2012/05/31

栗畑の「下草刈り」

~「手入れ」の重要性~
 齢何歳になられているのだろうか?
 隣接する栗畑の持ち主であるご高齢の主と立ち話をする機会があった。小生が苗を購入してミニ畑に植えていた時が最初だった。ピーマンと茄子、キュウリと立札(笑)付きのミニ畑を垣根越しに覗きながら、遠い昔の日々の話から始まった。
 それから数回とご講義を聴講している。毎度のことながら若かりし日々の「お百姓さん」の働きぶりの話は、何度聞いても爽やかである。
 今回は、両手に笹竹(長いのは2メートル弱)を抱いてのご登場だった。素人の畑作りを横目に見ながら栗畑の草刈りでもされたのだろう。キュウリの支柱として使うようにご持参いただいのである。恐縮至極。
 便利に見えそうな市販の支柱(緑色の)への批判と、ご持参の笹竹との価値観の相違を講釈された。聴き入っていた妻が、「昔の人の知恵」はやっぱり素晴らしいわね、と呟いた。全くの同感!
 下草刈りの重要性の講義は第二部だったが、これも神妙に受講した。
 秋は実った栗がボトンと音を立てて自宅の窓辺に落ちる。連続して耳に入る音に初めは『何の音?』だったが、直ぐに『実った秋の音』とわかった。そんな日を迎えるための下草刈りが、いかに重要であるかを老師は説かれたのである。手入れの工程を抜くと「期待した実り」に到達しないのだ、との言葉が妙に肝に響いた。
 今日から、暫くこのブログも休刊。
 広島市から~横浜市への4日間の移動である。「下草刈りの手抜き」にならないように訪問先でも力説してまいりましょうかね(笑)。行ってまいります!!

2012/05/29

朝刊の記事に涙

~「避難先」 戻りたくない~
 昨日の前首相の議会(国会事故調査委員会)対応を垣間見た。
 腰を据えて見るほどの期待は無かったが、表情を見詰めると腹が立った。途中で画面から離れても腹の虫は治まらなかった。『責任とお詫び』の言葉が軽過ぎた。あれから、もう1年以上が経っている。実直な国民性をそのままに被災地地元民の皆さんは望郷の念で懸命である。ドキュメンタリーも目をそらしながら見ている自分が情けなくなるほどである。無力な自分が嘆かわしい。
 そんな思いで朝刊に目を通して唖然とした。
 27日に一時帰宅された男性が行方不明とのニュースに不吉な予感があった。それが的中していたからである。こんな哀しい人生の選択も、あの事故がなければ!との縁者の心痛を察すると、昨日のTV画面がまた浮かんできた。鬱憤が晴れない。新聞の記事は「自殺か」と言及している。地元の町長さんのコメントが、また哀しい。「生活再建に向けたビジョンを国や東電が示さなければ、新たな犠牲者が出てしまう」と語っているではないか。
 責任の所在。
 気が付けば、「誰かの所為」にする風潮と、生活保護も「貰えるモノは貰っておけ」という自己責任の逸脱ぶりが横行してしまった。戦後60年以上、我が国の歩んできた動きの検証を「国の責任」で急いで行うべきだ。
 ゴネ得・逃げ得という小さく見える事件が、実は大きな国家現象として自国を滅亡に追い込む事にもなり兼ねない。ともあれ、被災者救済の国家体制は、何よりも最優先事項であることを新聞記事で感じた。ご冥福を祈る事しかできない心痛はまだまだ当分の間続く予感がして堪らない。
 ここ北関東にはまた、竜巻注意報が発令されている。
落雷の怖さを知っている小生には被害が無いことを祈るだけである。地上の人間界もおかしいが、自然現象も同様に想像を絶する無軌道な荒れ方ではないか。

2012/05/28

日本気象協会よ、胸を張れ!


 ~予報は外れても・・~
 午後2時半ごろから空模様が急変して来た。
 西の空に真っ黒な雲が目に入り始めると強いにわか雨が降ってきた。孫たちの下校時刻とかち合ってしまった。老妻は心配そうに窓の外に注目していた。雨が強くならない前の孫たちの帰宅を祈る思いだったらしい。結果は滑り込みセーフ!!
 殆ど濡れることも無く帰宅した二人の孫息子たちは、真っ黒な空が怖かったと口々に訴える。雨戸も閉められた室内は異様である。おやつを頬張りながら、祖母ちゃんの子ども時代に経験した落雷の話に聞き入っていた。「雷で人が死ぬ」という事実と遭遇していない彼らには本当の怖さは分からないだろうが、老人の「昔話」も実話なので聞く方も真剣だった。雨戸のむこうで「防災無線」のスピーカーが『竜巻注意報』を訴えていた。
 ところで、皆さん。
 「天気予報」そのものへの価値観が変わっていませんかね。天気予報は外れて当然!時代の我々にとっては異常であるとしか言いようが無い。神経質なまでに気象情報を適格に伝えようと涙ぐましい努力を払う気象予報官の業務態度に思わず、「過剰な心配は要らないよ」と叫んでしまう。それはNHKの気象予報官が高校の後輩であるからでもある(笑)。
 注意報を発しても自然の驚異に無防備なまでに勝手な行動をしている輩には自己責任を充当するしか処理はないはずである。天気予報は有難い。50年も前とは比較にならないほどに進歩しているのは気象衛星の恩恵である。天空に打ち上げられた気象衛星を含め、宇宙界には想像を絶する「宇宙ゴミ」も発生しているらしい。地球上とは別世界でもゴミ問題として浮上しているようだ。宇宙にまでゴミを打ち上げていれば自然界の変容も防ぐことが出来ないのかな??
 より細かな情報を得るために開発される科学技術である。恩恵には頭が下がる思いでいるが、受け取るサイドの問題点は一向に開発進展されない。それどころか、反対に、天気予報のはずれに責任を転嫁してしまうという現状を知るにつけ「人間」という高尚な動物も絶滅を予感させる状況下に陥ったと思うしかない。
 夕方になって晴れ間が出てきた。今度は「静岡県下に竜巻注意報が発令された」とラジオが伝えている。こんなに親切に予報を発する国は他にあるのだろうか。痒いところに手が届くような対応が本当に親切なことなのか、と訝しく思う夕暮れである。

2012/05/27

緑のカーテン

 ~今夏も暑くなる?~
 私用で午前中を留守にした昨日の事。
 帰宅すると、窓の下にあるちっちゃな敷地面積に妻の願望である緑のカーテンができる下工事が出来ているではないか。休日の午前中を利用して長男がホームセンターから材料を購入して作ってくれたらしい。彼は勤務先が「障碍者施設」なので、野菜の苗も大量に栽培している。ゴーヤもキュウリも、そして向日葵も彼が母親にその苗を渡したのがきっかけである。
 茅ヶ崎の自宅にはそんな場所(余地)も無かったが、ここはどうにでもなる。
 妻の夢が小さく開花しそうである。苗を買って来た妻は庭先に植えている。その苗からきれいな花が咲き始めている。妻の夢??は自分で育てた花を切り取って仏壇の花として供えたいのだそうだ。
 金魚草も赤・黄・ピンクと多彩な色で咲いている。嫁も(名も知らぬ)可愛い花を沢山咲かせているので、仏壇の花は彼女らの真心で枯れることも無い。さぞかし天国の両親も喜んでいることだろう。小生はカサブランカの栽培に命を懸けている(笑)。丈が1メートル以上まで伸びて花芽がはっきりと見えてきた。この花は亡くなった義母のお気に入りの一つである。咲いたら仏壇に供えるぞ!(咲けば、のお話)
 昨日、今日と陽射しが強い。
 今日はこれから横浜に向かう。教員採用試験受験者に向けての講座を担当するからである。担当領域は「採用試験・小論文」の指導である。語りかけながら考えることが多い。それは日常的な「情報収集」の習慣が欠乏していることである。通り一遍の論述では玄人の審査員の心を掴むこと等難しい。
 「~らしい」という噂話程度のレベルでは論究できない。ましてや、将来は教員として活躍してもらわなければならない受講者たちである。やさしく厳しさを語ることに神経が磨り減る(笑)。何せ、単刀直入型の人生を生きて来てしまったからである。

 窓の下に目を出したゴーヤや朝顔が、長男がつくってくれたカーテン(網)で素敵な緑のカーテンを創り上げてくれることを願いつつ、横浜行きの準備に取り掛かる事にしょう。

2012/05/25

歩禅記(60)

 ~早朝の田園風景はサイコー~
 1年ぶりの『早朝の歩禅』はやっぱり最高の気分です。
 暫く伴なわなかった妻が数日前から「朝の涼しい時間だったら」の意向を伝えていたので今朝は誘ってみた。そして、いつもの「田園地帯」へ出向いた。高い空から、沢山の雲雀の声が聞こえた。林からは鶯の鳴き声も聞こえる。鶯の鳴き声は日に日に「上手く」なるのだそうだ。耳を澄ますと、ホーホケキョの素敵な声の囀りになっていて季節の移ろいを感じた。
 僅かな歩数(5000)ではあるが、妻にとっては数か月ぶりの時間である。中途帰還も覚悟したが予定より若干短めの時間にして無事に帰宅できた。
 農家の広い庭先には、ぼたん?芍薬?が満開であった。お断りして折って戴きたい心境になったのでそのことを、隣を歩く妻に告げると苦笑したまま返答はなかった。農家の畑には里芋の芽が逞しく伸びている。えんどう豆も大きく成長している。枝豆やインゲン、そしてオクラの芽もすっかり大きくなっている。
 我が家の東側の空き地には、ことしこそ『緑のカーテン』を作りたいと妻は頑張っている。タネを蒔いていたゴーヤと朝顔が芽を出して、あっという間に大きくなっている。やったこともない作業に、慣れない手つきで挑んでいる妻の力作が今夏は認知できるかどうか、夫としては楽しみにしている。

2012/05/23

天空と天体

~東京はタワーからスカイツリーへ?~
 金環日食を4歳の孫と愉しんだのが、もう一昨日の事。そして、昨日は雲に隠れてしまったスカイツリーを目で追いながら常磐線の旅をした。
 「猫も杓子も東京タワー見物」は、昭和40年代の東京観光の風物詩。小生は昭和38年に上京した。その数年前に東京タワーは完成していた。上京すると東京オリンピックとも遭遇した。新幹線と東京タワーは「驀進する日本丸」の明るい未来を象徴する「モノとコト」であった。
 東京タワーは300メートル台で天空に聳えるがスカイツリーはその倍ほどの高さまで天空に伸びているらしい。どんな高さになっているのかを検分するには数年先になるようだが、太陽に向かって伸びていることは確かである。
 天空ショーと天体ショー。
 首都東京でもこの二日間連続の喧騒は衆知の通りである。「生きていて幸せ」を感じたのは昭和初期誕生の人類だけだったのだろうか。なぜならば、次回の天体ショーを鑑賞できるまでは生きていないと考えたからである。
 皆さんの学校や、地域での天体ショーはいかがでしたか?
 また、東京の天空ショーにはいつ頃、お越しになる予定でしょうか?ショーに振り回されて現状の日本を見失ってしまうような国民の一人になってはいけない、とふと冷やかになってしまうのも昭和初期誕生の人類の所為であろうか(笑)。

2012/05/22

元気です!

~予告はしてありましたが・・・~
 数通のメール着信に、当人が驚いています。
 既に当方のホームページが5月20日で終了することは1か月ほど前ぐらいから当ブログでもお知らせしておいたのですが、仰天されたようです。そして、この老輩の健康状態を危惧なさったようです。ご心配をお掛けしましたが、このブログの存在をお知らせすると安堵された内容の返信が届きました。
 無責任且つ好い加減な書き込みを続けて10年の歳月が流れてしまいました。管理人である同業者(現職の教員)には、小生では想像できないご苦労を掛けてしまいました。当事者としての責任を感じているとの思いも十分に伝わっていますが、インフォシークというHP業者の経営がストップしたのですから管理人には何の責任もありません。氏の努力に感謝こそすれ責めること等全くございません。このブログが続けられる期間を十分に活かして生きたいと考えていますのでご愛読願います。元気で過ごしていますので他事ながらご安心願います。ご心配に、寧ろ、驚きつつ、改めまして心より感謝申し上げます。
 今日は我が老夫婦恒例の『鍼診療日』です。
 本籍地のある神奈川県高座郡寒川町の役場に用事があるので、いつもより3時間早め(6時半ごろ)に自宅を出発して診療所のある東京都町田市まで向かいます。診療所からは遠隔地に転居したので隔週の通院にしました。一般の医療(「歯の掃除」)の支援を受けることなく、薬を飲むことも無い12年間を過ごしている老体は「鍼診療」の賜です。今日は雨の一日になるそうですが、老妻と一緒に頑張って行ってまいります。
 行ってまいります!!

2012/05/21

歩禅記(59)

 ~生垣のバラの花~
 久しぶりに田園地帯の独り歩禅をする。
 田んぼもすっかり夏模様になっていた。水面にホンのちょっとだけ黄緑色の稲の苗が顔を出せるほどたっぷりと水を戴いた水田からはカエルの鳴き声も聞こえた。秋の収穫までの田園風景の様変わりはこの歩禅記でお知らせすることをしましょうかねぇ~。
 田園風景がお気に入りの小生は、望郷の思いからである。
 田んぼの中で育った少年は、夏の誘蛾灯に集まる虫の多さと蚊の飛ぶ羽音に生まれ故郷に愛想を尽かしたのである。18歳の高校卒業までは忍の一字だった。都会への憧れが故郷離脱の要因では無かった。田圃しかないあの風景と農家の貧乏に別れを告げたかったのだから今となれば責められても何も応えられない。
 終の棲家と意を決して転居した長男宅である。自宅から数百メートルも歩けば少年時代を彷彿とさせる田園地帯が広がる当地に辿り着いてしまった(笑)。
 独り歩禅にご満悦な時間。それを保障しているのが田園風景であるのが笑えるではありませんか!水田を渡る風をお腹いっぱいに吸い込んで1時間の歩禅は今回も充足度100である。
 農家の生垣には色とりどりのバラの花が咲いていた。この前まで桜の花に目を奪われていたのに自然界の脅威に慄いている内に、バラからアヤメやアイリスに代わっていくのだろうか。目の保養をさせていただきながら歩禅を愉しむことにしようか。
 今日の歩数計は1万歩を超えた数字を計上している。

2012/05/20

不発に終わった手投げ弾

  ~こんなことって有り??~
 2001年から始まった浜松(静岡県浜松市)通い。
 それは一人の教員との出会いがきっかけであった。「管理職になる教員文化」への思考回路を有しない教員の言動に愛着を感じて年に数回の訪問をすることになってから早や10年間が過ぎてしまった。
 そして第30回(以前のブログでの「50回」は誤記)目の講座を迎え、感動と感謝の気持ちを伝えるための浜松訪問だった。現職時代から始まった全国で開講している『響の会』という教員の自主研修会であるが、10年以上も続いている箇所が本拠地である神奈川県茅ケ崎市とこの浜松市である。
 ここでの研修講座には管理職の参加は皆無に等しい。他会場との違いはそこにある。管理職の推奨で参加して来る教員はゼロであるこの研修会が何故に10年以上も存続しているのか。考えれば考えるほど奥も深い。地味で目立たない(「代表」として名を連ねる)教員の自然体が創り上げた足跡であることは参会者なら誰でもわかる。リーダーシップの似合わないこの「代表」の存在感が何故か大きい。
 実は小生のホームページもこの教員の苦労の作品である。
 氏の伝言では今日辺りがホームページも店仕舞いとなるようだ。浜松『響の会』の歴史と同一歩調で歩いてきたこの力作も侮れない。感謝こそすれ、不平不満など全くない。研修会を「閉じます」という爆弾宣言を「心に秘めて」出講したのが今回だった。
 思いがけない参加者の顔ぶれに再会したり、小生のホームページから情報を得て、初めて参加したという意欲的な若き教師たちが(皮肉にも)、店仕舞いを宣言しようと乗り込んだ会場で出会ってしまった。こんなこと、って有りかな?真剣な苦笑である。意気込みの出鼻を挫かれてしまった。
懇親会でも「あと3年」は続けたいとの氏の発言に、持ち込んだ爆弾は不発のまま「敗戦」を意識して帰路の新幹線に乗り込んだ。 
 そんな『感傷旅行』は、氏が教職を去る3年後まで、この老兵を戦場に駆り出す意向らしい。喜ぶべきか?哀しむべきか?それが3年後に結果として出ることになった。写真は同じものではありません。お互いが全員が映るように交代でシャッターを切ったために2枚になっています。登場した代表がどなたかお分かりになりますでしょうか?

 爽やかな疲労感を携えて、間もなく本日の会場に向かいます。今日は横浜市です。教員志願の若い集団への指導講座に出講します。

2012/05/18

出講旅行始まる

~今日は名古屋、明日は浜松・・~
 現職を退いて8年が過ぎた現在。
 スケジュールには最盛期(笑)に比べればゆったり感はあるものの、8年経たら8歳の加齢になる訳だから老化現象を加算して算出すれば「程よい」より若干の厳しさが「御釣」として残る成就感であろうか。
 出講旅行は今年度も始まる。
 また、新しい出会いがこの老人を待っている。そのときめき感は70歳を前にしても堪らない嬉しさである。今日は、PTA主催であるから「保護者を相手」にした講座を担当する。「親」と言っても、当方の娘や息子と同世代であるので「我が子に子育ての確認をする」姿勢で接することが出来る。親としての自己反省を含めて語ることにしよう。準備している資料も根拠はそこにある。
 明日は現職の教員が集う研究会である。現職時代から12年間通っていてこの研究会も明日は「第50回」を数える。ここでの講座も一区切りがつく節目になりそうである。新採用教員として受講した教員が中堅として活躍している様子も耳にしながら、ここでも充足感を抱くことが出来る至福の時間である。
 明後日は、「これから教員になる」という夢を持っている集団の講座に出講する。もう3年目となる。毎年、多くの教員が誕生している。4月1日の辞令交付式の夜に感激の電話をもらった受講生もいる。立派な教員として活躍することを期待するばかりである。真剣な眼差しは一生忘れないで欲しいと願うのは単なる老婆心からだろうか。
 外からは時々強い雨音が聞こえてくる。
 3日間の荷物で重くなった鞄。持って移動するだけでも重荷であるが、充足感を差し引いて割り切って出発することにするか!!(いつまで続くかな??)

 当方の「ホームページ」は、この5月20日で店仕舞いです。長年のご愛顧に感謝しています。これからは、このブログで情報を発信します。ご意見やご感想は当方のメールアドレスにお寄せください。まだ、ホームページで当方のアドレスは分かります。

2012/05/16

連続する来客

~疲れも二倍??~
 先週の土曜日に孫の結婚式に参列するために九州の従兄夫妻が上京して来た。82歳になる妻の従兄である。「孫娘の晴れ姿」を見ることへの執心は高齢者にも生きる力が芽生えるモノらしい。
 14日から当方まで足を延ばしての訪問であった。
 妻の父親の実家を継いでいる長兄で、妻を本当の妹のようにかわいがってくれた兄貴分の訪問とあって我が家は総出(母屋も)で歓待ムードとなった。妻の両親のお墓を当地に作っているので墓参を兼ねての訪問でもある。妻の父を慕っている従兄は墓前に額ずき数分間の黙祷。何をお墓の主に語りかけていたのかは定かではないが、感動した場面であった。お墓参りが終わると、「大任を果たした!」との言葉が飛び出したが、その言葉に妻のみならず小生も目頭が熱くなった。
 夜の懇親会(?)は大盛り上がり。
 九州弁の飛び交う部屋では、「外国語紛い」の理解困難な言語に、時として通訳が要求された。孫たちも「何を話しているの?」と方言の難しさを感じ取ったようだ。
 そして、昨日は予定外の「予科練平和記念館」を訪問することになった。
   訪問者(82・従兄)が、後数か月戦争が長引いていたら、「ここに来ていた」と大昔の話に登場した『予科練(=霞ヶ浦隣接)』訓練場が側近にあることを知ったために「どうしても行ってみたい」との要望に応えて、我が長男が仕事を休んで案内することになった。
 戦争の惨さをまた知る羽目になった。「ななつボタンは桜と錨 きょうも飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ ・・・・」という歌詞が頭を過る。七つボタンに合わせて記念館の展示場が7室に構成され、どの部屋でも涙がこぼれそうになった。感動より回想に浸った従兄は、涙を見せたくなかったらしく一人で一足先に会館を出て館外から霞ヶ浦を眺めていた。その後ろ姿に「沖縄返還40周年」のラジオ番組が飛び込んできた。戦後70年ばかり過ぎた今、爪痕や後遺症は顕在していることを痛感した。
 常磐道のインター入口まで送って別れた。
 一団の来客が去ると、次女夫妻の里帰り訪問である。お彼岸の墓参が済んでいないとのお詫びを前面にしての久しぶりの里帰りで、再度の夕食・懇親会であった。連日の来客に母屋の孫軍団の興奮は上り詰めたようだ。興奮状態のまま眠りに着いた孫たちの声が聞こえると、爺婆の疲労度もピークに達した。娘夫婦なので「勝手知ったる我が家」なので、爺婆は母屋の別室(仏間)にて休むことにした。
 妻は就寝前に仏壇に向かっていた。何かを告げる時間だったのだろう。小生はあっという間の熟睡モードになってしまった。連続する接客はやっぱり大変だが、孫たちの育成には重要な時間であるとも感じている。

2012/05/13

本格始動

~今日はヨコハマから~
 一昨年から請け負っている業務。
 それは「教員採用試験」受験者を対象にした講座である。担当は「論作文」という小論文作成の指導である。『卒論』に苦しんだ若い時代を蘇らせながら講義をするが、「作文」という作業が苦手な輩にとっては苦労が大きいようである。30~40人ぐらいの聴講生を前にしての、所謂、昔取った杵柄とやらの「授業をする」時間である。現役を退いてから担当する分だけ「教員の世界」も冷静に振り返ることも出来るのが醍醐味でもあり、短期間集中(請け負っている講座は5~7月)でもあるのが楽しみでもある。長年住み慣れた横浜の空気を満喫できるのも、また格別である。
 今日からその仕事始め。
 今年はどんな受講生との出会いがあるのか!見事に大願成就を果たしてこの4月から教壇生活に入っている昨年度の受講生からもメールが届いている。老輩の微力で彼らの夢が実現することは冥利である。
 週末は、愛知県春日井市から静岡県浜松市、そして日曜日は上述の講座(横浜市)のために神奈川県に戻ってくるというハードな日程にはなるが、まさに(遅ればせながらの)小生の今年度の業務始業である。
 張り切って今年度もスタートすることが出来るのが至福である。

2012/05/12

結婚式

~4年ぶりの参列~
 4年間ぐらいは・・・、と物事によっては片づけることも出来るが、今回はしみじみとその『期間の長さ』を感じ入る程の結婚式への参列である。しかも、直縁ではなく「親戚」という括りになってしまう新婦との関係者として出向くのである。30年ばかり前の状態を想像するとウソのようである。
 「結婚式貧乏」と自称した時代の話。
 ある年の秋の10~11月の2か月間。その土日が2日を除いて全てが「結婚式」に参列したという歴史が残っている。しかも、その間に2回の仲人役と3回の司会役をも務めるという激務(笑)も伴っていた。妻は愚痴ひとつ言わずに「祝儀袋」を準備していたが、ついに「貧乏宣言」をせざるを得ない状況下に陥った。これは確かな記憶である。中学校で学級担任をしていたクラスでは冗談半分にそんな状態に触れたこともあった。10年ばかり経って結婚式への招待状が届いた。その封筒の中に、「先生、お祝儀は不要です。晴れ姿を見に来ていただけるだけで幸せです」との新郎や新婦となる教え子のメモ書きが入っていた。今となっては笑い話ではないか。
 時代は流れて三人の我が子たちの結婚式を済ませる頃には学級担任ではなくなって結婚式も遠ざかった。管理職を10年間以上務めながら、その間「上司として参列」したのは2回だけである。その頃から結婚観も結婚式観も急変していたのだと今になってみるとわかるような気がする。
 パラサイトシングル300万人超え。
 新聞の見出しにこんな活字を追いながら、人類文化の変遷に感じ入ってしまう。活字の主人公は30~40代の若者である。結婚の有用・無用論を論じているのではない。戦後70年になろうとする我が国に、新たな社会現象として今後の課題を表出していると言えるのではないだろうか。
 結婚式に纏わるエピソードには枚挙にいとまがない。
   今日は、祝詞も無ければ余興もない。出番のない気楽な結婚式を愉しんで帰って来ることにしよう。実は、この体が小生の理想の参加体制であったのだが、今まで一度の経験も無い。この歳になって「夢の実現」である。そんな無責任な身軽さが足取りも軽くしてくれそうだ(笑)。

2012/05/11

お知らせ!

~ホームページアドレスが変更?~
 既に当方には連絡が届いていました。
 小生の「ホームページ」の管理人さん(=静岡県浜松市在住の現職教員)から5月20日ぐらいまでにアドレスの変更をしなければならない状況になったとの一報でした。およそ10年もの間、現役教員として多忙な時間を割いて担当して頂いて来ました。そろそろ、店仕舞いをと考えている矢先でしたのでその旨を伝えようと思ったのですが、何とかして継続できるように頑張ってみるとの意向に先攻されてしまい、言いそびれて今日まで来てしまいました。
 このブログは全く問題ないようです。
 小生としては、このブログがあれば十分だと考えていますが、長きにわたって編集制作をしていただいている管理人さんにすれば愛着さえも感じられたのではないかと恐縮しつつ成り行きに任せているところです。
 ホームページからこのブログに入って来られる方々は、このブログだけを取り出して保存なさっていただけるとホームページの工事期間だけでも一瞥できるのではないかと老婆心が動いています。
 かく言う小生もホームページに関する知識は全くございません。突然の情報で驚かせてしまいましたことはお許し願います。

 「竜巻」騒ぎで連休も明けました。
 この日曜日から当方の稼業再開です。来週末には愛知~静岡~神奈川と連戦のスケジュールに対応します。
 「健康であること」と「要請があること」との喜びの二重奏を噛み締めながら頑張って今年度も始発します。ご当地での再会を楽しみにしていてください。

2012/05/10

10年間の購読

~「踏ん切り」の好機がやってきた~
 これは連休中の話である。
 孫を送り届ける車中であった。5年生の孫娘が後部シートから祖父ちゃん運転手に声を掛けた。祖父ちゃんは孫が生まれると月極めの絵本を贈り始める。絵本専門店の配本サービスを利用して、当時の茅ヶ崎から千葉と茨城の孫たちに『ほん』を送り続けてもう10年になるだろう。双方の地に5年生になる(男女の)孫がいるので、取扱いのホンの傾向を考えて祖父ちゃんは送り続けた。支払いは全て指定口座振込である。
 5年生にもなったのでそろそろ変更しなければ!と考えていたことは事実である。それぞれの家には下の孫たちもいるので大枠では満足していることも承知していたことも事実であった。3人が読み込んだ絵本は修復不能の状態である事も知っていた。
 「お祖父ちゃん、私ね、お祖父ちゃんが送ってくれる本も好きだけど自分で読みたい本が色々あるのね」と切り出した。祖父ちゃんは『渡りに船』とばかりに、「送っている本を中止しようか」と言葉を返した。すると、後部シートの隣に座っている新入学児の孫息子が、「お姉ちゃんに送ってくれた本は、オレ、あんまり好きじゃない」と口を挟んできた。つまり、女児向けを本選定の基準にしてあったので怪獣の本やバトルする内容の絵本は皆無に等しかったからである。二人との対話を「良い潮時」とばかりに運転しながら返答した。「一旦、今のシリーズは止めにしよう」と切り出してみた。途端に「読みたい本」が二人の口から次から次へと飛び出した。
 孫の家に着いた。
 母親である長女にその内容を告げると、もう2年ぐらい前から孫娘から要望があったとの事実が告げられて遅きに失した不手際を詫びつつ今後の希望を聴くことにして、帰路の車中の爺婆の話題は読書のことになった。
 帰宅して、同居の孫息子(5年生)にも現状を訊くとほぼ同様であった。早速2社に「配送中止の申請」手続きをメールで済ませた。連休中であったので即答のメール返信がなかったが昨日、両社とも確認の電話をもらった。10年間も購読したことに対して丁寧にお礼を言われ、気持ちのいい終止符となった。
 今後は、「好きな本」を祖父ちゃんに購入依頼をすることで一件落着である。

2012/05/08

「地元紙」の温もり

~期待に応えるんだぞ!~

・・・・(前略)▼風雪に耐えてきた老木と重なって見えるのは、きのう中日の球団新記録となる二百十二勝目を挙げた山本昌投手だ。杉下茂さんの記録をついに追い越した。大きく振りかぶって、右打者の内角に食い込む直球は威力十分で年齢を感じさせない▼今季は五試合投げてわずか二失点。防御率も一位である。本当に今年四十七歳になる投手なのか、と疑ってしまう。球団新記録もまるで通過点かのようだ▼「中年の星」がいまだ果たしていない日本シリーズでの勝ち投手を目標に投げ続けてほしい。年輪を重ねるほど、大木のような風格が出てきた威風堂々の大投手は、五十歳現役も夢ではない。 120501 中日新聞『中日春秋』

 昨日の郵便物に静岡県浜松市の先生からの手紙がありました。
 開封して中身が「地方紙」だとわかりました。その部分だけを丁寧に切り取ってスキャナを通して保存しました。上掲した文章が地元紙のコラムの後半部分です。前半との関わりから、地元プロ野球選手へのエールへと結んであるのが「地元ファンの気質」として心にじ~んときました。そこで紹介しました。
 皮肉にも最新の登板ではご期待に沿えるような結果は出ませんでしたが、相手チームだってプロ野球の選手集団です。そんなに「勝つ」ことを簡単に許すはずがありません。勝ったり負けたりしながら相互のレベルを上げるのが勝負の世界なのでしょう。厳しい世界に身を投じて、地元紙にこのようなエールを戴ける当事者はこの上ない果報者だと考えています。
 当人には近日中に便りを出して「期待に応えるんだぞ!」と檄を飛ばす予定です。効果の程は全く期待なさいませんように(笑)。
 楽しかった筈のゴールデンウィークが、最終日に、ここ地元では『竜巻』に見舞われました。地元紙では関連記事が満載です。我が家は直接的な被害は無かったにせよ他人事とは思えません。またしても大自然への驚異の念が募ります。防御法の無い脅威です。

2012/05/07

大型連休は被害も大きい

~今度は『竜巻・突風』~
 隣市とは言え、コースが間違えばどこでも被災してしまう。
 今日は新聞が休刊日なので詳細の情報を得ることは出来ないが、テレビ画面で見ると怖くなってしまう。上空から撮った画面をみるとその爪痕が「一直線」に続いていることがわかる。一歩間違えば他の地域でもその一直線上で被災することになることを考えれば、防ぎようのない自然の猛威には戦慄が走る。
 たくさんの方々から状況を心配して電話やメールが届いた。有難うございました。
 昼間の明るさが一変して真っ黒な雲と台風のような風の強さに加え、耳を疑うような雨音(=正確には、昨日は『雹』の落ちる音)には打つ手も無いほどである。倒壊した住宅に押し潰され尊い命を落としてしまった14歳の中学生の無念さは、ただただ自然の驚異を実感するばかりである。
 津波に怯え、竜巻に怯む光景は「世も末」とばかりに落ち込んでしまいそうである。そして、何かに八つ当たりをしたくなる。しかし、地球環境の変化は一朝一夕に出来上がったモノではないだろう、とだけは理解できるので複雑な心境に陥ってしまう。
 我が家や周辺の被害は無かったが、被災された皆さんの無念さを考えると頭が重くなる。しかし、今朝もヒンヤリとする冷温で数日前の30度近い気温との落差に体調を合わせることも難しい。数日前には名古屋地方でも大きな揺れ(=地震)があったと恐怖のメールも届いている。どこでも、いつでも自然の驚異に遭遇しても不思議ではない世相になっているのが怖い。
 そんな連休明けの朝、小学生の孫たちは元気に登校して行った。

2012/05/05

『こどもの日』って?

~「男の子」のお祝い~
 桃の節句と端午の節句。
 子どもの頃の、この二つの違いの発想基準は「祭日」であった。3月3日も「祭日」にしてくれたら良いのに!がその主因だった。周囲の女の子たちからも「小さな声」は聞こえてきたがその願望は成就しないままに時代は今日まで至っている。
 名称は第一印象として残る。
 3月3日は「ひな祭り」とも言われるが、5月5日にはその類の別称はない。環境や装飾は「段飾り」と「桃の花」、に対して「鯉のぼり」「兜」と「菖蒲」と趣が大きく異なる。歌詞は「灯りをつけましょぼんぼりに・・」と「甍の波と雲の波・・」と、ここでも「内」と「外」とが意識された性差を感じる。
 国民的文化として考えれば性差を意識するのは当然としても、『こどもの日』と総称されれば、そこには性差は不要ではないだろうか。男の子と女の子の本質を区別することが差別として理解されないためにも、こんな命名にももう少し神経を遣いたいと考えるがいかがであろうか?
 少子時代の到来である。
 『こどもの日』を意識せざるを得ない時代になってからでも遅くない。子どもの幸福を願うのであれば、男女の区別は無い。文化に支えられる環境づくりであることを考慮したいものである。
 「子ども」達が集うと、やっぱり凄い迫力である。そこにはエネルギーが存在する。家の中に熱さも感じる。今回のGWには転居先に孫が終結した。家や庭を走り回る後にはゴミが追随する。祖母ちゃんが昨晩は一番に眠ってしまった。孫娘が「お祖母ちゃんは疲れたんだね」と祖父ちゃんに囁いた。朝から晩まで動きっ放しの老妻にとっては久しぶりの重労働だったんだろう。祖父ちゃんはのんびり(笑)。
 母屋の長男一家は鬼怒川(=栃木県)へ家族旅行に早朝から出発した。千葉からやって来た長女の子ども達は「霞ヶ浦・帆引き船」を観光して、祖父ちゃんの車で送り届ける予定である。そうすると我が家の『こどもの日』も本日で終わる。今夜は爺婆だけの静か過ぎるほどの静寂の夜を迎えることになる。
 子どもは宝(=生きるエネルギー源)である。
それをしみじみと感じた「大家族の生活」のリズムである。大家族に「こども」が存在しないと意味が無い。さぁ、今日一日、爺婆業に専念することにしよう。今夜は祖父ちゃんが即刻の就寝だろうなぁ~。

2012/05/04

二転三転

~低気圧とは異次元の強度~
 約束していた「孫迎え」のドライブが日本列島を襲った低気圧の関係で中止になったのが昨朝のこと。その後、千葉にする娘から、婿も仕事が休みだとの情報が入る。5年生の孫娘は土浦のお祖父ちゃんが来ることが出来ないのであれば、父親が送ってくれれば良いじゃないか、と掛け合っているとの情報が第二弾として届いた。
 待ち構えていた母屋軍団も拍子抜けしたらしく、嫁が「床屋さん」に連れて行って来ます。と外出した。早い昼を食べて横になった祖父ちゃんが目を覚ましたら「世界が急変」していた。
 途中の駅まで両親に送り届けて貰ったらその後は常磐線に乗って二人で土浦に向かうという予定になってしまっていた。「さぁ、大変」と、電車の時刻表と睨めっこの祖父ちゃんは母親(娘)にメールを送信する。「何時の電車に乗せたか」を正確に送信するようにと請求した。
 乗車時刻を受信してからも4:35着の電車到着までの1時間。小学生2人が無事に到着するまでの心配は異常だった。我が子には同じ年齢の時代に、小田原駅から新幹線で九州の実家まで帰らせた父親であったことを思い出しながら、「同一人物か?」と疑うほどの心配性になっている。下車駅は改札口が1か所なので間違いはない。しかし、道中のハプニングまで取り越し苦労する自分が可笑しくて仕方が無かった。
 雨の降りしきる中、二人で手を繋いで改札口に立った時は無事に感謝した。
 その後は「母屋」と「離れ」は「上を下へ」の大騒ぎである。幸せにも茅ヶ崎時代と違ってどんなに大声を上げても近隣から苦情が飛び込むことは全く心配ない。9時の就床時刻までの孫軍団のエネルギーにただただ圧倒されるばかりだった。
 昨晩はお得意の「祖父ちゃんの昔話」の効き目が少々遅かった。興奮度が勝っていたようだった。寝息を確認しながら老妻に「お疲れ様」の一言を発して、自分を見失うほどの心配性になってしまった祖父ちゃんも眠ってしまったようだった。

2012/05/03

開店休業!?

~阻止された祖父ちゃんドライバー~
 今日から千葉の孫たちがやって来るとの情報でした。退屈しのぎに格好の時間になるとばかりに逸る気持ちで、こちらから迎えの車をチャーターすることにしたのであります。つまり、この祖父ちゃんがドライバーになって孫たちを連れに行く予定となっておりました。しかし、早朝からの雨脚が更に強まり、空は低く雨雲が垂れ込めている悪天候になってしまいました。
 千葉と連絡を取りました。
 開口一番、長女の声は「無理しないで!」だったのです。確実な阻止発言であります。電話連絡している親父を見詰める同居の長男は、無謀は許さないとばかりに立ち聞きしておったようで、今日の行動は中止になったことを確認できた瞬間から休日出勤の準備を済ませて車庫から車で出かけて行ったようであります。
 しかし、味方の数は確かでありました。
 同居の孫3人と千葉の孫2人は、お互いの交流が遮断されたための単純な理由で不満を全身に表わしての祖父ちゃんドライバーの味方となってくれたのであります。
 本心は、いや内心では祖父ちゃん当人が一番ホッとしていることは事実であります。この爺だけには何が起きても、同乗する孫たちに何か災難が降りかかたのでは「死んでも死にきれない」心情になので、無理しての迎えは避けたいとは思っていました、しかし、孫軍団の願望も果たしてあげたいのと入り混じって、複雑な心境でもあったのです。
 今日はこれから、のんびりと読書でもして天気回復を祈りましょう。明日は千葉から母親の車でやって来ることになりそうですから・・・。

2012/05/02

公害の原点・水俣病

~公式確認から56年経過~
 小学生の悪童たちは猫が七転八倒する光景を見て爆笑していた。
 屋根から猫を落とすと途中で回転して立派に着地することを知ったのもその頃だっただろうか。動物の異常なほどの特殊能力に仰天したモノだった。誕生地名が「浜町」というのだから海までの距離が計り知れる。潮が引いてしまうと数キロ先まで歩けるほど遠浅であった。眼前に雲仙・普賢岳が迫って来るほどの距離まで貝堀り行かされた。重くなったアサリを背負って遠浅を恨んだのも子どもの頃の記憶として残っている。満潮になると釣竿を垂れて魚を釣った。沢山釣れて帰宅すると祖母が頭を撫でてくれた。即刻に捌いて夕食のお数になった魚を渋々と食べたのも少年時代の日常風景でもある。
 飼い猫が苦しみもがきながら命を絶える光景を何回か目にすると笑ってばかりでは済まないと意識し始めたのが中学生の頃だった。
 高校に入学すると水俣市や天草の島々の出身者がいることを知った。知っている範囲でも2名の同級生が高校を退学した。理由はわからなかった。当時の高校では、謹慎・停学・退学等の措置は頻繁に掲示され、学校に来ない生徒の理由は判明した。しかし、その2名は卒業するまで解らず仕舞いだった。そのまま故郷を離れたので交信もなく忘れかけていた所に、天草出身の級友から、「川崎市の会社に勤めている」と手紙が届いた。退学の理由にはお互いに触れることも無く月日は流れた。還暦同窓会で物故者の氏名を追いながら理由不明の友人もいたが追及もしなかった。噂では「水俣病」という病名を知らされた。
 八代海(有明海と続く)の魚介類を生活の糧にした地域には公害の影響は甚大であったことは誰も否定しない。公害に侵された魚介類を食したら猫のみならず人間だって大変な被害を受けるのは当然である。未だに病魔に侵され苦しんでいる人たちがいることを新聞も言及している。多くは苦しみながら悔しい思いで他界されたとも報道している。
 経済至上主義は今でも健在である。
 どれだけの犠牲者を産めばこの社会現象の病理は治まるのだろうか。「水俣病」が公式確認されて後4年で『還暦』年数に到達する。被害者自身は当然ながら胎児として生を受けて誕生して、障がい者として生きておられる「声明文発表者」のお顔をTV画面で見詰めながら心が痛んだのは小生だけではあるまい。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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