2012/11/28

明日は久しぶりの始発電車

 ~「時短の時代」に生きる老輩~

 05:16発の電車に乗ります。上野駅経由で東京駅着が06:40です。乗り換えにも慣れている旅人は、06:50東京駅発の「のぞみ号」に乗車することができます。広島駅着が10:55です。どうですか??時短の時代ですよ、ね。

 小生が大学生の時代に東京~新大阪間を東海道新幹線が走り始めました。塾のアルバイトで教えていた中学生と自転車で(当時は神奈川県寒川町に在住)新幹線通過が見える場所まで行きました。あっという間に通過する新幹線車両に感動の声を上げていた中学生たちが、もう還暦を過ぎました。あれから50年が経ちました。あの頃の中学生が、「お祖父ちゃん・お祖母ちゃん」になっているのです。

 長く生きることは時代の変遷に遭遇するのですから至福と言えるでしょうね。しかし、急激な変化に付いていけない寂しさもあるかも知れませんね。そんな光景に今日は出くわしました。

 小雨の降る中、傘をさして郵便局まで行きました。いつにない長蛇の列が見えました。小生は、今日はATMを利用することは無かったので横目で見ながら局の中に入りました。すると、長蛇の列から大声が聞こえました。局員が飛び出して行きました。どうやら、長蛇の列の先頭のお客様がATMの操作に手間取っているようでした。雨も降っている中で傘をさして待っておられるお客様の心情も分かりましたが先頭のご高齢のお客様のご苦労もわかるような気がしました。小さな郵便局なので機器は1台だけなので行列は長くなるだけなのです。

 我が老妻は、最近では殆どコンピュータ処理の機器に危機感を感じ始めたようです(シャレでは御座いません!)。殆どの事務処理を小生に委ねます。銀行も郵便局も当地に来てからは全て小生が在宅する時に処理することになっています。今日のような長蛇の列を想像すると身震いがするそうです。帰宅してその話をすると、器械処理を小生に委ねる顛末を口にしました。

 明日の乗車券は緑の窓口でしか購入できませんが、新幹線の走行範囲でのチケットは自動販売機で買えます。自宅のパソコンや携帯から予約購入もできるそうです。小生は未だその域までの恩恵をうけていませんが、「時短」のスピードは際限が無さそうです。

 そんなことを考えた一日でした。時短の恩恵を受けるべく明日は早朝から元気で出発します!!ブログは2日間の休刊です。

2012/11/27

年賀状とカレンダー

 ~『心機一転』を託す瞬間(笑)~

 『昨日の記憶』と題して時間を追いながら「昨日の終日」を作文スケッチにして日記を付けています。それは毎朝の起床直後の任務作業として位置付けています。パソコンソフト・エクセルを利用して正式に書き始めたのが昨年の10月からです。すでにこのブログの前身(HP・『散歩日記』)を登載し始めたのが、「還暦を期して」の挑戦でしたので、かれこれ10年ばかりになります。

 加齢速度を緩やかにするための自助努力です(笑)。

 つまり、過去の事は忘れないでいた義父母が、「ついさっきの事」を忘れる記憶力機能に関心があったのがこの発案に繋がりました。朝一番にパソコンに向かい「昨日の記憶」を弄りながら記述することは、時として苦になります。自覚症状を感じるからなのです。取り分け、フリーの終日を数日間続ける(=退職するとこんな状況下に陥る)と、2~3日過ぎてからの記述は拷問になります。だから、毎日(特別な事情が無い限り)、起床して直ぐに挑むことにしているのです。

 従ってカレンダーは必需品。

 大昔(?)は、団扇と暦は買わなかった!!商店名入りの団扇もカレンダーも傍目を気にせずに使用していましたよね。今は、戴いてもカレンダーが2~3本かな?最近はネットショッピングでお洒落なカレンダーも購入できる時代になっています。老妻とカレンダーを購入するのは我が家の師走の風物詩になっていますが、今年は少々早めの準備に入りました。今年が早く去って欲しい、という訳でもなく新しい年に何かを託している訳でもありません。

 アメリカの従姉たちにも日本のカレンダーを贈ってあげようとの発案からだったのです。今夏の10日間を楽しく過ごさせてもらった老妻は「お礼に」、とクリスマスプレゼントの中身を考えていたので私案を提供しました。そこで、「日めくりカレンダー」を選んでみました。80歳前後の従姉たち(=日本を離れて60年以上)が、どんな顔をするのか?老妻と一緒に楽しみに反応を待つことにしましょう。

 ついに(笑)、今年も年賀状を買って来ました。

 お世話になった先輩諸兄へ投函する年賀状が、年ごとに枚数が減っているのがわかる程になっています。ここ数年の「ご無沙汰の年の初めのご挨拶状」の宛名も変化しているのに気づきました。届いている喪中の葉書と対照しながら、友人への年賀状も投函できない寂しさも感じ入る程になっています。こんな作業でも、老夫婦になると歳末の1つの風物詩になってしまっています。

 このブログが、全国各地の多くの方々に読んでいただけるようになっています。老輩の「師走の風物詩」に彩りを添えて頂いているようで嬉しい気分になっています。ご感想等もお寄せください。待っています。

2012/11/26

郷に入っては郷に従う

 ~全く無知な闖入者として~

 人生楽ありゃ苦もあるさ

歌詞とメロディでお馴染みの映画やTVドラマとして有名な時代劇『水戸黄門』のご当地に転居して1年半が過ぎている。去る23日(金)、長女宅(千葉県佐倉市)に向かう2時間の運転中に休憩も兼ねて途中でコンビニに立ち寄った。同行した5歳の孫が「おじいちゃん、助さんと格さんがあるよ」と単行本を指さした。表紙の絵を見たからであろう。コンビニと単行本の組み合わせがピンと来なかったがその本を何気なく手に取ってみた。孫が口ずさむ、聴き慣れていたメロディにつられて購入してしまった。

 運転手だったので読むことは出来なかったが、長女宅に着いて子守りをする手筈が外れて(勝手に孫同士が遊び始めて)、手持無沙汰になった爺は、コンビニで買った単行本を思い出して取り出した。小生の読み癖は、「読みたくなるような目次」が目に入ったらそこから読み始めるのである。「水戸黄門」の助さん・格さんは実在した?の歴史問答の文字が最初に目に飛び込んできた。

 その後は、孫たちの遊びの喧騒は老脳が拒否してくれたのか、次々と異なる目次をめくり返しながら読んでいる内に2時間余りの時空を飛び越えていた。「お祖父ちゃん、そんなに面白いの?」と、5年生の娘孫の声で読書は遮断され喧騒の中に引き摺り込まれてしまった。

 水戸納豆の由来も、平将門の乱も徳川御三家「水戸藩」の歴史上のことも上辺の「知識」だけは保有していたが、『あなたの知らない茨城県の歴史』(洋泉社)のタイトル通りに「知らない」事象の多さに圧倒されて読破してしまった(笑)。

 Q:70 「研究学園都市」が筑波にできたのはなぜ?

 その答えを読みながら、38歳の生意気な一人の中学校英語教員が変身した「あなたの知らない角田明の歴史」が、その研究学園都市にあったことに感動した。当地(土浦市・土浦駅)で下車して国立教育会館・筑波分館(=当時の名称)行きのバスに乗り込んだ頃までは反抗的な思考回路の中に棲んでいたことも、今では素直に反省することが出来る。なぜならば、当館での(1か月の)研修期間内で「激変して」生徒の前に戻ることが出来たからである。その後の教員人生はこの地での研修を語らずして表現が出来ないのである。「歴史」の追究はやっぱり侮れない。

2012/11/25

私設・療養休暇を終えて

 ~『目の保養』に効果??~

 こんな他愛のない「ブログ」を継続作成することも眼精疲労になる?

 老人性弱視(?)ってあるんでしょうね。時として運転していて文字が不鮮明になり文字案内版を理解しないままに移動してしまうことがあるんですが、これって危険ですよね。尊敬する我が鍼診療師が曰く、「パソコンに向かう時間と目を休める時間」の均衡を保たないと危険です」とのこと。

 家に居ると、「仕事(=と称するモノ)」の75%はパソコンを使用していることになるようだ。メールチェックをして返信をして、そしてその要求によっては原稿を創ったり、以前の作業で出来上がっている資料を探して若干の加除修正をして要望の資料に改良したり、新聞や雑誌の記事をスキャナで撮って編集して資料化したり、毎日課せられている(と、自己認識が高い)ブログの下書きや編集のためにパソコン画面を凝視する時間は、相当なモノの様である。孫たちに、パソコンに向かっているお祖父ちゃんは「お仕事中」と思い込ませているほど認知されている。

 そこで、今回の3日間は長女宅に行ったらパソコンは全く無縁になっている。計画した老妻の気遣いも大したモンである。長女宅にもパソコンはある。彼女たちも『落花生』の通販業務をしているのでパソコンは常備である。しかし、他者が使用しているパソコンは使い勝手が悪く指の動きも鈍くなる。これは「使いたくない」心理を増長させるようだ。全く液晶画面と縁を切った生活ができた。

 今回の私設・転地療養の初期目的は達成されたことになる。

 少なくとも、パソコンの前に坐した時間はゼロであったからである。しかし、帰宅して自室に入れば溜まっていたメールの返信に始まり、いつもの通りのリズムが再開されてしまった。これって、病気?そんな自問自答しながらも、小さな生き甲斐をとして見出している時間を軽視はできそうにもない。

 身体の休養も考えながら、休み休みぼちぼちと仕事に励むことにいたしましょうかね。決してブログの継続に警鐘が鳴らされた訳ではないので読者諸兄は、時には「休刊する」当ブログのご愛顧をこれからも宜しくお願いします。

2012/11/23

転地療養の真似事

 ~3日間ほどの療養期間~

 冗談なのか本気なのかわからん!!

 親しい友人ほど、小生の発言にこう訝しがるのです。療養??聞いただけでも驚生きますよね。言葉にはその奥深い部位に「本質」が潜んでいると考えています。療養には「自力が再燃するための」という本質があると考えているのです。現状の生活から逃避するのは療養とは言わないとも考えています。

 転地とは、「空気を変える」ことで「生活のリズムも変わる」ことだと考えています。こうして論究すればするほど大げさになります。大袈裟にすることで意識も変わります。つまり、意識が変わることが転地の目的です。性格によっては「事を大袈裟にする」ことへの躊躇いもあるようですが、そんな人種には自発的な転地療養に踏み切ることも出来ないでしょう。そこには専門医なる仲介人等から半強制的に指導や指示が施されます。そして、成功に導かれるのでしょう。

 小生の「転地療養」は決して仰々しい事ではありません。

 体調不良でもありません。小生独自の偏った発想から飛び出した言語表現です。同居する5歳の孫も連れて湘南ナンバーの付いたままの軽乗用車で千葉に住む長女宅に移動するだけなんです。小学生2人の孫たちは運動クラブの練習や試合が予定されているので保育園児だけが同行の栄誉(笑)を授かったという訳です。

 長女宅でのリズムは自宅のそれとは違います。

 そこには「いつもと同じ」ではない刺激が発生するので、時々「転地療養」と位置づけをして出かけます。当地では同居しているので戸締りや留守宅の管理も心配が無いので格好の転地療養となります。

 能天気な性分の人間には、世の中で通用する「転地療養」は不似合いです。

 こうして「ことば遊び」で自らの身体を玩ぶのですから、「どこまでが本気で、どこからが虚飾か・・・」と友人知人は悩んでくれるのでしょう。ともあれ、予定では日曜日の午後には帰宅します。従って、当ブログも休刊します。行ってまいりまぁ~す!!

2012/11/22

「創設者・魂」は生きていた!!

~街角の『小さな学びの場』の指導者に・・・~

   街角の『小さな学びの場』とは、公文式の教場をイメージした小生の勝手なネーミングである。公文式関係者との関わりが深くなりつつあった時、校長室で考え付いたネーミングであり、他言は殆どない。自惚れしている名称である。勝手ながら副題に使用したことをお断りしておこう。


 同じ「音」(呼び名=「せんせい」)で呼ばれているので同業者と言っても間違いではない。それが今日の講演の対象者象であった。小生は日本公文教育研究会(=通称・くもん)と5年間(2006~2011)の顧問という肩書で講演活動をしたことがある。当地もその大任を背負って訪問した地であった。前回の訪問でも「創設者・魂」を強烈に感じた地であったので、久しぶりの今回の要請にも「胸の高鳴り」を感じての訪問でもあった。公文式(と呼ばれている学習方法)の創設者である公文公(=くもんとおる)氏の教育理念が末端の教場(=街角の『小さな学びの場』の指導者)に浸透していることに感服した点が多かった。そして、今回もその思いが蘇った。

最初の仰天は、創設者の『自主研修』への勧めであった。「せんせい」の自己研鑽意欲は、小生が属した学校教員集団とはその格差に大きな開きを知った。知れば知る程に打ちのめされた思いになった。官制研修だけを自己研修として考え、時には校務の多忙さを理由にして回避しながらも「強制研修」だと非難もした。自主研修として参加費も自前にして「学び」を深める教員の少なさには開いた口が塞がらないほどである。

今回の出講は、『自主研修講座』への要請であった。参加者の経費負担が明らかにされている講座である。創設者の理念の筆頭に、「学習する子どもより指導者の方が多く勉強するべし」の精神が50年も経た今でも、確かに息づいていることを確認することが出来た。「意気に感じる」性分の小生は、熱弁(笑)を揮ってしまった。

 会社主催の研修講座ではないとの事前情報は得ていた。(教育)公務員生活だけの小生には会社組織の内情までは理解できていない。「自主研修講座」でも、謝金は会社から支払われるとの説明を局長から聴きながら、「講師の交通費等」は当事者である自主研究グループが支払うことになっているとの説明が追加された。

 教員生活時代の自らを通して、研修への「いい加減さ」を痛感した。教員の自主研修講座なるモノに行政の財政的支援は無い。民間教育産業界との違いを思いつつ演題に立った。参加費(名称は知る由もない)から、小生の交通費と昼食代を捻出するシステムだろうか。久しぶりの登壇でも視線の熱さは変わっていない。心地よい視線でもある。当然ながら「居眠り」の聴講者はゼロである。講師の拙い話からも懸命にメモを取る音も耳に届いた。自主研修の重要性を説かれた創設者の思いが、この会場でも確かに根付いていた。

小生が主宰する会『響の会』は、参加者が負担する参加費で会を運営している。会費制を貫いているが、お陰様で17年間も継続できている。「懐を痛める」という表現がある。全てが税金で賄われている公務員の懐は、自ら傷めずして研修も受講できる。当然ながら立派な教員も多いので、それだけでは満足することなく「懐と相談しつつ」自主研修に参加する教員も多い。

ここの指導者には死活問題という一面もあるが、差し引いてもお釣りが多いのではないだろうか。そして、本を紹介するとメモを取って手に入れる。読後感も郵送して来る。創設者の魂が現存している証しである。

10時半から2時半まで昼食時間も含めて熱心な聴講者に囲まれて、のども乾いた(笑)。帰路の西武電車はあっという間に池袋に着いた(熟睡だった?)。3時半の上野駅発の特急電車に乗って、買い込んだ缶ビールで喉を潤して、再びの微睡であった。爽やかな疲労感を提供していただいた所沢事務局の局長始め局員各位と自主研究グループの代表の方々と聴講いただいた指導者の皆さんに謝意をそえて講演日記を閉じることにしよう。 

附記: 所沢駅が3年前とは全く違って面喰いました。「えきなか」も完成していて見違えてしまいまし。前泊するホテルも以前に数回宿泊しているので道順も熟知していたのに、出口(西口)の様子が一変していたために、本来の「方向音痴」に拍車がかかり、5分しか掛からない距離を20分も彷徨ってしまいました(涙)。

2012/11/19

こんな楽器、ご存知??

 ~『プサルタリー』の音色に魅かれて~

 妻の叔母から招待状が届いていた。

 1年ばかり前に77歳で叔父が他界した。叔父は妻の母の実弟である。九州生まれの叔父が30年前から茨城県取手市に住んでいた。取手のマンションには何回も訪問していた。そして、取手市に隣接する土浦市に我々が引っ越して来た。車で30分で行き来が出来る距離に住むことになった。姪の転居を心から喜んだ叔父も、転居して半年後に他界した。母親の実弟は高校時代の多くの時間を妻の実家で過ごすほどだったそうだ。小学1年生だった妻には一番身近な叔父として可愛がってもらって育ったようだ。「ご縁」とはこんなことなのだろうか?遠く故郷を離れた叔父と姪が至近距離で生活する。叔父の葬儀には、小生も共にフルに出席できた。

 10年近く病床にあった叔父に献身的な看護に明け暮れた叔母の姿を妻はハッキリと見届けている。その死後、(義理の)叔母の体調を妻は心配していた。ところが、叔父が挑戦していた楽器演奏に叔母が挑んでいるという情報を得た妻は心から喜んだ。その叔母から「初めての演奏会」の案内が届いたのだ。

 下の二人の孫の守りが依頼された日だったので、二人を連れて4人でコンサート会場に臨んだ。当然ながら楽器の合同演奏を聴くのは初めてだった。二人の孫もびっくりしたのか、休憩時間に「楽器の普及活動」として弾かせてもらってご機嫌だった。珍しい形をしている楽器なので観客の皆さんも異口同音に「初めて・・・」と言葉が飛び交っていた。

 帰宅したのが5時近かった。爺婆の「孫守り」の大任も無事に果たせた日曜日になりました。プサルタリーの癒しの音色を思い出して床に就くことが出来ました(謝)。

2012/11/18

愛読する月刊誌(4)

 ~「教育展望」(教育調査研究所・発行)~

小生を「教員の育成」に関与するキッカケを与えてくれたのがこの月刊誌であった。主宰する『響の会』創設する心を擽って、誘った「教育展望セミナー」を紹介してくれたのがこの月刊誌であった。小生の記憶から消え去ることはない。平成5(1993)年の夏、参加希望をした指導主事と二人で出向いたのがこのセミナーであった。井の中の蛙が「大海」に漕ぎ出してビックリした。参加者の多さと会場の熱気に圧倒され興奮状態で帰還したことも記憶の中に燦然と光っている。当時、随行した指導主事も2年前に校長を退職していることを考えただけでも「時間の流れ」(=ちいさな歴史)を痛感する。

小生がお世話になった茅ヶ崎市は地方都市とは言え、人口20万前後を推移しながらも微増を続けている都市であった。東京駅まで電車で60分で到着できる利便性に恵まれている。

中学校の教員から市教委への出向を命じられて数年を経て「学校訪問」という主要業務に慣れて来た一介の指導主事の目に、ある現象が炙りだされた。それは、東京まで1時間で行ける便利な環境に居ながら、自らの足を使って中央部で実施されている各種研修会に出席して「自己研鑽」を図る教員が殆どいないことがわかったのである。

無理強いが通じないのであれば、勤務地の茅ヶ崎市を会場にして研修会を創設すれば教員も参加しやすいのではないかと考えた。そんな安易な考えが熱意となって周囲の関係者を担ぐことになった。この紙面では創設までの経緯について詳細は述べられないが、地元実施の手作りの「教員研修の場」を創設したのが平成8(1996)年の夏である。新人校長として着任した夏であった。若気の至り?無謀と思える52歳の冒険であった。

創設した茅ヶ崎セミナーに、登壇して欲しい講師の先生方もこの月刊誌に名を連ねておられる当代一流の先生方にお願いした。それについては出版元から派遣される一人の営業マンの尽力は侮れなかった。主宰する教育実践『響の会』(発足当時とは改称している)のスタートへの尽力で忘れることが出来ない人物が多田二朗氏(当時・神奈川県湘南地区を中心に営業活動)である。今、考えればかなり無理難題を吹っかけてしまったようだが、殆ど満願であった。氏のご尽力無くしては現在の『響の会』(通称)の存続は無い。氏の会社内での活躍ぶりは表現するまでも無い。小生も現役を退いて間もなく10年が経つ。業界の情報の疎くなってしまった、しかし、氏の会社の要人としてご活躍の様子を若い世代の営業担当者から情報を得て知っている。嬉しい限りである。

主宰する『響の会』も昨年15周年を迎えることが出来た。会の冒頭の挨拶で区切りの良い所で終回宣言をするつもりで登壇した。熱心に聴講する教員の眼差しに向かってその言葉を発することが出来なかった。結果的にはズルズルと延長しそうで怖い気がしないでもない。ただ、幸か不幸か、未だ高知市から広島市へと「移動日」を設けて4泊5日の出講の旅を果たすことが出来るエネルギーはあるようだ。

後輩教員に「学ぶ」機会を与え続けることが、恩人である多田二朗氏への恩返しの真似事になるのであれば、自らに気力と意欲があり体力も耐えうるようであれば続けることを宣言すべきかもしれない。

一冊の愛読月刊誌にも、こんな歴史があることをお伝えしておこう。 

2012/11/17

『ファン気質』の基準

 ~俳優さんが、また逝った~

 テレビや映画の画面でしかお会いできない人種。それが俳優さん言う。うっとりと容姿を見詰めるタイプから、容姿そのものより話術に引き込まれどんな役柄を演じても見たくなるタイプ、更に特殊な魅力を感じることは無いのに何故か魅かれるタイプ等々に分かれるのが俳優さんだろうか。

 先日、女優・森光子さんが92歳で他界された。小生は若い頃、「時間ですよ」というTV番組に惹き付けられたことを思い出した。ユーモアのセンスが美貌とアンバランスだったことが印象強かった。

 小生はファンになった。代表作品となった舞台劇も、「一度は観てみたい」の願望だけで現実化出来なかった。舞台劇をテレビで観るだけで満足した。数々の受賞の知らせにも「ファンになった基準」を誇らしくも思った。森光子という女優さんのファン気質の最大の基準は、「第一線での活躍が40歳を超えていた」という唯1点だった。その時点から40年間以上を『人生のひのき舞台』にして大活躍されたことが、小生には堪えられぬほどの「励み」になったことは第二基準である。

 若くして陽の目を見てスターダムとやらを闊歩する芸能人やスポーツ選手にはファン気質に「ふあん(=不安)」が付加されて危なっかしくて見ておれない。夢のような世界に誘われたい気分になれないからである。その人の一生の後半に、他よりかなり遅れて開花した人生には過去の苦労と忍耐が自然の流れとして「演技やプレー」に表出するのだろうと考える。鑑賞や観戦に安心感が伴う。

 森光子・追悼番組を鑑賞しながら、人生後半の華やかな活躍の裏側に「一人の女性としての人生」には他言することを憚るような哀しい生き様があったことも知った。個人情報を細かに知ることは好みとしない。しかし俳優業にはこんな付帯状況も報道されるらしい。有名であればある程に他界後も「今だから言える」報道が後を絶たない。そろそろいい加減にして欲しいとの思いが立ち上がる。これも『ファン気質』そのものなんだろうなぁ。ご冥福を祈るばかりである。

2012/11/16

授業で学校を創る(3)

 ~高校生なら「授業の値段」を付けられる?~

 高等学校の「授業」が学校教育における授業の最終段階だと実感した。

 小中学校の授業を観察することが多いこの稼業を9年も続けている。自らの高校教員としての反省をする機会も無く過ごして来てしまった。僅かな教壇生活(3年間)とは言え、今回の横須賀市立横須賀総合高等学校の授業を観察しながら、自らの授業については猛省させられる機会を得てしまった(笑)。同時に、義務教育期間での「授業の価値観」が全く違うことも体感した。それは、受けている授業の「価値」を高校生なら判断できると確信したからである。「高校生が付ける授業価格(=値段)」について考えてみたくなった。

 需要曲線と供給曲線との合致点が「価格」を決定する。

 この命題を「高校生が受ける授業」の場面で考えるとすればどうなるだろう。小生は次のように考えてみた。

需要は高校生が受けたい授業内容であり、供給は高校生に教えたい指導内容である。市場価格決定の道順で授業価格を計算する。需要曲線が低迷する生徒にとっては供給曲線が高いと価格決定が出来ない。価格が決定されないとなればその市場(=授業)は成立しないことなる。つまり、この高校生には全く意義の無い授業であるとなってしまう。需要曲線がかなり高い生徒にとって、供給曲線が低いと「価格」は暴落である。つまり、この高校生にとっては受ける価値の無い授業となり無意味な授業時間となる。市場は成立していても、倦怠と怠惰で過ごさざるを得ない授業となってしまう。それどころか供給者(ここでは教員)に対する不信感が募る付加価値まで生まれることになる。

当ブログではこの程度しか論述できないが、「授業の経済学」(仮題)での論及も考えている。この論究対象は「高校での授業」しか該当させることは出来ない。「需要曲線」が確立できるのは小中学校での基礎学力の構築が確認できるのが高校生であると確信するからである。

今回の授業観察で、強烈な印象は「聞き合う」力を醸成している高校生の姿勢であった。批判的な考えを培いながら自らの考えを他者に対して述べる光景を見ることが出来なければ「授業の経済学」等の観点について模索することもなかっただろう。小中学校の授業でも、それなりの「授業の経済学」は成立することは考えられるが、需要曲線の不鮮明さが気にならない訳でもない。

経済学の不勉強で、例示に迫ることが出来ないことが致命傷ではあるが、読者諸兄のアドバイスをいただけることを期待したい。

2012/11/15

授業で学校を創る(2)

 ~高等学校だから「できる」授業~

 こんな風景を高校の授業で見ることが出来るのか!?

 こんな自問は9月25日の当ブログでも触れているが、『高校生』という対象集団気質への固定概念が今回の授業でも見事に崩されてしまった。二度目の訪問であったので正しく「ダメ押し」であった。

 全日制の授業は①「福祉科・基礎介護4」(2~3年次履修選択者)と②「数学科・数学1データの分析」(1年次3~4組27人)であった。定時制の授業は「英語」であった。高校生への固定概念(=無気力極まらない授業姿勢)で教場に向かう役職にとっては足取りが鈍るのは人情か?3つの授業観察に共通した感想は、一歩踏み込んで『現代高校生気質』への思い込みが誤解であることが判明したことである。以下に3つの授業観察と所感を記述する。

【福祉科】 「立ち上がりのメカニズムを理解した立位・移動の援助」が本時の目標であったが、小グループで真剣に工夫する全ての生徒の姿勢に感心することを恥ずかしく思うほどの熱気だった。教員の指導力も申し分ない。その教師の指導力を更にアップさせる高校生集団の積極的な学習態度には、前回にも増す「驚き」でしかなかった。私事ではあるが、60歳近くになって必要に迫られて(=義母の介護体験)、この単元の必要性を思い出した。従ってすこぶる私的な視線で見入ったのは事実である。「振り返りカード」も読ませてもらった。「これって、高校生?」と訝しがるほどの丁寧な書き込みを見て驚嘆度も頂点に昇ってしまった。

【数学科】 「批判的精神を働かせ、仲間の意見を参考にしながらよりよい判断方法を創り上げる」を本時の目標に掲げている指導案に目を通しただけで「こりゃぁ、ムリ」との先決を下しかねないのが、現代高校生気質を熟知(?)している者の常識的な尺度ではないだろうか。指導者の発問や指名手法に、高校生が対応しない場面も幾つかはあった。しかし、小グループになって学習する生徒たちは他のグループの発表を真剣に聞き取りながら、話し合いを展開する。居眠りや身勝手な言動等の授業離脱風景は全くない。圧巻は終わりのチャイムが鳴る寸前の男子生徒の自主的な発言(つぶやき)だった。危惧したのは指導者の感性が欠落しているような対応だった。数学的思考力を養成するために教員に替わって話題提供するような内容であった。それに指導者が食いついてくれた。照れる発表者をついにホワイトボードまで引きずり出して男子生徒の持つ「数学的な視点」からの考え方を述べさせることが出来たのである。指導者の人柄を生徒たちが活かして授業を創っている光景は、今まで参観したことが無かった。高校生だからできる「授業づくり」への期待が膨らんだ嬉しい誤算でもあった。

【定時制】 小生の専門分野でもある「英語」の公開授業であった。教員として最後に定時制高校に進学させた卒業生を思い出した。本時の目標が「日本文化を英語でプレゼンテーションをする」ことで、興味関心・表現能力・知識理解にせまる設定である。指導案を一瞥して「2~3人がプレゼンできれば十分」と勝手な判断をして教場に足を運んだ。チャイムはまだ鳴っていない。指導者らしい男性教諭に質問している茶髪の女子生徒を発見して、始業前で、想定が外れてしまった。廊下にいる自校の教員らしい人物にも「これ、どう読むの?」と食い下がっていた男子生徒が、一番に指名されプレゼンのために黒板前に向かう。聞いてくれる相手は外国人講師であった。「2~3人いれば」、との想定をした自らの「定時制で学習する生徒」への固定概念が見事に崩されてしまった。結局、全員が時間内にプレゼンを完了した。しかも、級友が発表している時の聞く態度も非の打ちどころがないのが悔しいではないか(笑)。指導者は自信喪失の傾向があると観察した。しかし、「先生、これで良いの?」「先生、この単語が読めない!」と指導者と頻繁にコンタクトをとる生徒たちの態度に、もしかして定時制高校入学者は「中学校教育における人間関係崩壊」の犠牲者であった」のではないかと胸が痛くなる程だった。指導者の人間性の温もりを感じ取れるのも「高校生だからこそ」できる授業だと感服した。

最後に、本校への2回だけの授業観察ではあったが「得をした」のが小生本人であることだけはお伝えしたい。素晴らしい高校生と出会う機会を与えて戴いた関係者に厚く感謝の意を述べたい。

2012/11/14

授業が学校を創る(1)

 ~「定時制高校に入学した生徒」を思い出して~

 自らの偏見に恥じ入る。現職教員生活37年間は何だったのか?

 『定時制高校の現場』に触れた回数は片手の指でも数えられるほど無縁だった。自らが認知しつつ、根拠のない無気力な授業風景しか空想しなかった今日までの生き様を完全に断ち切られてしまった。このブログでは生の画像や映像などお見せすることはできないが、「観て貰いたい」と切望する授業と出会った。

 上野駅発の終電には間に合ったが、帰宅は午前0時を回っていた。

 学校関係者や市教委関係者の配意で京急久里浜駅を21:08発の特快電車に乗ることができた。今回の研究会は二部構成で「定時制課程」部門があり夜の9時近くまでの日程だった。この時刻の電車に乗れたことから関係者の気遣いがお分かり頂けるだろう。品川駅で乗り換えて上野駅で更に乗り換える行程で上野駅に着いた。常磐線の発着ホームから特急電車が出る姿を見送る羽目になり深夜の帰宅になってしまった。このようなスケジュールには筆舌し難い疲労感が残る筈である。

 しかし、疲労度ゼロ。

1分遅れで発ち去る特急電車を見送る設定条件で考えても愕然とした思いでは疲労感は倍増するに決まっている。しかし、疲労感は皆無。妙に老体が軽い。小生の脳裏には、信じ難い光景の残像があまりに鮮明に生きていたからである。

学習者が授業を創る。
学習者の姿勢が教員に自信と勇気を与える。
高校生という成長した学習集団ならそれが出来る。
授業が学校を創る!!
そんな仮説めいた発想が老脳を刺激していたからである。上野駅の中央改札を通った正面の空間は、都内の駅とは思えないほどの高い天井と広いスペースである。精神状態が悪いと空虚感すら与える。そんな空間で立ち竦んでは疲労度が高くなるだろうに、昨夜はとっくに眠っている時刻にも関わらず凛とした気丈さだった。明らかな興奮状態であった。

ポケットにはカメラを入れておいた筈なのに、授業観察に夢中になってしまったようだ。学校案内のパンフレットを登載して学校の環境だけをお届けしよう。

今朝は第一報として「老脳の珍現象」(笑)だけを紹介して、午後から始まった研究会の授業観察等の詳細は次回にしましょう。





 
【歩禅の記録】
11月14日 9:30~11:00 8700歩
義父の5回目の命日です。早朝歩禅を断ってから暫く不規則な歩禅になり、時を同じくして仕事の連続で歩禅リズムに狂いが生じました。「義父の命日」で立ち直りそうな気配です。お墓参りの道端(畑)に菊の花が「わが世の春」と咲き誇っていました。これから、午睡の時間をとります。
12:05

2012/11/13

名刺の『肩書』

 ~名刺に表出しない人生の経緯~

 講演会場で司会者が紹介する小生の横顔に毎回苦笑してしまう。

 「講演活動でご活躍中です」の表現には毎回の赤面で、耳にもタコが出来てしまったようだ(笑)。控室では主催者の方に挨拶代りに名刺を交換させてもらうことも多い。名刺にある文字(=現在の職位等)をじっくりと読み取ることは無いが、当方の興味は、現職までの人生の経緯を知りたいことに集中する。雑談の中で少々は満足できるが、多くはその程度でその後の追及機会も無い。しかし、退職後の自らには良い刺激を貰える素晴らしい時間であることには間違いない。

 今日は9月に事前訪問した横須賀市立横須賀総合高校への本番・出講である。現代高校生気質への「先入観」の間違いを指摘された授業風景を思い出している。二度目の訪問には「高校教員対象の指導講話」が課せられている。依頼の原点が面白い。「名刺には表出していない経歴」、つまり、以前に「高校の教員だった」という小生の人生の僅かな経験が今日を演出しているのだから「人生の経緯」も侮れないと言うのだろうか。

 23歳で教壇に立った。そこが高等学校だった。しかも、僅かに3年間だけ。指導・講話』をする講師人材としては間違った人選である。つまり小生は不適格者と言うべきであろう。

 講師をお引き受けした張本人が、当日になって今更何を言うのか。自問すると先述したところに答えが隠れている。決して泣き言を言っているのではないことだけは読者諸兄にはご理解いただきたい。今日も、今日の会場に一歩足を踏み入れた瞬間の直感で話題を展開しようとは考えている。「私には3年間しか高校教員の経験しかないので皆さんにお話できるようなこともありませんが・・・」という類の切り出しだけは決してしない。なぜならば、「だったら、こんな所に来るなよ。」と言われても返し様がないからである。きっと、小生の方が沢山の学びを得て帰って来るに違いないからである。

 そんなことを考えている内に当日になってしまった!!行ってまいります(笑)。

2012/11/12

ラジオを聴きながら

 ~眠気を覚ます番組~

 女子プロゴルファーの樋口久子さん。

 前々日からの混んだスケジュールで疲れて、珍しく布団に入ったままでラジオを聴く状態の朝。こんな朝は、決して無理はしない。今朝がそんな状態であった。眠い目をこすりつつ起床しなければならなかった現役労働者時代とはこんなところが大きな違い。

 「改革をすることに躊躇は禁物。しかし、実績と実力が無いと改革は出来ない」と言い切る口調を、微睡む老脳は、「偉そうに言いやがって・・・」と濃霧の中で聞き取っているような言葉でしかなかった。その後、改革の申し子としての若い女子プロゴルファーが誕生したことの説明だった。従来のプロテストを回避してプロ選手を創ったことの経緯を聞き取った瞬間、老体に「起床ラッパ」(=決して実体験があるわけではない)が鳴り響いた。眠ってなんかおれん!!とばかりに布団を蹴とばした。

 樋口女史の言葉は、布団を片づける疲労体に追い打ちを掛けた。

独断と偏見が新しい世界を産む。彼女の経営理念に唸ってしまった。プロ選手を多く産出することによってファン層も厚くなる。従来のプロテスト方式に固執すれば従来と変わらない。ファンが多くなればスポンサーも見逃さない。TV画面に魅力ある「若いプロゴルファー」が映し出されれば視聴率も確保できる。ゴルフ場のギャラリーも増加する。理念を具現化するためにも、女子プロゴルフ協会の会長としての英断を自らに迫ったのだと対談は続いた。現状までの苦労話は一つも無かった。

 プロテストを受けずにプロに成れる。未踏の「理念の実現」に挑んだ彼女の識見に驚きながら妙に納得している自分に気が付いた。宮里藍・女子プロゴルファー誕生の秘話が決め手であった。この選手を皮切りに多くの若い女子選手がプロとして活躍し始めたことはゴルフを知らない小生でも「名前と顔」が一致するほどまでになっている。ゴルフ関係紙だけに拘らず、週刊誌や月刊誌、あらゆるマスコミを虜にするような取り組み姿勢を淡々と語る口調には説得力があった。

 トップリーダーのあり方を考えさせられた。
 つい先日届いた月刊誌の誌上対談で五木寛之氏の言葉と重複した。80歳の齢を超えた氏が、「ただ長く生きるだけでは意味が無い」と、自覚の養生論は、まさにトップリーダーとしての自己研鑽の必要性と自ら選ぶ生き甲斐に言及している。樋口女史のリーダー論も同質であると感じるに長時間は要しなかった。朝の僅か数十分間の思考である。目覚めを促してくれたラジオ番組に感謝である。

2012/11/11

38年前の『手作り産着』

 ~最後の「晴れ着」にまで到達~

 38歳になる長男が誕生した折に、義母(長男にとっては祖母)が丹精込めて「お宮参り」の初着(=産着)を縫ってくれた。呉服屋さんまで義母を連れて行った小生が着物柄の見立てである。小生にとっても第三子目に誕生した男児だったことと、妻は一人っ子で育っているので義父にとっては「血縁の男子」は初めてであったことが宮参りの準備から肝煎り状態だったのだろう。

 ところが長男は病弱で5歳のお祝いの「ひもとき」(九州では七五三のお祝いをこう表現)が祖父母や両親の思いに反して出来ない状況であった。義母は諦めきれずに着物に仕立てて晴れ着として保存してくれていた。26年間のブランクの後に、長男には三人の息子たちが誕生した。父親が着ることができなかった晴れ着を三人が着られるように成長してくれた。三人とも5歳の七五三の晴れ着は曾祖母の手作りを身に纏うことができた。その最終回が今日であった。

 嫁から今日の日程を聞いた老妻は、和箪笥から1週間前に出して皺がとれるようにと干していた。この図柄を見る旅に「日本文化の重さ」を痛感していた。38年前に作ってもらった着物を今日も着ることが出来る。物を大切に使うという文化の重さを感じるのである。この最終日までの間には、長女の子ども(男児)もこの晴れ着で七五三の祝いをやってもらっている。4人の曾孫に着られた「晴れ着」も果報者である。

 九州流に表現される「ひもとき」の意味もわかるような気がしてきた。産着のひもを解いて正規の着物に変えて着るという「成長の証し」のお祝いであることをこの歳になって知ることになった(恥)。

 通常は浜松で仕事をしたら一泊するのであるが、昨夜はこの日のために直帰した祖父ちゃんである。末弟のお祝いに神社まで同行した二人の兄たちにも「お前たちもこの晴れ着を着たんだぞ」と父親が語りかけていたが、記憶は無いらしい。そんなモンだろう。しかし、38年前の義母の力作が今も息づいていることが何とも嬉しい孫の七五三のお祝いだった。神社の帰路、長男の運転するワゴン車が祖父母の眠る墓地へと向かうのに気が付いた。座って暫く拝んでいた長男は祖父母に感謝の意でも伝えたのだろう。改めて問い質すことでもなさそうだが、小生の直観は正解だろう。

 九州の方は雨らしい。間もなくやってくる雨に降られずに済んでホッとしている。チョッとだけの午睡の時間にしようか!

2012/11/10

「年の瀬」の前哨戦

~『喪中』の葉書が届き始める~

我が家の義父母は同年齢(92歳)で、同一年に他界した。米寿のお祝いは義母には慶びは通じなかったが、義父には十分理解してもらったと意識している。義母が8月に、義父は11月に逝ったので年忌供養も一緒に出来る。僧侶が、娘である我が妻に向かって、「あなたのご両親は娘孝行ですよ」と言われた。耳慣れない表現に唖然としてしまったが、日が過ぎる度にその言葉の意味を噛み締めている。親孝行は耳に慣れているが「娘孝行」とは聞いたのが無かった。読者諸兄は如何であろうか。新年が来ると、その「娘孝行の義父母」の7回忌である。

今日は11月も10日になっている。

手元に、今年も数通の「喪中の葉書」が届いている。もう、そんな時期になった?年の瀬の風物詩の一つであると小生は考えている。夏は「暑中見舞い」の葉書を入れ、この時期になると「喪中」を知らせていただく葉書と入れ替える特製の「葉書入れ」(マグネット付き)を冷蔵庫の横に装着している。

一通ずつ読みながら文面からご存命の頃から親しくして頂いた友人や知人(卒業生も含む)の縁者の尊顔が浮かんでくる場合もある。そんな喪中の葉書を受け取ると、やっぱり哀しくなる。ご冥福を祈るばかりである。

今日は浜松に出講する。年に2~3回の講座に10年以上も通い続けている。共に頑張ってくれている同業者(浜松市内の小学校教員)から「母親の介護」に苦労をしている旨のメールが届いた。90歳を超える高齢者になられたそうだ。以前、ご自宅に招かれた折にお会いしている。息子思いの素敵なお母様のご自身の苦悩を考えると心も痛む。後輩同僚には「息子だよ、親孝行しろよ」と言いつつ、親不孝だった自己反省は拭うことは出来ない。
今年も、年賀葉書も売り出された。若い時代には「面倒だ」と嘯いた日々もあったが、お世話になってご無沙汰の諸先輩に感謝の意を添えて今年も年賀状を書くことにしましょうか、ね。

2012/11/09

『本屋さん』へのノスタルジー

  ~高校時代の友人宅は本屋さん』だった~

 ノスタルジアを思郷病(=故郷を懐かしみ恋しがること。郷愁)と訳すそうだ。昨日(11月8日)の朝刊(地方版)の記事に目が飛びついた。「ただでさえここ数年、売り上げは下がりっぱなしなのに・・・」とのコメントを発した「本屋」経営者の記事が妙に心を抉った。高校時代の友人のお父さんの声が聞こえて来たような気分になった。友人の家は『本屋さん』だったのである。

 通学していた高校から友人の家までは歩いて10分は掛からなかった。市内本町にあったアーケード通りの外れではあったが市内でも3指に数えられる「憧れの本屋」であった。時には「勉強する」という名目で泊まらせてもいただいた。夜中の本屋さんの中央に立つとリッチな気分になったものだった。夕食のテーブルで店主である友人のお父さんは、「これからの時代は本屋では喰ってはいけない」との理由で息子には東京の大学を出て都会で生活することを勧めているとのことだった。「父親の話」をこうして聞いたことが無かったので未だに印象に残っている。

 埼玉県に居を構えた友人は故郷の親を引き取ったと、ずっと経ってからの情報を得た。あの本屋さんのその後は関知していない。二階の自宅にお邪魔するのに、開業中の本屋の中を通り抜ける瞬間の「本の匂い」に憧れが執着した。貧乏人の子倅にとって、数冊の私物の本を所有(笑)することだって大きな文化だった。何百冊と並ぶ「見たことも無い」本の並ぶ光景は忘れ難いのは自然なのかも知れない。

 当地に引っ越して何が寂しいか?!

 それは駅前に本屋さんがないことである。新聞記事にある買い物客の主婦のコメントに同感である。立ち読みを主眼にしている訳ではないこともわかる。常磐線は1時間に2本の上下の電車が走るだけである(これへの不満はゼロ)。だからこそ、その間の「つなぎ」に駅前書店は相応しいと執着する。隣接するつくば市に向かって行く途中に大型スーパーの3階にチェーン店の本屋さんがあるだけで自宅からは、車で15分も掛かる距離である。

 利益追求の経済社会だから倒産する本屋さんが多くなっている現状も十分理解できる。小生ですらも、最近はネット書店で本を注文している。これはこれで「購入目的が確立している書籍」の即時注文と即刻配達は重宝なシステムで有難い。しかし、やっぱり「本屋さん」の佇まいは欲しい。これがノスタルジアなんだ!!

2012/11/08

読者に贈る「読み物資料」(1)

『社会人』と『会社人』

 漢字を1個だけ位置をずらせて出来た熟語でも、こんなに違ってしまう。先日手にした月刊愛読誌(当ブログで紹介済み)の11月号に次のような記事が登載されていました。

 こんな記事に触れると、小生は直ぐに自らに置き換えて考えてしまいます。時には造語を考えます。そして、その理由づけまでして楽しみます。そのホンの一例が「教員採用試験」と「教師採用試験」です。前者は存在しますが、後者は架空の造語となります。それに、無理な添付理由を考えるのです。

 そんなきっかけが、以下のような記事に遭遇した時なのです。読者の皆さんも暫し、この記事と対峙してみてください。

・・・・・・(前・略)・・・・・

アメリカのアイゼンハワー大統領が1953年に唱えた「原子力の平和利用」によって、世論は「原子力」に好意的なイメージを持っていました。私自身も、石油や石炭は近い将来なくなってしまうという意識があったので、これからは原子力の時代が始まるのだろうと思っていました。だから、科学技術の最先端に携われる、という期待感すら抱いていたんです。

 しかし、年月が経つにつれ、私は「社会人」ではなく、「会社人」になっていました。「社会人」とは、自分と社会の関係性を持ち、行動できる人のこと。一方、会社の言うことにきちんと従って、少しずつ出世し、社長を目指すというのが「会社人」。だから。“会社のため”なら、なんだってしてしまう。「利益」さえ大きければ、倫理や道徳は見て見ぬ振りをする。私はいつの間にかそのような人間になっていました。

 私か、福島第一原発4号機用の原子炉圧力容器の違法な「ゆがみ修正作業」に携わったのは、1974年、夏のことでした。もう少しで完成という製造最終段階で、原子炉圧力容器が大きくゆがんでしまったのです。私は、その直前に人事異動があって再び火力発電所の設計部に戻っていましたが、突然上司から原子力設計部に手伝いに行くよう指示され、初めてその事実を聞かされました。そして、急濾、その数ヵ月前まで私がグループリーダーをしていた部署に戻って、どうすればゆがみを修正できるかを考えることになったのです。

 ゆがんでいるならば、その形を正せばいいと思うかもしれませんが、そんな単純なことではありません。原子炉圧力容器というのは、ウラン燃料が核分裂を起こす容器で、高い圧力に耐えるための鋼の強度がとても重要です。鋼を無理に曲げればその部分の強度が落ちる上、鋼の性質として、瞬間的にパリンと割れてしまう可能性もあります。だからこそ、設計技術者は細かい強度計算をし、製造技術者は細心の注意を払って製造に当たらなければならないのです。

 しかし、このときは強度など関係なくどんなことをしてでも、ゆがみを直さなければいけなかった。原子炉を造るためには二年半の歳月と、いまの貨幣価値で言えば何百億円という莫大な費用がかかっています。そうやって造られてきた原子炉圧力容器ですから、なんとしても電力会社にも国にも安全だと認めてもらわないと、会社はつぶれてしまいます。 結局、圧力容器は秘密裏に、高温の炉の中で強引にゆがみが修正され、まるで何事もなかったかのように東京電力に納められました。普通の「社会人」なら、やってはいけないことだとすぐ分かっても、「会社人」だった私はもはやそれがわからなくなっていた。「会社のピンチを私か救えるかもしれない」とさえ思っていたのでしょう。修正が無事に終わると、会社から評価され、賞状や褒賞を頂きました。自分がいかに恐ろしいことをしたかなんて考えることもなく、むしろ「会社を救った」「良いことをした」と得意顔になっていたように思います。

・・・・・・(後・略)・・・・・

2012/11/07

距離の遠近と所要時間

「小田原駅」までは遠かった!!

 文明の利器がもたらすギャップを感じつつ帰宅した。

 9時前の小田原駅始発・東海道線の電車が東京駅に着くのは10時半前だった。およそ90分の車中は昨日の歩禅記に記したとおりに間違いは無かった。東京駅から上野駅まで乗り継いで11時前の常磐線に乗って降車駅に到着が正午過ぎである。1時間半までは要しない。しかし、この所要時間を新幹線を使って東京駅を発てば「新大阪駅」に到達する計算となる。距離と時間と所要時間の三角関係は小学校の算数で苦労したが、理屈を述べる要素にもなっているのが滑稽ではないか。

 距離と時間と所要時間で算出できるのは、心情的なデータは疲労度かも知れない。しかし、言及すると同じ計算で算出しても、この心情的疲労データ度には、更に2種類があるようだ。それは同じ行程の往路と復路の差である。これぞ、まさしく物理的な疲労度に複雑な要素が含まれることになることは誰にも察しが付くことではないだろうか。

今朝、宿泊先のホテルから小田原駅に着いて写真を撮った。小田原城と駅ビルである。周囲の風景が変わると小田原城もこんなに変わって見えるのかと不思議だった。高校生と格闘した日々の光景には、いつも小田原城があった。立派になった駅ビルの橋上から見る小田原城の風景は、しかし、「やっぱり懐かしい」ものだった。

 昨夜のような時間設定の講演は殆ど無い。

 文科省からの指定研究(本年度より2年間=「魅力ある学校づくり」)の一環として「地域・保護者を巻き込んだ研究」としての講演会だった。いただいたテーマを分析して3本の柱を立ててレジュメを創って臨んだ。関東一円は朝から豪雨に見舞われた荒天で主催者も集客に気を揉まれた事だろうが、小生が小田原駅に着いた5時過ぎにはすっかり上がっていた。

 講演は「聴講者の分別」ないとやり難い。不特定多数、たとえば地域住民であったり一般市民等、と年齢にも幅があると焦点ボケになり説得力にも欠けるからである。演題が「思春期における・・・・」とあれば、小学生以下の子どもを持つ若い層の保護者は少なくなる。元・小学校の校長とすれば「我が子が小学生である」日々に今回のような話題提供しながらの講演を聞くべきだと思うのだが、やっぱり現実は危惧だけで終わったようだ。小学校長時代に校長塾(月例)を創設し、任期期間中「親育ち」を支援する講座として30回近く開講したのも、そんな危惧を追い払いたかったからである。無責任にも成果や効果は全く関知していない。

 「~になってからでは遅い」は、一つの我が人生哲学である。思春期に差し掛かった我が子に遭遇(笑)すると狼狽する。つまり、「なってからでは遅い」のである。昨夜の講演は「夜間教室」の雰囲気があり集中できたようだ。真剣にメモを取る鉛筆の音が聞こえた。ホンの少しでも役に立った話であったことを願うばかりである。

 各駅停車の車窓を眺めながら遠い小田原から自宅まで座ったままだと腰が痛い。これも遠距離の疲労度を増す要因の様である。

2012/11/06

「小田原駅」の思い出

 ~50年前を懐古して~

 午後6時半からの「しごと」のために今日は午後から出勤です。当地から東京まで90分、東京から目的地まで90分のミニトリップを予定しています。出向先は神奈川県小田原市です。新幹線口の待合指定場所に午後5時半に到着することで日程が始まります。

 小田原駅も50年間を経てその変化は筆舌し難いモノがあります。

 高校を卒業したばかりの18歳の青年が、九州からボストンバック1つで上京して25時間も掛かって乗って来た急行列車から降りた「駅」が小田原駅なのです。大学を卒業した23歳の青年が、社会人としての「第一歩」を踏み出したのも、同じく小田原市でした。

 茅ヶ崎市に住んでいた48年間は、新幹線の乗降駅は小田原駅でした。繁忙な時期は毎日のように小田原駅を利用していました。頻繁な活用には鈍感性が生まれます。だから懐古の思いなど皆無となってしまっていました。

 ところが、今日は一昨年に転居した茨城県から「小田原駅」に向かうのです。1時間も掛からなかった所から、今日は3時間も掛けて「小田原駅」に向かうのです。転居してからは一度も「小田原駅」での乗降はしていません。東京駅から利用する往復の新幹線は「小田原駅」を通過しています。

 そんなセンチメンタルな思いを抱いて「里帰り」となります。

 出向先の地名を聞いても、学校名を聞いても「わかる」ほど忘れ得ぬ当地なのです。保護者を対象にした講座に出向です。小田原の高校で教えた生徒は、もうこの学校に通う生徒の「お祖母ちゃん」だそうです。学校から配られたチラシ(案内版)を見て反応がありました。

 やっぱり、あの時代は懐古の世界になってしまっても仕方が無いですかね。

2012/11/05

旅を終えて

 
5日間も休刊いたしました。少々感覚の鈍さも感じながらキーボードを叩いています。記憶を弄るほどの時間を経ている訳でもないのに執筆思考回路が凍結してしまったような錯覚も覚えつつパソコンに向かっています。土浦では今朝も地震がありました。そして、暖房器も機能し始めました。昨年の今頃は「現住所」の感覚さえ疎く、鈍感さに振り回されていたことに苦笑を添えて思い出している朝です。皆さんの地方でも寒さを感じる朝になっているのではないでしょうか。風邪など引かぬようにお気を付けください。

~「2日間の公務」に感じる~

 10月30日に出発して11月4日の昼過ぎに帰宅しました。

私的なスケジュールを入れての移動もあったので思った程の疲労感もなく過ごせたのかも知れません。しかし、連続して5泊もするとなると老体には違和感が無いわけでもありません。

 公務としては、①10月31日:高知市立大津小学校②11月2日:広島市立庚午小学校での双方が終日の業務でした。初めての学校訪問と、7年間も通い続けている学校とでは、訪問の温度差は確かにありますが今回の両校には極端な心情温度差を感じなかったのも「疲れなかった」要因だったようです。

 ★異物でも呑み込む様な光景を呈するような初訪問校。

そんな学校も多い中で、今回は全く感じることも無く終日過ごした初訪問の学校での「我が心情」に驚きました。学校長自身の研究経緯に、茅ヶ崎市立浜之郷小学校の研究会参加が存在したこと自体には驚きは無かったのですが、浜之郷小学校の「研究への思い」が言及されると、特に関わりが深かった小生としては聞き捨てることも出来ない程に親近感を抱いてしまいました。正に、こちらも個人的な感情表出で時間があっという間に過ぎたのでしょう。それは、単なる回想を超え、10年も前の実践が遠く四国の当地で息づいていることへの感傷でもありました。同時に、必死に取り組んだ浜之郷小学校の初代校長はじめ教職員の懸命な姿勢が、種となって高知市まで飛んできているのだと感動が先行したのです。暫く対話から遠ざかっていた初代校長の奥様にまで電話をしてしまうほどの言動に繋がりました。

 ★研究協議会の「持ち方=展開法」へ言及できる。

 退職後の稼業としている「研究への指導助言」者としては、これが生命線なのです。授業の評価や指導は個人的なモノでそんなに苦になることではありませんが、学校全体として設定される協議会への箴言は、その学校自体に根付いている歴史もあるので気遣いには大きなエネルギーを必要とします。その協議会の本流を発見するのに時間が必要なのです。ホンの数回の訪問で発見できる学校もあれば、なかなか本質が掴めない学校もあり、『疲労度』の格差は筆舌し難い程です。

 ズバリ直言!!直球勝負の性格であればある程、それが危険球にもなってしまうことも考えている内に機会を逸してしまう訪問校も少なくありません。放言の後始末で校長さんに苦労を掛けないようにとの気遣いもあるのです。しかし、今回は言及できました。潮時と直感したからです。

 今回の講演旅行も、「こんな重い」感情と共に出向きました。今回の結果は次回の訪問で判明します。心して次回に備えたいと覚悟しています(笑)。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

フォロワー