2011/03/21

雨の朝になりました。

 ~『放射能雨』の思い出~
 少年の日の思い出が苦く思い出される朝である。
 詳細の記憶は無いが小学生だったと思う。雨と一緒に放射能が降ってくるので、必ず傘を差しなさいと強く指示された。科学的な裏付けなど知らない子どもにとって、この雨に濡れると死ぬかも知れない等々の噂も耳にした。いわゆる「流言飛語」である。子供心にも怖かったことだけは記憶している。
 茨城産のほうれん草が話題になっている。それぞれの専門語には難しい単位があるようだ。それを駆使されて報道されてもピンと来ないが、「~基準よりも100倍以上とか1000倍に近い値で」との例示があると途端に恐怖心に誘われてしまう。福島第一原発周辺の問題でもそうだった。考えてみれば、ほうれん草問題の情報はそこに端を発しているのである。阪神淡路大震災の1000倍の威力だった地震だそうだ。正に想定外の自然災害であるから、原子力発電所の設計時点でも想定にないほどの大災害である。関係者も自然災害の被害者の一部であることは当然認めなければ、命懸けで復旧作業に携わっている人たちには立つ瀬が無い。自衛隊や警察関係者のご尽力は多大なモノがあるようだ。感謝しなければなるまい。
 それにしても、農業県である茨城県としてはとんでも無い二次災害ではないか。偶然ではあるが長男一家が住んでいる場所でもあり他人事には思えない。単なる我欲なのだろうか。一方では、被災後9日間経て助かった「お祖母ちゃんとお孫さん」の朗報も知った。悲喜こもごもの事象を見聞きしながら、大規模災害の被災地が一日も早く修復できることを祈るばかりである。
 雨音を聴きながら、遠い少年の日を思い出している朝である。

2011/03/18

「氷点下の被災地」に思いを馳せながら・・

 ~旅の支度を調えました~
 今年度最後の講演のために間もなく家を出ることにしています。
 目を覚ました枕元の(常備の)ラジオにスイッチを入れる。慣例の行動に移る。それは気温の高低で布団を抜け出すための時差である。今朝は「冷え込んでいるな」との体感で、自然にエアコンのリモコンに手が動く。そこには耳を通り抜けたアナウンサーの声が残っていた。それは今朝の被災地が氷点下であることだった。取り出したリモコンを握ったまま葛藤する自分がそこにある。情けない!そう思った瞬間にリモコンから手を離した。布団の温もりすら無い避難所の光景を思い浮かべたら、再度の自己嫌悪であった。暫く天井を眺めながら自らの甘えを反省して、布団から抜け出して直ぐに着替えを済ませた。しかし、ホントに寒い。閉め切った小さな和室でこの寒さに震え上がっている意気地無しを罵りながら今日の一日が始まったのである。
 今朝も早朝からテレビはもう全開だった。
 流言飛語。そんな言葉を思い出す。情報が無さ過ぎても、有り過ぎてもこの症状が生まれることが今回の悲劇で良くわかった。関東大震災の最中の流言飛語の事を小学校時代の恩師から聴いてこの言葉の意味を知った。NHKのラジオ放送が始まったのが関東大震災2年後であったと、今朝のラジオで知った。関東大震災の時は情報が無さ過ぎたのだ。今回の東北関東大震災では、情報が有り過ぎるのかも知れない。数日前のテレビ番組で、「気象庁は未だ発表していませんが、確実の津波がやって来ます。該当地域の近くにお住まいの方は直ぐに避難してください。至急高台に避難してください」という主旨の報道が繰り返された。その数分後、気象庁から「津波の心配はありません」とのコメントが他のテレビ画面から報道された。
 肝心な被災地には情報が届かないらしい。この矛盾がまた考えさせられる。
 そんな思いを巡らせながら、これから和歌山まで出向きます。被災地の皆さんの頑張りには負けますが自分なりの務めを果たすべく頑張って行ってまいります。

2011/03/17

あっと言う間の1週間

 ~衝撃は覚め遣らず~
 毎週木曜日は小生夫婦の定例鍼診療日。
 特別のことがない限り、もう10年以上も続けている日課の1つである。年度末の予約をしていなかったので、先週の診療を終えてから改めて今日(17日)と来週の診療を予約した。その時、診療師に向かっていつものように冗談混じりに、「この歳になると明日のことも分かりませんが、来週はよろしくお願いします」と言った。その「明日」、つまり3月11日が東北関東大震災となってしまったのだから複雑な心境にも陥ってしまう。
 気象台観測史上の記録と発表された「マグニチュード8.8」と言う地震の規模を示す数値だけでも得体の知れない怖さを感じた。その直後からは、テレビ画面に映し出される「津波の正体」に全身から血の気が引いていく悪寒を感じた。時間を経て震度の修正が行われ愕然として脱力感までが襲ってきた。時間を経る毎に、画面から「現状の惨さ」が伝わってくる。テレビ嫌いと自称する小生でさえもスイッチを切る勇気が出なかった。一夜明けると、更に追い打ちを掛けるような新聞記事と画面の実況中継が終日続いた。その間の余震は断続的に神奈川県に住む家にも襲ってきた。立ち歩きながら常に全身が揺れている症状である。
 そして、もうあの日から1週間が経ってしまった。
 昨今は、地震・津波が引き起こした二次災害の話題が茶の間を汚濁している。首都圏ばかりではないらしい。震源地から遠く離れた都市周辺でも「買い溜め」という現象が起こっているらしい。「万」という単位で犠牲者が出ているというのに、地震の揺れも感じない地域で生活日常品までが品切れしていると言うではないか。言語道断!阪神淡路の震災でも学んだ筈の互助精神は20年間の歳月が流れれば消滅してしまったのだろうか。心が痛む。
 被災地の無惨さを興味半分で見詰めてはならない。そこに「我が身」を置いてみたらどうなるのか?皮肉なことに、被災地は今朝は真冬日だと言うではないか。暖もたっぷり取り温かいスープで朝食を済ませる事が出来る幸せを「家庭の言葉」に切り替えよう。親の一言、・・・。つまり「避難所の人たちは寒いだろうね。大変だろうけど頑張って欲しいね」と、オトナから子供達に積極的に声かけをして欲しい。学校の給食もそろそろ終わる時期だろうが、一緒に食事をする時間があったら、そんな時こそテレビ画面を見せて「たったおにぎり1個しか無いんだってよ。可哀想だね。でも頑張って欲しいね」と、教師なら語りかけても可笑しくない。
 この震災からも多くのことを学んだ。
 その一つが「計画停電」である。ホンの僅かな時間ですら気温の低さに耐え難さを感じるほどの軟弱な身体になっている自身に気付いた。時間限定の停電ではないか!自分に言い聞かせながらも寒さに震え上がってしまう。何かの支援をしたいと考えてはいる。せめて出来ることは、「数時間の停電に耐えることぐらい」か?我が身を奮い立たせながら、思いは画面で見た避難所の周りの雪景色だった。毛布1枚の避難所の現実。全国、いや全世界から届き始めた物資や人的援助が被災地に向かっているという。せめて、その妨害になるような行為だけは一般国民は慎むべきだと声を大にして言いたい。16日の夕食は「1本の蝋燭と」一緒に老妻と閑かに済ませました。
 おにぎり1個と毛布1枚で飢えと寒さに立ち向かっている被災者の皆さんのことを考えたら、買い溜めをするような哀しい考え方だけは控えましょう。

 こんなジレンマでブログに向かう気力もありませんでした。決して体調不良など起こした訳ではありませんのでご安心下さい。沢山の手紙やメール、そして電話を頂戴しまして恐縮しています。明日から、要請(講演)のために遠隔地に出向きます。気合いを入れて「自分が今出来ること」を懸命に果たさなければ避難所で頑張っている皆さんに申し訳ありませんから・・・ね。ご心配かけました!

2011/03/10

今の『私』 10年後の『私』

 ~永劫の「未来」は語れない・・~
 せめて、10年後の『私』を推測に願望を添えて語ってみるのも夢がありそうだ。
 手元にお届けいただいた「創立10周年記念誌」の表題を目にして考えたくなった。2001年4月に新設開校した小学校に初代校長として着任した。「1からスタート・・」と力む校長の言葉が遮られた、「校長先生!ゼロからのスタートですよ」と。ゼロと1では意識がまったく違うことに気付いたあの瞬間が、つい数日前のように蘇るのは何故?
 10年後の『私』は?
 今の出来事を、「つい数日前」と蘇らせることが出来るのだろうか。推測に願望を添えて考えてみると「つい、昨日のようだ」と若々しく振り返って見たいモノである。不可能だろうと推測するので願いが追随するのかも知れない。
 あれから10年。
 老親の介護のために、1年早く退職して九州に帰って行ったのが2004年4月。3年間の介護も空しく母を亡くし、その3ヶ月後に父も逝ってしまい放心状態で時間は流れた。そんな時、現役時代のご縁からお声が掛かり要請の為すままに全国を飛び回る日程が展開し始めて今日に至る。そして、いつの間にか、大きな旅の荷物をキャリアバックに詰めて、引いて移動するどさ周りの旅芸人風の生活リズムも板に付いてしまった(笑)。現職校長時代の「生き甲斐」とは別世界である。明日の関わりを持たない旅芸人は「その日・その時」だけが真剣勝負とあれば、毎日が命懸け(?)の語り部にならなければならない。リピーターとしての再訪の依頼が届いた瞬間は心身共にシャキッと引き締まる。公務員稼業とは雲泥の差であることは確かである。そんな時間の繰り返しで、「その日暮らし」を満喫してきた。
 これからの10年間。体力勝負だと実感する昨今。そろそろ「移動距離の制限」をしてみたらどうか、とも老脳に囁いてみるが、手元のスケジュールには、既に来年の2月2~3日の広島市での講演日程も入っているではないか。いや、自らの判断でお請けしているという方が失礼にはなるまい。今後のスケジュールメイクでの配慮事項とすべきことかも知れない。
 体力維持も重要だと考えているが、気力が萎えることが寧ろ、心配である。
 双方のパワーが両輪として顕在であり、且つ、脳力も衰えない限りは要請に応じることは可能かも知れない。
 1冊の記念誌に目を通しながら、そんな「10年後」に、若くもない老脳で夢とロマンを描いているのは、やっぱり能天気な性分なんでしょうね。記念誌制作に関わられた方々に感謝の意を表し、併せて勤務校の更なる発展を、併せて祈りましょう。

2011/03/09

『記憶』ってそんなモン?

 ~数通の「手紙・メール」を読みながら~
 偶然は偶然なのか「良くある」ことだ、と妙な気分で受け取った。
 それは昨日のこと。今年の3月で退職するという校長から2通、来年の退職者である校長から2通の手紙(メール)が届いた。そして、不思議なことに小学校と中学校とそれぞれ2通ずつが配信された。何気なく眼を通したのも偶然で、3月退職組と来年の退職組に分かれてしまった。
 退職まであと一ヶ月を切った校長先生方は、健康なままで無事に退職できる大願成就への謝意が面々と綴られていた。表現の違いはあっても中身は殆ど変わらない。大学卒業から「教師道」一直線にひたすら走り続けた半生が書かれ、小生との出会いへの感謝の言葉で締めくくられていた。過大評価には赤面する思いである。しかし、そんな所まで記憶されていたのかと『記憶の威力』には脱帽した。当然ながら小生も(今よりずっと)若かった。直情型の性格は今も完治はしていないが(笑)、当時の場所も叱咤した内容も克明に記憶されていることに背筋が寒くなってしまうほどだった。2通とも、ほぼ同じであり、学級経営で行き詰まった場面での教室内での小生の言動を具に書かれては度肝を抜かれてしまう。肝心なことは発信者である小生の責任であるが、全く・・・ホントに殆ど記憶に御座いません(笑)。無責任で、その場凌ぎの放言が立派な校長先生を育成した??この現実をどうしたら良いのだろうか。ともあれ、長期に渡って重責に苛まれつつ大役を全うした後輩校長に労いの言葉を贈ることにしよう。
 来年に退職を控えている二人の校長さん達は、最終年度の「夢とロマンのプラン作り」の素案を添付されているではないか。そして、こぞって「集大成」という表現になっている。爽やかな「力み」を感じながらも嬉しくなった。最終ラウンドに立ち向かう勇者を感じる。体調を崩して苦境の中で辞めることも出来ずに最終年度を迎えた同僚や仲間も多く知っているので、4月からの執務に意欲を漲らせている文面を読んでいくと晴れやかな気分にもなる。過去の自らの足跡を分析している双方に共通性もある。先を見て、現実の足下をじっくり観察している人間には「怖いモノ無し」を感じる。新年度からのプランへのアドバイスも要求されているようだ。無責任な性格の小生が、うっかりにでも「そんなに頑張らんでも良いよ」なんて返信するモノなら石の礫が飛んできそうだ(笑)。しかし、この無責任放言も、まんざら捨てたモンじゃありませんよ。最後のお務めだからこそ力んでしまうと、やり残したり積み残したりした「残務」がそっくり後継者にのし掛かることにもなるからだ。そんな実例も多く知っている。
 4通の「手紙・メール」を一度に受けた小生の老脳はパニック。
 当然ではあるが、好い加減な応えを送信するつもりなど御座いません!読者の皆さんのご心配には及びません。「管理職受難の世紀」(誰が言ったかは知り得ない)の中で孤軍奮闘したこの後輩諸兄には頭が下がります。まだ、あと1年残している校長先生方も、心身の健康管理には十分にお気をつけいただいて有終の美を飾って欲しいと願うばかりである。
 偶然の偶然たる所以などわからない。
 4名の後輩諸兄が共通して「小生との偶然の出会い」を劇的なほどに表現されている箇所だけは、どうもくすぐったくて仕方がない。偶然の出会いは本人達の意志に拘わらずに繋がってしまう「事件や事故のようなモノ」なので、その事後処理に双方が努力したのだと理解し合うことでお許し願いたい。
 しかし、小生の『記憶』の外にも沢山の出会いがあったんですね。やっぱり無責任且つ能天気な人生を歩んで来たんだと改めて己に確認している朝です。

2011/03/08

『捨てる』意義と『拾う』意識

 【お断り】我が家のプリンターはA4版が最大の能力です。この新聞記事は、そのサイズを超えてしまいましたので範囲内の記事でご了解いただきます】  

 皆さんは、「捨てる」のと「拾う」のとではどちらが得意でしょうか?捨てることが苦手な人は「片付け」が苦手だと思いませんか?捨てることはマイナスで、拾うことはプラスだと理解されるとなれば拾うことを優先させてしまいます。これこそ人情なんでしょうか。
 敬愛した一人の野球人が人生を終えた、との記事が目に留まった(上掲)。
 最高の試合生んだ「自分で考えろ」 の大きな活字を追いながら、「教えてもらったのは一つ」という表現タイトルについて考えた。「どうしたら良いのか・・・」と尋ねると『自分で考えろ』と突き放した指導を受け、当の本人は反発した・・・、とある。小生が氏を敬愛するポイントがそこに存在する。
 広辞苑によれば、『捨てる』の意味には次の5点がある。 ①不用のものとして物を手元から話す ②見放す・突き放す ③大切な物を投げ出す ④しりぞける ⑤俗世間から離れる
 自分で考えさせるために「突き放す」指導こそが、『捨てる』意義だったのだろう。しかし、これは容易に真似が出来ることではない。それだけに、赤色で薄く塗りつぶした3行の氏のポエムが際だってくる。それほどまでに、その相手を愛おしく思っていないと荒療治は出来ないことの教訓ではないだろうか。人を育てることに関して『捨てる』意義の重要性をここで学ぶことが出来る。
 
 捨てる意義を考えながら、ふと数週間前の我々夫婦の対話を思い出した。老妻も年金受給者になった。正真正銘の老夫婦になった証でもある内容であった。要らないモノは捨てようよ、が対話の主旨であった。長年住み慣れた拙宅には「捨てても良い」モノが溢れているからである。
 モノを大切にするという観点だけを前面に押し出せば言い訳として通用しそうであるが、どうにもならない粗大ゴミ(次世代者には)を処分もしないのでは申し訳ない。人生の節目と言えば、丁度そんな時期に差し掛かっているのが我々夫婦ではないか。そろそろ、「捨てる」という行動に移そうとばかりに大掛かりな掃除に取り掛かったのである。
 ところが二人で整理を始めてから数週間が経っても殆ど片付かない(笑)。
 手にするモノ全てに思い出がつきまとってしまい「捨てる」意義の進展は捗っていない。全てが一旦「拾い上げた」モノであればあるほど、思い出というバリアは容易に飛び越えて廃棄できそうにないからだろう。
 これからも生きている限り、『拾う』意識だけは失せそうにないとすれば、我が家も「ゴミ屋敷」に類する家屋になってしまうのだろうか。『捨てる』意義を、夫婦で再確認することにしようか(笑)。そんな午後の昼下がり、睡魔が襲ってきそうなので横になれば、また片付けは進まない!!

 

 

2011/03/07

強行軍に耐えた老体!?

 ~「孫力」には勝てません~
 鬼の◇◇、と異名をいただいた現役時代の小生でした。
 狭い地域ではありましたが所属した業界では、ちょっとばかり有名でした、ね「怖い先生」として・・(笑)。卒業式で涙を流した小生を発見した在校生が「鬼の目にも涙」と言ったとか言わぬとか。そんな時代から月日は流れて、正真正銘の「お爺ちゃん」になってしまった小生です。昨日はホンモノのお祖父ちゃんとして、孫が通う保育園の「遊戯発表会」を参観しました。赤ん坊だった孫が卒園です。3人目の孫の卒園ですから、卒園そのものへの感激が伴うモノではありません。しかし、自席からカメラを向けてシャッターチャンスを狙うお祖父ちゃんの目は何故か涙目になっているではありませんか。こんなにまで成長したのか!と赤ん坊時代の孫が浮かんできたからでしょう。離れて育っているので、大きな機会が無い限り日常的な接点はありません。盆暮れの里帰りでは会えますが、年間を通して何十時間の接触があったのでしょうか。そんな孫も共働きの両親の元では、よちよち歩きから保育園でお世話になっています。面倒を看ていない爺婆にすると「美味しい所取り」の稼業で今日まで辿り着いているのです。保育園での育児と指導の賜と感謝の気持ちがグッと目頭に伝わったのかも知れません。

 「大きな栗の木の下で」「おへそ」「たきび」「かえるの歌」「メリーさんの羊」「くつがなる」「おもちゃのチャチャチャ」「桃太郎」「金太郎」「うさぎとかめ」「七つの子」「富士山」「あらどこだ」「おぼろ月夜」「小さな秋みつけた」「ゆき」「子鹿のバンビ」 等々

 こんな演奏曲を聴きながら涙が出てきてしまいました。
 爺の頭の中で回り出した走馬燈には、保育園に通う孫の父親、つまり小生の愚息が今の園児である孫と同じぐらいの日々が映し出されるのです。病弱だった愚息が高熱を連発して中々寝付かない夜は、夫婦で交替しながら子守歌を沢山歌いました。上記の歌は殆ど唄いました。
 幼児教育という領域では、現代に生きる子供達に「受ける」歌を選ぶことが指導しやすいことは十分理解できます。上記のような演奏曲を教え込むのは大変な苦労だと推察できます。しかし、見事に歌いこなすどころか、楽器を使って演奏も出来るのです。主人公になる「卒園児」達の合奏には感動しました。番組の「トリ」になったオペレッタでの「長い台詞」には目を見張ってしまいました。
 こんな幼児が「ここまでやれる」のだったら、小学校1年生ではもっと出来る!
 「赤ちゃん返り」させることなく「育成の連結」に手抜きをしては、「子供達」に対して失礼ではないか。そんな思いが小学校での校長業の反省にも達してしまいました。
 成長しきれないままオトナにしてしまう教育の現状を正視しないと、アダルトチルドレンの大量生産に歯止めが掛からないかも知れません。アダルトチルドレンの延長線上にモンスターペアレントが存在するとなれば、保育から教育への橋渡しの時点で既に、その助長に加担しているのかも知れません。
 感激と感謝。そんな思いが駆け巡るハードスケジュールの行程にも耐えられた祖父ちゃん祖母ちゃんでした。「孫力」の威力だと通過した一日でありました。 

2011/03/05

たかが1枚の葉書、されど1枚の葉書!!

 ~この「1枚」で、広島詣が始まる~
 「どうして、広島にこんなに何回も行くんですか?」と、(質問の主旨は理解できませんが)良く質問を受けます。その全員が広島県外の先生達ですから面白いですね。「そんなに多いかなぁ?」と自問しながら2010年1年間の広島滞在日数を調べてみました。移動日を含めると21日間でした。「365分の21」となると、多いんでしょうか?
 結論的な理由を述べれば、「広島から要請があるから」ということになるでしょう。
 ここで、1枚の葉書をご紹介します。差出人の許可は得ておりませんが、このブログの読者のお一人ですのでこの画面を介して事後承諾としてお願いしましょう(笑)。この1枚の葉書。たかが1枚の葉書ですが、この投函日付が運命の悪戯ドラマの開演日となったことは歴史上の事実です。この後、葉書でお約束の「初・学校訪問」をしたのが、現代「広島詣」版が始発したことになります。義父母の介護で故郷(熊本県八代市)に帰った年(2004年)のことですので、宛先が茅ヶ崎市となっていません。ちっちゃな歴史すら感じます。
 実は、この葉書の前哨戦もあります。それは電話での出講依頼でした。更に、その電話の前哨戦もあります。この投函者である校長先生の前任校長先生との出会いです。その校長先生との出会いを創出された校長先生がいらっしゃることも前哨戦の一つです。こうして、遡っていけば「広島とのご縁」は、「この葉書」以前の2000年に辿り着くんですから不思議でしょう?具体的には、03年(平成15年)3月から水面下で動きがあったことになります。まだ、現職の校長室に広島から3名の校長先生の訪問を受けたのです。どの動きを外しても満足な回答になりません。
 新年度の出講依頼が届き始めました。
 また、どこで、どんな「ご縁」の展開になるのかと考えるだけでも、未来への楽しみが倍増します。年度が終わろうとする3月ですが、「時は止まることがない」のですから新しい生命の誕生の息吹を感じる時期であるとも言えそうですね。
 「たかが1枚の葉書」から、広島への出講は、も「来年度」も多くなりそうです。
 ちっぽけな出来事も粗末には出来ません。「たかが、こんな出会いぐらい」なんて見過ごすことが自らの人生を粗末にするモノだと己に言い聞かせています。ちっぽけな出来事が、必ず素敵な未来を誘う「きっかけ」となることだろうと思わざるを得ないからです。この葉書との出会いに謝意を添えつつ今日も、来年度の仕事の打ち合わせに横浜まで行くことにしましょう。
 








2011/03/04

46歳になる「卒業生」からのメール

 ~海外勤務で苦労する「英語」~
 後悔先に立たず?って言うらしいですね。
 後悔って、「やってしまってから」しか成立しない行為であって、万人が数限りなく味わう苦渋でしかない。聖人君子(?)であっても「後悔する」行為は、必ず行うモノであると考えている。だから、後悔すること自体を責めることはしたことがない。後悔するぐらいだったらやらなきゃ良いジャン!!とは言え、誰しもが後悔が伴うモノになる苦しさが待っている、などとはその渦中では考える事が出来ない。だったら、結果を「後悔」で締めくくらないことが大事ではないだろうか。能天気者の能天気たる所以は、そこにあると考えている。
 オーストラリアで「英語で」苦労しているという卒業生からメールが届いた。真面目な良い中学生だったし、野球部員としても着実に成長した選手でもあった。彼自身が、他者より少々遅めの成長を繰り返している生き方をしている生徒だと理解していた。いや、今もそうだと信じている。
 その旨の要旨で返信を送った。
 46歳になった一児の父親として、どんな心情で「恩師からのメール」を読んでくれただろうか。拙著で「あせらない あわてない あきらめない」(教育出版)がある。能天気人生のルーツを振り返りながら、出会った「人材」を取り上げて仕上げたのであるが、まさに、この卒業生にも贈りたい言葉である。
 早期教育?促成栽培?短期集中合宿?等々、出来るだけ早く成果を上げる事への日本人の執着心はもの凄い。しかし、小生は、「早熟は早く老いるのではないか」と案じることがある。46歳から「英語の必要性」が生じたら、開き直って「生きた学び」をすれば、必ず立派な成果が出ると確信している。
 毎年続いている正月4日の野球部OB会。
 今年も大勢集まっていた。そこには中日ドラゴンズの投手・山本昌広も参加する。このメールの送信者は同学年チームの右翼手として活躍した人材である。あせることはない。じっくりと、本場の英語を身体に染み込ませて帰って来れば良い。何歳になっても生き生きと学び続ける人生であって欲しいと願いつつ、小生自身を奮い立たせてくれたメールでもある。

P.S. メール冒頭の「根知和」というのは、小生が指導した野球部での哲学を漢字3文字にしたモノ。それぞれの3文字の「ひとつ」ずつに、指導精神をたたき込んだモノです。「音」は「こんちわ」として、練習開始の挨拶として愛用しました。一種の「合い言葉」でもありました。

2011/03/03

ついに、来る所まで来た?

 ~『桃の節句』という日に・・・~
 遠距離への出講のために電車や飛行機を使うことが多い。
 取り分け、新幹線を利用することも多く車中で長時間を過ごすことが少なくない。「時間の使い方」には事前準備をしておくことも珍しくない。70歳にも近くなると時代の波に取り残されがちな事ぐらいは重々承知はしている。しかし、とても気になる光景が目立って見受けられるようになっている。大都市での仕事の場合には、幹線の電車内では取り分けその現象が顕著である。
 それは、「握りしめて離せない携帯電話」である。
 使用していない場合でも片手には携帯電話が存在している。まるで「御守り」でも大事に持っているかのようにさえ見える。立ったままの車中で移動する場合もある。観るとは無しに見える携帯画面の美しさに「利器」の長足の進歩を感じる。恐怖にも似た感情になる。周囲の存在を全く無視した動体は「社会性や人間ならではの常識」から完全に離脱した非コミュニケーション動物になってしまっている。「袖すり合うも多生の縁」という日本人文化の優雅さとは全く無縁な態度として目に余る。鞄がちょっと触れると、嫌悪感に充ちた迷惑そうな表情で「接点から離れようと」努める光景など、世紀末的光景にしか映らない。『携帯電話依存症』とでも造語しようか。典型的な『人嫌い』の要因になっている。
 今日は鍼診療のために早めの時刻に妻と一緒に家を出ることになる。
 通常の起床時刻より1時間早く始動している。3時には朝刊も配達されている。朝刊のトップ記事には、ここ数日間マスコミを騒がせている大事件が、ついに楽日を迎えたように大きな活字が踊っている。来るところまで来た!見出しだけを眼で確認しながら、そんな思いで哀しい気分になってしまった。車内現象は、受験会場までも汚染していた。何となく人間社会の世紀末を予想せざるを得ない気分になる。
 今日は、「桃の節句」。
 ・・・・灯(あか)りを点(つ)けましょ ぼんぼりに お花を あげましょ 桃の花・・・長閑で素敵な文化の香りが漂う日本文化が萎れてしまいそうな朝である。登載した写真は、先日訪問した小学校の校長先生から「お土産」としていただいた和菓子の包装紙である。妻が大事に保管していたモノ。製造者の記名もなければ宣伝文句もない。商業主義からは逸脱した包装紙である。今時、珍しくありませんか?どこをみても「どこのお菓子?」と聞かれても答えも出て来ない。そんな包装紙に老夫婦は感動したのである。
 解くに解けない難題?包装紙だけで、商品はともかく、製造者や産地から「謎解き」が出来るのが現代常識。黙っていても生産者の存在をアピールするのがコマーシャリズムの当代の常識。しかし、この包装紙からだけではその答えは出せない。つまり、実体験という「美味の感動」や「いただいた嬉しさ」という当事者でしか持ち併せていない体験でしか応えられない代物である。
 携帯電話で「この包装紙で包まれていたお菓子の製造者を誰か教えて下さい」と発信しても答えは返って来ないかも知れない。
 携帯電話の便利さに大いに助けられ、発明者(会社)に感謝している人も多いだろう。そこを是認しつつも、ついにこんな事件にまで発展していようとは、とは創案した人にとっては迷惑な話かも知れない。余計な事で心を痛めている「桃の節句」の朝である。 

2011/03/02

人生の「美学」

 ~ラジオを聴きながら・・~
 ・・・考え込んでしまいました。
 「元気で歌える今こそが自己の幕を降ろす時期である」とは、歌手・二葉百合子氏の美学だそうである。早朝に流れる氏の歌声を聴きながら考え込みました。張りのある、伸びのある歌声、ラジオからはみ出しそうな声量は、聴衆の耳を通じて心まで踊らせる現役そのものの威力である。「今こそ・・」と意を決するための人生哲学が美学というモノだろうか。歌手という職業には定年は無い。本人の意志の有無に関係なく退職を余儀なくされる職業とは異なる職業観があるのだろうか。小生は後者に属しているので7年前に、同期の輩と一緒に一線を退いた。「幕を降ろす」時期だったかどうかは考えたこともなかった。定年退職であるから考える余地もないので仕方がない。
 ラジオを聴きながら凡庸な老輩は、低次元のこんな発想を巡らせてしまいました。
 外は今朝も雨。あったかくなったと喜んでいるとまた寒さのぶり返し。そんな日々を繰り返しながら暦は確実に貼るに向かってはいるようである。二葉百合子氏はそんな繰り返しの季節と共に77年間を歌手として過ごして来られたのである。昭和9年(=当時3歳)にこの世界での生活を始められたらしい。小生は今年で67年間の人生を驀進中(笑)であるので、小生の人生に更に10年間も多い歳月を「歌い通された」ことになる。それでも、あの声量である。声の若々しさは声帯の管理だけで維持出来るモノでもあるまい。人生そのものの生き方に「生き甲斐」を追究する姿勢が伴なわなければここまでの現役存続は難しいと考える。
 人生の美学とは?
 読者の皆さんも、それぞれにお持ちの美学をお聴かせいただけませんでしょうか?小生は、昨今知り得た日本語を噛みしめています。それは『恩送り』という言葉です。「恩返し」が出来るには少々力量が伴わないことを知ったからです。お世話になった方々へ恩返しをする力は足りなくても、次世代の人たちにその「恩返し」の精神で「恩を送って」あげることを人生の美学にしたいと考え始めています。ささやかな力ですが「恩送り」が出来るよう、まだまだ精進したいと心している昨今です。
 ラジオ深夜便「明日への言葉」という番組を拝聴しながら今朝も爽やかな禊ぎを受けました。

2011/03/01

18分間の「勝負」

 ~「1つの記事」に老脳が動顛~
 冷たい雨の朝の出動は正直言って辛かった(笑)。
 自宅近くのバス停で立っている足下に落ちる雨の冷たさがその主因。電車に乗り換えて東京駅に向かう。ずっと以前は贅沢に思えていたグリーン車の利用も板に付いた(?)。仕事(講演)前の「思考回路の整理整頓」には貴重な時間でもある。60分間の茅ヶ崎~東京の時空は、今回も生命線となった。それは、自宅で眼にした新聞記事(=登載した写真版新聞記事は「埼玉新聞」)である。「埼玉の市民ランナー」世界選手権出場に内定、という語句が妙に脳裏が擽られたからである。
 乗換駅の上野から降車駅の浦和までは僅か18分間。
 上野駅構内で埼玉版の新聞を探したが手に入らない。某スポーツ新聞のトップ記事に、老脳を刺激し続けた活字がそっくりそのままに印字されているではないか。購入して出発前の車中で活字を追うが、物足りない。やっぱり地方紙が欲しい。しかし、浦和駅まで行ってしまってから購入したのでは講演の事前資料にはならない。しかし、そんなことは、この場に及んで言い訳にしかならない。僅かな時間でスポーツ新聞の活字を追いながら、思考にに耽る。なぜ?
 主催者から届いた講演の主題は、~「組織を生かす学校経営」を追究して~である。
 学校経営の経験者としても「組織を生かす運営(経営)」というフレーズには抵抗感はなかった。つまり、『組織』で育てると言うのが人材育成の王道であると学んで来たからである。かく言う小生も組織の中で育てていただいたと感謝している張本人でもあるからだ。
 ところが「市民ランナー」という人材は、組織で育成されていないことを誇示する表現である。そこで、「埼玉」で請け負った講演のキーワード(=『組織で育む』)となると、まさに対極にある育成手法ではないか。しかも、それが前日の東京マラソン参加者の「埼玉」の青年ランナーの口から飛び出したことが、今日のメディアの主人公なっているではないか。運命すら感じてしまった。
 当然ながらどんな手法にも長短はあるものだ。
 白黒を決着する問題ではない。しかし、長い間の内に凝り固まった考え方を覆すことは厳しい。しかし、インタビューに答えている青年ランナーの一つ一つの言葉を噛み締めると刺激が強く脳内の血液が逆流するように感じるほどであった。
 そういう観点からも、講演開始直前の「18分間の宇都宮線車中」は、まさに人生の勝負だった。
 ここまで力んでしまうと講演は大失敗する。駅頭へのお迎えをお断りしていて良かった。そんな臆病風も雪混じりの冷たい雨に拍車を掛け、会場に向かうために乗車したタクシーの運転手さんの温かい歓迎の言葉をいただいても上の空であったことも恥ずかしながら事実だ。 
 結果的にはやっぱり大失敗。失態を誤魔化しながら帰路の車中人となる。
 帰路の18分間は長かった。それは思うように伝えきれなかった未熟な老脳への責任追及である。将来の学校経営に夢を託して修行中の聴講者には、貴重過ぎるほどの120分間ではないか。それを無駄にしてしまった後悔の念ばかりの18分間だった。半ば放心状態で上野駅~東京駅と乗り換えて帰って来た。
 今朝、着信している聴講者からのメールを読ませてもらった。
 能天気な老脳は、あれほどまで自虐的だったのが嘘のように反省など消え去っていくではないか。メールの返信はこれから書くとしても、必死に藻掻いた18分間の勝負も、「あれはあれで良かったんだ」と思うこと急変するから始末悪い(笑)。また、機会があればリベンジしたい。瞬間の落ち込みもどこへやら??そんな朝になっています。学校経営に携わるには「この位の能天気さ」が必要かも知れませんよね(笑)。

自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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