2012/03/31

明日から『新年度』

~今日と明日の温度差~
 4月1日の「辞令交付式」を終えても全身には未だ「過去のリズム」が確かに潜在しているモノである。45年も経つと「忘却の彼方」にある筈のあるシーンが今でも蘇ってくるのはなぜ?認知症になっても蘇って来てくれるのかな(笑)。それほど鮮明に残っているというのは、現役時代の今日と明日の温度差の所為なのだと今でも確信している。
 大学生と言う現役から、教員と言う社会人としての現役生活の「温度差」がこんなにも違うのかと言うことだろう。45年前の緊張感が今でも鮮明であることが温度差を証明している。
 明日から(と言っても今年は、明日は日曜日なので正式には4月2日より)社会人としての一歩を踏み出す若者たちにとって、今日と言う日の温度とは想定外の環境温度が待ち受けている。
対応策など無い。慣れるしかない。慣れるには挑むしかない。挑むには意欲しかない。意欲は夢とロマンが育てる。夢とロマンには期待感が必要である。期待感とは自らへの期待が必要である。
教員になった時。指導主事を拝命した時。教頭として勤務校に着任した時。校長として就任した時。そして、退職して「ただの人」になった時,e.t,c,。
幾たびの「温度差」に遭遇して歩んできた。今日と明日の温度差はいつの時代でも違う。季節の移ろいには日の限定は無い。今日から「春」、明日で「夏」は終わるという切り替えは無い。しかし、日本文化の良さは、『儀式』という温度差を予知してくれる節目が存在するところである。
3月31日という日は、退職辞令交付式という節目の儀式の日である。
既に今年は曜日の関係でその儀式も終わっているようだが、月並みながら退職する後輩諸兄に労いの言葉だけでも掛けておこう。お疲れ様でした、と。そして、明日からの新生活が始まる。今日の温度と明日の温度差を実感することを、ここで予見しておこう。
 退職後の健康管理が重要です。老婆心ながらそんな餞の言葉も添えさせてください。

2012/03/30

あ・れ・か・ら・1・年・・・・

 ~どんな進展があったのか?~
 綾小路きみまろという芸人が歳月の流れの機微を面白く、可笑しく、しかも悲哀を感じるように現象面を焦点化して表現するのが『あ・れ・か・ら・40年・・・・』である。40年前と比べれば、誰も否定できないほどに「老化症状」が出現していることは認めざるを得ない。認知し合い笑って吹き飛ばすための構成になっているようだ。最初の頃は笑えたが、最近は余り見たくなくなったシーンでもある(笑)。
 新聞記事(掲載)を読みながら小学校現場で苦悩している後輩諸兄のこの1年間に思いを馳せると、「あれから1年」という下りになってしまう。決してふざけての連想ではないことをお許しいただきたい。なぜならば、小生は「英語教育」の難しさを知り尽くしている元・中学校英語教員だからである。
 全国の小学校で何十回の公開授業をしたのか、確かな回数は記憶にない。対象は5~6年生である筈なのに学校によっては低学年の学級でも公開授業を要求された。低学年の「学習者」に適していることは本能的に理解されているのに、国の方向性はそうではない。つまり現場感覚と国家行政の方向性が全く符合していない。『丸投げ』状態で請け負った小学校の現場ではマイナスの派生現象とも闘わねばならない(記事の内容にある)のは同情のしようもない。
 あれから(小学校英語教育の完全実施)1年間が過ぎた。
 少しでも展望が拓けたのであれば嬉しいが、小生ごとき情報源の少ない身分で知り得るモノは「悲観的な情報」に終始する。真面目に授業に取り組めば「OK」と言う代物ではないからであろう。中学校3年間の学習意欲を削いでしまうような状況に追い込まれている小学校があるとなれば、もう、黙っておれない!
読者の皆さんで、特にお子さんが当事者であるお母さん・お父さんで知り得る状況がありましたら本音をお聞かせいただきたい。
情報を得たからと言ってこの高齢者では何も出来ないですが、ね(苦笑)。

2012/03/29

「春休み」という感覚

~リズム調整能力が要求される?~
 爺婆だけの生活リズムも確立しつつある頃になると、また変調する(笑)。
 26日から小学生の孫たちにとっては楽しい「春休み」が始まった。通常は7時前には父親が出勤して、7時半に小学生たちが登校すると30分後には保育園児と嫁が出勤する。午前8時を過ぎると離れでは「無言生活」(笑)の一日が始まる。爺は爺の、婆は婆の頗る勝手な時間を想定通りに展開すべく活動を始める。そして、簡素な昼食を済ませ午前中は終わる。午後になると運転手としての爺の技能(笑)を当てにした婆の要請で市内のスーパー等に二人で買い物に出かける。小学1年生の孫の帰宅時間は(昨今では)午後3時過ぎであるので、その時刻までには帰宅する。
 孫たちが帰宅するとリズムは一変する。
 就寝前の「爺と婆」の合言葉には「あっという間の一日」というキーワードが浮上する。これは、今や老夫婦の常識である。このリズムの変化が祖父母業の成就感を支えてくれている、と感謝している。爺婆は「病気をしている暇がない」と豪語するほどの老脳への刺激が功を奏していると自覚している。
 しかし、終日(母親が帰宅する午後5時過ぎまで)を孫たちのリズムを共にする日が連続する長期(学校)休業日では、健康であるがゆえに疲労が蓄積する。しかし、これも至福の時間だと二人で言い聞かせながら今朝もスタートした。昨夜、長男孫に微熱があった様子に、早速、お祖母ちゃんは「ミカンを絞って・・・」と甲斐甲斐しく働き出した(頼まれてもいないのに・・・)。一方、能天気なお祖父ちゃんは「何か言って来たら・・・」と悠然とパソコンに向かっている朝である。
 まだまだ、「春休み」も始まったばかり!!自らに言い聞かせている爺である。

2012/03/28

『年度替わり』という文化

~ラジオ番組も替わる~
 4月からわが国では新年度が始まる。
 自らの生活リズム(実感)で生きていた日々から遠ざかっても日本人としての生活様式には動揺はない。文化を構成する様々な要素が時代と共に変動していても「4月・新年度」のスタートは変わらないようだ。変わった方が良いと考えている訳ではない。寧ろ好意的であると発しておいても差し支えあるまい。
 東京大学が9月入学を採りあげたのは諸外国からの優秀な学生の留学生を受け入れる体制に不利があるとの理由も一つとして挙げている。そうだろうか?海外からの優秀な留学生を育てることが東京大学の使命なのだろうか、と訝しい気分になってしまう。使命感のズレの方が問題のように思える。
 年度末に来て、お気に入りだった(笑)ラジオ番組が19日消えた。
 センチメンタリズムでの郷愁ではない。また新番組に傾倒するであろう、ことぐらいを想定するのは容易であるからだ。しかし、こんな耳環境にも年度替えが波及していることである。
 従姉の孫子息が高校生になるとの一報が届いた。これも新年度の喜びである。新しい夢に向かって飛び出す若者の将来が明るいモノであって欲しいと願うばかりである。心ばかりの「ご祝儀」を送って祝福した。名古屋に住む友人からは、「長年の勤務生活を終えた」とのメールを受信している。これも年度替えの文化である。一抹の寂しさと同時にちっちゃなゴールテープを切った満足感も伝わってくる。ご苦労様でした、と返信を送った。ふと考えてみれば、名古屋の友人の心境になったのはもう8年も前の事である。
 茨城県内の「人事異動」欄を新聞発表に目を投じ、「ここは神奈川県ではない」と我に言い聞かせながら転居を実感している朝である。

2012/03/27

またまた、ウッカリ!

~住所変更手続きの『とり』?~
 読者の皆さんはご経験がありますかね。
 転居先には住所変更届を郵便局で済ませると「向こう1年間」は、旧住所に端辰された郵便物が新住所に「転送配達」されるんですよ。その制度にはこの有効期間をフルに活用させていただき感謝しておりました。そろそろ、転送配達期限が気になり始めていました。
 確定申告書を策定する段階で携帯電話使用「領収書」を整理しながらふと気づいたのです。振込先金融機関が横浜銀行にしたままでした。殆どの振込先の変更を転居先地元の取引先に替えていたはずだったんです。たまたま、銀行口座の残高をネットバンキングで調べてビックリしたのです。月額使用料そのものは高額ではないのですが、12ヶ月ともなると軽視できないんですね(笑)。内心、ちょっと焦りました。ドコモショップに駆け込みました。口座振り込み先の変更届をするためでした。係員から用紙を貰って新住所と変更金融機関を書き込んで指示通りに投函しました。先週半ばに郵送された封書を開けるまでは「手続き完了」報告だと思い込んでいましたら、違ったんです。
 先ず、ドコモショップで「住所変更の申し込み手続き」を済ませたうえで振込先の変更願いを提出するようにとメモが付され送り返されて来たのでした。どうして、あの時点で教えてくれなかったんだよ~!と怒りたい気分になっちゃいました。しかし、良く考えると振込先変更の申請に行ったのですから、ドコモショップの職員はそのまま額面通りに手続き方法を教えるしかないんですよね。冷静になった(笑)高齢者は、今日、やっとそのドコモショップに再度の訪問をして住所変更が完了しました。前回と同じ書類を戴いて帰宅し、書き上げて押印を済ませて正午前に投函してまいりました。
 転居して間もなく1年間。
ありとあらゆる所定の方法で住所変更届を何回やったんでしょうかね。この手続きが『とり』になって欲しいと願いつつホッとしているところでございます。

2012/03/26

国家意識と「教育」問題

 ~経済至上主義のツケを子ども世代に残すのか?~
 今日のブログは少々重たくなりそうで恐縮です。
 小生のような凡庸な人生を送って来た人間には、最近ホンの少しずつ我が国の歩んできた行程が「間違っていたのでは?」と考えるようになっているのですが読者の皆さんはとっくにお感じになっていますよね。能天気な性分ですので、「明日は明日の風が吹く」主義で短い人生を過ごしてしまいました。大学紛争の火種が飛び火する直前に大学を卒業しています。学園紛争に夢中になっている学友に羨望の思いを寄せつつも仕送りの無い貧乏学生は、時として戦争で親父を取られ恨みも悲哀として感じるままに社会人になってしまいました。
 あの日々から40年以上もの歳月が流れました。
 昨年の4月に当地に転居して2人の小学生の孫たちと同居しました。祖父として授業参観にも足を運んでいます。大きな校舎と校地に集う児童数の少ない現場を凝視して初めて「少子化」の現実を体感したのですから経歴など語れそうにありません。教員として「少子化」問題は十分に意識していました。その観点から、21世紀の学校づくりに関しては私案(試案)も提供して来ました。学校教育論として「学校ふるさと論」なる章も書いて書物の数ページを潰しました。
 昨日の新聞記事(写真版)に目を投じながら老体が凍結しそうになりました。
嫁が保育園児の三人目の孫を抱きながら発した言葉も未だ実感としての受け入れていなかったようです。「この子が通う頃には学校の統廃合があって、お兄ちゃんたちが通ったこの小学校には通えないそうです」との嫁の発言が、新聞記事から真実味として能天気爺さんの思考回路に現実的な刺激として襲い掛かりました。
 孫世代、と言うのは息子・娘たちが現役の「親」として奮闘する時代です。そんな時代に「我が国の文教の歴史」が、方向性に誤差が生じて、ひび割れも始まっている現実を認知することになったのです。
 大学を卒業する。
 このキャッチフレーズは、我らの世代では「幸福の守り神」的な存在感であり、不動の神話でありました。現実に小生は大学を卒業して教員になりその道一筋で還暦を迎え、年金受給(若干の遅配はあったが)者としての「毎日サンデー」を享受視させていただいています。しかし、次の世代は?次の次の世代は?目の前で溺愛する(笑)孫たちの時代は「国家の体制」はどうなるのだろうか。
 「教育国家より経済大国」を至上命令のようにして建国してきた国家意識育成の過ちをそろそろ国民的意識として考えなければいけないのではないでしょうか?「教育する」期間と機関への関心と、その必要性を考えると、学校(教育機関・期間)に携わった関係者として、「微々たる動きでも始めなくてはならない」、と祖父心が動揺している朝なのです。

2012/03/25

「朝・歩禅」を再開して1週間

~暑さ寒さも「彼岸」まで~
 温暖な湘南(=神奈川県)と言われている意味がわかる。
 時折訪れる第二の故郷・茅ヶ崎が、駅に降りたホームの温度から違うことを確証できる。帰路も、東京を通過して千葉県の幾つかの都市を越え江戸川~利根川を渡る度に車窓からではわからない「日射と気温」の較差を感じる。
 我がミニ老人ホーム(=自称)の窓から見える栗林に降り注ぐ日の光に春を感じて小躍りするように外出する。「歩く」ことを目的にして勇んで出発して何度ひどい目に遭遇したか?外観と地温のギャップに加えて北関東独特の「冷たい風」に体感までが怖気づいて仕舞うから始末悪い。
 妻は膝痛を、夫は激しい咳に見舞われて信じられない状況に陥った。
 しかし、「春のお彼岸」がやって来た頃から、防寒対策を甘くせずに歩禅を復活させることにした。それは、午前8時過ぎから1時間である。末の孫息子と嫁が保育園経由で勤務先に出向いた時間の後である。陽射しもあり気温の低さも緩和され、花粉の飛散度も少ないとの合わせ情報を考慮しての特設である。温暖地(茅ヶ崎)では「早朝歩禅」と称して6時前には家を飛び出たモノだった。逸る気持ちを押えながら老妻の体調に配慮しつつ「朝・歩禅」として始めて1週間になる。
 歩数計が10000は超えることは無いが、1時間ばかりの外出はやっぱり爽快である。雨模様が続くと出鼻を挫かれた気分で終日不調な気分となる。今朝は冬に逆戻りと言うラジオ情報である。これは貴重な情報であるので軽視はできない。
 そんな試行錯誤を繰り返しながら転居先の自然界と仲良くしようと努めている。せめて老体への労わりだけは大事にしたいからである。あと1週間もすると4月。街路樹になっている桜の木々も「春を告げる」花を咲かせて、老夫妻の「朝・歩禅」を歓迎してくれるであろう。期待しながら寒さを凌ぐことにしましょう。

2012/03/24

時代と共に変わる・・

~『選手宣誓』の内容~
 若者は時代の世相を映す実像、と言われつつ半分は批判的に中傷される。
 「今どきの若いモンは!」と親世代に罵られた日々を、逆転した今、しみじみと自戒しながら考える事象と遭遇した。小生にも「若者時代」があった(笑)。当然ながら当時のオトナの若者批判に反抗した。高校球児の姿をTV画面で追いながら遠い時代にわが身を投じた。今年も84回を重ねる春の高校野球が開幕した。昨年は東日本大震災直後の開催であったが、1年後の今年の開会式を注目していた。それは、年年歳歳、時代と共に変化する『選手宣誓』の内容であった。以下に今回の全文を改めて紹介して共に考えてみたい。

 東日本大震災から1年、日本は復興の真っ最中です。被災された方々の中には、苦しくて、心の整理がつかず、今も当時の事や亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。しかし、日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、見せましょう、日本の底力、絆を。われわれ、高校球児ができること、それは全力で戦い抜き、最後まで諦めないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。
 平成24年3月21日 選手代表 宮城県石巻工野球部主将   阿部翔人

 情報によると部員が一丸となって考えあわせて文章にしたらしい。文章の巧拙を述べる気は全くないが昨年の宣誓文とはニュアンスが違う。震災に直撃された高校生の実体験が言葉になって表現されているところが大きく異なることになろう。その実体験であっても美辞麗句に変色されがちだった「時代」から、若者の「心からの叫び」を務めて表出できるように配慮した指導者並びに関係者の配意が確かに見える。高校生は少年ではない。地域で最もパワーを持つ集団である。被災地でも「頼りにされるべき」頼もしい青年たちであることがこの震災でも見直されている筈である。そのパワーが感じ取れた。頑張れ、高校生!叫びたくなった瞬間だった。
 時代と共に変わる。変わるべきモノは変わらないと世界の潮流と太刀打ちできない。聞き終わった瞬間、「やるなぁ~、高校生」と心強く感じた。ただ、変わってはならないモノまで、無理に変えようとする無謀な努力は考えるべきである。これは蛇足と思いつつも、高校生世代に伝えておきたい。
 『不易』と『流行』の兼ね合いを考えさせられた事象であった。

2012/03/23

耳が保つ「記憶力」

~受話器の向こうに映る姿~
 携帯電話が鳴った。
「先生、お元気でしょうか?ご無沙汰ですみません」
 着信画面に登録済みの氏名が出るので電話の相手は事前に判明する時代ではあるが、時として人によってはわが耳を疑う場合もある。余りの変容ぶりに容姿さえ忘却して焦った経験もある。
 「お~、〇〇先生、かい?!」「はい、そうです」
 現職地(神奈川県茅ケ崎市)での知人ではない。退職してからの県外の学校訪問で知り合った先生の一人である。その期間は僅か2年間でしかない。しかし、その間の交際は密度の高いモノであったことは事実として記録に残っている。その後は、つくば市での研修で上京された機会に一度だけ東京で再会しただけのお付き合いである。メールの交信と時に触れて電話で声に触れたことはあったが親密度は高くもなかった。
 人事異動を知らせる電話内容だった。
 実母と義母の同時介護をご夫婦でご苦労されている様子は情報として活字ではキャッチしていたが「生の声」での交信は久しぶりだった。「おかあさん方はお元気ですか?」の問いから会話が始まったのは自然体だった。
 まるで昨日も会っていたかのような錯覚を起こすほどに会話が弾んだ。ご栄転の内示があったとの報告にこちらも心から祝福するモードになった。先輩らしく何点かのアドバイスを伝え、学校訪問への約束をして再会を誓い合って電話を切った。
 耳が保つ「記憶力」の威力。
受話器の向こうに映る姿が想像できる聴解力の偉大さに我ながら感動した。4月からの活躍を念じつつ再会できることが楽しみになった。そんな後輩の目に映る老輩の廃頽ぶりを見抜かれるのも少々怖い気もするが、やはり、「嬉しい」春一番の電話であった。心身ともに健康管理に気を付けて残りの在職期間を有意義に過ごして欲しいと祈る春の朝である。

2012/03/22

去る者、そして追う者

~重要なことは「新陳代謝」~
 内示の段階でも新年度の「身の振り方」を情報として知らせていただく時期になった。卒業式を終えた小中学校の校長先生達からも数通のメールを受信している。当然ながら大願成就の定年退職をされる校長先生方からである。
8年前の瞬間を思い出す。それは定年退職を1年後に迎える予定の校長が、「青天の霹靂」の如くに、藪から棒の退職宣言をして当時の職場を混乱のどん底に貶めた罪人となったシーンのことである。
 一身上の都合上。
 まさに小生の退職はその物ズバリであった。辞める半年前には(退職関係)書類上の処理も進んでいた当人の心には未練や曇りの微塵も無かった。むしろ、そのポジションにあった者がいなくなれば、否応なしに誰かがそのポジションに就くことになる。それが組織運営の活性化に繋がると確信していたからでもある。しかし、「あと1年間は在る」という時空の中では、当時の関係各位には寝耳に水の情報として飛び込んだようだった。いわゆる、パニック状態となった。諌める言葉を見つけるどころか、自身も初めて知った情報に自らを奈落の底に落とされてしまった状況下の(当時の)教頭さんには大変迷惑を掛けてしまった。しかし、理不尽な人事異動には「嵐が去る」のをじっと待つしか手が無いのでは?この時期になると、「多大な迷惑」(=教職員の代表の弁)を掛けたことを詫びている老輩である。
 しかし、信念は揺らぐことは無い。新陳代謝は組織の老朽化防止には欠かせない。去る者があれば来る者もいる。人生には不安は付き物である。
 管理職への登用で内示のご報告を頂戴しているが、「今の気持ち」を忘れずに心身共の『健康管理』に留意されて、学んできたことを後輩諸氏に伝授してあげて欲しいモノである。凡庸な先輩ではあるが心底から願っている。
 そして、この3月で「教育界の現職」を去る後輩諸兄にも長年の労苦を労いつつ機会を見つけて後輩への苦言を呈することが出来るような先輩として「新しい土俵」でのご活躍を期待して止まない。これは心底からの祈りである。そして、小生と「毎日サンデー」の仲間として、たまにはゆっくり一献を傾けながら「今だから話せる」話題に花でも咲かせようではありませんか。

2012/03/21

ブログ休刊の失態

~「後で」の不始末を吐露~
 日常生活のダイヤは「朝一番主義」で策定している。
 早起きを実践することで、一日のリズムを確立しているのであるが昨日は『ちと』手元が狂ってしまった。何気なく「帰宅後にアップすれば・・」の軽い思いが事前予告も無くブログ中断となってしまった。
 今朝も4時の起床で、いつもの通りにメールチェックをする。
 読者の皆さんも「お彼岸の中日」でご多忙だったのだろうか。珍しく1通の着信も無い。パソコンの故障かと勝手な憶測をするほどの珍現象の朝の出立である。ともあれ、何人かの人には「あれっ!歩禅記はどうしたんだろう?」と訝しがる思いをさせてしまったことは事実であろう。
 健康を害したわけでもなく、「ぶらり東京の旅」の悠々な時間をご機嫌で過ごしてきた程の元気である。この「旅」は自己再生の有効な時間として確立している。帰宅すると「予告の訪問客」があった。歓迎の接客をして美酒に酔いしれていると昼間に電話を戴いた大先輩への留守の非礼をしたことも忘れてしまった。妻に促され、電話をした。懐かしい声が美酒の酔いに相乗効果となったのか少々長電話となってしまった。大先輩が教頭職時代からのお付き合いなのでその時代の思い出話も頂戴して懐古の思いが感動を再現させたようだった。電話を終えても入浴を勧められるまで無思考状態に陥ったのがその証である。
 今朝の目覚めは悪くない。しかし、昨日のブログ(無断)休刊への反省が過る。
 『後で・・』哲学を戒めて生きて来た自分を責めている朝でございます(泣)。

2012/03/19

「お彼岸」の集合体

~先祖も喜ぶのかな?~
 娘一人。
 義父母にとってはそこが「ご先祖様」の始発点だろうか。孫が3人に曾孫が5人と子孫がホンの少しだけの増加である。転居して初めての「春の彼岸」を迎え、墓地のある当地に(小生の)孫たちがやって来た。合流するのは年に数回しかないが、血縁と言う「見えない繋がり」は抵抗するどころから昨日も遊んだ関係者の如く時間の経つのも忘れたように夢中である。例によって「帰りたくない」「泊まりたい」の連呼の時間がやって来た。
 義父母が眠る墓地の菩提寺には立派な鐘楼がある。
 去年までは大きな音を発するほどの力も無かった孫息子が立派な鐘突き振りを見せた。ゴ~ン、と鳴り響くと「曾祖父ちゃんに聞こえたかな?」と自信満々に質問して来た。「あんなんじゃ、聞こえねぇーな」と小生が意地悪く答えてみたらびっくり。再挑戦をして更に大きな鐘の音が墓地に響き渡った。「十分に聞こえていますよ」と優しい老妻の対応に満足げであった。
 そろそろ、「春を実感する」日がやってくるのだろうか。
 寒冷地で待つ「春」は、東北や北海道の生活者の心情は更に大きいモノだろう。被災地で仮設住宅で「春を待っている」方々の辛さを考えたら甘ったれた発言は控えるべきであると自戒した。
 お彼岸の集合体。それは次々世代(=曾孫)の生きる姿である。祖父の眼にはそう映るのであるが読者の皆さんはどのように考えられるのだろう。

2012/03/18

お元気で何よりです。




 ~懐かしい筆跡~
 現役教員最後に勤務した中学校。
その当時の校長先生の奥様からお手紙の入っているお菓子が届いた。筆跡を辿りながら「お歳を召された」の感は否めないが懐かしい思いが膨らんだ。
 送り主の書簡書き込みの日付が何とも表現し難い風情がある。
 今日は3月18日。このお手紙をしたためられた(到着日を想定しての)日付が『昔人』の大和心であろうか。届いたお菓子は(ご主人・当時の校長先生大好物の)カステラである。販売店からの発送である。ちょっと前までは、宅配便に持ち込めば配達日も明白だったが、販売店に依頼すると配達日がかなり不明瞭であった。今は違う。販売店でも伝票に「配達日」を記入して約束してくれるようになっている。
 当時、お世話になった校長先生は小生の転勤と同時に定年退職であったのでご存命であれば(既に他界されている)、84歳のご高齢である。その奥様とは同期の奉職と聞いたことがあるので昔人の雰囲気があるのは当然であろう。
 文字を眺めながら、その筆跡からも『昔人』の雰囲気が伝わってくる。
 お気遣いや訪問した際の気配りには、常に同伴する妻も学ぶことが多いと感銘しているようだった。茅ヶ崎から離れることも事前のご報告はしなかった。当地に転居してもしていなかったが、年賀状にて初めてご報告をさせていただいた。驚かれた様子が直ぐに返信葉書で届いた。
 昨年までは、故郷の特産品(=晩白柚)を直にお持ちしてご挨拶をさせていただいていたがそれも儘にならず、今回からは産地直送にしてしまった。大先輩ご夫妻への「年に1回だけ」の謝意のご挨拶代りである。
 いつまでもお元気でお過ごしいただきたい。
そんな無精な気持ちを、このようにご丁寧に受け止めていただいて感激である。発送日(配達日)へのお気遣いを伺える3月20日までは時間のゆとりがある。その時空に心も癒される朝である。カステラはご指定日(=お彼岸の中日)までお預けにしておくかな!!(笑)

2012/03/17

発想の基準と想定外の進展

~「笑い話」になる展開~
 我ながら感心する。
 それは自らに潜んでいる「短絡的思考回路」の存在に気付いた当人のことである。単なる「思い込み」ではない。書斎を片づける→不要な書物を処分する。この回路は意識の中で生きているが現実の行動には今まで結びついたことは無い。書物を処分するのは「廃棄する」ことしか無く、「どこで、どのように」廃棄するのかは限定されていた。つまり、公共のごみ処理場に運び込んで一度で処理する以外に考えたことも無い。
 愚息に強制的に連れ込まれて「ブックオフ」という業界を知った。
 そこで、大事にしていた(捨てる機会を逸した?)書物が、「一気に日の目を見た」という発想の基準に気づかされた。捨て去るのではなく「有効活用」されて、更に店内での展示販売も許諾を要請され「買い取られた」文化として理解した。まさにカルチャーショックであった。ショック療法を受けた効能とは、こんな症状になる?(笑)
 昨日も時間が空けば物置の中に居た。段ボールに入ったまま1年間放置された書物の紐を切り空気を通しながら「この子たちにもやっと日の目が・・」と爺の呟きを掛けながら片付けが捗ったのだ。笑えるじゃありませんか?同時に、ゴミ焼却場に捨ててきた書物に対して申し訳なく思い始めているのだから。短絡的思考回路の持ち主には当人も呆れ返る程の変容だ。
 少年の日の夢。
 自分で購入した「ほん」の中に埋もれながら読書が出来る部屋を造る。
その夢を果たした少年の次の課題は大事にし過ぎる「ほん」の処遇であった。茅ヶ崎の自宅での話である。工務店から派遣された大工さんが開口一番、「家が壊れる」と叫んだ。20年前の光景である。つまり、二階の部屋を書斎にしていたために本の重量で補強工事が要求されたのである。その時点でその大工さんが「使わない本を捨てれば大丈夫」とも口走った。十分納得しながらも結局、その「ほん」も殆ど引っ越し荷物でここまで運んで来てしまったわけである。補強作業は完了。
 回路に新鮮な空気が注入された(笑)今、『ブックオフ行き段ボール』の中に入る本が多くなった。選別に悩まない訳ではないが、その苦労も快感となり昨日も物置に閉じこもった。
 「お祖父ちゃんは今夜から物置に寝るの?」と、4歳の孫に問われ苦笑である。「笑い話」になるほどの想定外の進展が今日も展開されそうである。

2012/03/16

この歳になっての「初体験」

~ブックオフというお店~
 転居先の「離れ」には、物置になるように7畳間の部屋を作った。書棚もそこに取り付けてもらった。茅ヶ崎の書斎から運び込んだ本が段ボールに入ったままに間もなく1周年を迎える。絵本も沢山ある。孫たちは茅ヶ崎で読んでいたのでその存在を知っている。しかし、足の踏み場の無い状況では絵本を取り出すことも不可能である。そんな状況に満足している訳ではない。きっかけと「片付け意欲」のタイミングが合わなかっただけである。
 やっぱり孫力には負ける。
 「いつになったらお部屋から本が出せるの?」とせがまれてしまった祖父ちゃんは、「やるっきゃない!!」との意欲を鼓舞したのである。愛着のある本も「処分する」方向性に気持ちも固まったので早朝から(物置)部屋に入り込んだ。結構な数の本が処分対象に選ばれ(笑)、下請け業者の老妻によって「紐付き荷物」に梱包され運び出された。狭い「離れ」では運び込まれた部屋が大迷惑となってしまった。
 「明け番」で休日となっている長男が、「ブックオフに運んでやるぞ」と自分の車にどんどん運び込んでしまった。市営ごみ収集所に持ち込もうとしていた「持ち主」の意向は無視されてブックオフとやらのお店に同伴させられた。
 この種のお店には高齢者にとっては入り辛い。入ったことも無い。たまたま4歳の孫は咳が気になると言うので今日は保育園を休んでいたので連れて移動した。ブックオフには入店したことがあるらしく嬉しそうに店内を歩き回っている。その姿には違和感もない。手を引いている祖父ちゃんだけが何だか落ち着かない。店内のレイアウトと「本屋さん」のイメージが合わないのが落ち着かない要因だった。古い本を「買い取る」方式であることぐらいは知っていたが、「空想と現実」には格差が大き過ぎた。使い古し、埃もついているような書物を持ち込んだら迷惑を掛けると思い込んでいる祖父ちゃんの思考回路は、もう完璧なまでに打ちのめされてしまった。買い取り額を受け取った長男は、「凄いなぁ~」と驚いたようだ。ブックオフに出すほどの本の数も無いから「持ち込んで現金化したことが無い」という長男が何度も、「また、持ち込んでやるよ」と誘いかける。
 ブックオフという類のお店への「偏見」(笑)もそろそろ消える時期になったのだろうか。しかし、初めての経験と言うのはそれ相応にふさわしい年齢があるようだと思いつつ帰宅したが、店員さんを含め好感が持てたフックオフのお店には悪い感じは全くなかった。。
 今度は、自分の車で本を持ち込んでみようかな?(笑)。

2012/03/15

「あれから1年」の余震・・・

 ~やっぱり怖いですなぁ|~
 当方夫婦は午後9時には(通常は)床に就いている。
 オリンピック・男子サッカーを少しだけテレビ観戦した分だけ入浴時間からズレてしまった。サッカー少年の孫たちの影響で、離れでも覗いてみたくなったのだから不思議な現象。なぜならば、殆ど「他の影響」を受けるような性分ではないので老妻も「おやっ?」と思ったに違いない。頑固祖父ちゃんの精神状態まで揺さぶるのは「孫たち」しかないのかな?(笑)
 布団に入ったばかり。
 枕元のラジオも稼働させて横になった瞬間の、あの異常な警鐘がラジオと二つの携帯電話から鳴り出したの「揺れ」が始まったのはほぼ同時刻だった。老妻が就寝前のトイレへ立って行っていたので布団から飛び出してトイレに向かおうとしたが揺れが大きいので躊躇しながらも大声を出した。3・11の地震(当時は茅ヶ崎市)と同様に比較的長い時間であるのが恐怖心を増幅させる。
 ラジオで情報を収集していると、神奈川県に住む従姉から電話が行った。被害は全くないことを伝えた。
 何となく就寝ムードに水を差された状況になった。ラジオに耳を傾けている内に地震情報放送が通常モードに変わり始めた。その時刻になると睡魔と仲良くなったらしく目が覚めたのが午前3時だった。
 やっぱり怖いモノですなぁ~。大自然のパワーには太刀打ちできん!!今朝の目覚めの老妻へに掛けた最初の言葉である。

2012/03/14

全力疾走にて完全ゴールイン

~お疲れ様でした!~
 
 四国の中学校長から携帯電話でメールが届いた。

(略)11日が最後の卒業式でした。校長11回目。過去最高感動。証書一人一人授与。答辞が決めてでした。式辞カスミました。全てに感謝。少し気が緩みそうです。是非、今後とも引き続きご指導をお願い致します。

彼は小生が日本公文教育研究会の顧問をお引き受けした直後に会社役員より紹介された公立中学校の校長である。校長職として11年間の勤務とは、今更の如く激務の中を健康で成就できた彼の心身ともに「健康を管理する」術に圧倒される。小生など彼の半分の期間も勤めていないのだから。
生徒代表の「答辞」に感動し感涙で手元に準備した「式辞」に目が霞んでしまった。彼の性格を知る身としては十分にその光景が見えてくる。四国や岡山で仕事をする場合は必ず学校訪問をした。会いたくなるほど興味ある後輩教員であったからである。ブログでは詳細が語れないが、荒廃もどん底状態の中学校に校長として着任して以来、「生徒を褒める」教育活動を前面に出しながら、結果的には県内でも知らない人はいない程の「文武両道」に亘る優秀校にまで引き上げたのだから感慨も一入だっただろうと想像も易い。
 小生は返信のメールにこう書いた。

 フリーの私の身を貴君の学校の体育館に置きたかった。そして、貴君と一緒に感動の時間を共有したかった。ともあれ、少しはゆっくりしてください。4月からの「自由な時間」を利して再会しよう。お疲れ様でした。

 願わくば「中学校の校長」を最後にして教員人生を送りたかった。小学校での居心地が悪かった訳ではない。やっぱり、愚痴は小生には似合わない(笑)。そんな感情が昂ぶるメールであった。

2012/03/13

夕暮れの娯楽

~老齢者の域に侵入?~
 5年前に老衰寸前の義父と一緒に夕暮れの時間を過ごした。
 最終的には病院で過ごすことになった義父ではあったが、自宅で最期を過ごした頃、大相撲の中継を楽しみにしていたようだった。福岡場所の画面を見ながら観客の少ないことを憂うような発言をしたことがあった。意識も朦朧としている日々を過ごしながらも長年親しんで視聴した「大相撲」風景から何らかの刺激が伝わったのかも知れない。生まれ故郷が九州であったことも要因か。
 昨日、相撲のTV観戦をしている所に4歳の孫がやって来た。
 「お祖父ちゃん、寒くないの?」と藪から棒の質問に「寒くないよ」と画面を見詰めたままに応えると「裸でいると風邪引いちゃうよ」と畳み掛けてきた。「えっ?」と発するとソファ椅子の縁にちょこんと座ったまま画面を凝視している孫の真剣な眼差しがそこにあった。
 お年寄りと一緒に視る番組。
 昔からそんな風潮があったことも意識はしていたが、その「お年寄り」の域に小生も完璧に一歩(?)を差し込んでいるようだ。「お祖父ちゃんはお相撲が好きだ」と評価されていることを老妻が発見した。「僕も、お祖父ちゃんと『はっけよい』をやりたいな」と老妻に向かって言ったのだそうだ。『はっけよい』とは、相撲の行司さんの発する言葉をTV中継からキャッチしたのだろう。
 畳の上で孫と「お相撲ごっこ」に興じるお祖父ちゃん。
 「様になっている」、と老妻がからかう。自らの実感は無いが傍から見れば祖父と孫の戯れは確かにそんな評価に繋がるのだろう。大相撲ファンとして、久しぶりに応援したくなるほどの「ご贔屓・日本人力士」が出現した。決して外国人力士を排斥するような感覚からではない。この意識こそが「老齢者の域」に足を入れ込んだ証明のようだ。
タイミングよく「お相手」をしてくれる孫の存在が拍車を掛けてくれているのが「微妙な苦笑」を産んでしまった夕暮れの娯楽の時間である。

2012/03/12

カウントダウンと秒読み

~『締めくくり』に似合う言葉~
 全国から、この3月で「終業する」後輩諸兄からメールや手紙が届く。
 いよいよカウントダウンに入りました。長かった勤めも終了まで秒読みの時期になりました。等々にそれぞれの思いが綴られていてそれなりの感慨が伝わって来る。
 小生は、退職時期を1年余しての(突然の=周囲の関係者にとって)退職だったのでカウントダウン紛いの心情に浸ることも出来なかった。80歳代後半まで頑張って生きてくれた義父母の老衰のための急遽の退職となった。身辺整理ももどかしく両親の介護への不安で「秒読み」は違った世界で味わったことになった。退職辞令交付式を終えると、飛ぶような勢いで故郷に向かった光景が浮かんでくる。
 だからと言って後輩諸兄の心情が理解できないと言うのではない。
 同業者なので勤務年数も殆ど変らない。経験値も内容やレベルは違うだろうが多かれ少なかれ同質の言語で語られる。そんな後輩諸兄には、「これからどうするのかい?」とだけ問うことにしている。
 歩んできた「感謝の思い」を、カウントダウンの中に挿入して「恩送り」に精を出して欲しいと願うばかりである。小生も退職してこの3月で丸8年が過ぎる。後輩諸兄に豪語するような「恩送り」が出来ているかどうか。自信ある回答はできないが、先輩としてこんな問いをし続けている。
 生活リズムが変わるので体調管理も重要である。健康でお役に立てる「残された人生」を有意義に過ごしてくれることを心から祈るばかりである。元気でいて欲しい。再会出来たら一献を傾けて過去を語り合いたいモノものである。

2012/03/11

去年の今日・午後2時46分

~『慰霊・鎮魂』の終日~
 「未だ遺体が発見されなくて・・」と涙ぐみ語る遺族の顔がまともに見ることが出来ない。それは幼い頃の我が生活体験からの感情論である。父親が沖縄で戦死したとの公報を受け取った母親は、夫の死を受け入れることが出来るまで何年間(心の中で)待ち続けたのだろうか。某雑誌のインタビューでその後の経緯として母の行動を語ったことが記事になって公表された(月刊誌MOKU2000年5月号)ことを思い出した。ご希望の方にはその時の原文があるのでお分けしましょう。
 今回の震災でも尊い命を亡くした遺児が大勢いるだろうと推察する。
 小生は昭和19年10月に誕生している。終戦は昭和20年8月である。物心がついた頃(と言っても定かではないが)、母の言動が今でもはっきり記憶の中に存在している。誕生した時点で、既に戦地に赴いていた父親は家には居ない。その頃から小生は生まれつきの「母子家庭」生活体制で育ったことになる。
 この東日本大震災でご両親を亡くし、顔も覚えていない「子ども」達がこれからの時代を生き抜く苦労を想像するだけでも(実体験者として)心が痛む。慰霊・鎮魂の光景を画面で直視できない。戦死という犠牲者は男性に限る。多くの父親も戦場で散ったそうだが、前途洋々の青年たちも惜しまれながら消えて逝った。数えきれないほどの「妻と母」は涙にくれた。なぜならば「遺体の確認」が出来ないからである。
 今回は条件が違う。祖父母も叔父叔母(伯父伯母)も、そして父母、兄弟姉妹と犠牲者に男女の違いは全くない。不特定多数の犠牲者にはその遺族がまた夥しい数に及んでいる。現代に生きる我々の記憶には阪神淡路大震災の悲劇は記憶に新しい。「二度と起きて欲しくない大惨事」と表現するも、大自然を相手では人間の力など風前の灯に等しいようだ。
 午前1時からラジオを聞きながら涙して小生の今日の一日が始まった。
 孫たちの生活リズム支援として祖父ちゃんの「車での送迎」がある。後部座席に座る孫に語りかける。難しい話は必要としない。カーラジオから流れる哀しい雰囲気に言及しながら「今の幸せ」を祖父として語りかける。
家族がある事。お父さんやお母さんが元気でいる事。お友達と楽しく遊べる事。孫は今の幸せを感じるままに言葉にして返してくれる。この震災直後(昨年の4月11日)からお祖父ちゃんお祖母ちゃんと同居したことも幸せなことの仲間入りになっているようだ。
黙祷をして「鎮魂・慰霊」の心を捧げる。自らの幸福感を共有し合いながら有限の生命を活かして生きたいモノである。

2012/03/10

去年の明日

~誰にも予測できない「明日」~
 テレビもラジオも全てが「特集番組」を組んでいる。
 今朝未明の2時25分頃にかなり強い地震に襲われた。耳元に届く地震情報では「余震」であるらしい。目を閉じたままに言葉情報だけで老脳は1年前の生活を思い出していた。
引っ越しが決まり、月末には茅ヶ崎を離れる郷愁に浸っていた頃である。退職直後に九州に生活母体を移行した(両親の介護のため)時点とは違い、一家転住であるので周囲にもそれなりのご挨拶も必要だ、等々の身勝手な想像の世界で気を病んでいた。そんな頃だっただろうか。
 そして、去年の明日。こんなに長く、強い地震を体感したことは無かった。ライフラインが確立していることを無意識のままにTV画面に映し出される怪獣ドラマでキングコングやゴジラが登場して来る映画でも見ているかのような「津波の恐怖」に釘付けになってしまった。恐ろしさの結末すら容易に想像できないままに数時間が流れてしまったのが、「去年の明日」の夕刻である。
その後、消費電力の課題が突きつけられることすらも考えていない「平和ボケ・便利ボケ」の自身を、1年後の今となって恥じ入っている。あれから1年。被災地の皆さんの「言葉では言い表せない」悲喜こもごもな出来事を思い遣っても、やっぱり貧相な人生を歩んでいる自らを責めてしまう。
 明日の予測はできない。
 額面ではわかっているが、本質ではわかっていないようだ。そんな思いに心痛を浴びせながら余震に恐れている自らがここに生きている。
 冷たい雨ではないようだが、被災地や避難所で苦しい生活を強いられている皆さんにとっては哀しい雨の朝なのだろう。
 何も出来ない当方にとって、今出来ることを懸命に努めることで予測できない明日に向かって生きていくしかない。そう心に誓う涙雨の朝である。

2012/03/09

未だ「1年間」は住んでいない

~部屋の使い勝手も変わる?~
 震災直後(1か月後)の転居。ご丁寧にも(笑)、4月11日の移動(転居のための)日も出発直前(茅ヶ崎市)に大きな揺れに見舞われた。移動中の茨城県との県境に当たる柏市(千葉県)で東北自動車道が通行止めになってしまった。夜の帳が降りると暗闇になる。恐怖心も募る。暫く市内を旋回しながら(笑)、カーナビの通行解禁の文字を待った。向かう先に住む長男宅でも夕暮れの強震には身の危険を感じたようだ。と同時に茅ヶ崎から両親が車で向かっていることへの心配で、車中の携帯への電話が鳴りっぱなし状態であった。
 そんな懐古心で今日の「部屋の模様替え」が妻から急な提案がされたのか。
 起床と同時に、引っ越し荷物を運びこんだままの状態にある「7畳・物置」の模様替えが始まった。家具にはそれぞれ目一杯の荷物が押し込んだままの状態で満載である。家具のドアを開いただけでウンザリもする状況だったが、流石に住民の一人としての意識にも「そろそろ自分らしい」生活を再現したくなっていたようだった。妻の要望と夫の期待を重ね合わせながら「老力」で懸命に働いた。
 約4時間の休憩なしの労働。 見違えるほどの採光が片付いた空間を浮かび上がらせてくれた。疲れも吹っ飛んで更に老体が異常な程に動き回り、妻の要望が満願になったようだ(笑)。1年間近く生活すると、その生活の場にも狭いなりの「使い勝手」が求められていることがわかった。午後3時過ぎには小学1年生の孫も帰宅した。細かくは気づかないようだが爺婆の雰囲気からわかるような言動もあり、充足感に浸りながら勝手に労をねぎらう自分に苦笑もしてみたが満足できた一日だった(激)。

2012/03/08

「ケセン語」って!?

~耳慣れない『語(ことば)』~
 それは7日の真夜中(午前1時)の出来事。
こんな事態に時々遭遇することがある。枕元に常駐(稼働)させている(笑)ラジオが発する音に睡魔が妨害されることがある。それが今回である。「ラジオ深夜便」(=NHKラジオ第一のプログラム)から流れてくる情報源が今回も顕在していた。トイレに起きて布団に潜り込んだ耳に、震災地で医院を経営するらしい人物の話声が流れていた。何故か妙に耳に着いた。眠気がいつもその声を凌駕するはずであるが、今回もまた負けてしまった。
  声の主はカトリック信者の医師で震災地の大船渡市に在住だとわかる。
 津波の後の医院の立て直しのご夫婦のご苦労話に傾聴してしまった。しかし、完全に睡魔を負い払ってしまったのはインタビュアーとの次の問答であった。
 Q:イエスの教えに「汝の敵を愛せよ」とあるが、どのように捉えているのか。
 A:敵を愛することは出来るモノでない。
 氏の答えが深部に入ると、すっかり老脳も生き返ってしまった(笑)。『愛する』という額面上の捉え方が画一過ぎると断言された。「愛する」という言葉は氏には親近感が無いそうだ。「好きである」で良いんじゃないのかな?「好きである」ならば、その相手を大事にしたいと思うはずだから、とも。「愛する」と言う意味を「大事にする」と置き換えたら、『敵に塩を送った』武勇伝もすんなり理解できるでしょ!?
誰が翻訳したかわからない言語に振り回されれば『語(ことば)』の本質がわからないままに使用してしまう、これはとても危険であるとの「語学」論になった。そこで、理解されないまま放置され、軽蔑と侮蔑に慣れっこになっている「東北弁」の哀しい思い出が危機状態であると気づいたとの言及に至った。親しんだ東北弁を駆使する氏としては、何とかこの地方(気仙沼・大船渡などの周辺)で喋られる「ケセン語」で、キリストの教えを普及したいと考えられたのだそうだ。説得力のある語学論に氏の郷土を「愛する」気持ちが乗り移っていることハタと気が付いた。つまり郷土を愛する氏は強度を「大事にする」という減点に立ったことが理解できた、
 話の下り坂は猛スピードだった。
言葉にすっかり酔いながら満腹状態になった老脳は再び睡魔に襲われ熟睡させてもらった。目が覚めたのは5時。いつもより1時間遅い目覚めの理由は途中の1時間の「目覚め」があったからである。
起床すると記憶を辿りながら直ぐにこの医師を調べた。わかった!!「気仙語」(=けせんご)ではわからなかったが『ケセン語』で踏査できた。医師を紹介するページが山ほど目に飛び込んできて、起床後にも大きな衝撃を受けた。立派な人生を歩む日本人にここでも会えた。至福の時間となった。

2012/03/07

歩禅記(56)

~雲雀のさえずりに足取りも軽く~
 独り歩禅は午後2時45分の出発。
 自宅から5分も歩くと大好きな田園地帯に入る。今日は異常な程の温かさ。汗ばむ陽気と言っても可笑しくない。こんな陽気になると全身が何かに怯えた日々があったことを思い出してしまう。マスクの着用に迫られるだけでなく目の周囲の痒さと鼻水の処理にはホントに悩まされた。テレビでまた恐怖心を煽られるばかりの画面を見た瞬間から(不思議な程に)症状が顕著になるのだから「病は気から」の古諺が恐ろしい程に理解できた(笑)。その症状に対応した常備薬を捨ててから11年が過ぎた。症状が全く無い訳ではないが、殆ど意識しないほどにまでなっている。自身の判決では「無罪放免」である。小生を知っている昔の仲間であれば、「どうしたの?特効薬でも見つかったの?」と質問をまくし立てることだろうか。
 全くの無防備(花粉症対策)で歩禅に勇んで出発すると、大好きな雲雀のさえずりに迎えられた。空高くから聞こえる『ひばりの歌声』は、やっぱり良いモンだ。田圃道に入ると、保護色の雲雀たちが乾いた田んぼの中で何かを必死に啄んでいるのが確認できるのだから「雲雀・痛」であることだろう。雲雀たちの活発な動きを見届けると「確かに春が・・・」と独り言が口について出てしまった。
 歩禅は「歩きながら自らと語り合う」のが、主たる我が目的であるが、今日のような陽気には乾いた畦道にちょっと腰を下ろして雲雀たちと話したくもなる。水路には未だ水もない。その淵に腰かけてゆっくりしていると遠くを何組もの人の群れが「歩いている」姿が目に入った。長閑である。数分間のとてもリッチな気分に浸ったら、腰を上げて再び歩禅に戻る。
 田んぼの縁に、まだまだ「蕾」の梅の花(写真)にも心を奪われた。愛でながら「早く咲いてくれよ」と声を掛けて帰宅した。予定では4時だったが15分遅れの帰着となった。座り込んで「春を満喫した」時間だけの延着であった。僅か5000歩ばかりの歩数ではあったが、久しぶりの歩禅の空気は美味しかった。

2012/03/06

北野天満宮の梅も未だ6分咲き

 ~季節感のズレが顕在~
 京都に住んでいる知人から写メールが届いた。
 小生の思い出の場所の写真である。正面からの撮影なので確かな風景としての記憶との整合性が無いが、確かに北野天満宮の写真である。嬉しく拝見しながら、氏のメモ書きに注目した。西の京都でも、3月にもなって「未だ6分咲き」との情報である。近くに東北でも有名な「水戸の梅まつり」もあり、世は「ひと時の寒梅期」である。
 2月19日に水戸で仕事があって出かけた。梅祭りが始まったばかりだった。車窓に映る千波湖の風情が違うことに気付いた。寒梅客の臨時駐車場に車が多く駐車されていたからであろう。仕事場になっている県立青少年会館は偕楽園の裏手の位置に当たるらしい。帰りのバスを待っていると、前に並んでいる観光客の集団から聞こえてきたのは「来るのがちょっと早過ぎたね」だった。開花がいつもより遅れている情報として受け取った。その日からもう2週間が経っている。そこに、水戸よりも早咲きになると思われる京都の地でも梅の開花が遅れているという情報を得て考えれば、「季節感と開花」にズレが生じていることが判明する。
 北野天満宮の思い出?
 生来、「梅の花」が桜の花より好きな小生である。つい先だっても亀戸天神の境内を訪問したのも寒梅を当て込んでのモノだった。湯島天神にも行ってみたいと思っている程に「梅の名所」には足を運んでいる。
京都の北野天満宮には中学校教員時代に、学業の神様に「合格祈願」をしたくて団体行動から外れて(当然、許可済み)出向いて受験生を担任する教員として全体の『お守り』をいただきに行ったのである。
 苦しい時の神頼みの効果は定かではないが、受験生には記憶に残っているようだ。その時は寒梅の雰囲気はゼロだった(笑)。
 一枚の写真で25年前の記憶が戻った。そして、この間に季節感と自然界の胎動に大きなズレが始まっていることにも気づかされた。貴重な写真を有難うございました。 ~季節感のズレは顕在~
 京都に住んでいる知人から写メールが届いた。
 小生の思い出の場所の写真である。正面からの撮影なので確かな風景としての記憶との整合性が無いが、確かに北野天満宮の写真である。嬉しく拝見しながら、氏のメモ書きに注目した。西の京都でも、3月にもなって「未だ6分咲き」との情報である。近くに東北でも有名な「水戸の梅まつり」もあり、世は「ひと時の寒梅期」である。
 2月19日に水戸で仕事があって出かけた。梅祭りが始まったばかりだった。車窓に映る千波湖の風情が違うことに気付いた。寒梅客の臨時駐車場に車が多く駐車されていたからであろう。仕事場になっている県立青少年会館は偕楽園の裏手の位置に当たるらしい。帰りのバスを待っていると、前に並んでいる観光客の集団から聞こえてきたのは「来るのがちょっと早過ぎたね」だった。開花がいつもより遅れている情報として受け取った。その日からもう2週間が経っている。そこに、水戸よりも早咲きになると思われる京都の地でも梅の開花が遅れているという情報を得て考えれば、「季節感と開花」にズレが生じていることが判明する。
 北野天満宮の思い出?
 生来、「梅の花」が桜の花より好きな小生である。つい先だっても亀戸天神の境内を訪問したのも寒梅を当て込んでのモノだった。湯島天神にも行ってみたいと思っている程に「梅の名所」には足を運んでいる。
京都の北野天満宮には中学校教員時代に、学業の神様に「合格祈願」をしたくて団体行動から外れて(当然、許可済み)出向いて受験生を担任する教員として全体の『お守り』をいただきに行ったのである。
 苦しい時の神頼みの効果は定かではないが、受験生には記憶に残っているようだ。その時は寒梅の雰囲気はゼロだった(笑)。
 一枚の写真で25年前の記憶が戻った。そして、この間に季節感と自然界の胎動に大きなズレが始まっていることにも気づかされた。貴重な写真を有難うございました。

2012/03/05

新聞を読んで

~若者の声に背筋を伸ばそう~
 「今の若いモンは!」のセリフを聞くたびに反感を抱いた中・高校生時代を思い出した。世代が逆転した自らの「立ち位置」に苦笑してしまった。それが、次の新聞記事だった(3月3日朝日新聞)。

議事堂のたばこにがっかり
           小学生 北野 希美        (埼玉県鴻巣市 12)
 先日、社会科見学で国会議事堂に行きました。国の政治が行われている場所が見られる、めったにないチャンスだと期待していました。きっとそれにふさわしいきちんとした場所なんだろうと思ったからです。
 ところが、現実は違いました。中に入ったとたん、たばこのにおいがむっと押し寄せてきました。私は根っからのたばこぎらいなので、すぐさま退散したくなりました。でも、社会科見学という団体行動中なのでそのまま進むしかありませんでした。いやな感じは残ったままで、見学する気もおとろえてしまいました。
 今は、国が公共の場での全面禁煙を進めようとしています。受動喫煙防止条例を作る市とかも増えています。国のことを決める国会議事堂という場所は、どんなところよりも早く全面禁煙をするべきなのではないでしょうか。国会には進んでやってもらいたいものです。


 当ブログ紙面の都合上、1点しか転載しないがもう1点深い思慮で「親の義務」に追及している声も同時に掲載されていたが、機会を見て後日搭載することにしよう。
 東日本大震災に遭遇した被災地の、しかも「放射能・被爆」と闘うべき第二次災害にお先真っ暗な状態でもがき苦しんでいる人への「国会の対応」を思うと、12歳の視点にすら映る当事者たちの当事者意識の低さには愕然としてしまう。
 成長しないままに年齢だけが「おとな」になってしまうらしい我が国の現状にも、確実に成長を促す親の下で立派な視線を育てているこの投書者のような若者がいることを、暫し、考えてみたくなって転載した。いかがでしょうか?

2012/03/04

♪あかりをつけましょ ぼんぼりに♪

~音楽で知る時代感覚のズレ?~
 CDで音楽を流す。
 離れの『ミニ・老人ホーム』にはそんな音楽のある風景が似合う。本日の主役CDは「ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌」(NHK・CD)である。「うれしいひなまつり」で始まり、続いて「どこかで春が」。最後が「かあさんの歌」で締めくくられている全10巻中第7巻のお気に入りCDである。こんな音楽が流れる爺婆の部屋に訪れる孫たちには顕著な変化は見えない。
 歌は世につれ、世は歌につれ・・・、と言うらしい。3月3日の『桃の節句』という季節の臨場感を醸し出すのに「うた」は必需品であると考える。気まぐれに訪れる母屋の珍客たち向けにはCDは便利なグッズである。止めない限りずっとそのまま流れているからである。ふと、足を止めて聴き入ったり鼻歌にしたり、手足を動かして学芸会張りの演技も見せる孫たちの小さな動きを当方は見逃さない。しかし、明らかに時代感覚のズレはあるが、これは仕方が無い。また、必要なことでもあるとも考えるからである。
 時々、「あっ、この歌知ってる!」「保育園で歌ったことがある」と連発することもある。無意識の意識の中で「リズムのある音」として聞き込んでいると、「あれ、この歌いつ覚えたんだっけ?」と自問する学びの風景と出くわすのだと確信している。出来るだけ機会を見つけつつ保有財産(笑)から「音楽CD」を取り出しては流している。いわゆるBGMという手法で自然体で聞かせてやろうと企んでいる。
 三世代同居の利点を追究しながら「お祖父ちゃんの目」で確認しつつ、音楽を通して伝統を孫たちに残してあげたいと思うのは老爺心(?)なのだろうなぁ。
義理の母親が義理の娘に「お雛祭り・寿司」と「桜餅」を手渡していた。
 嫁いだ娘にはしてやれなくなった古の我が家の「女性としての」しきたりでもあるらしい。母屋で嫁の歓声が上がった。群れる3人の息子たちに略奪されてしまった様子が離れまで聞こえてきた。穏やかな我が家の「桃の節句」であった。

2012/03/03

「離れの玄関」にも来客

~ご近所にも認知された?~
 ちっちゃな玄関。
 母屋に玄関があるので不要と思っていたが、建築途中で専門家から「あった方が良いんじゃないですかね」とのアドバイスを思い出した。それは、宅配業者以外には足を運ぶことの無い「離れの玄関先」のこと。そこに、初めて、ご近所の奥様(明らかに小生夫婦より先輩である?)が立たれたのである。離れの住人にとっては記念すべき日となった。つまり、ご近所にも認知された(ちっちゃな)玄関となったわけである。
 畑で作られたというヤーコンを戴いた。茅ヶ崎に住んでいた頃、厚木市にいる妻の従姉から良く戴いたので名称も実物も承知していた。一通りのお礼を玄関先で述べていると妻が相手を代わってくれた。
 孫たちのお友達も「離れ」に通すことは小生が禁止している。離れは遊び場として利用させたくないからである。爺婆だけの我儘な「憩い」の場として堅持したいからなのである。「老いの一徹」から発生した哲学である。のべつ幕無しの仕様に合う設計にしていないからでもある。しかし、いずれは、「老輩同士の団欒」としての活用は考えたいとは夢を見ていたので、今日の玄関先への訪問客はその「春告げ鳥」的な来客だと言えそうだ。
 小さな空間しかない「離れ」なのに、老夫婦が持ち込んだ『ガラクタ』(と、長男が命名)で足の踏み場ない。孫軍団も足を踏み込めないのが、正直なお話でもある。しかし、その別空間も住民らしい使い方が出来れば幸せである。思いがけない来客だったので、「お茶でもどうぞ」の一言も発することが出来なかったことが反省でもある。そんな「ひなまつり」前日のちっちゃな出来事であったが、いつかは、縁側でご近所のご同輩と「御茶飲み」が出来るのが細やかな夢である。実現しましたら当ブログでご紹介しましょうかね。

2012/03/02

こんなことって、あるんだ!?

~1回「30分間」のお付き合いだけの人~
 当地に引っ越して最初に親しくなった人物。
 それは「1000円床屋さん」の理容師さんだった。茅ヶ崎に居る頃から理容室の料金の高さとサービスの内容のアンバランスに不満(とまで断言できないが)らしき気分があり、1550円で出来る「髪切り屋さん」(と言うネーミングだった?)を利用することにしていた。通い慣れていた近所の理容室を避けて流行のサービスを受けることを決断するのも後ろめたい気持ちとの葛藤だった。
 転居先での床屋や美容室、あるいは病院(特に妻にとっては歯科医)を探すのは一苦労である。嫁に紹介された1000円理容室の場所を探して辿り着いたのがこの理容室。通い始めて2回目で理容師が交替した。とても感じの良い理容師だったのでそのまま通い続ける内に、東京で美容室に勤めていたとの話から妻もカットしてもらうようになって夫婦で懇意にしてもらった。
 昨日の事。
妻から孫の学習発表会があるので髪のカットをしたい、との申し出があり車で送った。郵便局やら他の用事を済ませて終わる時間を見当つけて迎えに行って駐車場で待った。とっくに終わる時間になっても退室して来ない。やっと出てきた妻が、「今までの理容師さん辞めちゃったんですって」と開口一番。当然ながら理由などわかる由もない。「らしい」と言う交替した理容師さんの言葉だけが伝わって来た。
たかが床屋さん、されど・・・。
 30分足らずの時間に坐する床屋さんの椅子ではあるが、世間話をしながら心置きなく過ごせる時空は、利用者にとっては貴重な時間なのである。それが、忽然(ちょっとオーバー表現かな?)と目の前から消えてしまった。当然ながら名前も知らないし、住まいも知らないのだから「通りすがりの旅人」関係である。しかし、妻の報告に愕然とした。転居先で初めて親しく喋った人物だっただけに衝撃は大きかった。小生もそろそろ床屋さんに行く時期になっていたのでちっちゃな動揺は大きい(笑)。何か悪さをされたり裏切られたりしたわけでもないのに、こんな気分になるのも不思議だ。
 まっ、仕方ないか!!自らに言い聞かせている自身が変に思える朝である。

2012/03/01

土浦は二度目の銀世界


 ~「雪の中」の特別な一日~
 東京駅「えきなか」で求めた桃の節句の贈り物を、妻はアメリカの従姉に送りたいだろう。しかし、外はあっという間の銀世界になってしまった。自ら雪中運転を依頼する性格ではない。他の用務もあるので郵便局まで出向く意思を伝えると拒否することはなかった。郵便局の駐車場も真っ白だった。昼間でもあるので当座は路面凍結が無いとは言え先が見えないほど降りしきる雪の中を運転したのも記憶がないので不安な気分を乗せての運転となった。郵便局で用務を済ませてから大型スーパーへ向かった。運転に支障があるのはフロントドアの曇りから前方が見えないことだけであった。時間としては1時間も掛からずに無事に帰宅した。
 帰宅して、庭先と隣接する栗畑の積雪ぶりにびっくり(写真)。
 雪景色を眺めながら妻が呟いた。「帰りは危なくないかしら?」と。流石に祖母(妻)としての思考は祖父(小生)とは全く違った。孫の帰宅時間と降雪の心配だった。こんな所にも母性と父性は別世界なんだ、と痛感した。
 そこに、頬を真っ赤にして「暑~い!」と言いながら帰宅した小学1年生の孫息子。友達と雪合戦する予定を伝えて祖母(妻)を驚かせていた。おやつもそこそこに玄関先にやって来た友達と庭先で遊ぶ声が響いていた。
 「子どもは元気が一番!」。
 そんな会話をしながら庭先を見ている所に4年生の孫が帰宅。あっという間に雪の下の地面が見えるほどの元気ぶりに、思わず吐いた祖父母の言葉である。
 2月29日は特別「プラス1日」の日だ。特別に雪中運転をした祖父と思いがけない雪遊びが(特別に)出来た孫たちにとってはまさに「一日を得した」時間として過ごせたことになった。
 今日から3月。ここ数日、余震の回数も多い。その度に心も痛む。昨年のあの日から間もなく1年が過ぎる。被災地の皆さんへの思いを馳せながら、今日も一日が始まった。

自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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