が家で夕食を共にした。食欲が無いという長男に母親である老妻は、「これは?これぐらいは!」と食することを勧めるが箸は動かない。
 ぽつぽつと話し出した彼の報告によれば、元同僚の奥様が急逝されたと言う。自覚症状が発覚したのは、年が明けたので昨年の5月になるらしいが、既に末期的症状で手当てが施せない病状だったそうだ。享年35歳と聞いただけでも背筋が寒くなる。一粒種のお子さんが小学1年生のお嬢ちゃんだと聞くと涙を止められないほどの哀しい現実となった。当方の孫と同じ年齢である。生意気な言葉は発しても未だ「お母さんの居ない」環境では生きていけない幼児である。そんなお子さんを残して他界する母親の心情を思いやったのか、老妻は全く言葉を発しなくなった。当方の嫁も同じ世代である、と感じ入ったからだろう。
 小生は長男に向かって言えることはただ一つ。
 心身ともに健康で過ごすことがベストであること。しかし、いつもそのように出来る訳がない。この年齢になると父親業としても佳境に入るが、職場でのポジションも大きく編ヵする年齢にも達する。上司や先輩に期待をかけられると「無理をしてでも」それを裏切るまいと邁進する。遮二無二な突っ走りの状態になると周囲も見えなくなる。これは「通ったことのある経験者」でないと忠告も出来ない。だからこそ、自らの健康管理が重要であることだ。
 自らの経験と反省を含めて食事中にも関わらず言葉に熱気が入り込んだ。真剣に聞き入る長男が気になるのか、臨席する母親は必死に食を勧める。少しずつ箸も動いて缶ビール1つをやっと飲み干して母屋に戻って行った。
 老父母二人になってしまうと会話が成り立たない。妻は、3人の孫を残して我が家の嫁が他界でもしたら、と考えたら、「お祖母ちゃんの苦行」は到底想像が着かないようだという趣旨の言葉で会話を繋いだ。聞いた夫も同じようなことを考えていたので返す言葉も無かった。小生は父親であるが、母親の存在感を実感する妻の言葉は重かった。悔しいが「母親」の存在感は絶大である。
 他家でのご不幸に接して深く考えてしまった我が夫婦は、布団に入っても暫くは無言ながらも睡魔から縁を切られた数時間だった。いつの間にか眠ってしまったが目が覚めると、また、残された父親とお嬢ちゃんのことが気になった。
 母親は元気で丈夫がサイコー!!
このブログを愛読されている全国の「お母さん方」に伝えましょう。我が子と喧嘩をして怒ったり、言う事を聞かなくて哀しくなったり、思うように成長しない我が子に幻滅したり・・・・。これは、全てが「元気で丈夫」な証ですよ。現実透視をして、今日も我が子と「元気で丈夫で」格闘してみましょう。そして、生きている幸せを噛み締めてくださいね。

老婆心ながら、共に苦悩する夫(わが子の父親)への思い遣りも決してお忘れなきよう、くれぐれもお気遣いをお願いしますよ(笑)。

2012/01/19

孫の「宿題」にはまり込んだ祖父ちゃん(2)


 ~この時期の天体観測は寒行?~
 色々と苦手があるが、「学習領域」で言えば理科が最も苦手な学問である。

 未だに星座のことなど全く興味がない。だから、わからない。孫が午後7時と9時に天体観測をする、と申し出た。宿題のようである。皮肉にも今夜は息子夫婦はお通夜で外出の予定である。与えられた用紙に記入するらしく寒い庭先で悪戦苦闘が始まった。
 久しぶりに真上を見上げた夜空は神秘的であった。

 茅ヶ崎市出身の宇宙飛行士・ン野口聡一氏は、中学時代に学校の屋上で見上げた冬の夜空から自分の夢を描いたとのエピソードを聞いたことを思い出した。祖父ちゃんと一緒に勉強などした経験のない小生は、支援できない情け無さも手伝い小4の孫の申し出に躊躇してしまった。学校で学習を済ませている孫の講釈を「わからないまま」に聞き流す祖父ちゃんは、孫が風邪ひかないようにだけ気遣いするのが精一杯であった。内心は「早く終わらないと風邪ひいちゃうぞ」の思いでの学習のお付き合いだった。終了後(笑)はホッとして孫と一緒の浴槽の中。興奮状態で「学び」を語り続けた。孫の講釈の中に登場した「オリオン座」という言葉が残像となって、一人残った浴室で口をついて出た歌詞が次の通りである。合衆国のヘイスという作曲家の作品であることを初めて知った。

 ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞い立ち スバルはさざめく 無窮をゆびさす 北斗の針と きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 Won't you tell me, Mollie darling,/That you love none else but me?/For I love you, Mollie darling,/You are all the world to me./O! tell me, darling, that you love me,/Put your little hand in mine,/Take my heart, sweet Mollie darling,/Say that you will give me thine.

 下の段の英語の詩が作曲に伴った原詩のようだ。小学唱歌として習った歌が、50年もの歳月が流れて老脳を刺激していると考えると不思議な心境となった。曽祖父~祖父母~父母~子ども~孫~曾孫~・・・と、底知れぬ「人脈」が滞ることなく続いていることを実感せざるを得なかったからである。
 宇都宮市のお通夜から帰って来た長男夫婦が迎えに離れにやって来た。風呂上がりの真っ赤な頬で「おやすみなさい」の孫たちの声で今日の爺ちゃんの「動顚の巻」の幕が下りた。布団に入った祖父ちゃんの脳裏を、


 木枯らしとだえて さゆる空より 地上に降りしく 奇(くす)しき光よ ものみないこえる しじまの中に きらめき揺れつつ 星座はめぐる 

 この歌詞が音符を付けて駆け巡ったが良い子守唄(爺守り歌?)となったようだ。やっぱり比べたら、理科より音楽が得意だった!(笑)

2012/01/18

「お得意芸」と他者は言う!

~「泥縄」と「一夜漬け」~
 亡母が高校受験する三男坊(小生)に向かって言いました。「ホントに高校受験する気かい?」と遊びほうける愚息を心配したのか何回か発したのをこんな歳になっても覚えているのですから不思議です。時はまさに「大学センター試験」等で世間が騒ぐ受験シーズンのようである。そんな母も大学受験の時は一言も発しなかったほどです。もちろん、日常的にも「勉強しなさい」と言う言葉を母が発したことは記憶が無いのでが・・・。むしろ「勉強が出来たって偉くなんかなれん!」という捨て台詞の方が多かったような記憶が強く印象に残っています。
 そんな親に育てられた(?)のですから、計画的且つ継続的な地道な学習などの習慣づけは無理だったようです。どんな局面が迫って来ても(動じることなく?)、直前にならないと思考回路に点火できない性分は後天性性格形成を裏付けるものになったのではないでしょうか?
 勝負の世界に身を投じた日々でも、内心の不安や焦燥は他人以上に持ち合わせているのに、払拭できるような言動には表出しない。不思議な人間に(気が付いたら)なってしまっていました(笑)。他者は、「度胸がいい」とか「頼りになる」とか美辞を投げてくれました。しかし、当事者は眠られないような不安感で潰されそうなほどに深刻な状況でした。それでも「眠れぬ夜」を経験したことが無い程に大勝負の前夜も熟睡してしまったものです。ところが目が覚めるとまた、就寝前の「不安と焦燥」を引き摺って会場の本番に向かう羽目になったことは山積みできるほどの連続でした。
 それなりの対応は「自分の世界」ではやっていたつもりですが、母や兄・姉たちから見ると小規模な泥縄、つまりサッパリした「一夜漬け」の行動としか映ってなかったようです。
 21日(土)に、東京・浅草で講演をします。
 恒例の新春教育講演会は昨年までは熱海のホテルが会場で9回実施しています。今回は記念すべき第10回目の開催で、会場が東京に変更になっています。案内版には既に立派な『演題』が掲げられて配布されています。聴講者には空路で東京までお見えになる方もおられるとの情報も届いています。そんな状況下で緊張しない訳がありません。ところが、殆ど準備が整っていません。妻は全く心配していないようです。なぜならば「こんな状態」の夫しか知らないからなのでしょう。亡母なら「ホントに講演できるのかい?」ぐらいはと嫌味にして問うでしょう。
 そろそろ、お得意芸(=磨きが掛かったスキル?)の泥縄式一夜漬けで本気で準備を始めましょうかね。航空運賃や宿泊費まで払って聴講に馳せる方々への感謝の気持ちを考えれば頑張るのは常識ですからね!
 結果報告は後日にしても、会場で使用する(筈の)資料を入手ご希望な方はお申し出ください。

(ねっ、ここが変でしょ?未だ準備の済んだ資料の欠片さえ無い状態でこの調子です。能天気もここまで来れば論外の芸術品ですかね)

2012/01/17

46歳の『成長』(その2)

 ~『冥利』という感激のメール・書簡~
先ず、公開したメールをお読みいただきたい。30年前の出来事も当事者が面々と語ると真実度が高くなる。忘れかけていた記憶が蘇る。今年も出席した当時の生徒から届いた「初めて」メールである。
個性的な集団?一人一人の個性が強く、間違えばチームワークは愚か空中分解をしても可笑しくなかった。この学年集団の特徴をこのような表現で嘯く教員仲間もいたほどだった。多くの学年チームを育てたが「強烈な学年チーム」であったと記憶も鮮明である。
毛筆の書簡(写真)は、キャプテンに指名した生徒の保護者からである。OB会の数日後にお礼の気持ちとして送り物が届いた。その中に入っていた手紙である。このような手紙を戴くとは思いがけず、「驚きと感激の二重奏」となった。正月4日の再会を繰り返し(ほぼ毎年実現している)ながら、「お父さん、お母さん元気かい?」の言葉も、最近では重くなった。既に他界された旨の返事が多くなった。また訃報の知らせが届いていることがあったり、電話で知らせを受けることも多くなっているからである。
卒業生たちが46歳になっているということは、その保護者の皆さんも70歳の齢は超えておられることは現実である。我が子の成長を見届けずに逝かれた親御さんもある。
今年は人生の節目なのだろうか。
卒業生からのメールや保護者からのお手紙が多く届く。中学校教育(=義務教育)を終えて30年の月日が流れた節目なのだろう。漫談師の言葉を借りて表現すると、『あれから30年・・・・』の爆笑を誘うフレーズになってしまう。あれから30年も経つと「成果・結果」は確実に表出するということなのであるのか。それを「人生の節目」と表現しても的外れでは無さそうだ。
人生は紆余曲折の連続である。
「今は良かれ」とばかりに手抜きをすれば「それから30年後」には「それなりの結末」が露呈するのかも知れない。手抜き連続の我が人生に付き合わされた卒業生やそのご家族には会わせる顔など無い。しかし。こうしてメール(子世代)や書簡(親世代)が届くと、眩し過ぎて勿体ない気分とが重なり合い、恥じ入ってしまう。
30年前の中学生が、社会人や大学生・高校生の保護者になって当時の親の苦労を「身を以て体験している」最中である。苦しくても我が子たちには正面からぶつかれよ!姑息な手段でその場を逃げればそのツケは必ず戻って来るぞ!そんな思いを発したくなる「教師冥利の朝」である。

 「阪神淡路大震災」から17年が過ぎた。仕事で数回訪れたが復興力の素晴らしさに感動し、日本人としての誇りすら感じることがあった。17年間の重さをしみじみと感じる朝でもある。「あれから30年」までの折り返し地点である。まだまだ後遺症はあるだろうが、前を向いて頑張って欲しいと願うばかりである。

2012/01/16

孫の送迎運転手日記(1)

 ~恵まれた運動施設に感激!~
 孫のサッカー練習の送迎を請け負った。
8時半に自宅を出る。長男夫婦が休日出勤だというのでこの業務を初めて担当することになった。転居して9か月が過ぎた。現役労働者ではないので現地の人との交流も殆どない。茅ヶ崎から持ち込んだ軽自動車はあるが、JRの駅が徒歩で5分も掛からない所にあるので移動は殆ど、公共交通機関のJRである。
 依頼した嫁から渡された手描きの地図を頼りに出発した。運転手席の祖父ちゃんが道不案内を心配そうにして乗り込んだ孫と会話をしながら、1か所だけ孫の道案内を受けて15分で到着したのが隣市(=かすみがうら市)の公共運動施設(写真)である。広大な面積に圧倒される。30年ばかり前の練習場探しに苦労した現職時代が浮かんでくる。面積と利用者の関係比が脳裏を掠める。「羨望」で満杯となってしまうほどの見事な施設である。孫たちの恵まれた運動環境に感激して一旦の帰宅。
 すっかり気に入った祖父ちゃんはお迎えの時間を自分なりに算出して、約束の時間より30分前に駐車場に戻った。都会部で50年近く過ごした習性で培った感覚はここでも健在だった。「駐車場探し」は都会部では常識である。ここでは非常識である。駐車場はどこでも空いている。空き待ちなどは無縁の地である。車を好きな場所に置いて上着を脱いで芝生の運動場に一歩を踏み込んだ。足裏の感触に、またまた感動である。枯れている芝生であるが直ぐに青い芝生に変わる息吹が足裏に伝わり小走りをしたくなった。30分の待ち時間があっという間に過ぎた。
 練習から戻って来た孫を乗せて帰宅した。車中では恵まれた環境に触れるがここで育った孫には理解できる話題ではなさそうだった。「今度からもお祖父ちゃんが送迎するぞ」と申し出ると、「お願いします」との答えが戻って来た。次回のチャンスには、本格的なトレーニングが出来る準備をして来よう、と決心(笑)すると年甲斐もなく(=もう若くないからトレーニングじゃあるまい!)ウキウキする自身が滑稽にも見えた。周囲の歩行だけでも高齢者には十分な運動量になることは間違いない。帰宅してパソコンでこの施設を調べると入浴施設もあるようだ。
 孫の練習時間は3時間余りである。自分なりの時間割を創って楽しむことを思いついた。何だか春が待ち遠しくもなる転居後の初体験であった。

2012/01/15

やっぱり、何かが変??

~大学入試シーズンの門が開いたが・・~
 ラジオは小生の「人生の伴」である。
 そのラジオから「えっ!?」と耳を疑うような情報が飛び込んだ。そうか!大学入試センター試験が始まったんだ、と他人事のように呟きながら耳の奥にひっかかる事柄に対して気分が悪い。共通一次とか言う表現はいつの日のことだった?と老脳は過去に思いが走った(笑)。
 ネット記事では、センター試験の前日準備状況が報じられていた。受験生への対応は「カンニング対策」が主であった。このこと自体には動じることは無かったが、カンニング(=不正行為)をしてまで大学入学を果たさなければならないような受験生は、「この時代」でも存在するんだな、ぐらいにしか考えなかったからである。しかし、毎年のことながら受験生を受け入れるサイドに問題が無いわけではない。出題ミスが必ず発生する。これは作問する「プロ集団」の誠意の問題ではあるが、専門家の専門家らしくないミスにはただ呆然とすることもある。プロ意識の欠落は受験生に対して失礼ではないか。人間性の問題であり、毎年吐露するとなると大人としての責任感が欠落していると判断されたとしても、やっぱり何かが変?
 今回の小さなミス(らしい表現での情報)が耳を突いた。
 それは解答用紙の配布ミスである。再配布されて解答を移し替えて、45分もの時間延長をしたらしい。たかが45分と言うな!次の科目の受験時間まで食い込んでしまったので別室にて、無事に試験は終えたとの情報であった。会場で「配布ミス」が起きてパニック状況になるのは受験生だけでなく会場に配置された職員でもある。そんな状況下で不正行為が発生したとすれば(あくまでも小生の愚劣な想定)、本末転倒と言わざるを得まい。どこかで何かがズレていないかい?やっぱり何かが変?
 ちっちゃなちっちゃな出来事も繰り返し起きてくると麻痺症状にもなる。
 大人たちの油断と無責任な言動は、冷ややかに見つめる子どもの視線に反映して積み重なる。動かし得ない「大人不信感」は、容易に払拭できるものではない。大人になり切れないまま年齢枠の中で大人になっている社会層が増えていると考えてしまう。それだけでも、「何かが変?」と首を傾げる光景が多くなるのかも知れない。小生のラジオ情報以外にも 、多くの受験会場で人災(笑)が起きたようだ。天災は防げなくても人災は『心がけ』次第では如何様にも対応できる筈である。人間界の「他人事」的な処理能力では人災も天災になってしまいそうだ。やっぱり変だよ、ねぇ~?
 大学入試時期になった。あちこちで厳しい現実が誕生する。どうか、実力を発揮して立派な大学生として社会貢献できる大人になってほしい。願うばかりである。

2012/01/14

経営管理者の危機管理感覚

~脱走犯が捕まった!!~
 大好きな大相撲のテレビ観戦を堪能している所に『ニュース速報』の字幕。広島市の刑務所から脱走した受刑者が市内で逮捕。10年も通い続けている広島市内で、しかも「南観音」と言う地名を聞いただけで鼓動が高鳴ってしまった。その地から離れた小学校の近くで逮捕されたという詳細を知るにつけて当該地域にある学校の経営者や所轄市教委のご苦労が偲ばれる。
 やっぱり何かが変??
 刑務所の壁って「乗り越えられるのか」と疑うが、諸条件が整って(・)乗り越えて・逃げることが可能なように展開していたのだろう。そんな状態では無防備な学校(未成年者=保護を要する年齢の児童・生徒を収容している)では、手の施しようが無いではないか。それで学校の敷地内で被害者でも出たら世論は、また学校の杜撰な経営と中傷するのだろう。やっぱり何かが変だぞ!安全を護るべき警察という業務が、護送中に自殺されたニュースはホンの数日前のことではないか。どこかで箍が緩んでしまっているのではないだろうか。
 東日本大震災が、「甘えて・緩んだ」我が国に警鐘を鳴らしてくれたのではなかったのか。天災の怖さは避けて通ることはできないが、最近の『人災』は、原因が人間生活の機能に油断と、他力本願の他人事的日常生活がもたらしているとしか思えない。
 職業病として頭を過る。
 学校と言う「囲い」の中で、児童生徒の安全を保障する方策として、「身内で出来ること」を確かに「できる」状況にしているか?と追求して欲しい。つまり、教員の一人一人に危機管理の意識が充満しているか、という意識付けは研修や講習で養われるモノではない。日常の、ホンのちっちゃな事件や事故を意識の中で拡大して非常事態を想定できる個人能力にしておかねばなるまい。現職の日々を思い出しながら後輩諸兄のそれぞれの持ち場で責務を果たして欲しいと願わざるを得ない。
 凶悪犯という脱走者に新しい犯罪として市民の命を落とすことが無かったことだけは、細やかな救いではあったが・・・。警察だけでなく、何かが変ですよね。

2012/01/13

これって、公務災害??


 ~元気に復活に安堵~
 茨城県に転居したから、ではないが偶然にも稀勢の里という関取が大関に昇進した。大相撲ファンとしても数年前から注目して将来の横綱を期待していた力士でもあった。「未完の大器」として相撲人生を終わってしまうのではないかと余計な心配までした時期があった。
 スポーツと言う特殊な業界では、「運も人生」らしい。その中でも他のスポーツとは成り立ち方が違う日本大相撲協会の『部屋制度』では昨年度は一大ピンチを迎えていた。力士の育成手法へのメスも入れる必要性があるのでは?と一人の素人ファンが気を病んでしまったほどである。成長の伸び代を案じるのは、どっぷりと浸った教育界に身を置いた垢が除染し切れていない証しかも知れない。
 そんな中で、先日(4日目=11日)、話題力士の取り組みの直前で大きな事故が起きてしまった。国技館の館内が一瞬静まり返ってしまった。200キロ近い力士が50キロぐらいの行司(写真・木村正三郎)さんを土俵下に突き飛ばしてしまったのである。直に落ちた行司さんは頭部を強く打ったようだった。全く動かなくなってしまった画面がテレビ観戦者にまで臨場感を伝える。タンカで運ばれるまでの数分間は前代未聞の傷害事件が起きたかのような異様な雰囲気となってしまった。次の出番を待つ力士も、盛り上げてきた闘志に水を差されてしまうような状況になった。
 そして、翌日の5日目。画面には軍配を持って元気に土俵に上がられた行司さんが映った。館内からも拍手が上がった。ファンとしては安堵しつつ奇跡すら感じた。3倍以上の重さの力士にかなりのスピードで突き飛ばされ地面に直接頭部をぶつけるほどの衝撃から、「異常なし」との医師の診断が下って公務を続ける。これって、列記とした公務災害に当たるだろうなぁ。「昔取った杵柄」の職業病がこんな所にもまだ残骸として存在していた(笑)。
 日本文化のシンボル的なスポーツ(大相撲)も時代の変遷に置いて行かれそうな気配に危惧するファンである。故に、考えることも多い。外国人力士の台頭と反して活躍する日本人力士の減少にはその背景を考えてしまう。
 テレビ観戦する祖父ちゃんの傍に寄って来た孫は、「この人たち裸で何してんの?」と質問した。心底から驚いた。まさしく日本文化の変貌ではないか。ともあれ、 大事に至らずに済んで職場に復帰できた行司さんに安堵した大相撲ファンである。

2012/01/12

探し物は何ですか!?(陽水)

~どこかにある!筈~
 「俺の人生、半分はモノ探しで過ぎちゃってるよ」と、友人がある時発した言葉を思い出しました。周囲で聞いた同僚が一斉に噴き出すほどの笑いに繋がった光景が浮かんできました。他人事ではない。そんな一日の経験はありませんか?
 人の名前が出てこない。さっきまで使っていたモノが見当たらない。持って移動してどこに置いたか見当がつかない。あれっ、また同じものを買ってきちゃった。そんな人生を直接体験として実感するようになるのは何歳ぐらいからでしょうかね?
 探し物でミニ書斎が足の踏み場が無い程に散財しました。
夕暮れ時になって小学生の孫たちが「勉強しに」やって来ました。妻が、「今日はお祖父ちゃんの部屋では無理よ」と窘めている声が聞こえました。孫たちにまで迷惑かけちゃいました。老人性うつ病にでも罹ったかのように落ち込んでしまいそうになります(実際はなりませんが・・・)。
 ところで笑い話の笑い話を吐露します。
探し物が何だったかさえ忘れてしまうこともあります。救いようが無いでしょう。ホントに笑っちゃいますね。そんな経験までは無いでしょうね?
 結局発見できず、また束ねて元の鞘に戻してしまいました。孫たちは宿題を終えたらしく母屋に帰って行った後、妻が入って来て言いました。「探し物をすると片付くでしょう?」と。夫は答えに窮しました。なぜならば、ひっくり返した産物はそっくりそのまま元の場所に戻していたからです。大山鳴動してネズミ一匹も出ぬ状況で「終日の悩み」(=モノ探し)の解消は成立しなかったわけです。気分がスッキリしませんが、これも日常的行動になれば気にもなりません(笑)。
 茅ヶ崎の知人から電話がありました。
 「今日は雪が降っています」と。この冬一番の冷え込みをラジオが伝えます。冷え込んで来ると脳も悴んで「健忘症」も悪化するだろうな、と自分に言い聞かせをするボヤキ節もホンモノになっちゃいました。当ブログの愛読者の年齢層は?いやいや、そこまでの追及は止しましょう。ブログ作成者を安心させるような仄々とする体験談等をお寄せくださいませ。

2012/01/11

ラジオを聴きながら・・・(8)

~「国家試験」と調理師免許~
 東日本大震災から今日で10か月が過ぎたことになる。
 あらゆる分野に大打撃を受けた。丹精込めて作った農作物が「商品」(=売買が可能)として値打ちが下がるだけでなく、廃品となってしまった現状を今日のラジオを聴きながらその本質を探ることに興味が募った。
 「日本の食文化を世界遺産に」を訴える『和食料理人』の声に大脳が衝撃を受ける。頭が冴えて目が覚める。隣で聴いていた妻がこの料理人を知っていると言い出した。手元にある月刊誌・ラジオ深夜便1月号を開く。
 口に入れる(命を支える)料理を作る職業に国家試験が無いことを氏が訴える。「そうなんだ!?」と思わず言葉を発してしまった。理・美容師の免許を得るには国家試験の合格が必要であるのに反して、調理師には無い。料理店は管轄行政の保健所の許可さえあれば開業できる。中毒を講じて人名が損なわれる事件が起きても体制は全く揺るがない。国民の「食事」に対する意識が低いことを証明していると氏は嘆いている。調理師国家試験、って在るものだとばかり思っていた浅学を恥じる思いで聴き入った。
 国民意識、という観点からすれば和食はまさに日本にしかない料理法である。味噌汁という代表的料理品を例にして「発酵食品」が世界のどの国にも存在しないことをもう少し誇りに思う国民でなければいけない、と力説する氏。その言葉に思考回路に大地震が起きてしまった。
 ★調理師=名称独占資格。「調理師とは、調理師の名称を用いて調理の業務に従事することが出来る者として都道府県知事の免許を受けた者を言います。食品の栄養・衛生・食中毒・適切な調理法など関連分野の幅広い知識を持っていることを証明されます。
 事典で調べただけでは雲を掴むような説明であるが、確かに国家(試験)資格は要しないようである。そこで、早起き暇人は氏の口から飛び出した理美容師の国家試験との関連を調べてみた(掲載は美容師のみ)。
 ★美容師=厚生労働大臣が行う美容師試験に合格し、厚生労働大臣から美容師の免許を受けた人の事を言います。ヘアー・メイクアップの専門家です。
 明らかに国家試験の表現がある。免許制度という本質ももう古い体制になってしまったようである。国家体制にある全ての組織・機構が時代変遷とのミスマッチが明確に露呈していると考えるべきではないだろうか。
 そこで、小生のテリトリーである「教員免許状」についても若干の違和感を当事者が持ち始めていることも述べておきたい。教育に関する国民意識や国民感情を組み込んで考えると今朝のラジオ登壇者からの発信と同様な願望が表出するだろう。推測するのは容易ではないか。
 今朝のラジオを聴きながら、我が国自慢の「農業」を誇る東北各県がその稼業がどん底に喘いでいる現状を考えた。日本食の行方までが心配になってくる。食に関する国家意識も根底から考え直す必要性を痛感している。東北の素晴らしい食材が「和食として」日本文化として輝く日が復元されることを祈らざるを得ない。

2012/01/10

『鉛筆』の思い出

~鉛筆を削る~
 小学校の高学年になって初めて「鉛筆の濃さ」を知った。お勉強のできるM君のノートが担任の先生に紹介された。そして、そのノートが公開された。几帳面な性格(=後で知った)らしく、どのページをめくってもきれいに並んで書かかれていた字体に多くの友人たちが魅かれたようだった。急に頭角を現した秀才だった。小生もちょっぴりの羨望の目線で見詰めたことは事実だった。
級友の殆どが「真似る」ことで、褒めている憧れの担任教師に認知されたいという本能が働いた。小生も例外ではなかった。しかし、どれだけ書いても先生は褒めてはくれなかった。誰かがHBでない鉛筆をM君は使っているという情報を漏らした。たちまち学級内ではその「4H」という濃さの鉛筆が注目を浴びた。これが流行と言うものだった、とはずっと後になって気づいた。
 このブログでは鉛筆1本から派生した流行を述べよう。
それは、その鉛筆を削って尖った尖端で文字を書くと「きれいに」見えるような錯覚で学級内のノートの字体も濃さもほぼ同一品となるような流行となった。当の本人は、真面目で無口で静かで「居るか居ないかわからない」ような人物でもあり、この流行発生源が無ければ、欠席しても気づかれない存在だったと思われる。
 元凶(?)は担任教師の言動だったと述懐する。
 鉛筆削りの作業状態も今となれば珍風景であるが、何故か微笑ましくも思い出せる。ただ、真摯に考えるべきは、「オトナの実態」がここまで「子どもの現実」を産むのだと言うことを考えねばなるまい、と言うことでもある。
 ともあれ、小生と「鉛筆削り」の思い出を弄りながら45年間で筆記用具から発生する「文化革命」(笑)を軽視できない。
鉛筆を削る/薪を割る/水を汲む/風呂を沸かす/雑巾がけをする・・・・・・。
手足を使って作業した状態は、スイッチ一つで座ったままで果たせるようになっている現代に生きる人間の将来はどうなるのだろうか?お正月早々の話題としては少々暗かったかな?新成人たちの90%が「将来の日本に不安を感じる」とのアンケート調査結果を証明しているような思いに陥っている朝である。
 今日から、孫たちは学校が始まるそうだ。元気で通学して欲しいと願うばかりである。

2012/01/09

『成人の日』に思う

 ~私の「二十歳(はたち)」の頃~
 18歳で上京して次兄と4畳半一間のアパートに住んだ。大学1年生は19歳になる。翌年(昭和39年・1964年)の誕生日を迎えると、目出度く「オトナの仲間入り」を意識する二十歳になる。兄が安い給料を叩いて、弟のお気に入りの紺色の背広上下を作ってくれた。袖を通して足を入れて鏡の前に立った弟に兄が、「どうだ、気に入ったか?」と言った。生意気な弟はお礼の言葉も発せずに、ただ一言「うん」と返しただけだった。成人式に着せてあげるための兄の「親心」だったにも関わらず殆ど感謝の念も無く過ごしていたことを、今になって悔いつつ感謝している。
 私の二十歳の頃。
 1958年に東京タワー(当時の写真)も完成して、1964年の東京オリンピック開催予定で日本列島が敗戦後のどん底から這い上がる絶好機として一丸となって経済成長に加担し始めた頃と言えるのだろうか。
 オトナになった!そんな自覚や自信も無く4年間の大学生生活を自活することだけを考えて、アルバイトに明け暮れた霧中の人生だったと振り返る。兄に贈られた背広(当時はスーツとは言わなかった)を着て、神奈川県高座郡寒川町の庁舎で成人式を受けさせていただいた。会場には馴染の顔も無く故郷での成人式に集う悪友たちを思い浮かべながらの寂しい成人式であった。その夜、アパートの一室で兄が買って来てお酒を呑ませてくれた。味など覚えていない。セピア色にして浮かんでくるアパートの一室が懐かしい。
 当時は、故郷との通信は「手紙」しか手段は無い時代だった。
 母親も大勢いる子どもの成人式を晴れがましく祝う風潮に酔う人生など送っていない。成人おめでとう、なる文言が届いた(手紙等で)記憶は無い。父を戦争で盗られ末っ子の小生が「二十歳」まで育った事実だけで母親は満足だったのだろう。そんな戦後20年の頃が成人式の時節だったのだ。
 新幹線の開業(当時の車両写真)で東京~名古屋~大阪は活気づいた?家庭経済には三種の神器(3C=カラーテレビ・カー・クーラー)なる合言葉が飛び交ったが『無縁』の生活で明け暮れた。同時に「消費は美徳」という言葉も飛び出して、「使い捨て時代」の幕開けでもあったのかもしれない。使い捨てられた「ごみ」が、その後の我が国に「大問題」として降りかかることを想定したとしても「経済上昇」が優先された時節でもあった。こんなちっぽけな記憶を弄るだけでも、現況が昨日今日出来上がった訳ではないことがわかる。国家の歴史責任は全ての国民にあることを実感する。
50年ばかり前に体験した成人式のあの時代があって、今日の成人の日がある。その歴史観は十分に理解できる。しかし、老輩者の単純なノスタルジーとお笑いいただきたいが、小生には大きなボヤキがある。
成人の日、と「日」を限定するのも「第〇月曜日」という指定ではなく、1月15日(で、なくても良いが)という「日」を特定して、「連休にする」目的を優先させる浮動票紛いの不安定な制定は止めて欲しかった!と。
 そろそろ、「成人の日」の太陽が、新成人への期待を孕んで昇ってくる。さあ、国旗を揚げて122万人の新成人を祝うことにするか!!!

2012/01/08

昔人の知恵に脱帽


 ~お粥の威力~
 昨日の夕食。嫁と半分ずつに分けたという食材が『七草粥』に変じた。子どもの頃お粥を食べさせられた苦い思い出は「病気」の時だった。元気のない身体には美味しいとの味覚は無かった。噛まずに呑みこむのは苦渋の時間だった。慣習では朝食に摂るという七草粥であるが、今年は我が家では夕食となった。
 齢を重ねるごとに実感するのが、日本食のお粥である。取り分け、お正月気分が消えかかるこの時期のこのお粥が美味に変わり始めたと実感するのが加齢の証しか。祖母が詠み唄のように発した以下の(歌)詞が、60年経った今でも諳んじていることが不思議に思えるほどでもある。


 せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ

 意味も分からず実物との照合等もせずに記憶する、昔の人はこのことを「諳んじる」と表現した。祖母からの教えは多くはこの形でインプットされている。今でも、この七草の実物も得体の知れない植物のままに胃袋に入ってしまう。七草粥の食材はスーパーの食料品売り場にはセットで販売している時代になっている。
 ともあれ、お正月と言う特別な食生活が、このような料理で胃の調整を図っていることを考えると『医者要らず』療法の知恵に感心してしまう。薬と言う現代科学が生んだ遺物に依存してしまう生活に慣れると、自然治癒という流れへの努力は不要となってくる。この食文化は正に自然治癒への誘いなのか。
 母屋で食した孫たちが「離れ」にやってくると、老妻が「美味しかった?」と聞いていた。美味ではないだろうが、母親が作ってくれた料理は美味しかったようだ。「離れ」では、七草粥に舌鼓を打つ老夫妻の姿があったことは事実である。
 先人の知恵に感謝する七草粥を食した翌朝である。

2012/01/07

一枚の名刺

~プロの醍醐味~
 パソコンがトラぶった。
 当然ながらどうにもこうにもならない。二進も三進(=にっちもさっち)もいかない、と昔の人は表現したのだろうか。無職の小生には、「社会との接点」はこのパソコンが主幹的な存在である。購入したパソコンショップに持ち込もうか?そうすると組織の処理になるので「一時預かり」となってしまうだろう。明日から連休になってしまうことも脳裏をよぎる。
 このブログも、読者の皆さんにとっては「おつきあい」心でお読み戴くのであろうが、「発信しない限り」その時間もお約束できない。インターネットという機能はもはや、こんな老脳にも「竹馬の友」である。トラブルと厄介な器物であるが、利用価値や存在感は堪らない。喧嘩をしたり仲良くなったり、とまさに幼友達と相似である。
 思い悩んでいる段階で、ふと一枚の名刺が目に入った。
 肩書は「事務局・お客様サービス担当」となっている。しかも、携帯電話番号が付されている。電話をしてみると、「30分後にはお宅に参ります」との明るい返事が戻って来た。いつも元気な長男・孫が、こんな日に限って(笑)発熱で離れの我が家で寝込んでいる。老妻は、そんな状況下でも来客を請う夫を訝しがる。寝床を横に見てサービス担当者に小生のミニ・書斎に侵入してもらう。事情を話すと、本部と連絡を取りながら専用の機器で2~3の専門機関と連絡を取り合ってもらっているようだったが、「わかりました。やってみます」との言葉を最後に、椅子に座り直した。差その後は一言も発することなくマウスとキーボードを自在に操る度に画面がその都度、見たことも無い画像を呼び出し、指示に応えながら約30分間沈黙の中の作業の結果、見事に解決した。
 「これで大丈夫だと思いますが、同じ症状になったら・・・」と更に専門家へのアプローチとして電話を掛けてくれる。そして先方と打ち合わせを済ませて依頼してサービス業務作業は完了した。1時間余りで「何もなかったかのように」去って行った。老妻がお茶を出すタイミングも失したほどだった。
 一人になって改めてパソコンに向かう。
 止まっていた作業をパソコンで再開させながら、『プロって??』と、しみじみ考え込んでしまった。それは自戒をも含めてであった。教育関係者ほどプロの「お客様・サービス担当者」ではないだろうか、と自問した。暫くは自省のための老脳への刺激の時間となった。偉そうに後輩諸兄にモノを言う小生の性分には堪える時間となった。しかしながら、「プロの醍醐味」を思い知らされた小寒の夕暮れであったことは事実である。
 孫も医者と言うプロに掛かって来たので大丈夫だろうな、と呟く小生。パソコントラブルでパニックになっていたはずのこの老人は、正真正銘の愚直なお祖父ちゃんに戻っておりました(笑)。

2012/01/06

46歳の『成長』


 ~親との別れを体験して~
 毎年のことながら集ってくる卒業生たちの「顔つき」に大きな変貌を感じる。多くの参加者が45歳を超えている。ご両親の現況を問うと、多くが既に他界されたとの情報が返って来る。当時の中学生の親御さんたちも70歳代であろうか。
 子を持って知る親の恩。
 ふとそんな古諺が脳裏を掠める。参会者には高校受験者や大学受験者がいるようだ。そんな人生の中で学費を捻出してくれた親の苦労を実感している語りも聞こえてきた。言葉の端はしに「感謝の思い」を明言する者もいた。
 親孝行 したい時には 親は 無し。
 これは川柳なのか。良く耳にする表現である。連れて移動した孫は小学校1年生と4年生である。参加者たちが小生の下で練習に明け暮れたのが中学生時代である。小生も当時は小学生の子どもたちの父親だった。同行した孫の父親(=長男)が小学校の低学年だった。その子が父親になっている現在を参加者たちが感慨深く自らの加齢を実感している風景が、今回は非常に強く印象付けられた。孫の参入が自意識に拍車を掛けたのかも知れない。確かに時の流れを実感する証拠品が二人の孫の存在だったようだ。
 個々の格差はあるにせよ、それぞれの苦労の歩みは言動や顔つきに滲み出るようだ。表情に在りし日の父親にそっくりな卒業生を確認すると小生も苦笑である。「そっくりになったな」と声をかけると多くの卒業生が「最近、良く言われます」と照れながら笑った顔までがそっくりになっていた。そこに卒業生たちの「成長」を見た思いで胸が熱くなった。
 親は死んでも親業を果たしている。
 これは小生の自作の表現であるが、盆や暮れの墓参で額ずき目を閉じて「ありがとう」と心の中で呟くと、現時点での自らの親業の苦労が軽減されるような気分にもなるモノである。参加者の多くが、これから「我が子の分離・独立」という分岐点に差し掛かる。そして、新しい家族が出来る。人生に休みは無い。遠く大阪から参加した者や、もう仕事が始まりその営業先から背広・ネクタイ姿で馳せ参じた者もいたようだ。元気で今年も集まってくれた。そんな喜びを貰いながら卒業生たちの時代がやってきて世代交代の実感も深くなった。そんな成長ぶりに感激!

2012/01/04

私的な年間行事




 ~本年最初の「里帰り」~
 本来の年間行事では、夕刻の定時近くなったら自転車で会場まで移動する。そこには大勢の卒業生が待っている。平均年齢も45歳を超える集団である。ほぼ全員が中学校教員時代に指導した「野球部員」である。いくつか大事にしている私的な年間行事の中にある野球部のOB会の開催日が、本日(1月4日)である。
 県外に転居したので夕刻開催のこの行事参加も少々厳しいモノがあり、主催者からはホテルの予約の申し出もあったほどである。気遣いは無用と断った。深夜の帰宅も覚悟の上の決断だったからである。しかし、雲行きは急転した。同居する孫たちが同行したいとの要望が出たからである。
孫たちの要望は1つである。
 このOB会に参加者する者の中には現役のプロ野球選手がいる(写真参照)。その参加の有無は例年のことながら、当日ぎりぎりにならないと判明しない。その吉報メール(笑)が一昨日届いた。それを聞きつけた孫軍団が「行きたい」との意思表示につながったようだ。二人の小学生を連れて移動となると同伴はお祖母ちゃんが必要となる。吉報メールと同時に茅ヶ崎のホテルに電話して4人分の部屋を確保した。
 という訳で、本日は「茅ヶ崎への里帰り」との名目で、孫たちを連れて出かけることになった。驚くほどに巨漢のプロ野球選手と対面したら孫は度肝を抜かれる事だろう。昨夜から興奮状態の二人の小学生にとってはお正月の思いがけないプレゼントとなること間違いなしである。「サプライズ」と表現した方が無難だろうか。今夜は茅ヶ崎のホテル宿泊で、明日は東京経由で初詣でもして帰宅予定である。従って明日のこのブログは休刊となる可能性が大である。ご理解いただきたい。

2012/01/03

「子育て」の延長腺上にある喜び

~「里帰り」という風物詩~
 3人の子ども(長女→次女→長男)が順次に家を出て行ってしまってから10年以上の歳月が流れた。それぞれの世帯が出来て、それぞれの家族としてのリズムが出来つつある。5人の孫を中心に、彼らが「親業」に取り組み始めている。他人には言えない悩みも多くなる。辛くて逃げ出したくなることも多い。我が子の将来を案じる親としては複雑な苦悩が発生する。そんな思いに揺さぶられて沈没しそうになることも多い。それが「親業」である。
 教員としても他人に対して「厳しい」人生哲学を要求した。それ以上に「我が子」への要求は厳しかった、と3人が異口同音に発する。衣食住のいずれにも親としての『子育て3原則』を突きつけた。衣・食・住の『衣』は必要以上のお洒落(=流行を追う)には断固として拒否を強制した。『食』では、嫌いなモノは食べない、という我儘は許さなかった。一口でも食することを強いた。泣きがなら食べたことを3人ともハッキリと記憶している。『住』では、「子ども部屋」の独立は必要最低限のプライバシーを護ることは意識したが、「独りだけで」使う環境づくりは拒否した。その実例を挙げる。学習机を買い与えることはしなかった。子ども部屋で「勉強する」利便性は不要だと考えていたからである。高校受験や大学受験でもそれを支援するような学習環境は敢えて作らなかった。それでも、高校やそれ以上の学校までは進級した。学歴が人生を幸せにするとは全く考えていなかった。大学進学を希望した時点で「将来を語る」ことを要求した。上級学校で「何を学び、将来にどう生かすか」の回答を父親として確認したかっただけである。
 結婚相手が内定(笑)したら、必ず両親に紹介することを強制した。3人ともその時点の前段階で母親の耳には通していたようだった。母親としての妻の存在感を実感して嬉しかった記憶も鮮明である。3人と同行するらしい「他人様のお子様」に、父親の口から「よろしくお願いしますよ」と一言だけ伝えたかっただけである。だから、娘たちの選んだ男性が「お嫁にください」との一言を発することはさせなかった。「共に仲良く生きて欲しい」という親心からの思いだけである。
 その後、孫も誕生した。
 お祖父ちゃんになった幸せは筆舌しがたい程の嬉しさであった。孫たちが成長してくると親である娘や息子の成長ぶりが気になって仕方が無い。なぜならば、あいだみつを氏は自らの書に『育てたように子は育つ』と表している。我々が「育てた」子どもたちが、確かな成長を遂げていなければ孫世代が成長しないではないか。親業の当事者時代より、寧ろ「現在」の方が苦しく感じる。なぜならば「親業」に従事している我が子が「育てたように」育っているという事実が付きつけられる怖さがあるからである。
 正月二日の里帰り。
 お年玉もお年賀も不要である。それぞれが、自らの生き方に生き甲斐を持って生きていてくれるだけで言う事は無い。お年玉をあげることも決して惜しくはないが、間違った経済感覚や観念を育ててしまうような「お金」を幼少期に培う必要性もないのではないか。寧ろ、賀詞が問題である。成長に即した年齢相応の「賀詞」が言えない大人にしてしまう方が恐ろしい。
 長男一家と一緒に住んで、嫁いだ娘たち一家を迎えることの醍醐味を実感した。
 老夫婦だけの家に、息子一家や娘一家が「寄り集まる」風景では無いことが妙に嬉しい。古臭い脳細胞だと笑われても小生はこの哲学をこれからも大事にする余生を送ることにする。物理的な問題もあり、この環境が整えられた小生夫婦は幸せなのである。そんな新年始発に弾みが出来そうな予感がする朝である。

2012/01/02

同音異義語シリーズ②

~「天災」と「天才」~
 昨年の東日本大震災は天災であることを実感した。
 人間が小さく見えるほどの自然力の大きさには対抗どころか抵抗も出来なかった。天災は予知できない?地震速報のけたたましい音をラジオや携帯電話から何度も聞いた。聴くたびに驕れる人間は、「もっと早く予知できないのかよ~」と不平不満を口にした。つまり、天災は人間社会の誇りである科学力でも予知はできないモノのようである。
 年賀状の返信の準備で、毎年のことながら「元旦の午後」はパソコン(科学力の先端技術作品)の前に座りっぱなしである。午後5時前に、「お正月番組」を鑑賞すべくソファに身を委ねる。新聞は「離れ」では購読していないので母屋から運んでくれたら一読する。それが毎日の日課である。手元に届けられた新聞は異常な分厚さと広告用紙が束になっているので見る気もせずにNHKBSプレミアムの番組を選んでいた。何気なく画面を見つめると、そこには「美空ひばり」という歌手のアップが映っている。
東日本大震災で被害を受けた福島県・塩野崎灯台に建っているという歌碑の話題が展開されていた。実は、美空ひばりさんの歌(=「みだれ髪」)の歌詞を以前その成立過程を本で読んだこともあり、いわき市に仕事に行った時にその歌碑のある塩野崎灯台まで観に行きたかったといういきさつもあったので画面にくぎ付けになってしまった。
 舩村徹さんと言う作曲家が、しきりに「ひばりさんは天才」だと表現される。歌を歌う事での天才だと氏は説明された。曲を作る人と、その曲を音にする(歌う)人との関係から発する表現である。2オクターブという音域も想像できない小生には「歌の上手な人」としか考えられないが、曲を作るプロと歌で心情を訴えるプロとの間には小生のような一般人には全く入り込むことの出来ない別世界があるようだ。音から心を詠む?地声と裏声のバリアが無い?言葉の深意を音符で表現したものを瞬時に読んで声にて表現する?等々の事例を述べる作曲家の言葉に引き込まれて聞いてしまった。しみじみと小生は凡人であることを実感した(笑)。上手に歌えるのは「プロの歌手」であれば当然のことであろう。しかし、歌う天才であると言う「美空ひばり」さんは、作詞家と作曲家が「想定して創った」曲想を、信じられない幅と奥行きと深さの世界を「歌で」作ってしまうのだそうだ。やはり、この天才も何人にも予知できないほどの芸術品を仕上げてしまうパワーがあるらしい。しかも、舩村徹氏の表現を借りると、その表現時間は僅かに3分間余りだそうだ。
 天才も天災も「凡庸な人間」には想像できない世界に存在するもの。
天才と○○は紙一重?子ども時代に「お勉強のできる」友人にやっかみ半分にぶつけた言葉を思い出して苦笑である。あの友人たちは天才では無かった(笑)。
 舩村徹氏の言葉を最後に借りると、「ひばりさん」のような天才の出現は、我々が忘れてしまった頃になるのではないか、とのこと。異にして同じ?やっぱり「てんさい」には「忘れる」ことがキーワードだったのか!!凡庸な小生は、今日ここに記した簡単な内容でさえも明日は忘れてしまっている!!

2012/01/01

新年明けましておめでとうございます。

~今年の『目標』は?~
 可もなく不可もない日常の生活を護る
 こんな内容が目標になるとは考えたことも無い。誤解を受けそうなので年頭から「言い訳」をせねばなるまい。責任ある業務に携わることが「人生の大黒柱」である。子育てから孫守りに代わると責任の所在は計測もできない。給料をいただく業務も無いので、そこにも責任の重さがゼロとなる。となると、日常的な人生の柱には、周囲に迷惑にならない人生を送るためにきちんと守らねばならない鉄則がある、と言う理念に即しなければなるまい。それが、健康管理のための適度な「緊張感と運動」を護ることではないだろう。つまり「可もなく不可もなく」となる訳である。
 三十日に茅ヶ崎の知人から訃報が入った。30分前まで元気だった85歳の老女が他界した。風呂場での出来事だったとのこと。家族の手を煩わせることも少なく人生を終える。このことを考えるのは老齢者の常識であろう。小生夫婦も、会話の締めくくりは常にこのことである。これが2012年以降(笑)の人生目標なのである。ご理解いただけたかな?
 今年の仕事始めは1月21日。会場が熱海から浅草へ変わった。小生が茅ヶ崎市から土浦市へ転居したからであろう。事務局関係者の配慮のようなので無碍に「中止しよう」との応えは出せなかった。これも適度な緊張感と長距離を移動する運動量のことを考えれば、「目標の日常化」に叶っていることである。新春教育講演会(21日)の演題に即して、資料の準備にピッチを上げることにしよう。
 意欲と情熱は冷めていない。そんな老輩が今年も出立しました。旧年に変わらずのご厚情をよろしくお願い申し上げ、年頭の挨拶としましょう。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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