2011/08/31

疲労度は所要時間に無関係??

 ~「疲れたぁ~」の一言は?~
 何が発せさせるのでしょうね。
 42キロもの長距離を走った(ことは無いが)ら、その一言は確実に全身が発する指令なのでしょうが、肉体的疲労感が伴えば自覚症状が証拠となることは確実です。しかしながら、時間的には1時間ばかりと言う短さであっても、その場から解放された意識が確立さえすれば疲労感がドッと襲ってくることもあるのですから疲労度と所要時間とは無関係だと痛感したのが昨日のことでした。
 5年間「顧問」という肩書で契約をさせていただいた会社と本日を以って満期となることで、昨日は本社までご挨拶に行ってまいりました。形式的だ、と言われても小生の気持ちが収まらないので出向いただけです。先方からの強制や要請があったわけではありません。5年前に身に余る優遇措置にて契約をさせていただき今日まで至りました。当時、どぎまぎした思い出が妙にくっきりした画面で走馬灯を駆け巡りました。単なるご挨拶だけで本社社屋に訪れたはずなのに精神的には「感謝の意」を上手に伝えられるかどうかの動揺もありました。お礼を述べて世間話をしながら程よい時間を見計らって失礼の無いように退社するのも神経を遣ってしまい、疲労度を高めてしまいました。
 総武中央線に乗り込んで空いていた席にへたり込むほどの疲労感に襲われた自覚症状は何だったのでしょうか。会社の採用の目的を果たすことが出来なかったことへの謝罪らしい一言も添えられなかった反省がその重さの中心になったようでした。言葉不足はこの場を借りて謝意をお伝えします。本当に有意義な時間を5年間もいただきましたこと心より感謝申し上げます。
 皆さんにもこのような「所要時間の長短」とは無関係に疲労度が高かった記憶があるのではないでしょうか?経験談も機会がありましたらお聞かせください。

 明日から孫たちは学校が再開するようです。長かったようで短かった夏休みが今日で終わることになります。40日余りの「長期」にわたった「孫たちとの生活」には、上述内容とは全く異質な疲労度が顕在します。しかし、そこには老輩としての充実度も、それ以上の高さを示しています。孫の宿題のお世話にも祖父としての新鮮な生き甲斐を見出しました。明日から、また、爺婆のみの「閑静な時間」の復活です。夏に読み残した本でも読みましょうかね(笑)。
 

2011/08/30

書いた「つもり」が・・・・(笑)

 ~これって「加齢症」の証??~
 言い訳は得意である。
 孫たちと終日を過ごし、振り回されるお祖父ちゃんは時間の流れが1年前の夏とは雲泥の差である。爺婆とのゆったりしたリズムで気儘な老人ホーム的生活が一変した今夏であるのはホントの話。小さな計画も数時間の間合いがあると「孫リズム」の闖入で全てどっかへ消えてしまう。これもホントの話。「そんなこと聞いていないよ」という飛び込みリズムも日常茶飯事。これもホントの話。
 てな具合で、これをしたらブログでも書いて皆さんに話しかけてみようか、と考えていても孫の現実がその案件をどこかへ運び出してしまう。今夏はそんなリズムも多く、当ブログの飛び石のような休刊も多かったように思う。以上が言い訳であります!!(笑)
 これって、認知症予備軍の兆しなのだろうか?
 決して本気で語り掛けているわけではないのだが、ホンの数分間はそんな恐怖心らしき症状を呈することがある。昨日もブログが休刊になってしまった。他人事みたいな表現であるが、就寝前に気づいて驚く始末である。室伏選手の世界陸上大会での名実ともに素晴らしい『金メダル』に感動しながらふと考えてみると、ゴールドメダリストの父親世代であると気づいた。画面に映る父親の表情を見ると我が加齢の実情をイヤというほど見せつけられるのである。しかし、すがすがしい表情は良薬にもなってくれたのが嬉しい。
 書いたつもりにならないためにも、今朝は起きてすぐにパソコンに向かうことにした。
 昨日、今春退職した後輩の校長さんから残暑見舞いの葉書が届いた。3000メートル級の山々に登山して、時間を作り出しては農作業に励んでいるとの内容が、妙に新鮮に受け止められた。その内に彼も「お祖父ちゃん」になることだろう。そんな日々に、ゆっくり「遠い日の思い出話」をしてみたいと願うのも変かな?
 早朝は、可愛い孫たちの襲来もない。今日は公務のために東京に出向きます。終日の務めなので、孫軍団の面倒は老妻に一任である。

2011/08/28

こんな間近で、こんな特産品が!

 ~実物の「ブルーベリー」を見詰めて~
 驚きと感動?
 なんて言ったら読者諸兄に軽蔑されそうであるが、事実であるから仕方がない。
 勤務先から帰ってきた嫁が「ブルーベリー、好きですか?」と、職場で戴いたのでお裾分けだと言いながら老妻に手渡した。テレビのコマーシャルでは知っていた名前であるが実物を目にしたのは初めてだったので、思わず「本物かい?」と失言をしてしまった。それが数週間前の出来事。
 嫁の説明によると、数年前からこの地(霞ケ浦周辺)では沢山生産されていて将来の「特産品」とする勢いだと言うではないか。
 偶然ながら幸運に恵まれたのが我が次女。突如の眼病に悩まされているとの情報を横浜に住む次女から受けて悩んでいた老妻は「渡りに船」とばかりに調達に奔走した。そして手に入れて、横浜に早速、送った。喜びの電話も入った。その後の報告では良好な状態に戻りそうだと言う。
 ところで小生。失言はどこへやら??(笑)早速、小生も老妻にブルーベリージュースを所望した。作ってくれたジュースを試飲した。実に美味であり、眼に張りが戻ってきそうな気分になってしまった。病は気から??、を実証している自分が可笑しくなった。
 実は、小生は少年時代に通い続けたのが眼科医であった。きょうだいでメガネを使用しているのは小生だけであり眼精疲労は持病のようなモノである。感謝の気持ちで今朝も飲ませてもらっている。
 昨夕、再び農協直営販売店に歩禅かたがた出向いた。
 目的はブルーベリーの購入である。今日はこれから取手市に住む(妻の)叔父の入院先を見舞う予定である。その叔父もブルーベリーを届ければ喜ぶはずである。眼病の有無は不明だが、かなり強い度の禁止であることは事実である。直売所に入って仰天。新鮮なブルーベリーがパック詰めされ、山積みされているではないか。老妻の判断では「超・安価」らしい。大量に買い込む老妻を不思議そうに見詰める店員さんの表情が面白かった。
 珍しい、と言うより安価で購入できる嬉しさが老妻の顔に現れていたのだろう。
 読者の皆さんで欲しい方はいらっしゃいますか?余計なお節介を焼いてしまいました!(反省)

2011/08/27

三日見ぬ間の桜かな??



 ~庭先の「栗の実」が、もうこんなに・・・~


 桜は三日間も観ないでいると散ってしまう、と言うそうですよね。ご存じでしょ?


 転居先の周囲が栗林に囲まれていることは、当ブログでもご紹介してありますが、21日のブログで紹介した時点ではまだ青々とした棘に包まれてゆったりと枝に付いていた栗が、昨日の午後、孫に言われて驚きました。たった5日間でもう・・・、と自然の力の偉大さを知りました。


 孫との会話。


 「お祖父ちゃん、栗拾いにはいつ行くの」「お祖父ちゃんはわからん。お父さんかお母さんに聞いてみたら」「栗って、拾うんだ?」「そうだよ、いつも境内に長靴はいて拾いに行くよ」・・・・・・・。他愛のない祖父と孫息子の会話から何かお気づきになりませんか?


 林檎・梨・桃・蜜柑・苺・葡萄・・・・は、りんご狩り/なし狩り/もも狩り/みかん狩り/いちご狩り/ぶどう狩りと、『果物+狩り』と表現されるのが自然のようですね。ところが栗は?くり狩りとは聞いたことが無いですよね。皆さんはどうでしょうか?孫は当地で生まれ育っていて、嫁の実家の栗林に「拾い」に毎年連れて行ってもらっているようです。自然のままに「くり拾い」として言語が成立しています。


 写真は一枚は枝についたまま破裂して実だけで落ちてしまったのでしょうか。もう一枚は3個の実を育んだまま棘ごと枝から離れて地面に落ちたようです。つまり、熟した栗の実は自然の落下で地面に居場所を替えて「収穫されるのを待つ」、つまり「拾ってもらう」のが次の活躍のステージになるというわけのようです。熟した実が「落下する前」に「刈り取られる(狩り)」のですから、「りんご狩り」等の言語表現で成立したのでしょうね。


 そうか!もう「狩り」のシーズン、つまり収穫・刈り取り・取り入れの季節が到来したのです。


 あの酷暑はどこへ?いやいや、未だ残暑は襲来するよ、恐れながら的中しないことを祈りつつ呟くだけの朝です。昨今は、日本列島「豪雨・洪水」警報の連打です。自然界の猛威は、地震・津波だけの主役を許してはいないようです。驚異的な仕打ちに対応すべく、自然界と共生して来なかったツケを返すためには大きな難題に立ち向かうしか無いのでしょうか?自然界の威力には勝てません!!


 今日は有名な「隅田川の花火大会」のようです。


 自然界の歓迎を受けなければ「文明の華」と豪語する「花火」もその雄姿を見せつけることもできないのです。そう、考えてみれば「人間界の力」なんて風前のともしびですよね。お互いに気を付けましょう。

2011/08/25

「酔芙蓉」という幻の花

 ~「大人の恋」って?~
 高橋治氏という著名な作家とは知らずに家庭訪問をした。
 中学校の教員時代の、「今だから話せる」お話である。ご長女の担任として定例行事の訪問であった。通されたのが書斎だったのだろう(とは、後日の結論)が、四方の壁は全て書物で覆われ、出入り口のドアと明り取りのための窓の部分を残す壁は全てが「本」であった。ご案内されて通され、父親が登場されるまでの数分間は立ちすくんでしまった。書物に歓迎されるというより威嚇されていたという表現が相応しい雰囲気での家庭訪問であった。こんな経験は後にも先にもこれだけであった。
 恥ずかしながら32歳の小生は、「オトナの恋」を表現されることで著名な作家が生徒の父親であることなど全く予備知識もなく訪問してしまった。東京大学でフランス文学を専攻された氏の人生哲学を拝聴し、執筆活動をされている現状もわかった。「娘のことは先生にお任せします」との一言だけが家庭訪問での父親の言葉として承ったままにお約束の30分間を過ごして学校に戻った。
 能天気、というより「恋愛小説」のジャンルに興味が無かったことも功を奏して(笑)、読書のジャンルに登場してくる著者ではなかった。保護者の氏名を確認しても(本名でご執筆)意識の中にすら入りこんでくることが無かったのが、今となれば後悔するばかりである。
 娘さんも卒業して数年経ったある日、テレビ画面に映る作家らしい人物の話し方に耳が傾いた。そして以前にお会いした卒業生の父親である氏に気づいたのである。アナウンサーが著書を紹介された時点で筆記するのが精一杯だった。すぐに書店で取り寄せて読んだ。それが、『風の盆恋歌』という不倫を描いた小説であった。小生にとっては未経験な世界を「覗き見する」感情で読み終えた。鼓動の高鳴りを抑えることが出来なかった。異才の世界に君臨する父親であったことを知ったのも後の祭り。

その後、
 蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉 若い日の美しい私を抱いてほしかった 忍び逢う恋
 風の盆

 石川さゆりさんという(個人的にも好きな)歌手が、この歌詞で熱唱する姿をテレビで見る度に、僅か30分間しか滞在しなかったとは言え、この歌の元本が描かれた空間の空気を吸った興奮が飽きることなく続いたものだった。
 帝国劇場で舞台も鑑賞した。これも大ファンである佐久間良子さんが主役であったのも因縁を感じた(=ファン気質)。玄関先に鉢植えにされて咲いていた『酔芙蓉』に語り掛ける佐久間さんの色っぽい演技で、酔芙蓉という花を幻想的に見詰めてしまったのは帝国劇場の雰囲気だったのかも知れない。
 街路樹のように大きな木に咲く酔芙蓉の花が今年も目に付き始めた。この花を見ると、9月1日から3日間開かれる「越中おわら風の盆」の光景が浮かんでくる。
 退職しない限り観に行けない日程である(9月1日から勤務開始)。退職して「いの一番」に飛びついたのがこの盆踊りへの観光であった。来週の今日(9月1日)から、今年も富山県の八尾という町は、胡弓の音色で幻想的な盆踊り一色に塗り替えられることだろう。この頃になると、毎年「また訪れてみたくなる」のも小生の年中行事である。
 小説の中で「創り上げられた」花と、現実の花の違いに戸惑いつつも郷愁を感じるのは何故なのだろうか?皆さんにはこんな「花」との思い出はありませんか?
  


2011/08/24

のんびり『老脳』に刺激

 ~淀んでいる我が心身に『喝』~
 倅のような世代にこんな「日本武士」が生きているのか?
 写真版の「葉書の送り主」の氏は、以前の当ブログでも紹介した「炭焼き師」である。今回は、グレードアップした内容に度肝を抜かれてしまった。時間を見て、詳細の報告をすることで今日はお許し願いたいが、「添付資料」を読みながら涙が流れてしまった。
 それは、哀しい涙ではない。生きざまに感動する涙である。
 淀んでしまっている老体と老脳には、かなり厳しい刺激であることは事実である。このブログ自体が、
ネタ探しに苦労するほど、穏やかで幸せな時間を過ごしていることを証明している通りに刺激の無い日々を過ごしていたことを悔いるばかりである。
 それは、添付資料を読めば読むほどに痛感させられる葉書(封筒の中に入っていた)であった。今日のブログがかなり短いブログになったことは、次回のチャンスで挽回したい(詳細を述べる)と考えていることでお許し願いたい。

2011/08/23

こんな筈じゃない!

 ~孫の具合が悪い?~
 元気はあるのに両眼の瞼の腫れがチョッと気にはなった。
 午前中は、母親との約束らしく、残っている宿題の仕上げに取り組んでいる孫たちの光景を確認しながら老妻は孫の昼食づくりに精を出していた。二人の小学生の孫の一人が明日が誕生日である。お祖父ちゃんお祖母ちゃんからの「誕生日の贈り物」にはすでに要望があるようだ、全部の宿題がどうやら終わったような気配がお祖母ちゃんには伝わって来たらしい。そして、要望の「品」も伝わったようだ。
 お祖父ちゃんからの誕生日の贈り物。
 そんなものを受け取れる文化の中で育っていない世代の小生夫婦は時としてその対処方法に戸惑いを感じる。ともあれ、張り切っている(笑)孫へのご希望のプレゼントを買うために大型スーパー・イーオンまで車で行くことになった。車中の興奮ぶりが凄い。そんなに嬉しいことなのか。買い求めての帰りの車中も興奮の坩堝であった。
 帰宅して「塾に行く」孫を送り出してホッとしていると、嫁が早めに帰宅した。塾から「目が充血しているから」との一報があり、これから眼科医に連れて行くとのこと。
 祖父母の責任などある訳が無い。そんな思いはありながらも意気消沈する老夫婦。小生も、「こんな筈じゃない」と自らに言い聞かせながらも容体が気になって仕方がない。わが子の子育ての時代にこんなに心痛する状況は記憶が無い。これは、親ではない祖父母の心理状態なのだろうか。自問自答を繰り返していると、元気な声で「ただいま!!」と車から降りてきた。ホッとする爺婆の姿。取り分け小生をご存知の方なら「失笑・苦笑」のことだろう。こんな筈ではないのが祖父母人情なのです!!(笑)その時期がやって来たらこのブログを思い出していただきましょう。

2011/08/21

このまま「秋」になるのかい!?

 ~そんな筈はないだろうが・・~
 新居の周囲では、いがぐりのサイズが日増しに大きくなるのがわかるほどの成長ぶりである。
 今の室温が24度である。長袖長ズボンの服装でいるのが身体も戸惑っているような陽気である。昨日は終日を「孫たちと横浜」で時間を過ごしたが、帰宅時刻も午後11時を過ぎていた関係からか朝の活動開始も通常より数時間も遅れた。更に全身の倦怠感に苛まれる始末は、使用を厳禁されている(読者より)言語を使いたくなってしまう(笑)。『加齢』の症状をじっくり受け止めつつも午前中は、何もする気になれずゴロゴロしてしまった。ゴロゴロすることすらできなかった猛暑日が嘘のようでもある。横になって単行本を読んでいることができる程の快適な気温になったという証でもある。
 パソコンに向かいながらその向こうに見える栗畑の色合いが目の保養になっていた。まだまだ、葉の緑が十分に効能を発揮してくれているような鮮度である。しかし、ここ数日の気温の低下で、「秋の兆し」を全身で受け止めそうな「いがぐり」君たちの姿が至近距離1メートルに存在する。
 ふと、このままこの「いがぐり」君らは秋の収穫に向かって一直線上に居並んでいるように見えて来る。去年の収穫の時期にはこの地には住んでいないので光景は分からないが、一面が緑色から茶色に変色して、いがぐりが割れて中身の栗が見えるように変化するのだろうか。とても、楽しみである。
 確かに季節の移ろいは感じるが、まだまだ「本格的な残暑」は来月までは続くだろう。その残暑の気温が実りの多くを保証するのではないかと期待するのもチョッと複雑な心境である。
 そんな夕暮れの気温の低さで、疲労感を明日まで引き延ばすことだけは防げそうである。と言いつつも8月も、あと10日を残すことになる。皆さんの周囲でも「秋近き」を感じるような陽気でしょうか?


2011/08/20

少年時代の「夏休み」

 ~「家族で出かけた」記憶は?~
 小生の少年時代は戦争が終わって10年ぐらい過ぎた頃だろうか。
 当時は、10年前に大きな戦争があったことなど知る由もない。「家族生活」なんて言う言語が世の中に出現したことなども知るわけがない。ましてや、「夏休み」に家族そろって旅行に出かけるなどあり得ない。もしもあったとすれば、ホンの一握りの、所謂、特権階級の家庭だけの話で一般家庭では話題にもならなかったのではないか、と想像することも容易である。
 少年時代の夏休みの最大の思い出は、地域のおじさんやおばさんに連れて行ってもらった「海水浴場」ではないだろうか。その後、「子ども会」とやらの洒落た名称の団体が誕生して団体行動も広まったようである。つまり、家族単位で旅行するなどは小生のような者が育った家庭では眼中にも無かったのである。
 その少年が青年になって、やがて結婚する。我が子が誕生するのは昭和50年代である。戦後30年ばかり経た時期である。東京オリンピック後の「高度成長時代」となり、マイホームという現代用語が若い親世代には憧れを載せて圧迫してきた。猫の額の「お庭」が持てると、次は「家族サービス」という言語が若いパパを襲撃して来る。仕事に疲れ。人に疲れたパパ軍団は、たまの休みも家族サービスに駆り出され休む暇もなく働き詰の日々を送ることになる。夏休みの「家族旅行」のための蓄えのために僅かな私的使用可能な金銭までも逼迫する。そして、更に30年経つと「お祖父ちゃんになる」のである。今度はそこにはツケが回ってくる。家族サービス回避のツケである。笑うに笑えない明確な自分史である。
 ここまで呟くと悲惨な時代を送ってきたようであるが、楽しかったことも決して少なくない。家族にもそんなに不満が充満していたわけでもない。友人や同僚にも恵まれた。先輩や上司に反発するほどの若さも発揮できた。悔い等全くない、と豪語できる人生を過ごしすことがてきたことはこの上ない幸せではないか。
 しかし、反省が無い訳ではない。
 今日は正々堂々と「ツケを果たす」精神で、3人の孫たちを連れて横浜スタジアムに行くことになった。皮肉なことに、昨日あたりから荒天になり、試合の実施も心配されるほどの天候になった。それでも、起床してきた孫たちは「行く前」から興奮状態である。大はしゃぎする声が母屋から響いてくる。「そんなにまで嬉しいお出かけなんだ!と老妻と目を見合わせてしまった。
 少年時代の「家族との思い出」など皆無のお祖父ちゃんは、自らも味わったことのないような気分を孫たちから戴くことにしようか。父親として子供連れで出かけた時の「義務感」も、今となれば「娯楽」に切り替えさせてもらって横浜の一日を楽しんで来ることにしよう。

2011/08/19

「川下り」船の事故に故郷を偲びつつ考える



 ~天竜川・川下り船の事故~

 哀しい事故がまた起きた。青春時代を「大きな川」で育った小生には「川下り」の風景は懐かしさだけで振り返る素敵なものである。故郷の母なる川・球磨川でも川下り事故で犠牲者が出て哀しい思いをしたことを思い出してしまった(写真は球磨川下りの風景)。以前の無謀なばかりの「スリル満点」川下りも、あの事故から驚くほどの縮小運営となり運行場所も危険区域を避けての営業に替わったという情報には「故郷の廃家」ではないが、名物行事がまた廃れてしまう寂しさすら覚え、哀しくも思ったほどであった。しかし、「いのち」が消えてしまうような営業では、また困ったことではないか、と若者なりに葛藤したものだった。

 テレビ番組では天竜川の「事故現場」からのレポートがほぼ終日にわたって放映されていたようだ。事故が起きるとニュースになる。事件が起きるとコメント(適材適所とは決して思えない人材から)が発せさられる。そして、放映の最終段階が、管理運営責任者なる人物が画面の中央で腰を折って頭を下げて「謝罪会見」に登場する。

 画面を変えて見ても、ほぼ同一の傾向で哀しい事故現場から悲痛な声で実況中継ではないか。

 そして昨日も、ご多分に漏れず何の変哲もないシナリオで事故報告を「多局より興味関心を惹くような画面作り」で取材放送を構成しているだけである。

 「正確さ」以前のスピードと印象付けの報道では一方通行になってしまう。そして、深く考えることも無く、「~らしいね」「~だったみたいだよ」と繰り返し放映される事故現場の光景だけを脳裏に焼き付けて世間話に移行してしまい、次の事件や事故が起きると脳裏にはもう残像すら無い。この繰り返しで東日本震災の「テレビ報告書」を見続けされたのではないかと思うと妙に悔しくなるのは小生だけではない筈である。

 終日暇な小生にとっては、見ようと思えばテレビはいつでも見ることが出来る。

 祖父ちゃんがテレビの前に居れば、孫たちもテレビの前に座ってしまう。居ながらにして情報を得るという便利な生活は大変危険な事態ではないか。また、起きてしまった川下りの哀しい事故を垣間見ながら、ふと、『現代生活』の進展の行く手を塞いでしまっているのがマスメディアであることを、次世代には正しく伝える必要があると実感した一日でもあった。

 犠牲者のご冥福を祈りつつ、老婆心は昨日も大揺れに揺れた「感情腺」と共に過ごしてしまった(笑)。

2011/08/18

『15歳の眼差し』に引き込まれて

 ~片道およそ2時間半の電車の旅~
 昨日は、公務ではないが、依頼されて暑中を移動した。
 行先は(第二の故郷・茅ヶ崎市)市立図書館である。JR茅ヶ崎駅南口から徒歩数分の距離になる依頼会場への指定時刻は午前10時である。当方の最寄駅から常磐線の電車に飛び乗って、上野駅~東京駅を経由して湘南電車で辿り着く行程である。6:50乗車の旅は9:35目的駅着となった。
 夏休みの宿題を「お手伝い」するための内容は、小生の卒業生である・プロ野球選手のことを主題にしてレポートを書くことにしている中学3年生の野球部のチームメート4人衆からの要望であり応えるために茅ヶ崎まで出向いたということである。
 事前に届いている「質問用紙」に、全て丁寧に書き込んで会場へ到着した。
 質問事項に従って通り一遍の「回答」をするだけでも1時間を要した。他者の質問事項にも鉛筆を走らせる「豆記者?」の鉛筆の音が心地よい。ちょっと力が入って口語体になると、書き辛いらしく鉛筆の音が途端に小さくなってしまい、耳がダンボになってしまうらしい。しかし、一方的な講義口調の老人の語り口に最後まで真剣に聞き入り、書き込んでいる4人の野球少年たちの態度には感激してしまった。
 事前の質問事項に無い「当座の質問」も、受けることにした。
 数本の質問の内容にも「真剣さ」が伺えたことは快適な時間の証明である。会場に到着する前に「話題の主」(=中日ドラゴンズ投手・山本昌広)には、その旨メールで内容を知らせておいたので、野球少年たちとのインタビュー取材の開始直前に本人からメールが届いた。その画面を見せると野球少年たちの眼差しに一層の強い眼力が加わったようだ。
 将来に夢を持って、大いに羽ばたいて欲しいと願いつつ帰路に着いた。品川駅辺りで目が覚める程に「お疲れモード」だったようだ。しかし、これも「爽やかな疲労感」の証である。刺激的な時間を設定してくれた野球少年たちに感謝しながら帰宅した。

2011/08/16

こんな記事に仰天と衝撃

 ~「休刊になります」との電話は8月初めに~
 出版社の編集者の一人から電話が入りました。
 2年間の連載原稿を執筆させていただいた時の担当編集者からの電話でした。当方の転居をお知らせしていなかったこともあり、業者ではお困りになったようです。事情を聴いて恐縮するばかりでした。このHPで、新アドレス情報を得てメールがその前に届いていましたのでコールのお願いをしておきました。社の方針で急な決定だそうです。「親方日の丸」(笑)業界に勤務した小生には異文化での出来事に思えてしまいますが、一般企業や会社では日常茶飯事のことのようです。
 休刊になる最後の月刊誌に掲載する原稿の執筆依頼がありました。
 休刊の情報は仰天と衝撃ではありましたが、その最後の発行月刊誌に「拙い原稿」を載せていただくという光栄に、違った仰天と衝撃が走りました。それは、感謝の気持ちからでした。執筆要綱を見詰めながら胸が熱くなりました。細やかな実践を添えて、愛する後輩諸兄に向かって真意を文字に託そうと意を決して書きました。機会がありましたら発行の暁にはご一読いただければ幸甚です。
 
 お盆が去りました。
 お墓もお寺も至近距離にある所に転居して初めての「迎え火」と「送り火」が出来ました。孫たちが手に持っている提灯の灯りにはやっぱり幻想的な「我が国の文化」が醸し出され、亡き両親の笑顔が浮かんできました。小生の孫たちですから、両親にとっては曾孫です。曾孫たちの灯す提灯に誘導されて両親はお盆の「里帰り」を満喫して、また天国に戻ってくれたことでしょう。
 昨夜の楽しかった宴の残骸を嫁と老妻が片付け始めました。依頼された原稿の最終推敲を終えて庭に出ました。空き缶やビンの処理を手伝うためです。長男夫婦は今日から通常勤務です。数日間のお盆休みで孫たちもすっかり親との時間を満喫したのか、3歳の孫は保育園に連れて行かれることを察知して今朝は珍しく愚図っている様子が母屋から伝わってきました。さもありなん!!当然のことでしょう。親の愛情は何にも勝るものですから・・・。ろくな愛情も掛けずに子育てをした我が親業を反省してしまうお盆明けの朝です。
 


2011/08/15

今日は『8月15日』です!



 ~いつまでも いつも八月十五日~
 今日は第66回目の終戦記念日である。

 8月6日と9日のブログにも記したが、あれからもう66年の歳月が流れている。あの頃、生まれた赤ん坊は父親も知らずに70歳に近くなっている。この間の祖国の大発展は戦争という理不尽な環境では想像することもなかったことだろう

 先般の東日本の大震災で原発事故という第二次災害が起きた。被爆国としての意識の風化を垣間見た気がして哀しくなった。そこには「国家の責任」が浮上して当然である。主義主張を論じている時間など無い。一刻を争う国家責任が第三次、四次災害を産み出しているとすれば責任は重大ではないか。被災者のお盆はどうされているのだろうか。思うだけでも辛くなる。

 忌まわしい戦争に巻き込まれた世代の被害者は、国を挙げて弔いながら二度と起こさない約束をするのが国家責任ではないだろうか。政治家はその方向性を十分に認知していると確信していた。政権を担うという大役はその推進が主たる任務であるはずなのに、この期に及んでも被災地への復興策も遅々として進んでいないではないか。凡庸な老人のちっちゃなボヤキではあるが、小生は66年前に父親が戦争で死んでしまった遺族なのである。遺児の一人としての叫びは「国家に届け」と叫びたいのである。読者にはご理解できるだろうか?

 『いつまでも いつまでも元気で』(写真版)という本を、この日になると読み返す。

 中でも、わが子へ向けた手紙のページを開けば大粒の涙がこぼれる。毎回のことなのに涙は正直である。最後に「父より」で締めくくられているカタカナ文字には時代を映す情がある。こんな思いで小生の父親も死んで逝ったのか、と胸が痛むのである。

 小生には5人の孫もいる。幸せであればあるほどにこの光景を実父にも見せたかったと考えるのは身勝手なことなんだろうか。そんな8月15日は、「いつまでも いつも八月十五日」(ラジオ深夜便「今日の一句」から)でしかない。孫の世代に、間違っても66年前のような悲劇が起きてくれては困る。



 今日は孫たちも揃うようだ。本家となったここ土浦に嫁ぎ先から孫を連れて里帰りをするようだ。仕事が忙しくて後日になる娘もいるが、とりあえず今日はそんな日になるという。幸せである。そんな思いが余計に「国の責任」という手の届かない地点に向かって叫びたくもなるのである。今日はそんな『日』なのである。

2011/08/14

高校野球観戦に球場は満席!


 ~興味ある「本」との出会い~

 急用から帰宅すると庭では、父親と孫息子、そしてその友人が加わって野球をやって遊んでいる。そんな広い場所ではないが、オリジナルルールでは十分に楽しむことが出来るようである。

 JR土浦駅ビルで本を買った。

 以前から興味があったのモノが偶然にも目に入ったのがラッキーであった。土浦駅から下車駅までは僅かに5分である。しかし、興味深く活字を追うのは「獲物を追う獣」の目に似ていると、以前妻にも言われた程である。きっとすごい形相で数十ページを読んだに違いない(?)。納得することばかりで没頭して下車することを忘れてしまうほどであった。

 時まさに、列島のTVには「高校野球実況放送」は欠かせない。主催する某新聞社の系列テレビでは「完全中継」と豪語して憚らない。

 高校生のスポーツは「野球」だけではない。

 経済市場原理では、「利益にならない」モノは捨てられるらしいが、「教育」というジャンルには利益を尺度にして判断されたら本質の良さも何もなくなってしまうモノばかりである。インターハイという高校総体の放送もNHK教育テレビで放映されるのが2時間足らずである。国民はNHKには「視聴料」を払っている。払っている国民がなぜ黙っているのか!?高校総合文化祭(名称は自信が無い)が、被災地「東北」で、苦労の末(会場変更等で)開催された。しかし、テレビの画面ではほとんど放映は無い。どうして??ここでは「スポーツ」であるが、「文化」でも良い子を育ててもらっていると思っているからであ。

 スポーツは「良い子」を育てるか?

 テレビの画面でしか見えないが、高校野球の指導者の「動き」(発する声は届かない)を見ながら考えることが多い。スポーツを通して「良い子」を育てるように見えるが、画面が伝える感動の「裏番組」を想像するに、見過ごせない現実もあるのではないだろうか。弱肉強食では無いが、子どもの時代からスポーツの世界だからと見逃され、我慢させられたりしていることが多いのではないだろうか。小生も若かりし教員時代にその世界に身を投じていたので自らの責任も含めてである。

 高校総体というカテゴリーに「高校野球」は入っていない?

 日本列島で高校スポーツと言えば代表的な高校野球が、経済市場原理思想の配下にあるとは思いたくない。なぜならば、スポーツを通して「良い子」をより多く育てるのがスポーツのスポーツたる所以ではないか。歪んだ大人の精神構造の下で「スポーツを強制される」子供たちがかわいそうではないか。スポーツをしなくても「良い子」にはなれる!!

 一流の選手にならなくても、一人の人間として周囲に可愛がられる人生を送ってほしい。未熟だった教員時代の「スポーツ指導者」として、しみじみ反省しながら祈るばかりである。読後感でした!!

2011/08/13

孫の持つ「迎え火の提灯」が・・・。

 ~生活拠点地から出発する「迎え火」~
 3人の孫たちがそれぞれの手に提げる「提灯」の灯が夕暮れの境内(霊園)に美しく光る。
 幼い日々を思い出しながら、孫の後姿を追って「13日の迎え火」の(家庭内)行事を務めた。帰宅した孫から質問が集中したのは、「曾祖父ちゃん・祖母ちゃん」ってどこからここまで来るの?であった。空から来るんだよ、と答えると、間もなく4歳になる末孫がすかさず聞き返した。怪我しないの?と。うん、怪我なんかしないんだよ、と答えるとしたり顔になった末孫は、「僕も曾祖父ちゃんになる!」とポーズをとってくれた。
 説明のしようのない世界観である。
 しかし、提灯の灯りが点る景色を幻想的に見つめる孫たちと、同一時間帯を一緒に過ごせることの幸せを噛みしめたひと時でもあった。
 線香・蝋燭とマッチ。
 3人の孫たちには「前時代の遺物」に見えたのだろうか。この文化もいつしか消えてしまう。線香の香りや蝋燭の灯を点ける「マッチ」が使えない孫世代に何とも言えない憂いを感じる「お盆・13日の迎え火」の夜である。部屋に付けた提灯の火を消して眠ることにしましょうか。

2011/08/12

お墓の掃除に行って来ました。

 ~昨夜の豪雨で墓石が洗われて・・~
 「夕べの雨で大助かりね」と妻が呟きながら墓石を洗い始める。
 昨年までは茅ヶ崎から盆暮れの墓参にだけ馳せ参じた。従って事前の掃除は長男一家に全面委託の状態にあった。孫たちから「お墓のお掃除は終わりました」との電話を貰うたびに恐縮する老夫婦であったが、4月から転居して来たので彼らに委託することはなくなった。
 昨日のこと。
 古河市の仕事に早朝出発する小生を見送りながら、妻が声を掛けた。「明日はお盆前のお墓掃除に行けますかね」と。夫は、「行くぞ」と応えながら玄関を出た。夜のゲリラ的な集中豪雨の襲来を受けている最中には夫婦の頭の中には「明日の実行」は無理だろうな、と同じ考えをしていたようだ。
 体内時計は正確に起床を促してくれる。晴天時の4時であれば「東の空」はそろそろ明るくなるのであるが今朝は少々暗く感じた。準備している掃除用具の確認をしながら雨戸を開ける。墓参には歩禅コースとして歩くのが常套手段であるが今朝は躊躇してしまうような空模様である。嫁の自転車を借りた妻と一緒に自分の自転車で出向くことにした。躊躇の時間もあり(笑)、結局は出発が5時近くになってしまった。
 用意周到な妻が蚊取り線香まで持参していたのに苦笑しつつも、感心しながら二人で掃除を始めた。嫁の実家が菩提寺であるので、霊園も境内にあり勝手もわかるので掃除も捗る。両親が眠る墓地の正面が霊園の中に建設された東屋(休憩所)である。掃除を終えてホッとして休憩できるという立地条件も最高であることが妻としては至福に感じるらしい。妻の両親が眠る墓地も、今夏のお盆から「娘夫婦」の手で掃除が出来ることになったことも、妻は娘として満足なようである。
 綺麗に掃除が出来た。 
 6時を数分過ぎた。鐘楼に上がって「6時の時報」のつもりで鐘をついた。耳をつんざくような音であるが余韻の「ゴ~ン」が響き渡り、腸まで沁みこんでくる。心が落ち着く気分になり爽快である。帰宅するころから夏の日差しの兆候が現れてきた。今日も暑くなるらしい。
 シャワーを浴びてすっきりした。妻が差し出す朝一番のお茶の美味しいこと!!

2011/08/10

体温並みの気温!?

 ~今日はホントに暑かった!!~
 孫たちは母親と一緒に朝から出かけた。
 いつの間にか賑やかさに慣れてしまったようだ。夕食も不要だと出かけているので婆も気抜けしたような面持ちである。爺は「野球のお相手」の時間も割愛されてホッとするやら手持無沙汰に思えたりと何とも表現できないリズムのままに夕暮れを迎えてしまった(笑)。
 することは在る筈なのに、手に着かない時間があると人間は要らぬところに神経が走ってしまうのだろうか。やけに「今日は暑い」と感じてしまって大脳を覆ってしまった。玄関のインターフォンの工事に来られた業者の方が「今日が一番暑いよ」と発せられた言葉を鵜呑みにした小生は、暑さの反応に敏感になってしまったようだ。
 全くおかしな話だ。
 汗びっしょりに孫と野球に興じた日があった。その時はこんな感情的な暑さを受け止めていなかった。そんな無駄な時間を過ごすままに一日が過ぎてしまったようだ。
 明日は今夏、最後の業務のために県内の古河市に出向する。県内に向かうのに一旦東京(上野駅)まで出て、乗り換えて業務地に向かうようになるようだ。茅ヶ崎までの所要時間と同じくらいになる。複雑であるが事実だから仕方あるまい。

2011/08/09

『長崎の鐘』のメロディーに涙して・・・。



 ~亡き母の言葉を思い出す8月9日~
 66年前の今日。
 この時計が止まった時刻に亡母はサツマイモ畑にいたそうだ。雲仙岳のほうで今まで見たことも無いような「稲妻」(と、ずっと母は思っていたようだった)が光ったそうだ。瞬間的にサツマイモの生い茂った蔓の下に伏せたのだそうだ。その直ぐ後から地鳴りを伴った轟音があたり一面に響き渡ってこの世の終わりかと母は死を覚悟したそうだ。
 何十回も聞かされたサツマイモ畑の原爆投下の亡母の経験談である。
 怖かった母の気持ちも単に「お話」として聞き流して育った小生は、それがいかに惨い事故だったのかを学んだ。社会科の先生の講話を聴くたびに心臓は異常な音を発した。そして、いつも涙が流れてしまった。その涙を友人に笑われるのがイヤでひた隠しに隠した思い出も残っている。
 だから、今日は、この年齢の九州人にとっては決して忘れてはいけない「いのちの日」なのである。
 兄と叔父に教わった『長崎の鐘』という流行歌がある。かなり多くの機会で人前で歌った。カラオケでも多く歌唱した。それは小生にとっては鎮魂歌でもあったからである。その歌声が今日、ラジオから聞こえてきた。藤山一郎という偉大な歌手の歌声であった。何度聞いても心に響く歌である。
 カラオケにも、もう10年間は通っていない。通えない事情や歌いたくない原因など全くない。しかし、歌唱したことを懐かしく思い出すほど歌っていない。何の理由もないままに「歌う」ことから遠ざかってしまったようだ。久しぶりにラジオから流れる敬愛する偉大な歌手の歌声を聴きながら幾年の時間の流れを痛感しつつも目頭が熱くなってしまった。
 今日の土浦も暑かった。
 きっとあの日の長崎も暑かったことだろう。8月9日なると、亡母の「怖かった話」を思い出しながら、犠牲者の皆さんのご冥福を心から祈るばかりである。

2011/08/08

残暑お見舞い申し上げます。


 ~「茅ヶ崎」は暑かった!~
 1か月ぶりの茅ヶ崎訪問だったが、細やかなカルチャーショックが・・・。
 それは、JR茅ヶ崎駅の雑踏である。こんなに「人が多かった」のかと、人込みの中でうろうろする自分が埋められそうな気分になってしまった。多くの海水浴客のようだな、と雰囲気からキャッチして構内に飛び交う言葉が他県からの人たちのアクセントとして認知した。
 48年も利用した駅の雑踏でありながら、僅か4ヶ月離れたばかりなのに異様な雰囲気として入り込んでくるのはなぜ?? やっぱり異常な暑さの所為だろうか。同じ夏の暑さのはずであるがそう感じてしまうほど空気の違いを全身で感じた。
 暑さを運ぶ空気の所為かな。言及するとそれは「風」であろうか。
 空気を運ぶ「風の質」がこんなにまで違うのか、と自問する。茅ヶ崎中央公園を文化会館の会議室から見下ろしながら木々の周囲の空気が違うことに気づいた。これが自答である。新居の周囲に空気を運ぶ風には「湿度の低さ」を痛感し始めているから、この差異の明確さに気づいたのかもしれない。どんなに陽射しが強くても、ここでは、木陰に入れば風さえあれば不快指数など無縁に感じる。朝夕の風には「ヒンヤリ」感がある。そんな空気に慣れてきたのだろうか。僅か4ヶ月で湘南地方の蒸し暑さに辟易してしまうほど空気の偉大さに気づいたのかもしれないと思うと何だか可笑しくなる。
 今日は「立秋」だそうだ。
 残暑見舞いの葉書第1号を投函した。土日の激務(笑)から襲われる疲労感が未だ感じられない。加齢症は「直後」には表出しないらしい。明日か明後日ぐらいから疲労感をどっと感じるのだろう。留守の間に受信しているメールに返信をして、やっと自分の時間を確保した。
 玄関の工事もタイル張りも大詰めのようである。
 炎天下での工事を勧められる職人さんの全身から溢れるほどの汗が見える。ご苦労様と声を掛けながら「10時のお茶」を相伴する。

2011/08/05

『明日』という日

 ~「恥ずかしい思い出」を思い出して・・~
 2001年8月6日(月)
 現職に在りましたが、お盆帰省が儘にならぬために一足早い帰省をしていました。この日が帰省先の郷里(熊本県八代市)から茅ヶ崎市の自宅に帰る予定になっていた日です。帰省前から要請がありましたので、広島駅で途中下車をして学校訪問するお約束をしておりました。妻と広島駅で分かれて新幹線から下車しました。改札口で(広島市立井口明神小学校・校長)原田備子女史が出迎えていただきました。ご挨拶代わりに発せられた「言葉」も深い意味があったのですが、小生にはただ単に状況報告としてしか受け止められなかったのです。ここから「恥ずかしい思い出」が蘇るのです。
 「こんな日に広島での途中下車をお願いしてしまいまして騒々しい思いをさせて申し訳ございません」
「本来ならお車で送迎すべきですが、市街地が混雑していますので在来線での移動になりますがお許しください」と立て続けのお言葉が掛けられても、鈍な神経には響かなかったことが10年経った今でも恥ずかしさで落ち込んでしまう心境に変わりはありません。
 学校に到着しました。
 教頭先生(現在・広島市立幟町小学校長)から、欠席者数名があることを告げられました。校内研修会への出講ですが、丁寧に欠席者の理由を校長先生からご説明がありました。公務の出張や業務での不参加者の説明が終わり、「最後の一人は、全く個人的な理由での欠席ですが校長としてはやむを得ないこととして了解しておりますのでどうぞお許しいただけるようお願いします」。
 校長先生の「了解事由」の説明の中に使われた言葉で、「被爆者の逝去」と「8月6日」の関係がやっとわかったのです。「この日」の意義も、「座学で知り得た知識」に波のように押し寄せられて小生の小さな思考回路は破壊されそうになってしまったのです。「この日」は広島の人たちだけの特別な日なんかではない。多くの恩師の言葉にもそんな類の説得調が耳にも心にも届いていたはずだったのです。しかし、所詮「教科学習」で得た知識でしかなかったことが悔しかったのです。
 あれから、「8月6日」という特別な日は、小生にとっては「座学で得られない体験知」として生き続けています。全身に受けた衝撃は決して忘れることのできない「日」になりました。明日がその日です。小生は昭和19年に誕生しました。だから、明日という日は原爆投下から「66回目の日」になるでしょう。自らの生い立ちとこの日の繋がりは、戦争遺児である身であれば決して忘れてはいけない「日」なのに・・・。あの日の小学校の研修会場で受けた屈辱(自らだけの)は永遠に残っています。
 どうして、そんなに熱心に「広島詣で」を続けるんですか?
 親しい友人にそんな質問を受けます。応えは「広島から要請があるから」となりますが、深意には、わが人生最大の恥ずべき言動と行為に対しての罪の償いをしたい「ちっちゃな心」が蠢いているからなのです。
 時代は70年近く流れて、「忘れ去られそうな」被爆という現象が、今度は福島県で起きてしまっている。放射能汚染という二度と起きてはならぬ、と教えられて育ったはずの我が国で起きてしまいました。世界で唯一の被爆国で起きたことを考えるだけでも心痛のあまり言葉になりません。
 ラジオ深夜便の「明日への言葉」という番組でも、数少なくなった「原爆語り部」の方の「願い・叫び」が耳に痛いほどに伝わってきました。
 明日は、そんな「日」ですが、小生は早朝から茅ヶ崎市に移動しますのでこのブログが書けません。本日の便でお届けししたことをお許しください。

2011/08/04

季節の便り

 ~強い日差しと時折、大粒の雨~
 何となく複雑な空模様が続き、不安定な気象状況がここでも続いています。
 我が家(=新居の『離れ』)の玄関工事が始まりました。転居して4か月になるまで「待たされ」ました。と表現すると被害者意識丸出しの「嫌な」感じをお受けになるでしょうね。誤解のないようにご説明をいたしましょう。請負工務店は行方市にあるそうです(長男の発注ですので・・・)。そこは、今回の被災地になってしまった地域に至近距離にあるとのことです。雇用すべき職人さんたちが被災地へ出向されることを優先され小生の自宅(玄関は無くても生活はできる状態)への対応については専務さんからもご丁寧に工事の遅延申し出は何度も受けておりました。
 職人さん方の調整が付いたのでしょうか。
 1週間前から数名の職人さんが工事に来ていただくことになりました。どうやら「お盆」には間に合いそうでホッとしています。転居した時点では朝夕の温度も低く感じる程でした。いつの間にか、写真の風景があちこちで見られる時期になっています。ここ土浦市はレンコンが特産物だそうです。蓮の花がとてもきれいに咲き、車で通過しながらも綺麗な花の乱舞に気持ちも穏やかになります。
 いつの間にかそんな季節になりました。
 すっかり生活のバイオリズムも出来上がりました。週末と来週の半ばに仕事はありますが、ほぼ「夏季休業」は満喫できるようです。義父母が眠る墓所まで歩いていける地に引っ越してきたので、お盆前の掃除も今まで長男夫婦におんぶにだっこ状態だったので、今年からはきちんと対応できそうで老妻も嬉しそうです。朝の涼しいうちにお掃除に行こうと計画しているところです。
 今日あたりから、当地も暑さが戻って来るとの予報です。

2011/08/03

「人生の進路を決める」とは??

 ~傲慢だった職業意識を悔いる~
 中学校の教員生活が長かった自らの言動を振り返ると、「時として」恥じ入る気分になることがある。一介の若輩が、「教員」という職業に就いてしまうと周囲の空気にも後押しされて自分という人間性すらも忘れてしまうらしい(小生だけだったかも知れない)。
 ここ数日間で、数件の「進学」についての相談が電話や手紙やメールで重なって届いた。
 中学校や高校では「進路相談・進路指導」というカテゴリーで主任も位置づけられ学校教育の重要業務の一つとなっている。「一人の人生を左右する」とまで言及され、最終学年の担当者は針の莚に居る気分にまで追い込まれてしまう。親からも本人からも「恨まれてしまう」ような究極に陥ることにもなるので神経の摩耗も凄かった。
 こうして、本務から解放され毎日をのんびりした人生に「乗り換える」と、見えなかったモノが見えてくる。そうすると当時のわが身が滑稽に見えてきて、少々同情したくもなってくる(笑)。それは、一人の中学生の「今後の進路」を「決めてあげる」という傲慢さが見え隠れするからである。一方では、「三者面談」という言葉を、相談者の表現から受け止めてみると過去の罪深き我が言動に居た堪れなくなってしまう。指導力不足教員としての懺悔でもある。
 進路を決める?
 人生の将来は誰にも予測できない筈なのに、手元にある資料(学業成績等々)を最優先させ、時にはそれを「錦の御旗」の如くチラつかせ、「教員」としての責任を果たすかのような錯覚で親子を前にして、進学高校の選定を誘導した。受験もしていないのに「不合格を予測して」の受験校を変更させて「進路を決定」したと思い込んでいた過ちに、今となっては当事者には謝りようがない。
 また、時には、親のエゴともぶつかった。
 親の意向で進学高校や進学大学を決定していたケースもあったことが思い出す。親を説得することで進路指導と思い込んだ未熟教師は孤軍奮闘したが、所詮、若輩教師に勝ち目はなかった。そんな教員に担任をされた卒業生たちには哀しい人生を進めてしまったのかも知れない。
 今回の相談でも、やっぱり聞いただけでも悩んでしまう。
 それは、人生が残りの時間が今まで生きて来た時間より少なってしまっている現在を噛みしめる年齢になっているからである。つまり、10代の「将来」観と、70歳に近い人間の「将来」観のギャップではないだろうか。なるようにしかならない!という捨て鉢の人生観ではない。高校を選ぶための凄まじいエネルギーの消耗より、高校に入学してからのエネルギーの燃焼が期待できる方を選べるための助言が必要だったと述懐している。A高校を第1志望にしていた生徒に、「説得して(?)」B高校を受験させた罪は、小生の心の中で永久に生き続けることになる。まるで人生が終わってしまったかのように落胆して親子で三者面談の部屋から帰って行ったあの後姿が決して脳裏から消え去らないからである。今頃、進路指導という大義名分での小生の被害者たち(多くは40~50代の人生)は、どんな人生を歩んでいるのだろうか。
 退職した今でも、親となった卒業生たちからの「進路相談」を受けながら、ふと、立ち止まってしまうほどに重い案件である。中学生では「自分の進路」を決めることなど出来るわけがない。となると、その周囲の大人の責任は大きくなる。親と教師が、大人としての力量で、子供の現状を分析しつつ将来への期待を賭けに換えてでも「夢と希望」を抱かせて、次のステージに上げなければいけない。
 自らの反省だけを基盤にしての無責任な思考ではあるが、読者の中には中・高校の指導者も多いと思われるので恥じつつ今の心境を綴ってみた。
 ひんやりとした風が心身を引き締めてくれている朝である。

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2011/08/02

8月になりました!②

 ~地域によって異なる季節感~
 未だ訪れることなくこの年齢まで達してしまいました。それが京都の祇園祭です。
 京都から今年も、手描きの素敵な「祇園祭」の絵と共にお葉書が届きました(上掲)。全国の皆さんにも、「これが終わると」〇〇になります、とか〇〇がやって来ますという風に季節感を伴う行事や出来事があることでしょう。
 それが「少年の日の思い出」に繋がり、季節感という「旬」を認識できる重要な「日本の素晴らしさ」に到達できるのではないでしょうか。氏からいただく「絵入り」葉書は我が家の家宝です。着物(友禅)に絵を描かれるお仕事(絵師というプロフェッショナル)とは言え、この葉書一枚の絵を描かれるにもかなりの時間が掛かっていることでしょう。
 最近はパソコンソフトを利して(手抜き)の「通信物」に頼っている小生は、戴いた瞬間は「手書きでお便りを」と自意識が高くなるのですが、次の瞬間には・・・・。恥ずかしい限りです。
 四国の善通寺市に住む友人から届くのは全て「手書きの葉書」です。
 そして、手書きの文字で文末に『感謝』と添えられているのです。「葉書道」という人生哲学で生きている姿勢にはいつも頭が下がる思いです。同時に感激と感動も貰っています。無精者の小生にはこのお二人の人生には脱帽してしまいます。
 ところで「8月になりました」との、思いは季節感への誘いです。
 京都には7月という一か月の長期にわたった「祇園祭」が終わると本格的な夏が訪れるようです。皆さんの街の風物詩に「季節観」と絡むものがありましたら教えてください。
 8月も2日になりました。
 東北から週末の「お祭り」の案内がラジオを通して耳に届きました。被災地から立ち上がろうとする東北の皆さんにエールを送りたいものです。東北では、この夏の大きな祭りが終われば、一気に「秋になる」のでしょうね。

2011/08/01

8月になりました!

 ~とても涼しい風が・・・~
 新潟や福島での水害をテレビの画面で追いながら「梅雨明けした」後にも集中豪雨があることを、ずっと昔の記憶を弄っていました。あのころの「季節観」では、その状況の急変は大ニュースになっていたような記憶が残っています。いつ頃からなのでしょうか?季節感と実態にズレが生じても大した異変とも感じなくなってしまったのですね。自然界の異変は「生活を脅かす」最大の敵だったはずですよね。
 食卓の野菜や果物にも、今の子供たちには「季節観」を判断する生活力は無いかも知れません。つまり、科学技術の進歩(?)が、夏野菜も冬に栽培したりして高値で売れることが優先されたからかも知れません。年中通してイチゴのトッピングが可能であるのでショートケーキを食べられるのですから、『旬のイチゴ』を実感することなく、いつでもおいしいイチゴを食することが出来るわけですね。
 石油を利用したビニールやガラスハウスの中でトマトを栽培していた実姉の農業経営を具に見て育ちました。トマトが夏の陽射しを受けて青臭さが強く、それがたまらなく嫌いだった子供時代の思い出も同時に蘇ります。そのトマトをお正月の食卓に「採れ立てのトマト」として姉が運んできました。そんな光景も思い出しています。
 夏は夏らしく・・・。
 つまり、自然界で自然のままに生きるモノには『旬がある』ということです。社会科の地理の授業で促成栽培や二期作を学んだ時は「知識だけの世界」でもありました。学びながら驚いたのも感動だったのです。先般、栃木県でゴーヤを出荷している農家の記事を読みました。「沖縄の気温」が栃木までやって来てしまった!と思わず嘯いてしまった爺の独り言も季節感のズレを敏感に感じ取らせる自然界の変貌ではないでしょうか。
 温度計が無いので気温はわかりませんが、異常な程に冷たく感じる北風が部屋を吹き抜ける8月1日の夕暮れです。この度の豪雨の襲来前は、エアコン消費電力の増加を案じた爺でもありました。我が家(=離れ)にエアコンの設備が無いことを心配してくれていた母屋の住人達も、今ではすっかり忘れてしまったような陽気になっています。
 今日から8月です。何の意味もありません(笑)が、どんな夏になるのでしょうか。そんな老婆心が頭を過る一日(ついたち)の涼しい夕暮れです。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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