2013/12/31

「今年のビッグニュース」を挙げてみることにしました(後編)!

                     下段の「事務連絡」をご一読ください。 1/1記

 俺っていう人間は、どうしてこんな風に「ど偉い」人物と出会えてしまうんだろうか!?それも、人生の岐路の「ど真ん中」で。世間一般ではそれを『出会いの妙』と言うらしい。節目節目で「重要な人物」を遭遇する(?)稀有な人生の旅人が俺なんだ!!自惚れでも何でもない。俺がこの歳になっても未熟極まりない証拠であることを叩きつけてもらえる「ど偉い」人物との出会いが、今年もあったと実感している大晦日である。

 今年のビッグニュースは、やっぱり「出会い」である。

 茨城県県西地区ニューモラル教員研修会(6月19日)の講師として出向いた。控室で名刺交換をしながら通り一遍の挨拶を済ませ、会場に移動して任を果たした(つもり)。90分間の当方の講演は、知る人ぞ知る「掴みどころのない」話題の濫発で任を果たすしか能は無い。

 名刺交換の際、肩書は記憶に残っていた。同時に御年がご高齢であったことも片隅に残っていた御本人が、前列に陣取ってメモを執っておられる姿に気付いてしまった。その瞬間から「何を?」「どこの部分を?」メモを執られているのか、と妙に気になり始めてからは、講師という立場が頓挫してしまった。

 懇親会が始まった。気になったご長老は隣席である。

 6月の課業中(水曜日)の昼食会である。長老からお声が掛かった。講演の内容についてであった。顔から火が出る思いで箸が止まった。91歳になられたとの前置きをされてから、「教員の人材育成について確認したい・・・」と、核心に迫られてくると陸に上がったカッパになってしまった。全身が乾ききってしまい、潤いのある表現など川下に流されてしまったような状態になったと言っても過言では無い。

 食事が咽喉を通らない当方の状況でも、熱い人材育成論は時間のある限り続いた。正真正銘のゼロ回答に近いままに要請業務を終えて帰路に着いた。常磐線の旅は僅か30分であるが放心状態の当方には降車駅を乗り過ごしてしまうほどの疲労度で帰宅した。

 帰宅した当日の夕暮れ時。

 全身の火照りも消えて、興奮状態も治まりだした頃に電話のベルが鳴った。母屋の方から「お祖父ちゃんに電話です」と、孫が駆け込んで教えてくれた。取り上げた受話器(=子機)には、数時間前に隣に坐した「御仁」の声が響いた。ご自身が主宰されている教員の研修会へのお誘いであった。日付と会場のメモを確認しながら、出席することを回答して受話器を離した。途端に胸の熱気が再燃した。認知された!!その思いが再燃の原因であった。

 研修会に参加した(8月25日)。当方が主宰する『響の会』と創設時期が同じ頃であることが分かった。研修会場での配付物に3桁の開催回数が書き込まれていた。会場の雰囲気も主宰者が違うとこんなにも違うモノか!後頭部を一撃された。

 第167回・特別研修会(12月8日)にも参加できた。文科省の現職の担当者(生徒指導)を講師として招請してされていた。懇親会にも出席して親交を深めることが出来た。

 91歳の老人。お会いして会話を交わしていると「老人」の概念が吹っ飛んでしまう。記憶力も確かである。近場の用務はバイクで済ませると言う日課を聴いて驚いた。栃木県宇都宮市の主治医への定期検診の受診にはご自分の運転で出向かれるとのこと。生活ぶりを聞きながら若輩の自らが、その軟弱さに潰されて溶けて消え去るような思いになってしまう。

 『ど偉い人物』であることの証明は「人材育成論」にあった。肩書(経歴)もさることながら実績(業績と功績)の上に、91歳でもリーダーとして厳しい指導を垂れる御仁の言葉を聴くにつけ、その姿勢を見れば見る程、怪物としか思えない。この世に生存するモンスターである。当方は勝手にネーミングしてしまった。70歳を過ぎてからパソコンの技術を学ばれたとのことには開いた口が塞がらなかった。

 傘下にあって研修を積まれている茨城県下の管理職の方々の研鑽ぶりには、へなちょこ侍の、ちっちゃな実践など風前の灯に似ていると痛感している。

今年のビッグニュースとして取り上げるのにふさわしい人材との出会いである。


               【事務連絡】
長い間、ご愛読いただいた当ブログです。
下記のアドレスで 改装『歩禅記』としてアップいたしました。
                            http://hozenki2014.blog.fc2.com/

目下、自己トレーニングに必死です。逸る心をあざ笑うかのように、幾つもバリアがあり思うように進捗が捗っていません。ただ、「切り替え」は必至です。きちんと独立できる状況になるまでに少々時間が掛かりそうですが、お付き合いください。既に、この時点でも、上記のアドレスから入室できます。覗いてみてください。
      Ctrキーを推しながらクリックしてください。
月末の奮闘ぶりのページしか見えない場合は、画面上部のカレンダー(横書き)の2014/1/1をクリックしてください。アップするまでに少々時間が掛かりそうですので、ご理解願います。
      
 
 
 
 
 
 
 
 

2013/12/30

『お正月の準備』風景も日本文化を伝える風物詩??(2)


 寒くなさそうなので出かけようか!?

 「この日」の決定は、雲の合間から射し込む冬の陽射しが判断の基準となります。北関東の冬は、過去67年間を過ごした地とは比べ物にならない程の気温の低さです。北風の冷たさは、老妻の手に皹(ひび)が切れて皸(あかぎれ)になってしまいそうな威力です。水道水の温度もそれに拍車をかけるのかも知れません。幸いにも障子の張り替えはまだ必要としないので大量の水を使って洗う必要もありません。

ところがもう1か所の『お正月の準備』のためには、寒風と水温の低さとの対戦を避けることが出来ません。6年前に建てた『お墓』の掃除です。

 去る28日(土)の昼間に「今でしょ!?」と思えるほどの空気の温かさを感じ取れる時間をありました。掃除道具セット(自家用車に常備)と共に菩提寺の霊園に向かいました。避ける建物も無い墓地を吹き渡る風はやっぱり冷たい。

 5~6往復の「水汲み」は夫の担当で、拭き掃除は妻の担当となっている。自前の桶もあるが、一つではどうにも間に合わない。菩提寺の桶をお借りして2つの桶で水を運ぶのである。手先が切れる程の冷水である。ビニール製の手袋を填めての作業ではあるが堪らないほどの辛さとの勝負なのです。

 1時間までは掛からなかったが、きれいになった墓所を見届けて車に入り込んだ。「寒かったねぇ~!」と思わず本音を言葉にして発した老夫婦は思わず苦笑いをしてしまいました。しかし、気分の爽やかさが寒さと冷たさに勝ちました。車内での手の温もりの復活であったかくさえ感じたのは、やっぱり「文化の伝承業務」をし終えた充実感であったのでしょうね。

 記念写真を撮影するゆとりもなく帰宅しました。お正月の里帰りをする二人の娘たち一家の墓参の準備が済んでホッとしています。





2013/12/29

『お正月の準備』風景も日本文化を伝える風物詩??


 子どもの頃は、家族みんなでそれぞれに分担が宛がわれて1年の垢を落とすことに懸命に励んだモノだった。祖母と一緒に「障子張り」をしたことを思い出している。この日だけは古くなった障子を思いっきり破いて良い、となると何だか腕に力が入らなかったことが幼心にも不思議な感覚だった。
 障子の骨組みを洗うのが難儀だった。去年の糊付けの跡が剥げなくて大変だった。近所の川に浸けて容易に作業をしていた兄たちの工夫も学んだ。川の水が冷たくて大掃除の分担が障子張りになることを敬遠したくなったことも今となれば懐かしい。

 暮れの大掃除。

これも文化の伝承にもなるのだろうか。「障子の張り替え」も、日本の家屋に常備されている「障子」という生活様式に不可欠な家具を大事に使うことへの配慮と言える。今の家屋に「障子」はあるのだろうか。無ければ「張り替え」の文化の伝承も無い。利便性の追求の裏側で消滅して行く日本文化が愛おしくも思える。

 2011(平成23)年に当地に引っ越して来た。

 建物の設計の段階で和室を固執した。たった一間の6畳の和室ではあるが「障子のある部屋」への愛着があったからである。現代の和室に取り付けられた障子に貼られている紙も大昔のモノとは段違い。数年は破れないほど立派な紙を使用しているとの事。幸いにも障子の張り替えと言う「歳末の風物詩」に手を付けることは今年も無い。

 家事の手伝いをしない現代の子ども達。

手伝いをしない??手伝いをしなくて済む様な生活文化が確立されて来たからである。日常的な「お手伝い」も、文明の利器が日進月歩に開発が進んでいる状況下では手伝いも不要になってしまったのだろう。

 子どもは大人文化の下で成長する。

 我が家の孫たちも、我が家の子ども達の時代に比べたら「家事への参入」度合いは驚くほど減少している。年の暮れも大詰めである。ラジオでも「今年もあと3日で・・・」との言葉を朝から聴き始めている朝である。皆さんの「歳末の風物詩」は如何であろうか!?
 
 
 
 
 
 

2013/12/28

「今年のビッグニュース」を挙げてみることにしました(前篇)!


 実は、『老脳鍛錬記』という日記を書いているんです!!

 打ち明ける程の内容でもありません(笑)ね。昔の記憶は正確でも最近の記憶が飛んでしまうのが老人性認知症の特徴だと学びました。「明日は我が身」の意識は恐怖心も煽ります。そこで、わが身を生体実験の被検体として「挑んでいる」のがこのオリジナル日記手法です。

 定時に起床すると、日記帳を開きます。

 この日記帳はパソコンの中に保存されています。全くのオリジナル(エクセル版)です。形式は簡単です。昨日の出来事を時刻順に書き込むだけです。箇条書きに似ています。一見簡単に見えますが、がっかりするような事態に直面して加齢の実感に打ちのめされる様な朝を過ごすこともあります。昨日の出来事が、本当に数時間の記憶が飛んで行ってしまっているのです。読者諸兄も「この年齢=古希」に近づいて来たら挑戦してみてください。小生のこの心境が実感としてわかることでしょう!

 そこで、今朝、2013年の1月からの『老脳鍛錬記』を開きました。

 苦笑の連続です。それは、事件や事故(少々大袈裟ですが)への記憶自体は残っていても順番が違うのに唖然としてしまいました。懲りずに立ち止まり読みをしました。気付いた事件が今年一番のビッグニュースであると認識しました。

 妻の実父母の七回忌(8月)と実家の売却。
古民家を求めている妻の生家の近所の独身男性が購入してくれました。空き家の状態の家屋が多くなっているのが地方の現状です。妻も知っているという買主と条件を合わせて土地付き家屋として売却することが出来ました(1月)。買い手が付かずに廃屋になってしまうことを恐れていたモノの、いざ他人の手に渡るとなると妻の心情も複雑だったことでしょう。故郷は存在しても、生活した家屋にはもう戻れないのですから。【写真は2004/4月撮影】

 我が老夫婦にとっては、本年最大の出来事だったような気がします。上半期最大のニュースとしてご紹介しました。続編は明朝に。
 
 
 
 
 
 

2013/12/27

『今年の漢字』(12月14日初登載)の再考を促される


 広島の小学校長よりメールが届いた。詳細は「新ブログ・寸心紀行」(昨日付の登載)ご一読いただきたい。

 この小学校の『今年の漢字』(=一文字)は、“変”だそうだ。

 校長経験者だからその嬉しい「変」が分かり過ぎる程わかる。勤務開始時点との変わり様がこの言葉として表現されたのだろう。あくまでも表面上しか知らない「旅人」的な推測である。きっと、良い意味での「変化している」ことへの歓喜の表現であることは間違っていないだろう。

登校してくる児童生徒はどこの学校でも大同小異である。地域性や立地条件で他校とは明らかに差異が生じる(学校間格差)ことが無い訳ではない。しかし、そこに集う協働する教員集団の意識の変容によっては児童生徒の「学びの姿勢」(意欲)の変貌ぶりも想定外の域に達する。教頭職を経験した僅か1年間での実体験からも証明できる。

たった二度しか訪問していない小学校なので根拠の詳細は不明であるが、1月末の研究発表会に出講を要請されているので楽しみにしている。“変”の本質を見極めることが出来ると確信している。

そこで、当方の2013年を振り返って漢字一文字を充当してみよう。

尊敬する鍼診療師に、「60歳過ぎてからの転居は無謀としか表現できない」と言われた3年前を思い出す。自然環境に同化するパワーが無い、という意味らしい。温暖な地で60年間以上を過ごした身体を、当地の朝夕の温度差に馴染ませるのが酷なように思えたのは、転居した2011年の暮れのことだった。その時点から「二つ目の冬」を過ごしている。無駄な抵抗をしないで老身をこの地の自然環境に「馴らす」ことに意を注ぐことが肝心だと明確に気付いた1年であると言えようか。

小生の「今年の漢字」は『馴(らす)』となる。

史記の一文(=馬先馴而後求良)を広辞苑で発見した。馬は先ず馴らしてからでないと良い展開を求めてはいけない(?)と勝手な解釈をしている自己満足の朝である。
 
 
 
 
 
 
 

2013/12/26

『モノ』だけでなく「心(=ことば)」でも、感謝の意は通じます!!


① かわいいクリスマスツリーが届きました!

 高知市立大津小学校の「舟入学級」(=特別支援)の子ども達からゆうパックに入ったプレゼントが届きました。

 開けて見て老夫婦は感動しました。

 束の間の授業観察しか出来ない学級です。指導者(=オトナ)の心情が学級の子どもに確かに移乗していることを証明していることを実感します。贈り物自体について論及しているのではありません。純粋に、モノではなく心の持ちようだと述べていることをご理解ください。

 この「モノ」を作り上げるのにどの位の時間を要したのだろうか。

 一人一人の個性で生きている学級の子どもたちを「ひとつの目標」に集中させるための指導法を紡いでいる指導者集団の姿勢に頭が下がります。この学級に在籍する一人の児童から「角田先生は、東京の方から飛行機に乗って高知に来るんだよね」と、声を掛けられて感激しました。なぜならば、まだ二回目の学級訪問だったからです。たった1回の訪問の際に自己紹介した内容をきちんと記憶できる個性の持ち主であることも頷けました。

 「個の指導」の原点は、訪問する学校で支援学級に足を入れ瞬間に感じる事です。一括説明や指導が効かない「個の集団」を個別に指導することの重要性を痛感するのです。舟入学級のみなさん、クリスマスツリーの作品、ありがとう!!来年また会えることを楽しみにしています。
 

② 『感謝メール』が、二弾に分かれて届きました。 

 このメールは「教員向けブログ」(=寸心紀行→右欄の枠内の当該事項をクリックして入室)に登載しました。ご面倒ですが、場所を変えてご一読下さい。
 
 
 
 
 

2013/12/25

憧れの「傘寿」と、「エベレストの登頂」とは隔世の感あり!


 12月24日(火) 午後4時半から6時までNHK総合テレビで、≪世界最高峰エベレスト三浦雄一郎80歳の登頂≫のドキュメンタリー番組が放映された。老夫婦の眼は釘付けになってしまった。憧れの傘寿に達した偉人の、想像を絶する挑戦ぶりを撮影したシーンの一つ一つに固唾を呑みっぱなし!!

21日~23日まで、老夫婦の楽しみはフィギュアスケートの優雅な演技をテレビで観戦することであった。子育ては自らの育ちへの反動に似た動きに引き摺られるらしい。南国・九州出身の父親(=小生)は「氷上を滑る」ことが出来なかった。わが子3人をスケートリンクに連れて行ったのは、その引け目をわが子達には負わせたく無かったからである。箱根のスケートリンク(=氷上)までは至近距離にあったので家族で多く出かけたのである。懐かしく思い出しながらの観戦であった。結局は、雪上までの誘導は出来なかった。

阿蘇の山々は少年時代の思い出として残像に明白に映っている。友人が山岳部員だった。国体に出場した友人は「登山の醍醐味」を所構わずに話し込んでくれた。それでも2000メートルを超える高さの山の話では無かった。傘寿の人(=三浦雄一郎氏)が8000メートル級の山への登頂に挑まれた。そして、見事に達成された。画面が見せる全てが別世界であった。梯子状のブリッジを渡られる氏の足元をカメラがアップする。眼下に氷壁の底が見えない。見ているだけで足が竦む。

登頂に挑戦する前に心臓の手術も受ける。尋常の沙汰ではない。いや、異常としか言い様が無い。

あっという間にドキュメンタリーを鑑賞し終えて我に返る。

現実の小生はと比較するのは「傘寿の人」に対して失礼極まりないことである。弁えてはいるものの比較してしまう。凡庸な人生の道を歩んでいる自らをしっかり見詰め直して、平坦な地上の道を一歩ずつ歩むしかない。そんな充実感を貰えたひと時であった。
 
 
 
 
 
 
 

2013/12/24

「思い込みの先行思考」に苦笑いの瞬間!



 冬至のゆず湯。

 効能などの詳細には興味関心は薄いが、この歳になると「日本文化を伝承する」と言う観点からか、若干の意識が高まっていることは確かである。日本古来のゆかりの文かは沢山あるのだろうが、殆ど無視と軽視でこの歳まで来てしまった(笑)。

 冬至と言えば、祖母の口調が浮かんで来た。

 「明日から、日暮れが遅うなるバイ(=遅くなるよ・故郷の方言)」と。少年時代に聞いた話では、日没の時間の区切りが着く日であるという事だった。秋の日の釣る瓶落としもそれと一緒に聞いたのかも知れない。日本文化が生んだ日本語の「おくゆかしさ」に感傷する日々である。

 防災無線から5時のミュージックサイレンが鳴った。

 何を勘違いしての思い込みが先行したのか!?他人事表現になってしまうが思わず、この老体に付いている口が発したのが次の言葉だった。

 「随分、日没が遅くなったね~」と。幸か不幸か周囲にこの言葉を聴き取った人はいなかったので反応は返って来ていない。ふと、我に返った老体は、人に聞かれていないことに苦笑いをしながら、このセリフが賀詞を交換する時期に、祖母がご近所の方々と交わした言葉であることに気付いたのである。

 冬至が過ぎると日中の時間が延びる。

 自慢ではないが、理科系の発想や着想は皆無に等しい小生には自然科学分野からの「冬至」の理解は進んでいない。しかし、少年の日の思い出は祖母の「ことば」に寄与することが多い。それが、大きな人生哲学も養成してくれている。

 「思い込みの先行思考」が顕在する限り、苦笑と失笑が共存しているような日々が、これからも続くことだろう。妙に納得した夕暮れだった。
 
 
 
 

2013/12/23

「来年は、70歳と40歳!」の言葉の重みを痛感したひと時



 転居して同居の長男一家と元気に楽しく過ごしている。

 老夫婦(となってしまった)と長男(すっかり歳とった3児の父親)だけの3人の夕食は、これまでの生活の中でもホンの数回だけである。以前はアルコール拒否症候群に属していた筈の長男が母屋から缶ビールを持参して(ミニ・老人ホーム)の離れにやって来た。今夜は嫁と3人の孫たちは少年サッカーチームの「暮れのお食事会」らしく不在であるらしい。

 小生は焼酎を呑みながら、束の間の「親子の対話時間」を過ごした。

少しは呑めるようになったらしく、アルコールが齎してくれる勢いも付いて来た長男が、「来年は、俺も40歳になるんだよな!」と喋りはじめた。高校進学を考えていた長男に向かって発した(らしい)親父の言葉を、最近は何故か強く感じ入るようになってきたのだと話題は発展した。当時は、何を言っているのか深意など全く分かっていなかったらしい。

 学歴で生かされる人生では40歳からは覚束ない。

 40歳で「疲れ切っている」ようでは次代に示しがつかない。

 わが子に人生を語ることの出来る40歳代の父親であるべきだ。

 順不同であるがこんな内容をきちんと記憶しているらしく吐露した。どんな表現をしたかは、当時の父親にも確かな記憶はない。しかし、内容は、今でも顕在する確かな我が人生哲学であるので、息子の記憶は間違っていない。30歳違いの父子である。計算も正解である(笑)。「人生はこれからが本番」という40歳という節目を迎える息子と、あと10年生きれば目標の年齢=八十路(やそじ)を迎える父親の対話は、25年前とは温度差は違っているだろうが、楽しく弾んだ。

 息子は母屋に戻って行った。

 程なく「お父さん、ただ今!」の声が母屋から聞こえてきた。老父は老妻に語りかけた、「たまには、こんな時間も良いモンだな」と。老妻の眼はTV画面のフィギュアスケートの演技に釘づけ状態だったが、意識は同様だと確信した。通常より一杯多く呑んだ老父は、「ゆず湯」で全身を温めた後、床に就いた。あっという間に寝入ってしまったようだ。

 そして、「天皇誕生日」の祝日の朝。体内時計は3時40分に目覚ましを促してくれた。昨朝の番組の続きをラジオで聴きながら時間を過ごした。インタビューに応える自閉症児と共に生きる「父親」の語り口に今朝も涙を流してしまった。

5時のラジオのニュースで傘寿をお迎えになられた天皇陛下のお言葉を拝聴しながら心に誓った。

 息子が人生本番に向かい合う歳になったのだったら、その父親はそれを確認してやれる厳しい審査官になれるような『矍鑠たる老輩』を目指して、あと10年は頑張らねば、と心している朝である。
 
 
 
 
 
 

2013/12/22

寒い朝は布団の中でラジオを静聴してしまいます!


 NHKラジオ番組名:『明日への言葉』(04:00~04:50=終了時刻は不定)

 12月22日 「自閉症の子どもと手を携えて19年」① 新保 浩(社会福祉士) に耳を傾けながら枕を濡らしてしまった。不覚の涙ではない。「父親」という同業者としての己の甘さに怒り、彼の純粋な息子への愛情の深さに感激して流した涙であった。老妻も聴いていたので、番組が終わってから布団から抜け出た、貧相な老父親は肩身の狭い心情に落ち込んでしまった。

 障碍者のわが子を想う親の心情は理屈では理解していても現実問題としては実体験も無い。避けることの出来ない父親業を淡々と、しかも幸せそうに語る彼の言葉には随所で後頭部を叩かれる思いになったのである。それが感涙に現れたのであろう。

 起床後、身支度を整えてパソコンに向かう。

 通常のリズムでは、メールチェックと返信作業からブログ登載作業と時間を流すのであるが、今朝はラジオ深夜便に登場された福祉心理士・新保浩氏のブログを検索することで一日の実動を始めた。

 『そよ風の手紙』というブログ名が判明した。二回連続で番組に登場することをお知らせするトップページを発見した。読みながら、明日の朝も彼の「語り」を聴くことを老妻とも確認した。小生は、感動の番組に出会うと一日が楽しくなる。元気に一日が始まるのである。

 千葉に住んでいる長女が送ってくれた「ゆず」を洗いながら、カボチャ料理の準備をしている老妻と今朝の番組の感想を述べ合った。

台所の老妻が、「今日は冬至ですよ!」と言った。孫たちの昼食の為に作っている冬至料理も出来たようだ。どんな顔をして食べるのか楽しみな能天気な祖父ちゃんの師走の一日が始まった。

感想メールが届きました。以下に紹介します。
 
 
131222受信メール

歩禅記、拝見しました。

早速、ブログ「そよ風の手紙」も拝見しました。以前、角田先生から是末いづみ先生の資料をいただいて以来「私にできることって何だろう?」と考え続けております。

今回の学期末懇談で、ある保護者から

「先生が私にとってはカウンセラーです。 中学生になってもよろしくお願いします。」

というありがたいお言葉もいただきました。これが私にできることなのかな、と思えるようになってきました。とは言っても、私の対応が悪くて息子がパニックを起こす朝はあるのですが(笑)

新保 浩さんが、

「人の目など気にすることはないのです。比べるものでもないのです。あなた自身がしあわせと感じればいいのですから。」と書いてらっしゃいました。

そうですね。今対応していけることが幸せなことですね。

  角田先生のおかげで楽しみなブログが増えました。ありがとうございます! 

急に寒さが増してきたと思ったらもう冬至なのですね。あったかい高知の平野部でも数年ぶりに雪が降りました(すぐに雨に変わりましたが)。お身体ご自愛ください。

来年もよろしくお願いします。
 
 
 
 

2013/12/21

老妻のタイムマシンに同乗して訪問して来ました!



タイムマシン(=H.G.ウェルズのSFに由来する語)とは、時間の流れを越えて過去や未来に旅行するための架空の機械 【広辞苑】

 低気圧の関係で夕方頃には降雪の予報も出ていた。先方(=小生はお会いしたことが無い同年齢の男性)との日程調整で訪問日の設定が為されているので行動に移すしかない。完全防備の服装で(笑)、指定時刻の電車で訪問先(常磐線・勝田駅)に向かった。 時刻表では50分間の移動時間であったが、老夫婦のミニ旅行の時間はあっという間であった。

 改札駅を出たら電話をすることになっていた。エレベーターで下りる。目の前に待ち人らしい男性は見当たらなかった。再度の携帯電話で交信すると、確かにエレベーターの前に、白い杖を持った老人男性がいる。老妻が見過ごすほどの変貌ぶりだったのだろう。携帯電話を耳に当てながらエレベーターの出口を見詰める老人(失敬!)が佇んでいた。正面に向き合って見て本人同士が分かり合った。

 どのような縁戚関係にあるのかも正確には老妻にもわからないらしい。実母の養父になるのが面会に来た伯母さまの父親のようである。確かな身元調査など不要ではあるが、実母が存命の折りから「近くに引っ越して行かれた(九州から)ので面会に行って欲しい」との要望があったようだ。その願望も実母が他界してから7年も経ての実現だったことになる。

 若い時代の相手を思い浮かべて、駅頭までマイカーでの迎えがあると老妻は思い込んでエレベーターを降りたのだろう。視線の先は駐車場だったことも頷けた。小生は初対面であるので何が何だかわからない状況下にあった。白い杖を頼りに移動する現状までは老妻も想定できていなかったようだ。

 タクシーに乗って、伯母(と、老妻は呼んでいる)が入所している「介護付有料老人ホーム」に案内された。伯母さまは92歳だと自らの自己紹介で分かった。老妻を名前で呼んで、昔話に登場する少女時代の老妻の話に花が咲いた。転倒して車いすの生活になられたこともしっかりとした記憶で説かれ、話が途切れる間もないほどだった。駅頭まで迎えに来てくれた男性が妻を10月に亡くしたばかりであったことは喪中の葉書でわかっていた。

 妻の位牌にお参りして欲しいと懇願され、タクシーで自宅を経由して勝田駅に戻ることになった。老人ホームの伯母さまとは老妻は再会を誓っていた。独り住まいになってしまった(ご長男一家は神奈川県川崎市に住んでいるという)家でお参りを済ませてから帰路に着いた。

 92歳の脳裏には妻の少女時代は鮮明に記憶されていた。飽きもせずに何回も同じことを繰り返しながらもその都度新鮮な表情で語れる症状が、いつかは訪れる我々の現実だと再認識してしまった。

 タイムマシンは、どうやら「未来へも」移動できるらしい。未だ見ぬ未来の世界も覗いて見たくなった、と言えば童心過ぎるだろうか!(笑)
 
 
 
 
 
 

2013/12/20

届けられた『カレンダー』を開いて・・・・・・。


 年末になると自身の経営する会社名の入ったカレンダーが幾つも届けられる。

 我が家の歳末風物詩となる1シーンである。利用価値があるので重宝しているカレンダーばかりである。すっかり「我が家の生活」の顔になっているカレンダーもある。杜撰極まりない生活者の小生のリズムには几帳面さはないが、「気紛れ」人生を謳歌している人間にも、ある一種のリズムはあるようだ(笑)。

 毎年、ある時期が来ると「もう年賀状は止めちゃおうかな!?」と嘯く。その度合いが高いほど購入も遅くなる。遅くなればなるほど律義さが消える。束になっている年賀状が恨めしくなる。

ところが、ある日突然に年賀状制作に挑み始める。もう、そこには自分だけの世界しかないので独壇場になってしまう。家人の入る混む余地もなくなるらしい(=周囲の気配でわかる)。

 今年もそんな時がやって来た。それが昨日の事である。

 制作を完了して郵便局に投函するために歩いて出掛けようとした。老妻も他の用務があるので郵便局に行くとの申し出があり、車で行くことになった。今にも雨が降りそうな師走の空。出発して直ぐに雨が降り始めてしまった。気温の低さと空気の冷たさは居住地によって異なるが、冷たい雨の師走の空模様も何度か記憶に残っている。降雨の中で投函を終えて帰宅した。

 根拠のないバイオリズムではあるが、帰宅して始めるのが『カレンダー』の点検である。これも恒例の行動である。今年も全国から届いているカレンダーの点検をしながら、ふと目と手が止まった。挟み込まれている1枚の両面印刷の用紙を発見したからである。

 取り出して読んでみると、送り主からのメッセージであった。

 コピーされた新聞記事が裏面にあった。作業を止めて読み始めて愕然とした。その新聞記事は2007(平成19)年8月21日発行のものだった。初めて読んだ記事ではあったが、送り主の「生き様」を大まかには知っているつもりだった思い込みが崩れた。このブログ画面では読み辛いとは考えたがスキャナ版でここに紹介したい気持ちに駆られた。

パソコンのソフトを活かして資料化することにした。ワード版で作成する。ご希望の方はメールにてお申し出頂きたい。

届けていただいたカレンダーの整理を終えたので「わが歳末歳時記」の1コマが済んだことになる。
 
 
 
 
 

2013/12/19

日本語の「言葉づかいの乱れ」が、気になるのは高齢化の証?


      この画面をクリックすると大型画面で読むことが出来ます。


英語には敬語が無いから気楽で良いね。

 英語と言う外国語を学ぶ上で、これは殺し文句にもなる(笑)。しかし、人間関係上に欠かせないのが言語であるならば、この殺し文句を丸呑みしてしまうのは危険であると言えよう。

 英語圏文化の国々で自由と平等意識が定着しているということは、そこで使用される言語への影響は避けられない。これは当然のことである。言葉が文化を支えるのであるから、「方言(=お国訛り)」も誕生するのである。

ホントに英語表現に敬語は存在しないのだろうか?相手に敬意を言葉で表現するのは日本だけ?

 実は、小生は、敬語以上に意識している日本語の良さは『謙譲語』があるように考えているが、読者諸兄はどのように考えておられるだろうか?謙譲語を英訳して英語圏の人種には理解してもらえるのだろうか。

 今日提示する新聞記事は日系4世の大学教授の弁である。

 小生の論旨とは少々異なるが、『日本語の乱れ』を指摘していると考えるのは丸呑みになってしまうのかも知れない。しかし、明らかに「生活文化」の変化が、そこに定着する使用言語にも互換関係が成立しているように思えるのであるが皆さんはどう、考えますか?

 小生は、やっとこの頃になって「ため口」という日本語を口にすることに抵抗感が消えたような自意識がある。語源も未だに知らないままに、氾濫状態で日常的に耳にすれば麻痺された神経が働いて躊躇も無くなるのだろうか?それでも、気になる「言葉の乱れ」は、やっぱり高齢の証のようである(泣)。

 いずれにしても50年前には「ため口」文化は無かった!!お考えをご投稿下さい。待っています!!
 
※ 新・ブログ【寸心紀行】(右欄、該当項目をクリックして入室)に、新シリーズを登載しました。
ご一読ください。
 
 
 
 
 
 
 

2013/12/18

「こんなことってあるの?」って、やっぱり『想定外』!?


 先週は天気予報に惑わされて通院(鍼診療)を断念しました。予報は全くの誤報で午後からも降雨の気配は微塵も無かったのです。天気予報を恨んでいるのではありません。現状を記述しているだけです(笑)。

 2000(平成12)年9月から通い始めた、小生の「健康診断士」の鍼診療院(東京都町田市)があります。

人間ドックで超・高血圧症と診断され、即入院を勧められて精密検査の方向性になりました。ともあれ、自宅に戻りました。長男の紹介で診療師に出会いました。小生に薬の廃棄を勧められ実行を促されるままに診療を受け始めました。当時から13年間の時空を経て、未だ現役の真似が出来る程の健康体にしていただいた診療師です。小生より半年後から妻も診療を受けています。

昨日、突然に「診療所が病院に移る」との告知をされました。瞬間に、「これ以上遠距離に移動されれば通院は不可能だ!」と閃きました。

 旧住所(神奈川県茅ヶ崎市)からはマイカーで90分の所要時間を以って通院できました。転居した現地(茨城県土浦市)からは、常磐線・特別快速と中央線・特快と乗り継ぐために上野駅と東京駅を経由して3時間を要して通院しています。加齢は律儀です。こんな通院の歳月でも確かに「1年に1歳」の加算はあります。時として加齢症らしい考え方が過ることが無かった訳ではありません。しかし、薬の服用の無い快適さを捨て切れずに老妻と(励まし合って?)通い続けて来ました。

 診療後、師が「診療室を新年(2014年)から増やすことにした」との言葉に「どこなんだろう?」と軽い期待の気持ちで聴いていました。「我孫子市にある病院に分室を設けることになりました」との告知に我が耳を疑ってしまいました。

 降って湧いたようお話。

 我が老夫婦は信じ固い「運命の悪戯」に応える言葉が出ません。師の話題に上った「我孫子(=あびこ)」という地名は、駅名にもなっています。現在通院の為に利用している常磐線の沿線にあるのです。各駅停車だけの停車駅ですが、最寄の駅からは45分間もあれば到着する駅なのです。

 片道180分を要する行程にある現・診療院が、往復90分で行ける場所に通院できる場所になったのです。このような運命になること自体が信じられますか?実情を伝えると師は、「そうなんだ!良かったね」と喜んでおられたのですから土地勘も無い様子でした。

 帰路の老夫婦の話題の枕詞は「信じられないけど・・・」から始まりました。帰路の常磐線は特急電車を利用します。上野駅を発ってから20分を過ぎた頃に「我孫子駅」辺りを通過しました。暗くなった車窓を沈黙のまま見詰めている老妻にも過った言葉があったことでしょう。「こんなことってあるんだ!」と。

※ 写真は13年間通い続けた診療院に通うために乗降したJR横浜線「相原駅」です。ここから徒歩で15分の急な坂道を登り切った場所に診療院はあります。
 
 
 
 
 
 

2013/12/17

しっかり「意識しないと」きちんと『歩く』ことができない!?


 仕事に感けて計画的な「歩禅」が遠ざかっていることに気付いた。

 先週の日曜日、茨城県古河市のセミナーに出向して、業務に一段落を打った。気分的にはゆったり感が漂って来ているが、暫く家業(?)を放棄していた身には「やるべき」分担業務が山ほど積まれてしまっているのに仰天である。

 パソコン操作が必要なATM利用の家事業務への対応は、いつの間にか老夫になっている。確かに夫に託している妻の言い分もわかるような気がする。行きつけの郵便局はATMが1機しかないので、行列が出来てしまう。機器の操作に躓いてしまう先客が居ると直ぐにこの行状になるので、当人の内面の苦悩が偲ばれる。妻はその「当人になって皆さんに迷惑をかけるのが辛い」という理由を挙げている。銀行のATMは、また勝手が違うので余計に躊躇心が高まるようだ。理解して、老夫は積極的にこの業務を遂行することにしている。

 もう一つの家業は運転手である。公共交通機関が満足に配備されていない地域なので車社会になっている。県内を移動するになっても車が最優先である。ちょっとした買い物も、自宅から遠く離れた郊外にある大型ショッピングモールまで行くとなると「車無し」では不可能である。妻はいつの間にか買い物のメモ書きを用意するようになっている。運転手が在宅の日を定めて2~3店舗を梯子ショッピングになることは当然である。

 こんな状況下にある生活様式になった間もなく3年になる。

 歩禅という造語を「生活の一コマ」にするためには計画性が必要であることにもやっと気づいたのである。加齢の一途にある小生には少々勝手の違う生活様式になってしまった。その主因は分かっている。転居した時点とは全国からの「要請業務」が増加したことと、遠隔地まで出向するので1回の用務に3~4日間が掛かることである。1週間に2つの用務が重なると分担の家業要務が疎かになる。同時にその負担は小生が被ることになってしまうのである。

 来年も、もう1月初旬から要請業務が入って来ている。

 しっかりと「計画性」を以って、健康の為にも老化の進捗抑制のためにも「歩く」時間を特設すべく心している師走の朝である。





2013/12/16

「55歳の小生は・・・」と、自問しながら考えた帰路の車中



 「その歳になってみないとわからない」ことは良くある。

 尊敬した先輩の年齢に追いついた(?)頃、業務上の質量ともに劣っていることに気付いたショックは忘れられない。自分の還暦同窓会の席上で、「目標としていた小学時代の恩師」と再会した。第一次的目標(=「教師になる」)を果たしている事だけをお伝えして挨拶代わりにした。「先生は、何歳になられたのですか?」と聴いておいた。それは、「その歳になったら・・・」との次の道標を造っておきたかったからである。

 72歳と答えられた。

 年が明けると古希を迎える年齢になった小生には、道標に到着する時点まで2年間の猶予しか無いことを思い出した。恩師の息子さんが、今春、教頭職に就かれたとの情報を故郷の友人から得た。お祝いを述べるのを躊躇ったために不義理をした状態で年を越しそうだ。

 小生には、毎年、暮れに開いているミニ同窓会がある。

 主体は、小生が公立学校の教壇に「新採用教員」として立った時、入学して来た生徒たちであり、足掻きに足掻いた中学3年生の学級経営の中で卒業して行った学級の主人公たちである。今年も案内が届いたので神奈川県藤沢市まで足を運んだ。会場と自宅との距離があるので、幹事さんに我儘を言ってしまった。開始時刻を5時にして欲しい、と。5時から7時までとの開催時間を明記した案内を貰ってちょっとばかり気が退けたが図々しく出席した。「毎年開く再会の場」は珍しい。

 当時の小生は2628歳の時期を共に過ごしたことになる。

 集まった卒業生が55歳になったと言う。時空の旅があっという間に感じるが、もう孫がいると近況報告も受ける時代にもなっていた。それぞれの近況には悲喜こもごもの事件が詰まっている。この春に夫を亡くしたという報告には胸が痛んだ。高校進学の方向決定では懐かしい思い出がある卒業生の一人である。亡母との数多くの面談風景が走馬灯に浮かんで来た。悲しみに負けずに頑張って欲しいと願うことしか出来ない。欠席への義理立てをしている何名の名前が読み上げられた。立派な社会人として生きている卒業生の顔が浮かんだ。タクシーの運転手として参加者を送ってくれた欠席者がいることも報告された。

 55歳の頃の小生は?57歳で最後の校長職が始まったので市教委で議会対策に苦悩していた頃だと記憶を弄った。懐かしい湘南電車の車窓には、現役教員時代の楽しかった思い出ばかりが次から次へと浮かんでは飛んで消えて行った。早い時間の帰路の電車に乗れて10時過ぎには帰宅することが出来た。

 自力で「里帰りができる」限り、この再会の集いには参加できるように健康管理をしておこうと心に誓って床に就いた。

 大変遅くなりましたが、【寸心紀行】(右欄該当項目をクリックして入室)に、広島市立湯来南小学校公開研究会の内容をアップしました。今回から、『観察ゾウさん』が登場して、授業観察の記録を公開しています。
 



2013/12/15

孫のサッカー練習場までの「送迎運転手」をしました!!

 


 転んでもただでは起きない!?

 貧乏な家に育っている小生には本人の意志とは無関係にこんな人生哲学が育まれてこの歳まで生きて来てしまった。自宅から孫のサッカー練習場までは車で10分足らずの距離である。車の数が少ないので所要時間と距離との正しい相関関係は不明である。長閑な農村地帯の真ん中を走る道路で信号機も4つしかない。送迎も楽な業務である。しかも、常勤ではなく親の都合がつかない時だけであるので、たまには孫と車と言う密室で様々な話題に興じるのも命の洗濯となり、祖父ちゃんにとっては、一味違った「至福の時」となる。
 午後1時からの練習に間に合うように送り届けて一旦帰宅した。午睡を微睡んでから、かなり早めのお迎え態勢で練習場に向かう。隣接するかすみがうら市に練習場はある。孫息子が所属する少年サッカーチームの本部が当市にあるかららしい。市営の施設であることは見ただけでわかる。芝生が敷き詰められたグランドも利用している団体も殆ど見かけることが無い。
 意識的に「動きやすい」服装をして出向いたので思惑通りに準備体操らしきものを済ませて軽く歩いてみた。足裏の感触が気に入った。50年前の少年時代を思い出したが施設面の環境は段違いであった。ストレッチをやったり、少しだけ速度を付けて走ってみた。この年齢では無理も利かない。嬉しさに後押しされて無茶をすることも無い。孫たちのチーム練習を横目に見ながらグランドの外周を加速して歩くことにした。陽が西に沈み始めていた。大きな木立ちの陰になっている部分は温度も低く北関東に居ることを実感した。
 さらに施設の見学もしたくなって屋内に入ってみた。
 「浴場」と、そこへ誘導する案内板を発見した。入浴料も確認した。市民は無料で、市外からの入浴者の料金が¥500であることもわかった。準備が整っていないのと時間が無いことで今回は断念することにした。更に見学を続けながら「図書館」も発見した。館内を覗いて見ると狭くは無いが広すぎる面積でもないと感じた。お子様連れの若いお母さんたちが幾組か見えた。
 孫の3時間のサッカー練習の日程の裏番組として「お祖父ちゃんの余暇」としてデザインしてみた。孫が練習に入ったら、運動着になってサブトラックや外周でジョギングとウォーキング、室内に入って筋トレにとりくんだりして1時間を費やす。それから浴場に入って「半身浴」(=当方では『腰湯』)を30分やってみる。汗が退いたら図書館に移動する。持ち込んだ資料や準備した機器で資料作りをしたり、溜まっている記録の整理で時間の有効活用ができそうである。残った時間を読書の時間として当てれば練習時間の裏番組は完成である。
 帰りの車の中で孫にそんな話をしてみた。
 
 特段の反応はなかったが、監視されているデザインでは無いことが分かったらしく強い拒否反応は感じなかった。こちらも未だ、公務(=請負業務)も存在する身の上なので常勤運転手には成れない。非常勤で親の代役ではあるが、要請があればこんなデザインを実践できるようにしたいと夢を描いてみた。

祖父ちゃんのこの生命力を描く老脳を、皆さんはどうお考えになりますかね!?
をしました!!




 


2013/12/14

「今年の漢字」が決定したようです!


 
 なるほど!!漢字一文字だから『輪』なんだろうなぁ~!?

 これより前に「今年の流行語?」なる言葉も発表されている。何と言っても、思わず背筋が伸びるような、そして胸が熱くなるような流行語もあったことが浮かんで来た。これも、「2020年繋がり」であろうと他人事のような着想をしている。日本人好みと言っちゃぁおしまいか!!(笑)

 かく言う小生も典型的な日本人であることを下記に証明いたしましょう。

 これは、当方34歳の時の「力み作」(笑)である事には間違いない。プロ野球最年長投手として来季も球団と契約が出来た山本昌広くん(=中日ドラゴンズ投手 48歳)が中学1年生として入学して来た時点で「野球部を指導する」理念として作成し配布したものである。つまり、当時の野球少年たちの心髄に沁み込ませるために創作したが、絵空事で終わった項目も無いわけでもない。

 当時の部員とは年に1回(正月4日)に開催されるOB会で再会している。プロ野球選手も中学校の1部員として(特段の用務が無い限り)名古屋から馳せ参じている。偶然ではあるが、『輪』という話題の文字が新聞の活字から目に飛び込んで来たので35年前の「力み」作品を思い出してパソコンから取り出してみた。今回は『輪』に注目していただきたい。当チームでは『和』としたが、『輪』の意味合いも十分に踏まえての創作だった。50歳になろうとする部員たちの「こころ」から引き出される「部訓三戒」が、野球というスポーツからは離れても生き続けていることを誇りに思っている。

 そんな回想録を紐解いてしまって恐縮至極に感じている師走の朝である。
 
 
 
 
 
 

2013/12/13

いや~、「哀し過ぎる」現状を告知された気分です。



 高齢者とは、65歳以上の年齢に属する人の総称だそうです。

 小生はとっくにその総称(=高齢者に属する)輩です。新聞記事を読んで全身から力が抜けるような気分になりました。「オトナの力」について昨日のブログで力説しました。ひょっとすると高齢者はもう、「オトナ」の域を超越した人種なのかも知れないと考え込んでしまいました。理由は簡単です。今の「オトナ」を育てた人種であるからでしょう。つまり、一世代先を歩いている群団なのです。

 どんな世相を生きて来たのでしょうか?

 小生は終戦(1945・昭和20年)直前に誕生していま。戦争の実体験はありません。高齢者群団の中心は戦後の荒れ野原を記憶している人たちでしょう。戦争孤児と言う名称と共に生き抜いてきた人たちでもあるのでしょうか。親の愛情も満足に享受できないままに「オトナ」になって、戦後の復興に全身全霊を尽くして「マイホーム」のために働き詰だった世代人とも言えるでしょう。

 平均寿命も大幅に伸びて高齢者数も過去最多であるとすれば、件数が過去最多となっても決して不思議なことではありません。見出しの表現が小生の心を哀しくさせるのです。

 戦場に赴いて生死の境を潜り抜けて生き抜かれた世代人の多くがこの世から遠ざかり始めてから数年は経っていると考えられます。戦争の悲惨さを知って育った世代の人たちも世の中の隅に追いやられる時代になっているのでしょうか。時代の流れですから否定するモノではありませんが、「孤立化」に原因があるという警察庁の声明には背筋が寒くなってしまいます。高齢者の息子・娘世代は40~50歳代の働き盛りの種族でしょうか?核家族化の時代に育った子ども達でしょう。

 地方の過疎化も気になります。東京に一極集中してしまう政策にも不満を感じます。成田国際空港建設に命を懸けて闘った世代人が、羽田空港から外国便が新・増発される状況を知ると、空しさで無念さが募って世の中から孤立している意識が増幅するでしょう。
愚痴とも聞こえる小生のぼやきも「高齢者の孤立化」に吸収されるのでしょうかね。高齢者の一人暮らしの数が多くなって社会現象化している世相を「国家的問題」として、そして「国家の存亡」にも繋がる問題として考えてみたいと思う朝です。




自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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