2013/06/30

「こんな本」を読んでいたら、高知『響の会』が起ちあがりました!





 会う人毎に「来年古希を迎えます」と言うのが癖になりました(笑)。

 それはこの本を一読してからのことです。退職する前は、「10年間ぐらいは形だけでも恩返しになるような仕事が出来れば・・」と考えていました。たまたま、退職直前に義父母(当時揃って88歳)の介護が必要となり1年早めての退職手続等でバタバタしたのでそんな「夢物語」もどこかに飛んで行ってしまいました。その両親も今年は七回忌を迎えるまでに歳月は流れました。

 退職して10年目を進行中です。

 「そろそろ」退く潮時と考えていました。浜松『響の会』がこの5月に13年間・31回継続開催したセミナーの最終回を宣言して戴いたのはグッドタイミングでした。幾つかの『響の会』開催地にも、徐々に時機到来を告げる予定にして心中では真剣に『引き際』の時期を考えていました。

 そこに、降って湧いたかのような前触れ(情報)が届いたのが3月でした。

 そして、6月25日。びっくりするような多くの参加者と役員をお引き受けいただいた現職の校長・教頭先生と一堂に会しました。事務局長の発声で≪高知・『響の会』≫が新規発足となりました。挨拶代わりに配布した資料を以下にご紹介します。

 「美学」など持ち合わせませんが、『引き際』の時機の到来は十分に意識はしています。しかし、高知の会場の盛り上がりに遭遇してみますと、暫くは言い出せそうにない状況下に追い込まれました。お役に立てる内は・・・、と再度の自らを鼓舞している平成25年上半期最終日(=6月30日)の朝です。午後日程の業務ですが、今日は横浜へ出講します。

 記念講演資料    

2013(平成25)年6月25日 18:30~19:30

高知市はりまや町1--1『葉山』

「泥を肥やしに咲く花」(松原紗蓮)

2010/3/28】 致知出版社編集部発行

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松原紗蓮(まつばら・しょうれん=浄名寺副住職) 月刊『致知』2009年3月号「致知随想」 肩書きは『致知』掲載当時のものです     http://www.chichi.co.jp/monthly/200903_index.html
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私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、2歳7か月の時です。
 幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、親代わりの庵主様や、世間様の 「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。同級生からはその逆に、お寺の子であることや、実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが 「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、 泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。
 張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。
 役所に、ある書類を提出する際、庵主様から「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。
 自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。一体何を信じて生きてきたのだろう?事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。
 そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、 あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。14歳で手を出した薬物はその後7年間、1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。
 心配をした庵主様は、私が20歳になった時に「最後の賭け」に出たといいます。私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。
 例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。私がグレていた7年間、普通の親であれば間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。 それは親心を越えた、仏様の心というものでした。
 また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」と言われました。人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、初めて自分にとっての大事なものが見え、本当の生き方ができるようになるのだというのです。
 私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。庵主様はお洒落もしなければ、食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、他の楽しみに時間を使うこともなかった。ではその分、一体何に時間を使っていたか。
 そう考えた時に、庵主様はすべての時間を「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。私の思いの至らなかった陰の部分では、どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、 世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。
 そして教科書を読み進めれば進めるほど、止めどもなく涙が溢れてきました。修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、庵主様は
 「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、かえって反発を生むだけだった。いまおまえが分かるということは、おまえに分かる時がきたということだ。仏道は待ちて熟さん」とお話しになりました。
 庵主様には1つの願心があり、私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙ってこの子を見守ろうと決めたのだといいます。そして自らには、何があっても「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた孫悟空のようなもので、自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、私はその大きな大きな慈悲の中に生かされていたのだと知ったのです。
 23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に「紗蓮」という法名をいただきました。後にある方から 「美しい蓮の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」と教わりました。
 振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの自立支援相談や講演活動を行ったりしています。
 非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。人一倍光るようになるよ、この子たちは――。私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。
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 あらゆるものに機縁がある。人と言葉と出合うのでしょうか。おそらく無数・無限の人と言葉を出合います。その中で、ある時、ストンと心に落ちる言葉がある。心の土壌と、言葉の種がうまく合致した時、その言葉はその人の心の中で大きく成長し、その人の運命を招来する力となる。そういう言葉をキャッチする心の力を養っていきたいものです。

(2009年3月1日配信 月刊誌「致知」メルマガより)

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2013/06/29

「学年教員集団」に『リベンジ授業』をすると挑発されました!②


8a + 35b + 0.3c + 30d = ?

 この数式の計算は、a,b,c,d に数値を入れないと算出できません。どのくらいの合計値になるかは 四つの未知数?が持っている「個別値」次第です。

 数学の苦手な小生がこんな放談・方程式を考えました。

考えた場所は地上何千メートルの上空でした。それは、「学年教員集団によるリベンジ授業」設定の意欲に触発されて帰る時間帯の「脳鍛錬」になりました。該当する集団にも理解しがたい数式でしょう(笑)。

集団の「意識改革・改善」はリーダーにとっては難題です。

しかし、どこかに見落としてはいけない「機縁」があります。それを掴み取る力がリーダーには要求されます。つまり、チャンスを逸すると集団力の高揚は保障できません。今回の小学校で「リベンジ授業」を設定したこと自体が機縁です。

数式の説明は(数学が苦手な故に)、小生ならでは放談・講釈になると思われます(笑)。要望があれば、全国のどこかでご説明をさせていただきましょうかね。定数項の数値は根拠が無いと意味が無いのですが、今回の提示は「想定した数値」です。リーダーは正確な数値を入れて計算ができるでしょう。未知数の4つは、その小集団に属する個が持っている様々なパワーを合算した数値になると考えています。

今回のリベンジ授業は、前日の(小集団に属する他の教員が挑んだ)提案授業を振り返りながら、小集団によるリフレクションに加えて自らの発想による授業だったようです。この数式で言えば、0.3しかない定数項の教員の授業者でした。

授業でつけられる様々な子どもたちの力。

それを評価するのが「教員の授業力」です。その授業力をアップできるのが小集団です。小学校では「学年軍団」であり、中学校や高校では「教科軍団」です。分かっていながら「授業力アップ」への有効活用が工夫されていません。

今回の訪問校での「リベンジ授業」が学年での、教科指導における「事前・事後」学習会の延長線上にある事を確認しました。0.3しかない係数の若い指導者を育てる最も有効な手立てです。授業を見詰める係数の高い(この数値は現実とはズレている)同僚の眼差しに感動しました。係数の低い指導者が、あっという間に立派な授業者になることは請け合いです。

帰路の航空便の時刻と睨めっこしながら、どうしてもこの機会を逸したくない思いに駆られたのが前日の「校長室に学年団で指導を受けに来てくれた」あの時間だったのです。学校長はじめ、研究主任とも学年主任とも相談をしないで、勝手に小生の思いを断行した我儘をお許しいただきたい。

予告も無く再訪し、教室に入り込んだので授業者もさぞかし驚いたでしょう。確かに前日の提案授業が、提案となって「リベンジ授業」を成功させていました。学年集団での煮詰めがなければ単独での授業公開でこのような授業を披露することは絶対にできません。集団力の威力に圧倒され、且つ感動に酔いながら空の便に揺られました。

事前に手を打たれたであろう学校長の指導力にも脱帽しました。

2013/06/28

「学年教員集団」に『リベンジ授業』をすると挑発されました !!


 あまり好きではありませんが、講師としてご紹介戴く時の表現に「現在は講演活動で、全国で活躍なさっています」のフレーズが使用されます。講演活動を以って活躍することとは?自問して聞いています。

 25日からの四国路は高知市での「講演活動」でした(?)。

 退職したばかりの頃でした。今でも尊敬して止まない河合隼雄氏の『ご講演』を拝聴した折に、懇親会の席上で感動した旨の言葉をお掛けしました。笑いながら「角田君、講演を聞いて立派になった人はいないよ」とお言葉を返されました。紹介者が「講演活動で全国行脚をしている」と小生のことを触れたらしく、「金言」を戴きました。

 今回もご多分に漏れず「講演紛い」の時間が4本も設定されていました。

 河合氏の「金言(=苦言・助言)」は、それ以来、老脳から消え去ることはありません。そもそも、小生ごとき者は「講演する」器でもないのです。学校から招請される趣旨は「初めに授業ありき」と理解していますが、依頼は「講演」です。

 自論の「講演」は、貧相な内容になってしまいますが、ホンモノ講演ではありません。提供してくれた教員の立場になって話します。「観察した授業」を話材にして、「授業をしてお返しする」のが先輩教員としての礼儀ではないかと肝に銘じて実践しています。授業を観察して共通の話材を「即興にして創る」ことの難しさに窮することが多くあります。正真正銘の疲労困憊です。とても疲れます(笑)。3日間で4本の『後輩諸兄に贈る授業』(=一般には「講演」)を踏破するのは体力と気力の勝負です。それでも、今回も踏破して帰宅できました。

 それは、授業を観察見させてくれた後輩教員の情熱が、老輩の胸を打ったからなのです。授業観察を終えて校長室に戻ります。どこから切り込んで「観察力」を披露して授業を組み立てるのかを考える時間です。訪問校独自の「授業後の研究会」が展開されます。老脳が描いている研究会とは異なる展開です。どこの学校に行っても同様です。当たり前です。小生の経営している学校ではないからです。この時間も時として、その後に設定されている「講演」の時間の『授業案』を考える時間と化します。

 放談だらけの(「後輩への授業」)時間を終えて疲労度は嵩みます。

 今回の小学校では、校長室に今日の授業提供者とその学年教員集団が入って来てくれました。とても嬉しいひと時です。終わった後は講師との時間は共有したくないでしょう、誰でも。ところが学年の教員集団で「指導を受けに」やって来てくれました。

 校長室での細かな指導助言を始めました。焦点ボケの指導助言もあり、ダッチロールしている間に、「明日のリベンジ授業で・・・」学年の一人が口を発しました。リベンジ授業??我が耳を疑って問い質すと、翌日の2時間目に、違う教員が同じ指導の流れで「本日の指導を受けて」授業を予定していることが判明しました。

 天井にも上る歓喜の血液が老体を駆け巡りました。

 翌日とは、小生は空路で帰る日です。「血に騒がれた老脳」は、そのリベンジ授業の時間を学年教員軍団と共有したくなってしまいました。(つづく) 

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 午後4時35分。無事に自宅に到着しました。高知市の関係者諸兄の「歓待」にうれしくなって頑張り過ぎた古希爺ちゃんには流石に疲労感が全身を襲っています。しかし、明日・明後日は横浜市への出講です。今夜はゆっくり寝ることにします。
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2013/06/25

「鳶が鷹を産む」って、表現を聞いたことがあります?




 そんなことがあるわけないでしょ!

 亡母は文字の読み書きが十分ではありませんでした。少年時代に、その母が「トンビがタカを産みました」と、周囲の人たちに向かっては、いつも笑いながら言っていました。意味がわからないままで成長していました。辞書で調べても載っていません。いつの間にか忘れていました。きっと故郷だけで使われていた一種の放言だったのでしょうか。亡母の言おうとしていた意味は理解していました。

 この選手のご両親がある時、小生と一緒に取材を受けているところで、同じような意味合いの応えをされました。忘れかけていた言葉を思い出しました。大活躍をし始めたばかりの頃のことでした。どんな世界でもサラブレッドという二世、三世が存在しますが彼は野球界とは全く無縁なご両親の次男坊です。彼は、中学生時代の3年間をどっぷりと小生の指導の下で過ごしました。他の二人の兄弟とも同じ中学校で指導をしました。特に弟は同じ野球部の部員としても関わりました。その関係からご一家との新密度も高いものがありました。先年、「期待をしておられたお父さん」が亡くなられました。本人が「父が会いたがっています」と遠征先から電話で知らせてくれました。病床で「先生、ありがとう」の連発でした。死期をご存知だったかのように「この子は先生と会っていなければ・・」とまで言いながら涙を流されました。それが最後の対面でした。

 鳶は鷹を産まないでしょうが、親から見ても「手の届かない世界で大活躍する」わが子をみると、そんな表現も口をついて出るのが嬉しい誤算の親心なんでしょうね。関わって卒業した生徒に関しても同様な感情に浸るのを「教師冥利」と言うものでしょう。

 スポーツ記者にはインタビューで必ず訊かれます。「ここまでの活躍が予測できましたか」と。小生にとっては「いいえ」としか答えられないのです。だから、日本プロ野球界での記録ホルダーとして成長し続ける卒業生が眩しく見えます。

 彼の新著「悪あがき」に小生のことを書いていました。読みながら「知らないはず」の事象も卒業生は知っているのか、と「知らぬは先生ばかりなり」の心境に落ちこんでしまいました(笑)。

 色々な分野で卒業生たちは頑張っています。彼らの頑張りは、当時の「せんせい」に大きな刺激を与えます。今日は身勝手な嬉しいお話のお裾分けになりました。

2013/06/24

「胸がジーンとする」お話のお裾分けをしましょう



 去る19日、茨城県県西生涯学習センターに出講しました。

 県内県西地区の小中学校の教員研修会・主催者からの要請に応えた機会でした。午後6時半から開会の『勤務時間外の研修会』でした。一日の勤務を終えて三々五々集結する光景を目の当たりにしました。当然ながら「自主参加」だそうです。

 9時前に全日程を終了したので、主催者に最寄りの駅まで送ってもらいました。参加者も一目散に帰って行ったことでしょう。お疲れのことだっただろうとわが身と照らして現職の教員稼業に思いを馳せました。電車の揺れにうとうとしながら小生も、午後10時半の帰宅となりました。

 官制研修には反対する!

 そんな豪語で肩肘を張って意気込んだ若かりし頃の自らに反省の鞭を打ちました。もう間に合いません(笑)。官制研修とは、勤務時間内に保障されたものです。勤務場所を離れて「研修する権利」が保障されます。それすら「反対」した小生は、「教員の風上にも置けません。猛省の心情で壇上から聴講者(同業者)に向かいました。

 昭和は遠くなりました。

教員研修の歴史も様変わりした昨今、厳しい学校教育環境の下で、このような自主研修が見直されて然るべし、と痛感した夜でした。 

 こんな資料も熱心に聴講する後輩教員に向かって朗読しました。どんなに時代が変わっても「謝恩」を放棄することは許されません。『師として』仰がれる『せんせい』になって欲しいとの思いも込めて紹介しました。ご一読ください。 

「映画を撮り終って、役者が皆さまの前に大きな面をさげて挨拶することは何とも耐えられぬことでございます。こんな日は皆さまのうしろの席で、そっとこの試写を見て、冷汗を流しておるのが、真の役者の姿と考えますが、実は、今日、この舞台に上ります決心をしましたのは、病弱の母が、初めて私の映画を見ると申しますので、二階の一隅に席を設け連れて参りました。

その母に、まったくこの映画の主人公のような、ジダ落な青春時代を経ました私が、皆さんの前で、謝りたいと思ったからでございます。

母さん、長い間御心配をかけました。ごめんなさい。でも久禰は今、この大勢のお客さんの前で、拍手で迎えられるようになったんです。喜んで下さい。母さん有難う」           森繁久佩著『森繁自伝』より

 

2013/06/23

「里帰り」のついでに国民健康保険証(略称)を使用しました!


 
 『国民健康保険被保険者証』を使用した証明書がこれです。

 このご利益に甘んじるのは1年に2回だけです。昨日は、今年の第1回目の使用日でした。JRの片道料金が2210円の距離にある歯科医院で使用します。次回は12月の予定ですが、まだ予約はしていません。

 半年に1回だけ歯科医の診察を受け、歯周のクリーニングをして貰うための通院です。転居する前までは徒歩3分の距離でしたが、今は2時間半を必要とします。医師の診断に因れば、「虫歯が1本も無いので、半年に1回通院して掃除をすれば大丈夫でしょう」とのことでした。転居地にも歯医者さんは沢山あるのですが、茅ヶ崎市での仕事が偶然にも6月と12月に定期的に入っていることを利して予約診察をしていただいているのです。

 転居して3年目になりますが、ずっとこの機会を活用してクリーニングをしてもらっています。今回も「虫歯の恐れも全くありません」、との診断でした。

 何の取り柄のない人間として生を受け、容貌も冴えないわが身には欲望は山ほどありました(笑)。もっと~だったら!?と若き日々の叶わない要望も今となると「健康でいる」わが身の有り難さに勝る要望は無い!と悟るようになってしまいました(笑)。何にも増して、「歯医者知らず」(=治療の痛さを知らない)わが身に産んでくれた親には感謝すべきだと考えるようにもなりました。

 会計を済ませて帰る患者の私に向かって、「今度は12月ですね」と笑顔の歯科医の言葉がありました。日頃の口内のケアをしっかりしようと心新たにして医院を出ました。鍼診療師と出会って以来、13年間に国民健康保険証(略称)を使用するのはこの歯科医だけの生活がまだ続いています。

2013/06/22

「内助の功」への感謝の言葉を述べるための里帰りです!


 平成3(1991)年に研究所長として出会う。

当方が47歳の若輩所長1年目に指導主事として市教委に採用されて来た。僅か1年間の所長生活で、直ぐに小生は現場に異動した。また1年間の中学校教頭生活から市教委に異動した。そして、今度は指導課長を拝命した。研究所の指導主事から指導課に異動させられて当方の下での業務に就いて以来、お互いの異動はあったが、平成13(2001)年4月1日に新設開校した小学校の校長と教頭で再会するという『運命の総仕上げ』の時間に強烈な協働力を発揮してもらった。

 その後、小生の退職の後を受けて二代目の校長職に就き未完成のままに退職した小生の学校運営を立派に形あるものにしてくれた。その功績には頭が下がる思いである。ずっと支援してくれる立場にいたので、いつまでも「若い」と思い込むのも仕方が無いが、既に還暦を迎え、この3月に現職から離れたのである。

 今日は、小生も「現職時代に里帰り」である。

 PTA主催の「校長先生・ご苦労様でした」会への案内が届いている。偏屈な頑固者(=「ひごもっこす」)は、こういう類の集いが嫌いなのである。しかし、この人物への「ご苦労様」は言わせて欲しいので勇んで(笑)出かけることにしている。

 小生が退職するまでの最後の3年間の「内助の功」を述べるには枚挙にいとまがない。学校経営に楽しさなど無い。毎日が真剣勝負だから浮いた喜びなど殆どない。ただ、学校経営の柱になるべく幾つかの企画実践に挑んだ無鉄砲な校長としては、走馬灯には幾つかのシーンが刻み込まれている。

 「校長塾・眞心舘」の新設は、スクール・イン・スクールの理念に基づいたものだった。「親も勉強しよう」のスローガンで起ち上げた。校長としての最後の勤務生活3年間で26回も実施できた。月例・土曜日に実施したが「無理を承知で」、信頼できる教頭に運営を任せた。勤務校以外からは市内は問わず県外からも大勢の聴講者が集ってもらった。取材も多く受けた。その雑務も教頭は受けてくれた。思い出の写真を2枚ほど紹介して当時の教頭に敬意を表したい。
  
 久しぶりの再会も楽しみだが、正面から「謝辞」を述べることに出席の意義がある。肝に銘じて里帰りに行って来ます!

 
【写真の説明』 (上)開設して1年が過ぎた頃、教頭も講師として専門領域での講釈をしてもらった。(下)この半年後には退職を決意している時期の現職校長としての講義風景です。

2013/06/21

全国(教育現場)での授業研究会も本格始動に入った!?


 来週に訪問予定の小学校の研究主任から、校内授業・事後協議会の情報をメールで知らせてくれました。

先日、本年度潮江小においでたばかりの先生の、国語の授業公開がありました。事後協議会で授業者が、「子どもの意見がうまくつながらなかった。どこで子どもたちに考えさせたらよかったんだろう?」と提案されました。
その際、今年度本校4年目となる先生が「自分だったらここの所で話し合いをさせると思う。この前に○○ちゃんが『○○○』と発言してるよね?『どこからそう思うの?もっと詳しくお話して』と聞くともっと広がると思うよ。」と嬉しそうにおっしゃいました。
 昨年まで『分からん!さっぱり分からない!』と言っていた方なのに。「いいぞ~!!」とうれしくなった出来事でした。 

幾つもの学校を飛び歩く立場ですから、「この学校は何年目?」と自問することが多くなりました。温度差は訪問年数や訪問回数で出来上がるモノではないようです。そこに集った教職員の雰囲気次第では、「まだ〇年目?」と嬉しい驚きの声を発することにもなります。

 学校長以下教職員の「オトナらしい」団結力が全ての様です。

 そして、「自分たちの総意で」の意識で創られるエネルギーが「学校を動かしていく」ように思えます。教職員の「個人研究課題に伴う実践記録集」(=写真)を隅から隅まで読みました。授業研究会で教職員との再会が楽しみな小学校です。
 

【臨時ニュース!】
先週訪問した中学校で保護者対象の講座が新設され、記念すべき第1回の講座を小生が担当しました。その様子がホームページに登載されています。覗いてみてください。当ブログ(6月15日)にも学校訪問に関して「気配りと心遣い・・・」として感想を登載した中学校です。次回の訪問もすでに決定しています。再訪が楽しみです。保護者パワーと学校運営の息が合ったら『怖いものなし』、を実証している中学校です。

【小牧中PTAの部屋】6/13 第1回小牧中特別講座で「大人の学び」(1


 

2013/06/20

ホンモノの『モンスター』との遭遇に腰を抜かしてしまう。




 苦情や不平を言いにやって来る保護者を(誰が名付けたのか)「モンスターペアレント」と称され馴染んでしまったのが悔しいではないか。モンスターとは、「怪物」「化物」と日本語訳されて、小生の常識では「到底太刀打ちできない存在感のある相手」となっている。時流に乗った苦情軍団の誕生で小生の敬愛すべき「モンスター」はすっかり消滅して、もう忘れかけていた。いや、もう(憧れる)「モンスター」とは会えることも無いと諦めていたのである。

 御年90歳。立ち振る舞いも頭髪も小生も太刀打ちできるものではない。終戦直後の教科書に墨塗りをさせた現職の教員だった、と話し始められた瞬間、70歳の小生は背筋も伸びてしまって聴き入ってしまった。豪語される内容も聴講する現職の現地の教員も視線が変わった。探し求めていた(教育関係の)「モンスター」に出会ってしまった。

恥ずかしながらこの歳になって初めて聴く「終戦直後の学校教育現場の実況中継」であった。「こうだったらしい」「こんな風だったんだって」と伝承は受けている。しかし、直に聴けたのは初めてだった。

 「生を観る」とは非礼な表現か?

 敢えてそう表現したくなる「モンスター」であった。その後に、今回の研修会に招請されている講師としての小生の出番であるのが何とも皮肉ではないかい??

 緊張感と言う上着は身に付けない性分の小生が、上着を脱いでも緊張感と言う汗が下着まで沁みて来てしまうほどの緊張感に襲われた。「モンスター」は聴講者席に戻られて、小生のチッポケな話題に鋭い眼光を光らせて鎮座されてしまったからである。途中でハンカチを出して額の汗を拭ったのも経験すらない。興奮の汗と背中を流れるような冷や汗で『講師』という任を(時間まで)懸命に務める始末であった。

 往路のJR水戸線の深緑が眼を癒してくれたが、帰路は午後9時を過ぎていたので疲れを癒してくれることもなかった。しかし、大きな衝撃と「モンスター」の実在を確認できた感激で興奮状態のままの帰宅となった。

 主催者に感謝しつつ、勤務後に会場に駆けつけてくれた当地区の現職の教員諸兄に敬意を表しておきたい。

2013/06/19

若き『我がいのちを断った』心情に、こんな対処で良いの?



 
 子ども社会に起こる諸問題は須らくオトナ社会の現状がそのまま映し出していることを、もっと真剣に考えねば苦悶に堪えられず自らで自らのいのちをこの社会から断ち切った心にお弔いも出来まい。

 新聞記事自体への反論ではない。

 「教委や学校に都合のいい結論を出すのでは・・」と遺族の不安を抱いたり、対応に不慣れな教委が混乱し対応が遅れたりすることを避けるために「ガイドライン」が国家問題として作成されるらしい。市教委や県教委が対応しやすく、且つ遺族の憤懣をも包み込めるように作成して全国に配布する。反対する気は全くない。

 文科省は、協力者会議がつくるガイドラインを全国に通知する。採否の最終判断は各自治体や教委に委ねられる。

 これって?

 ガイドラインを作るだけが国の仕事?作ったら配布して「採択は下部組織に丸投げ」という行(くだり)では、結局、何も変わらないのと同じではないか?当事者意識の低さに愕然とする。こんなに痛ましい事件が立て続けに起きて、その都度報道も大規模化していく時代の流れに「国家的問題」として取り上げることができない所にこそ、遺族の不満はくすぶり続けているのではないだろうか。

 事件や事故の犠牲を被った「国民への思い」こそ、その采配を振るう立場のポストにいる関係者の当事者意識への期待である。その期待に反して「何事にも他人事の意識」は膨らむばかりである。子どもたちが集う『学校』という子ども社会にわが身を置くオトナ(=教員)に、「何事にも他人事の意識」ではないだろうなぁ~。

 大事件や大事故と遭遇して混乱したり、対応が遅れることぐらいは常識だ。しかし、隠蔽したり先送したりする「何事にも他人事の意識」こそが問題なのである。当事者意識の共有に、もっともっと積極的に取り組んで欲しいと願うばかりである。

2013/06/18

「手当て」から「手解き」、そして「手直し」は指導法の原点!?


 昨夕のこと。
 
 19:17 受信の携帯メールに老妻が気付く。小生のパソコンを開けるように要請。開いたら孫娘が書いたらしい「習字」の作品の画像を母親(長女)が送信したようだ。画面を見詰めながら祖母(妻)と孫娘の交信が始まった。どうやら「明日までに提出する宿題」らしい。ソファに腰かけて新聞を読みながら聞くとは無しに孫に向かって作品の手当てを始めたようだった。5分もしない内に第一回目の電話交信はおわった。送られた画像の診断(=「手当て」)だったのだろう。

 19:36 二度目の携帯電話のベルが鳴った。小生の役目はパソコンに受信している画像の呼び出しである。画面いっぱいに、2枚目の作品を映せば役目は終わる。近所の農家の方が玄関先に筍を持って立たれたので、接客対応は小生である。「手直し」の過程は全く耳にすることはないままに戴いた筍を台所に置いて書斎に戻る。老妻と小生の会話は無い。老妻は「手解き」を終えて、直ぐに台所に立って筍の処理に入った。 

 19:57 老妻に通告されていたのでパソコンを開いて待った。三度目の携帯電話のベルが鳴った。最終段階の「手直し」の指導が終了するまではホンの2~3分だった。出来上がった作品を画面で視ながら「名前を書いておいても良いんじゃない?」「もう一枚書いたら終わりにしなさい」と、老妻の声を最後にレッスンは終わったようだった。

 その後の送信も交信もなく添削指導の一部始終はこの程度のモノ。宿題として学校に持ち込む作品は見ることも無い。

小生のここ数日は「教員採用試験受験者」から送られてくる【小論文】作品の添削に明け暮れている。一人の添削回数は7回までとの契約に沿って請け負っている。こちらは電話での交信指導はないが、微に入り細に入り、ボールペン1本を使い切る程に書き込んでは送っている。

 届く次の作品に全くの進歩がみられないと流石にガックリする。祖母と孫娘のパソコン画面を介して「習字一枚」の作品作りの風景に接した小生の老脳には、ピピピーと閃光が走った。添削スキルのローレベルを気付かされたのである。小論文の添削指導を受けている受講生諸君には、指導手法の原点(=「手当て~手解き~手直し」)を飛び越えて、「合格するための」早道だけを解いていた自らに気付いたのである。

 指導者の力量不足は致命傷だ。

1時間も掛からない内にこんなに違いがある事を見せつけられれば衝撃も大きいモンですよ!(笑)

2013/06/17

わが家の『猫の額』が教える、「見える成長」と「見えない成長」




 この写真は『猫の額(=我が家のちっちゃな菜園の通称)』の成長株です。

3日間も県外の霧中で過ごして、「疲労」を手土産に帰宅し、雑務に追われて週末を過ごしていました。雨が上がった猫の額に降りてみました。ご覧ください。今年は、去年より2週間以上遅く(霜害)キュウリの苗が届きました。素人の老夫婦は昨年の驚くような豊作で喜ばせてくれたキュウリに安易な期待を込めて苗の到着を待っていました。この3日間で「目に見える」成長が心を躍らせてくれます。

梅雨時期の降雨が、農業に与える効果がこんなに大きいとは農家の三男坊に生まれた小生には、真剣に考えたことがなかったのです。やっぱり母親が三男坊に向かって罵った通りの正真正銘の「親不孝モン」です(笑)。

素人の証明は、「見えない成長」が理解できないことでしょうか。

ミニトマトを植え付けてホッとしていた我々夫婦に向かって近所の玄人に「苗と苗の間隔が狭すぎる」とアドバイスを貰いました。1か月もしない内に、陽射しが通らない程に葉が茂るんだよ、と解説もありました。素人には繁ったトマトの姿は想定できません。植え付けた場所は『猫の額』です。そんな間隔を置いたら花が植えられない、と老夫婦は目を見合わせながらも、トマトの大好きな孫の顔がちらつきました。

気持ちだけの妥協と指導に従うべく間隔を開けて植え直しました(笑)。

今朝の猫の額には繁った葉が隣の葉っぱと喧嘩状態でした。「う~ん」と唸るばかりでした。目に見える成長ぶりを認めながら、そこには「見えていない成長」を計算に入れられない貧相な経験値を思い知りました。どこまで伸びるの?と驚くほど空に向かって伸びるインゲンの成長ぶりも、溢れる程に芽を出した朝顔の苗の群生に「見えていない成長」への学びの浅さを痛感しています。

「見えない成長」を読み取れる能力こそ玄人の玄人たる所以でしょう。

なかなか将来の成長を想定できない教育者は、「今でしょ!」とばかりに目の前の頑張りだけで迫ってしまいそうです。人生80年の時代に「遠き地点での成長を」期待する教育手法の追究は決して軽視できません。

猫の額に佇みながら回顧しつつ、「見えない成長」を考えた朝です。

2013/06/16

『無精モン』の無精モンたる証は「他力に便乗」する事なり(許されたし)

 

 以下に示す「校長の仕事日記」を、当ブログにアップすることの事後承諾すら得ようとしないこの無精ぶり。「70歳を前にしても変わらじ」、と笑って誤魔化すあたりも正真正銘の無精モンですなぁ~。

 こんな過酷な(笑)スケジュールを笑顔で消化するこの無精モンは何者?!

 敬愛する鍼診療師の口癖が脳裏を駆け巡る「無理はしてみなければ無理かどうかわかりません」「本当に無理なら出来ないでしょう」「出来ないことが無理であることを証明しています」「出来たということはもっと無理が出来ると言う嬉しいご褒美です」

 去る12~14日の今回の学校訪問で、鍼診療師が保証する「感無量のご褒美(=認定証)」を受け取ったことになりました。訪問計画を企画していただいた訪問校関係者に敬意を表します。北関東の遠隔地まで戻っても至って元気な老体です。気遣いのご心配は無用です。また、訪問します!!その節はよろしくお願いします。
 

 訪問した中学校の「校長の仕事日記」を添付します。(若干の加除修正有り) 


20130612()
  車の中で角田先生講演会

 校門で挨拶。打合せでは角田先生の来校、授業研究の時間設定、コラム「お母さんは学校の応援団長」のことを話す。すべてに校長の思いを入れて短時間だが熱く語ったつもり。 ・・・・・≪略≫・・・・・ 3時間目は初任者を集めての授業公開。2年目の教師が授業者。この日まで献身的にサポートしてきた職員の動きが嬉しい。時間的なこと、物理的なことをも度外視しての支援に頭が下がるばかり。こうした学校の雰囲気は大切にしていきたい。   ・・・・・≪略≫・・・・・
 駅頭で角田明先生をお迎え。主幹の車で宿泊予定のホテルへ。その間、管理職の在り方、学校経営、各地で開催されている『響の会』などのお話を伺う。いつものように温かみがある言葉が続く。ファイトがわく話も。そして凛としなければと思う話も。まさに車の中で聴く角田明講演会。
 学校へ戻り、校長室で執務。決意した校長塾(授業技術)開催の日程や受講者などを主幹と相談。学校アンケート実施の発信とその設定を依頼。今日も濃厚な1日。20時過ぎ退校。


20130613()

角田明先生の凄さ

 ・・・・・≪略≫・・・・・  9時過ぎに角田先生来校。PTA主催の懇親会時まで、角田先生の傍にいさせていただいた時間は12時間。改めて角田先生の偉大さに感じ入った1日。
 2時間目は3年生から授業参観。3時間目はお願いをした2人の授業観察。4時間目は学校全体で進めている3つの授業観察。給食時には3人への授業診断。
 午後は研究協議会を参観していただき、教員向けへ1時間の講演。1時間休憩後、保護者対象の親塾(講演会)を1時間。1時間後にはPTA主催の懇親会で2時間。
 僕がお願いした今回のスケジュールに対して、角田先生は「人権問題だと言ってもいい」と称された。確かにその通り。「校長さんの依頼は断れない」といってくださる言葉に甘えて過酷な1日を組んでしまったことを深く反省。とはいえ、明日も午前中はびっしりのスケジュール。「申し訳ありません」しか言えないが、角田先生のご厚意に応えるには、いただいた大きな重い宿題をやり遂げるしかない。
 ★ ある教師へ笑顔で言われた実に厳しい授業診断言。
 ★ 歯切れのよい講演。明確な今後の指針。
 ★ 保証→保障をキーワードに提示された親としての在り方。
 ★ 我が校が「命のプロジェクト」を意識されて持参された写真絵本4巻。
 ★ 親塾での参加者の涙。
 ★ 「お父さんのお母さんの料理は世界一」の作文。
 など、記録しておきたいことは膨大。しかし今は時間がない。1日でノート1冊ほどになってしまった角田語録。じっくり整理したい。今日はここまで。


20130614()

角田先生指導三日目

 角田先生、来校三日目。今日も4つの授業を見ていただき診断と指導。文書処理や問い合わせに応えながら、出来る限り、角田先生の傍らに。
 提示されたピカピカ(小学校低学年)、ノリノリ(小学校中学年)、キラキラ(小学校高学年)、ギラギラ(中学校)の子どもの姿を実現させるための授業像は、自分なりに固まった。これから角田先生の次回来校時まで、ギラギラ授業を視野に入れて何度も職員と話し合いを重ねたい。決意を新たにした三日間。 ・・・・・≪略≫・・・・・
  この三日間でいただいた課題は多数。どこから動き始めるか。「やれること、やらなければならないこと」(角田指導言)を考えて行動開始。

2013/06/15

『気配りと心遣い』がなければ活きた「組織」は編めません!


 
 

 この写真は今回の訪問中学校の正面玄関です。

 これは小生の靴です。
 これを履いて外に出ました。体育の授業を観察するためでした。この時間帯も前半に1つの授業を観察して、移動をしてグランドでの授業を観るためにこの「現場に遭遇」しました。小生は、確かに下駄箱に靴を入れてから応接室に入ったのです。

 授業から授業へ移動するために時間との勝負です。教室から小走りで玄関に回って運動場に移動する老輩をご想像ください。

 授業をする教員も人間であれば、受講する生徒たちも人間です。人間と人間の「関係づくり」に、お互いの『気配りと心遣い』は欠かせません。双方に要求される行為です。片方だけでは「関係づくり」は失敗します。授業の成立条件の一つでもあります。

 学校経営に神経を遣っていた日々に、非常識な教員の言動を窘めました。廊下ですれ違う外部の人に会釈もできない現状を見て愕然としたからです。日本にしかない独特な礼儀作法も『気配りと心遣い』の象徴です。教員たる稼業を生業とする集団に欠けていることを許せなかったのです。イヤな校長としてのイメージは自らが最も深く理解しておりました(笑)。

 急ぎ足の小生には、玄関先に揃えて置いてある自分の靴が他人のモノかと一瞬の疑いの眼が踊りました。足を入れて運動場の「体育の授業」観察に移動しながら訪問校の教職員の「どなたか」の配意を感じました。老輩の足取りも軽くなりました。溌剌とした中学生の大きな声の挨拶を受けました。この中学校の「将来への期待」が胸一杯に膨らんだ瞬間でした。

 感情で生きる(?)教員集団です。いがみ合っていては教育など出来る訳がありません。「勉強する(=学び合い)」スキルは独りで習得できる代物ではありません。子ども同士の学び合いと表現すれば「カッコいい」ものには見えますが、中身は「教育に情熱を掛ける」教職員集団に、子どもたちへの深い愛情に包まれた『気配りと心遣い』の裏地がないと成就する出来るモノではないのです。子育ては大人(教員や親)の愛情があれば大丈夫なのです。

 こんな『気配りと心遣い』のできる教職員が育っている学校経営に頭が下がるお思いで、小牧山に聳える素敵な小牧城に見送られて帰路に着きました。
新幹線の中でも「犯人捜し」(笑)をしてしまいました。
          この『気配りと心遣い』の犯人は誰なんだろう?、と。

2013/06/12

毎日が「休業日・人」は気楽に外出ができるのが特長です。


 
 当地に転居して3年目に入って2か月が進行中です。東日本大震災の直後(1か月後)だったので記憶が薄らいでも、節目がやって来るとマスコミが取り上げてくれるので老脳も記憶を蘇らせてくれるのです。

 昨日(6月11日)は、「震災から2年3か月」の記念日だったという訳です。

 前日に、夕刻の帰宅時間に6年生の孫が翌日の予定を口にしました。市内の「子ども・交通安全指導教室」に出場しなければならなくて練習してから下校したとの話題だった。

 会場を知って、「一度は行ってみたい」所だったので老妻を誘った。
 孫には伝えていない。許可を得ると拒否される恐れを感じたからです(笑)。霞ヶ浦の畔の広大な総合運動公園の中にある体育館は直ぐに分かった。車で30分もかからなかった。地方の施設らしく利用者の気配が広大な環境に呑みこまれてしまうのか、散歩人らしい群れとも殆どすれ違えない。

 孫の出場を好機にして霞ヶ浦総合運動公園を訪れることができました。

 帰宅した孫は祖父母の会場入りには全く気付いていないらしく唖然としていたのが可笑しかった。嫁も「行ったんですか?」と驚いていましたが、老妻の答えが面白かった。「毎日が日曜日ですから、思い立ったら行けるのよ」と。

 広大な面積を誇る当県に引っ越して来たのですから、チャンスがあれば訪れてみたい場所は山ほどあります。また、このブログででも訪問先をご紹介することをお約束しておきましょう。

2013/06/11

『時』の移り変わりは、『時刻』の表現法が証言する?

 

 昨日(=6月10日/時の記念日)の夕暮れの話である。

 老夫婦の夕食は年間を通じて午後6時である。夏場の6時は周囲から子どもたちの遊びに興じる歓声に似た声が聞こえる程明るいが「定刻主義」は一貫している。変えることはない。他人は首を傾げる。故郷の熊本ではこんな風変わりな性格を「もっこす」(=変人・頑固者)と冷めた表現をする。良く言われた!(笑)

 余談はさておいて、『時』の話題である。

 ラジオを聴いている小生の耳に飛び込んだアナウンサーの声。

 今、午後5時55分です。全国のリスナー中には6時前5分(6時5分前)と言う表現に馴染んでおられる方もいらっしゃるでしょう。ラジオの前のあなたはいかがでしょうか。

ふと部屋を見回した。老夫婦が家を建てて長男宅の「離れ」に住み始めて2年が過ぎている。部屋には掛け時計がある。長針と短針が稼働する時計である。長い針が12、短い針が6であれば「6時」となる。現代ではこの種の表示方式はアナログと言われる。 05:55 と数字が並んでいる時計では5時55分となるのが自然であり、デジタルと言うようだ。

 アナログとデジタル。

 アナログが旧式でデジタルが現代式であるらしい。電波塔も東京タワーから東京スカイツリーに、つい先日、替わったばかりである。憧れの電波塔も『時の流れ』には勝てない。東京タワーはアナログで、東京スカイツリーはデジタルである。生活様式が時計の表示にも顕著になっていることを感じた瞬間であった。

 英語の表現でも、6時前5分と5時55分の二通りを学んだ世代がまだ生存する。今の英語学習表現では「前5分」という行は殆ど闇に葬られている状況下にある。デジタル時代に生きる世代人には面倒な表現は厄介の様だ。

 時代が変わることに反論などできない。

 言葉の表現も変化することに異論もない。ただ、何となく時が流れて人情まで流されていってしまうことが寂しいだけである。当ブログの愛読者の皆さんは、時計の読み方はどちら派なんでしょうか?

2013/06/10

「三日坊主」×2  空白を感じた早朝歩禅から帰りました。

 

 早朝歩禅の収穫は撫子と矢車草と他の花の苗です。

 名前もわからないままに引き抜いて、戴いて帰って来ました。先客があったので訊いてみました。「誰でも抜いて良いことはないですよね」と。先客は、この秋から本格的な道路拡張工事が始まるので花の咲き終わる頃には抜いても大丈夫です。来年はこの花の群生地はなくなりますよ。農家の方々が雑草だけの荒れ地にしておきたくなかったので各種の花の種を蒔かれたそうだ。説明に納得しました。

 昔のお話。

 祖母が近所の垣根に咲いていた花を折って持ち帰りました。嫁である小生の母が咎めました。そして返しに行くと言って嫁姑の口論になりました(笑)。祖母のセリフが蘇りました。「きれいだね」と褒めてあげているんだから「泥棒」とは違う。花泥棒はこの世に居ない、と。そんな冗談を言いながら躊躇する老妻に勇気づけをして(笑)6~7本の苗を持ち帰りました。

 直ぐに植え付けて、その後朝食を済ませました。

 来年は我が家の『猫の額』に撫子や矢車草の花が咲いてくれますよう!!仏壇の花としても供えてあげたいと強欲が頭を持ち上げている朝です。

約1週間ぶりの早朝歩禅は気持ちが良い。サボってはいけませんなぁ~!!

2013/06/09

サボリ始めるとサボることも気にならないのは人情ですかね?

 

 4日から早朝歩禅を休んでいます。

 とうとう6日間、ほぼ1週間のサボタージュです。理由はあるにしても「怠惰な心」がチョッピリ潜在していることは否めません。四国・高知市に出講した3日間は無理だとしても、帰宅後は、早朝は避けても「歩禅」への意欲は復元できた筈です。

 ところが、老体が動こうとしないのです(笑)。

 拍車を掛けるのは老妻です。「疲れているんだから無理はしない方が・・」の優しい(笑)言葉に絆されて、「そうだね、また直ぐ、県外に出講するんだし・・」と自らが正当化して語りかけてしまいました。

 今日は、横浜市に出講します。片道2時間半の電車移動も軽視できない年齢になりました。疲れの蓄積は確かに感じるようになったことに衝撃を受け始めているのも事実です。高齢化すると「無理をしないで」の言葉が自らの怠惰心を煽動します。

 尊敬する鍼診療師は、「無理をしてみないと現実の体力が分からないでしょう」と言われます。当方の県外への出講予定も師は、「やってみなさい」の一言で、いつも片づけられてしまいます。「頑張れた!」と自らが認めることが老化を遅らせるんだよ、と指導を受けているのです。

 今頃、いつもは早朝の空気を吸いながら元気に歩を進めている時間です。

 横浜までの往復5時間の電車移動への負担を老体が感じ始めたのでしょうか?ちょっとだけ避けたようです。意欲と気力、そして体力がある限りは、『求められている幸せ』を自ら棄てることは師の教えに背くことになります。

 決して思い込んでいる訳ではありません。

沸々として意欲が復元されつつある朝であることも事実です。歩禅の歩数分は横浜往復で十分に足ります。今日も「待っていてくれる」状態に飛び込むのですから、頑張らねばなりません。まだ、苦痛の世界には入り込んでいません(笑)。

2013/06/08

高知で拾った「ニュース」でも、所詮は全国版コラムなり



  ホテルの部屋に配達されるのが日本経済新聞だった。

選択はできないようなので2日間の滞在中の部屋のお伴は日経新聞になった。こんな機会でないと日経をじっくり読むことも無い。じっくり読んでみると一般新聞とは構成が違うことに気付いた。思考回路の整備点検にもなった。

 全国を歩き回ると「所変われば品変わる」風の空気に触れることがありほのぼのとした気分に浸ることができる。これこそ講演行脚の醍醐味なのである。そんな心情になるのは多くは『その土地の言葉』(=方言)絡みである。

 高知では、「そうなんだ」と相槌を打つ表現が「そうなが~・そうながや」とわかった。高知市では英語の示範授業を請け負うが、そんな授業中に子どもがぽつりと「そうなが~」と呟いた。独特な高知弁も多く、意味不明なものも多いがどこの方言も耳触りが良く心までホッとする。子どもの発語の環境条件からしても、「知り得た情報を自分のモノにするため」の脳に訴える深い意味の呟きであるをわかって嬉しくなった。懇親会で再現して発声してもらってイントネーションまで理解できた。

 日経新聞のコラムの内容は目に着いた、

当然ながら全国でも同様なのである。他の地方を訪問しても、若手の育成に閉塞感すら抱いている方が多いことがわかる。育った時代の「日本の社会環境」の影響である事は事実である。一般社会と教育界の相違は、40歳代の教員の育成法に少々行き詰まり感があるところだろうか。仕方が無い!その年代の教員は「採用が少ない」時代的背景があったからだ。

いずれにしても、「後輩がなかなか育たたない」現実は、笑っては過ごせない。何故ならば、教育界で働く人種は更に次世代の人材を育成する大きな責任を負っているからである。自らの成長が保障されない人材に他者の育成を委託することは不安なのである。

今、こんな世相の中で「日本丸」は進んでいる。行く先はわかっているのだろうか。少々心もとない気分になるのは、小生も「高齢者症候群」に確かに在るようだ。

2013/06/07

いつでも、どこにでも、「起きて不思議ではない」現象


 久しぶり(昨年度は訪問していない)に訪れた小学校の子どもたちの動きが違和感を与えてくれた。7年前から継続訪問している小学校なので、その間に学級の治安を壊すような数名の子どもたちが存在したことも記憶している。

 しかし、今回は以前との差異が明確だった。

 つまり、この学校だけでなく「どこでも・いつからでも」気が付いた時には火の手が上がって消火が後手に回ると言う教育現象が起きているようだった。全国各地でこんな現象への対応策等の指導助言を要請される。しかし、小生にはそんな処方箋は持ち合わせていないのでお応えが十分に出来ない。力量不足は否めない。

 生徒指導を特枠として設営して管理するのではなく教科等の日常の授業で積極的に取り上げられれば「荒廃・崩壊」などの現象は起きないだろう。これが小生の「授業こそが積極的な生徒指導」という持論なのである。

 教育(指導)手法には「特効薬」は似合わない。

薬や注射のような即効性を期待するような手立ては、その場しのぎであって永続的な効果には決してならない。授業こそが積極的な生徒指導と力説する小生は、だからこそ「授業研究」に教師はエネルギーを費やすべきだと考えるのである。

 数日前から咽喉の痛みもあり、咳き込んでしまう状況下にあった老体ではあったが、懐かしい顔ぶれの教員集団の前に立った小生は、力んだにも関わらず咳が出て中断することも無く近くまで歩み寄りながら力んでエールを送ることができた。

 示範授業(=小学校英語)も公開したが、体調不良も「きらきら輝く」6年生の子どもたちの視線は感知した。負けまいと(笑)、G先生(=じいちゃんせんせいの英語版?)は奮闘してしまった。参観者の中から一人の固有名詞を出して「あの子があんなに集中して授業を受けたのが信じられない」との意見を述べた。これは、G先生への最高のほめ言葉などではない。そっくり教員集団にお返しする言葉になった。こんなにも輝く(きらきら)視線を持っている子どもたちは、授業への期待があるのだと言う証ではないか。「教員が頑張らずに表面上の打開策だけに依存してはいけませんぞ!」と。

 学級崩壊と言う珍現象(時・所構わずに発生するから)に振り回されずに授業づくりの研究には精力を傾けて欲しいのである。なぜならば、数名の珍現象発起人のために、「授業への関心」すら放棄してしまった児童がその学級には多く居るからである。

 9月に再訪することになった。学校を上げての意識の高揚を期待しながら快適な空路で帰ってきた。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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