2011/11/30

明日から『師走』という朝

 ~歩禅の道で撮った「花」~
 名前がわかりません。
 かなり丈の高い花ですが、花の大きさにも驚きつつその数の多さには、夫婦で立ち止まってしまいました。何と言う花なんでしょうか?生まれてこの方、「花(華)のある人生」を歩んでいない小生は、とんと花とのご縁も無く興味も深くないので知らない花の「素敵な存在」に気づき始めたのが昨今のことです。こうしてデジカメの餌食にしながらも解明もしていないのが現状でもあります。
 今日で11月も終わり、明日から師走。
 そんな朝、旅支度も済んでデジカメ写真館を覗きながら11月の道路で見つけたこの写真(花)の名前が気になってしまいました。以前、酔芙蓉の花を上掲してくだらない人生観を記述しました。それは青春の淡い恋心にも似たような表現になってしまったのでしょうか。読者の方から「詳細を・・」との要望メールをいただいてドキッとしてしまいました(笑)。深意はございません。読者の皆さんにも、草木や花にはそれぞれの思い出とドラマがおありだと想像しています。
 ここは、自然が多分に残っている新天地です。
 そろそろ、県外までの仕事に終止符を打つ時期になるでしょう。そんな時期に、こうした自然美を満喫できる環境に生活母体をおけることはこの上ない幸せなことです。見渡す限りの田畑の緑は、転居したばかりの今年は「目の保養」までには至りませんでした。しかし、来季はきっと嬉々として、その緑の中で『歩禅』の距離を延ばすことになることを確信しています。
 今日から、今年最後の大掛かりな仕事で出講します。準備段階でも「もう、良いや」との投げやりな精神状態にならない現状に安堵しつつ、内面での「盛り上がり」を嬉しく思える朝です。行ってまいります!!

2011/11/29

歩禅記(53)


 ~こんな夕暮れの『筑波山』が視野に・・~

 最初にお断りしておきますが、この写真は本日の撮影ではありません。数日前のスナップです。この日の気温が今日よりも低かったように思います。今日は、「暑くもなく寒くもなく」との気象予報官の言葉をそのままお借りして表現しても、「仰る通り」の天候でした。昨夜の予報では今日は「所によっては雨」と言うことでしたので、出勤する嫁は洗濯物を干さずにいたようですが、陽射しを見て妻がベランダに干したほどです。

 こんな夕暮れを、風も冷たくない状態で田んぼのど真ん中を歩けることは正に至福の時間であります。筑波山は富士山と違って「至近距離で」声を掛けると返答してくれそうな親近感があり心和む思いになり良き歩禅の友となりつつあります。

 明日から、今年(2011年)最後の、長期の出講です。この講演活動(と周囲は表現しています)を始めた7年前には5~6泊、つまり1週間の滞在での講演を行ったものでした。しかし、いかに若いとは言え既にその時点でも『還暦』は過ぎていましたので、意識と身体のアンバランスでほぼ1カ月ほど休養せざるを得ないどん底の生活に陥りました。身体が覚えていくと「無理の限界」が少しずつではありますがわかって来るようです。今では、最長でも3泊が限界であることもわかってきました。

 4日間の旅の荷物づくりも大変です。冬物の量は宅配便の箱選びから苦労します(苦労するのは誰??)。苦労するのは妻です(笑)。その協力を得て歩禅に出かける前に宿泊ホテルに発送することもできました。妻の協力に感謝することは忘れてはいません。

 この風景は、独り歩禅のコースの丁度中間点です。折り返すのはもう少し歩を進めてから大通りに出たところです。大通りには妻が必ず立ち寄るこの地の農協直営のお店です。新鮮な野菜を買い求めるために夫婦ともリュックサックを背負って歩禅に出向くことも多くなりました。大根や白菜等を少し多めに購入する時は、愛車・湘南ナンバー軽自動車で駆け付けます。リュックで賄いきれる時は二人で分担して背負って帰るのです。

 ところで、読者の皆さんに申し上げるのはお門違いですが、小生の今の心境は、放射能汚染の問題が早く解決してもらえないだろうか、ということです。当地は代表的な農業県だそうです。地元民の焦燥感は言うに言えぬモノなのでしょう。このコースの脇に、「稲藁の保管倉庫」があります。機械でしっかり結ばれて出荷を待つ藁にまで汚染の影響があるようです。何だか哀しくなりますね。立ち話をする農家の方々の口々から「風評」の話題が、やっぱり、この地でさえ飛び出すのです。苦渋の言葉のように聞こえて胸もいたくなります。 

2011/11/28

『イチオシBOOKS』を考える

~毎月3冊の推薦本~
 小生のHPにはイチオシBOOKSというコーナーがあります。
 これは、ホームページを創っていただいた(管理人さんは今も同じ)時点からこの掲載は続いています。そろそろ300冊を超える頃だろうと思います。きっかけは『響の会』のセミナー会場で必ず数冊の本を紹介していますが、それをホームページに載せて欲しいという要望があったからでした。
 小生は、読書そのものを、趣味のジャンルに入れることも抵抗があるほどの偏屈さを持ち合わせている変わり者です。子供のころから「これを読んで感想文を書いて提出しなさい」の指示には悉く抵抗し、「意地でも読まない」と頑張った結果、担任の先生の激怒に遭遇したこともありました。
 本は自分で探す。探して、読みたくなったら「買って」私物化する。
 それを、時を経て再度あるいは再再度読み返す。そして、自分の考えに変容があると妙な充実感を覚えるという、ホントに変わり者の小中学生時代だったと記憶が蘇ります。貧乏な農家の倅には、自分の金で本を買う、と言うのが「将来の夢」でもあったのです。
 高校を卒業して上京しました。
 大学生時代に家庭教師をさせていただいた御家との出会いは劇的でした。その町の町制が引かれた初代の町長さんが、家庭教師として指導した中学生のお祖父ちゃんであったことでした。お祖父ちゃんの書斎としてお使いになったという部屋で勉強を教えるのです。十畳間ぐらいの洋風の書斎の壁という壁は隙間もなく書物で覆われていました。目に入る書物の全てが、高校時代までに習った人物に関わる書物だったり、文学史を賑わした一流作家の名著だったり、図書館でも見たことのないような百科事典もたくさんありました。
 家庭教師として向かうより、『書斎の威厳』に浸ることの満足感でいっぱいでした。3年間の家庭教師が終わるころには、合間で盗み読みした本が十冊は超えていたでしょう(内緒)。運よく、下の御嬢さんの家庭教師も仰せつかりましたので若干の延長期間も満喫できました。その後も、「読みたい本」をお借りしに伺っては夕食までご馳走になるダブルな至福感を享受できました。
 誰にも指示されたり強制されたりすることなく「読書する」醍醐味を体得できた素晴らしい大学生時代でした。ご要望に応じてイチオシBOOKSを上掲してはいますが、書評は書いていません。イチオシBOOKSとは、こんなモン読んでみても良いじゃん?!でも保証はありませんぞ。推奨するほどの価値のないモノもあるかもしれません(著者には失礼!!)。読んでみて面白ければ十分です。現時点では面白くなくても購入して棚に置いておけば、後ほど「こんなに面白かったっけ」という価値観の変貌に喜びを感じるようになるものです。
 そんな無責任なコーナーが小生のHPにあります。遡ればかなりの書籍数になります。取り分け、学校の教員と言う特殊な仕事に就いている種族の皆さんには「読書自体」がイチオシです(笑)。

2011/11/27

出版社が主催するセミナーに出席

~出版に関わった人のトークの魅力~
 取り分け、本の装丁に関わったデザイナーの発言はいつ聞いても面白い。
 今回は親しくお付き合いさせていただいている長野県小布施町で出版業を営む知人の会社で出版された書籍の披露記念パーティーも兼ねた「セミナー」に出席した。8年前からのお付き合いだが、個人で開業した小さな「町の出版社」が、大東京のど真ん中でこのような立派な集いを開催できるまでに成長された光景には妙に感動してしまった。
 当の出版本に関しては、「関心度」は低かったが、東京に進出し始めた彼の偉業に敬意を表して参加費を添えて申し込んだのである。
 装丁デザイナーの弁がとても印象的だった。
 聴くに値する人生哲学を受け止められ、心地よい夜風に吹かれて帰途に着いた時点で思わず呟いてしまった。「来てよかった」、と。またそんな風に思えたのも嬉しかった。プロとは?の会場からの質問に対して、装丁師の答えが心を揺さぶった。「プロとは、次の仕事がくること」だそうだ。しっかり、仕事をしないと発注者は満足しないし喜ばない。仕事とは相手を喜ばせることであり、喜んでもらえない仕事は単なる作業である、と。喜んでもらえれば「次の仕事の注文が来る」と言うのである。
 書籍の表題だけでは「読書欲も購入欲」も湧かないが、こうして関係者が集い、「仕事をした」実績を本音で表現する時間を共有するとちょっと観点も変わってきたように思えた。
 帰路の常磐線の中で、改めて話題の本を読み返した。
 3時間のセミナーの濃度が測れたような気分になった。先入観と思い違いで読後感との温度差も痛感しながら凡庸な老脳の持ち主として恥じ入ってしまった。しかし、素敵な数時間を過ごせた余韻は帰宅するまで消え失せはしなかった。そのことだけでもホッとした。
 直帰してこのセミナーの感想を興奮気味に語る老人もまんざら捨てたもんじゃないと苦笑した。不思議に思ったのは、興奮していたにもかかわらずいつも以上に眠りに落ちるのが早かったことである。

2011/11/26

at the eleventh hour !!

~電車の中で考えたこと・・・~
 研究会の指導に出向いた小学校からの帰路の電車でこんな英語が浮かんできた。
 これは高校時代に憧れの英語教師から教わった言葉である。これは退職される前の、いわゆる「最後の授業」の時間に板書された英語であった。何故か、脳裏から消えることなく残っている。
 師は日本語訳をされなかった。この言葉の意味と示唆する内容全てを英語で話されたのである。未熟な高校3年生の小生には正確な深意はわからなかったが朧気に、師が伝えようとされた意味は理解できたと今でも思っている。
 昨日の電車の中でこの言葉が何故か、浮かんできた。
 そして老脳という一部分枯れている脳味噌にも。師のお教えが充血しながら広がっていくエネルギーのようなモノを感じ取った。それは、この小学校に通い始めて2年間の歳月の重さとも重なったのである。この小学校では今月の30日が研究発表の本番である。残り数日間しか与えられない剣が峰に差し掛かってしまっている。誰にも言えない『土壇場』の喘ぎは当事者しかわからない苦しさであろう。そんな重い雰囲気を察して、指導者としての助言は、また難しい。しかし、土壇場の喘ぎを共有する視点でアドバイスれば受け入れることは容易であると考えている。何もしていないような素振りの中にも当事者の一人一人としては土壇場感に追い込まれているはずである。
 本番を想定して指導助言をした。
 大した内容ではないが、彼らは真剣なまなざしで受け止めていた。後が無い「土俵際」まで追い詰められた時点で力を発揮するのは、「無駄な努力」しかない。無駄な努力をしていなければ火事場の馬鹿力など発揮できない。教育は「無駄な努力」の積み重ねにしか建立できない。即効性を要求する指導には大きな欠陥があるかもしれない。遅行性で十分である。遅行性には無駄な努力が似合う。
 今朝、先方の校長先生から興奮の電話を頂戴した。
 指導者(小生)の帰校後の、指導を受けた集団の豹変ぶりの報告であった。校長先生も感激されたようである。「やればできるじゃん」とは仰らなかったが、本番直前になって目が吊り上がるほどに真剣な眼差しで準備に取り掛かった姿を想像しながら、偶然にも昨日の車中で手帳にメモした内容との合致に苦笑してしまった。彼らの無駄な努力は存在していた、とほくそ笑んでしまった。
 小生の人生には「取り越し苦労」という文字はない。
 彼らの真剣な行為が、本番で実らなくても良い。まだまだ続く教員稼業のどこかで「花が咲き実がなる」時がやってくると確信している。その時点での見極めは困難であるが、それはそれで良い!!

2011/11/25

広域・地震発生注意報!!!

~出講日は4時前に起床~
 風呂のスイッチを入れて小さな書斎に戻る。
 パソコンを起ち上げてメールチェックする時間がいつもより45分は早い。着信が少なかったのでその1通に返信メールを送信し終えた。受信の内容が「先日の茨城県地震のお見舞い」だったので、お礼を述べつつ、『いつでも・どこでも』起こりうる地震についての見解を添えた内容にしたばかりだった。ラジオが広島・島根地方に地震発生の情報を知らせてくれた。また??震度3のエリアに「広島市安佐北区」との地名を聞き取りながら通いなれた小学校を思い出した。
 腰湯を終えて、豊橋特産の「次郎柿」に舌鼓を打っていると、今度はまたラジオから地震発生情報が流れた。今度は東海地方だと言うではないか。広島と東海地方は「出講地域ベスト5」に入るエリアである。ラジオに耳を傾けていた妻も、「行く所ばかりですね」と反応した。
 こうなると開き直りの人生観が頭を持ち上げてくる(笑)。
 どこに居ても自然現象には絶対に勝てない。邪心と憶測で自らの歩みを緩めたり怖気づいたりしても意味が無いじゃないか。天災は忘れなくてもやって来る!(寺田寅彦先生、ゴメンなさい)そんな思いが脳裏を充たしてしまった。考えてみれば、東日本大震災(3/11)の一か月後の4月11日に、無謀な転居を実行した張本人は小生ではないか。引っ越し荷物がクレーンで引き上げられて宙づりになったままで酷い余震に見舞われたのである。前途多難??妻も怯えたであろうが強引に引っ越しを敢行した。転居しても数カ月は身体全体が揺れているような錯覚を感じる程の余震の数だった。そのことを思えば、慣れてしまうとその中で工夫出来ることも多くなるモノである。生活の知恵、と言うのかな?
 広島・島根や鳥取、あるいは東海にお住いの皆さんの恐怖感は察します。実体験からしか生まれない工夫を編み出しながら自らの人生・開拓精神で前進するしか術は有りませんよね。
 能天気な爺さん発想で失礼しました。今日は横須賀市に臨時・出講です。準備を始めましょう。

2011/11/24

年賀状を買って来ました!!

~どんなデザインにしようかなぁ?~
 現役時代は休日を利用して「第一次締切日」ぎりぎりに仕上げて郵便局の指定場所に投函した。
 今は、毎日がサンデー。時間はたっぷりあるが『年賀状を作成する』意欲に欠けるのか、退職して数年間は途中で「父母の喪中」と重複したこともあり制作への情熱が削がれたこともあった。しかし、今回は「転居のご挨拶」という任務が課されているので手抜きは出来ない。郵便局に行った。11月1日に発売されて20日間以上も経っているが「売り切れ」の年賀状は無いようである。
 手書きの年賀状。
 温かみも人柄も十分に伝わってくる代物である。しかし、パソコンと言う利器の恩恵を考えると、ついつい『オール手書き』という年賀状はここ数年来完成したことが無い。決して自慢にはならないが枚数を量産するためには、「住所録」はそれに関わるソフトの力を借りることになってしまうのが避けられない。
 明日は神奈川県横須賀市に、「飛び込み出講要請」に応えるべく朝から移動することになった。「走る書斎」の時間を年賀状の草案づくりに使おうと考えている。
 種類としては3種類だろうか?
 卒業生・同業者・諸先輩と親戚縁者と分類するのが常套手段である。当方から投函する枚数より、届いた年賀状への返信が毎年の主流である。今回は、締切日以降に投函された年賀状の転送時間が気にならない訳でもないが、返信用年賀状の作成に掛かる時間は通常の年度とは違うことだろう。返信が遅くなってしまうことは申し訳ない気もするがどうしようもない。
 いずれにしても「自分なりの誠意」で年に1回の『ご挨拶状』を投函することにします。

2011/11/23

『年賀状』のことをすっかり忘れていました!

~年賀状と「わが人生観」~
 発売とほぼ同時に売り切れていた年賀状の社会情勢が年々変化している。
 メールと言う現代利器の影響なのでしょうか?皆さんはどう考えていますか?そして、もう年賀状の準備は始まりましたでしょうか?小生は、気が付いてみればまだ購入すら済んでいないのです。時勢が変わったと他人事のように述べていますが、時勢の中に生きている自らの意識も変容していることなのでしょうか。
 元日の朝。
 郵便屋さんの自転車(小生の少年時代は・・・)の音がすると真っ先に飛び出して受け取りに出たものでした。兄や姉にしか届かない年賀状は「オトナの証」のように見えて、年賀状が届くような大人になりたいと思ったこともありました。成長して中学生にもなると家族で購入した年賀状を数枚だけもらえるようになりました。厳選した宛先も、いつの間にか「胸をときめかせる」瞬間となり誰にも内緒の年賀状を書いて投函したものでした。その返事がとうとう届かず青春のハートが傷ついた時代もありました。年賀状の投函締切(元旦配達)を意識して夜遅くまで兄や姉が必死で書いていたのも記憶に残っています。
 故郷を離れて学生生活を過ごしました。元旦の何よりの楽しみは故郷からの年賀状でした。思いがけない友人(?)からの年賀状を大事にして、同居していた兄にわからないように隠したことも今となればただただ懐かしい「年賀状の思い出」となっています。
 ところで、今年の年賀状準備は?
 今日は郵便局がお休みなので明日にでも購入することにしましょうか。今年は、多くの年賀状が旧住所宛てにに届くでしょうから、「住所変更のお知らせ」を添えて返信することも社会的常識(笑)でしょう。転居のお知らせをしていない先輩諸兄や知人・友人にはこの機会を利して転居のご挨拶も考えて事前投函することが当然であろうと考えています。
 現役時代は700枚を超えた年賀状が届きました。返事を書くだけで1週間を要したものでした。そんな「年賀状の思い出」も、日本人として生まれた者の幸せだったのでしょう。儀礼とは思わなくなってきました。1年に1回ぐらいは近況のご報告をしてお世話になった感謝の意を添えたいと考えるようになってしまいました(笑)。

2011/11/22

移動中は全く感知せず

~全く分からないままに運転~
 茨城県下の地震発生は、二人の孫を車に乗せてショッピングモールに向かっていた時刻だったようです。
 息子は休日勤務で出勤して、読めは長男孫を連れて「地域子供会」の廃品回収の手伝いに出かけました。祖父母の下に二人の孫が置き去り(笑)になってしまいました。妻は、友人宅にお礼の品物を送りたいとの予定があるらしく、郊外にある大型スーパーに行きたいとの要望があったので孫も乗せて出発したのです。
 緊急地震速報の異常な音は、転居後もイヤと言うほど耳に届いていました。異様な緊張感と恐怖心を煽るような音でもありましたが、「無いよりまし」な通報音であることも実感していました。いつの間にか聞くことも無く忘れかけていました。と言うより、今回はラジオをつけていないでの運転中でしたので着信もできなかったようでした。モールに着いて直ぐに妻の携帯電話が鳴りました。横浜に住む次女からのコールでした。「えっ、感じなかった」との妻の返答を耳にしながらも緊急事態を予想だにしなかったのですが、その後、小生の携帯電話にも立て続けにコールが入り、「大丈夫ですか?」の連呼に事の大きさを感じたのです。
 ただ、ショッピングセンター全体にも異常な緊張感などの光景も感じなかったので鈍感になってしまったようです。帰宅してテレビを観て日立市(茨城県北部)を中心とした震度5強の地震が発生した様子を確認して、その時点での行動を振り返りながらゾッとしてしまいました。
 全く関知しないままに運転していることの怖さを知りました。運転中のラジオ視聴は、ひょっとすると命綱なのかも知れないと痛感した時間にもなりました。
 ご心配戴いた皆さん、ありがとうございました。

2011/11/21

夕暮れの『独り歩禅』

~見渡す限りの田園地帯~
 下の孫だけが家に居るので妻を同伴しての歩禅は不可能であった。
 農協直営店での「里芋」購入を依頼され、歩禅のコースを設定して独り歩禅に出かけた。茅ヶ崎市に住んでいる時もそうであったが、車の往来が激しい道路は歩き辛いので避けてコースを選んだものだった。当地に転居しても同じではあるが、コース選択の煩わしさは殆ど無い。数分もかからずに『田園地帯』に到着できるからである。大好きなスポットである。
 稲刈りも済んで今や、見渡す限り「休耕田」状態である。1ヶ月前ぐらいまでは籾殻を焼く煙も棚引く風景も見られた。農作業の終盤の光景には精神の落ち着きどころがあって大好きである。叔父や母が田んぼで仕事をしていたあの光景とオーバーラップしてくるところに郷愁もあって好きなのかもしれない。そして、最も好きな要因は農作業をしておられる農家の方たちが散歩人にも声がかかるところである。
 昨日の夕暮れ歩禅でも、肥料をまいておられた高齢の農家の方から、「寒くなったね」と気安く声を掛けられた。戸惑うことも無く「風が冷たいですね」と返答をすることができた。気温も下がり北風が冷たくなっている田園のど真ん中であっても「心の通う」対話が出来ると心内から温かくなって寒さを暫し忘れ足取りも軽やかになるものである。
 直営店はこの田園コースの中にある。
 妻の要望である「里芋」を2袋購入した。支払金額は200円也。高い方を買おうとした小生に農家のご夫人らしい店当番の方に、「キズあり」商品を勧められ「味は同じですよ」のお墨付きをいただいて意気揚々と帰路に着いた。妻の喜ぶ顔がチラついたので速度の早まる歩禅の帰路となった。
 この田園地帯からは、夕暮れに筑波山が見えるのであるが昨日は見えなかった。茅ヶ崎では富士山であったがここでは筑波山である。農作業の天気予報になる「山々」の存在を少年時代の思い出と一緒に思い出す。少年時代は、縁側から見えたのは雲仙・普賢岳であった。
 そんな懐古を楽しめるのも広い田園風景のお蔭である。

2011/11/20

初冬の『嵐』に歓迎された里帰り



 ~立派過ぎる「次世代人」との出会い~

 愚息より1歳年下だと判明した瞬間、親父の視線で講師を見詰め続けた2時間だった。

 素晴らしい学歴に驚嘆した訳ではない。氏の自己紹介から『育ち』の良さを感じたのである。祖母・父母の話題から「人間性の育成」を垣間見る思いで聞き入ってしまった。大学で研究した専門分野を生かして祖父が創設された会社の三代目の後継者として乗り出した氏の若さに似合わない「将来考回路」にはただただ感服するばかりであった。

 昨年の秋季講座にも40歳の講師を招請した。

 彼の人生哲学にも感動したが、違った分野の経営哲学に「新世紀の会社経営」への頼もしさを実感できた。次世代への期待感が高くなったことに安堵できたのは何よりの収穫でもあった。若い世代への期待を勝手に喪失させては申し訳なく思える程でもあった。この経営哲学を多くの教員に聞かせてみたい、と無理な(笑)願いを抱いてしまったのは小生にとっては珍事である。

 それにしても、初冬の嵐には参った!

 第二の故郷への里帰りにしては手荒い歓迎であった。懇親会会場から1分の茅ヶ崎駅であるのにびしょ濡れになるほどの暴風雨であった。しかしながら、若い世代の講師の「前途洋々たる」話題の展開に時間の経つのも忘れて聞き入ってしまった余韻は、触発された老脳には初冬の寒さなど感じないほどの熱エネルギーを増産させていたのだろう。寒さなど全く感じない興奮度であったようである。

 主宰する『響の会』が全国にも支部活動として展開されているが、広島『響の会』でも教育関係者以外の講師を招聘して講座を開いている。ここ数年、聴講者も増えて盛り上がりを感じる運営に更なる期待が高まる思いである。教育者が身内だけの同業者感覚で「研究会・研修会」を展開すると、傷のなめ合いから超えることのできない指導で終わってしまいがちである。異業種の厳しさを体感できる時間の特設は必要であると確信している。

 息子の頑張りを体感した満足感は今朝のこの時間まで持続している。嬉しい朝である。講師の今後の奮闘を心底から応援したい。ちがさき『響の会』には、今度は会社見学をして現場での氏の講義を聴いてみることをお勧めしたいものである。



2011/11/19

『決め手』のポイントを考えさせる

 ~相撲のテレビ観戦で学ぶ~
 「協議の結果、“取り直し”と決定しました。」

 相撲の世界では軍配は勝敗を決する合図の一つであるが、微妙な展開になったら審判の判断を仰ぐのがこの業界の掟であるようだ。6日目の土俵でその現場に遭遇した。幼い頃、「もうすぐお正月」という感傷を運んでくれたのが大相撲の地方巡業(興行)であった。師走の風が冷たくなった空気の中で裸の力士が汗だくになって取り組む姿は少年時代の年末の風物詩だった。九州場所が終わると九州管内での巡業でファンを喜ばせてくれたのである。その思い出が今でも相撲ファンとしてのテレビ観戦の引導となっているようだ。
 観戦を楽しみながらも、長い間、腑に落ちない部分があった。
 それは、審判を仰がれた4人の審判員を代表しての審判長の説明である。スポーツ選手は、「無口で喋り下手で」は大目に見られ、それも魅力の一つのポイントとしても価値があるようだ。それには異存は無い。しかし、言わなくても良い言葉を連ね過ぎて肝心なピントがボケてしまう審判長の説明には、業界としての「企業努力」を要望したいほどだった。ところが昨日のその場面で、視聴者がすっきりするような説明がなされたのは貴乃花審判部長の上記(青い文字の部分)の、僅かこれだけの文章(説明)であった。マイクを預かり、ただこれだけで責務を果たして「取り直し」への興奮を観客に繋ぐべく最上の手法である。
 余計なことを言うな!
 先人や先輩からも良く注意された。最近では「説明義務」(アカウンタビリティ)とやらが横行(笑)していて、長々と理由から経過まで説明することを「良し」とする風潮になってしまっている。教育界に身を投じていた日々にも、この「大義名分」に振り回され無駄なエネルギーを遣った苦い思い出が蘇ってくる。相撲の激戦は終わった。どちらかが勝ったら相手が負けである。行司さんは土俵の上で懸命な即決を余儀なくされる。軍配には「取り直し」の上げ方はないようだ。とすれば東か西に向かって「勝者」を指示さざるを得まい。業界では間違った軍配は「差し違え」と言うそうだ。差し違えの少ない行司が出世することは否定できまい。しかし、土俵の上の力士も懸命だが行司さんたちも必死である。その極致の世界で判定を覆せるのが審判員の元・力士さん達である。感情論や人情論を、この場で移入した説明は無用ではないか。力士だけでなく行司にも失礼ではないか。

 ただ今の勝負についてご説明申し上げます。行事軍配は〇〇の勝利とみて東(西)方に上がりましたが、〇〇審判から●●の方が先に土俵を割っているので・・・・・・と物言いがつきました。協議しました結果、軍配通りに〇〇の勝ちと決しました・・・・
 
 この類が慣例のセリフである。
 貴乃花審判部長の説明を初めて聞いた時、業界の企業努力に敬意を抱いた。しかし、その後何度か他の審判長の説明を聞くたびにその事実を否定せざるを得なかった。つまり、これは人間個々が持ち合わせる「哲学の会得」姿勢の問題だ、との結論に達したのである。結論を性急に出せと言うのではない。わかりきっていることや言及の必要性のない点までだらだらと前置きするな、と言うことである。何を言いたいのかがはっきりしないままに「説明義務」を果たしていると思い込んでいるような政治家を見るにつけ、貴乃花親方の「審判結果」発表のような最短時間で要点のみを述べる手法を磨いて欲しいと願うばかりである。
 校長職時代に、職員会議と言う仰々しい場面で「何を言いたいかわからん」とぼやきながら忍の一字に徹した苦渋の時間が彷彿としてきた。決め手のポイントを押さえる学習はどうすれば会得できるのだろうか。同業者には厳しい老輩は、授業での「無駄話」に興じる教員各位にそのまま結論を熟考することを委ねておきたい。今朝のボヤキはこの程度にしてペンを置くことにしよう。

2011/11/18

日常と「非日常」

~4歳の孫の「せりふ」で気づく~
 小生は健康管理の一環として「日常化」している行動がいくつか顕在する。
 4月に当地に転居して7カ月を孫たちと生活している。祖父ちゃんの異常な行動(笑)に気づき始めたようである。的確にその感想を表出してくれるのが最年少の孫息子である。8月で4歳になった。つい先日、いつもよりかなり遅い時間の「朝ぶろ」のために浴室に入ろうとした祖父ちゃんに向かって発した言葉が浴槽で考える時間を増殖させてくれた。「夜でもないのに、なんでお風呂にはいるの?」であった。数日後の夜、一緒にお風呂に入って出てきた孫に、また異常な祖父ちゃんの行動が目に付いたらしく次の表現である。「風邪ひいているの?」の質問に「引いてないよ」の回答に訝しい思いになったのだろうか。「風邪もひいてないのに、なんで体温計を使っているの?」であった。老脳の思考回路が説明文で埋まってしまった。「話せば長くなるが・・・」である。
 日常的な動きは異常に映らないが、非日常的な言動(笑)は異常になってしまう。
 鍼診療師の指導により、『自然治癒』療法として半身浴の日常化を推されたのである。小生の長年の腰痛との格闘を師はご存じだったからである。科学療法(医学)の力を頼らずに自然治癒できるには温浴を続けることの重要性を自らの納得で開始したのが『腰湯(=師のネーミング)」である。ほぼ10年になるが、自然治癒力のパワーを実体験しているというのが結論である。つまり、その間、腰痛の症状が出ても悪化は全くない。医療のお世話になっていた10年前が嘘のようであるから嘘ではない(笑)。
 体温計の常用は、朝夕の体温を記録することを指示されたからである。
 体温が下がれば病原菌への抵抗力が下がるという業界の常識らしい。加齢と同時に体温は下がるとばかり思い込んでいた小生に、37度あったら(小生夫婦の常識では「微熱」)、どんな菌にも勝てるという講釈に半信半疑で朝夕の体温を測り始めて驚いた。検温への意識を確立できたのも、「風邪をひかなくなった」現象である。ここ4年間風邪を引いた症状は全くない。参考までに、小生の朝の体温は36度前後であるが、就寝前は36度5分から37度1分である。常識と思っているのが「日常的」だとすれば37度は微熱と思い込んでいたのは日常的であったことになる。
 烏の行水と言われた小生の入浴であったが、夏でも朝の半身浴は20分、夜の入浴は10分間浴槽で「禅を組む」心境でラジオを聴きながら「自然治癒力」を保持するための務めとなっている。世間の非日常的な言動が、小生にとっては日常的な動きであることをいつの日か孫たちも理解することであろう。よしんば、理解しなくても良い現象であることも納得している。
 6時半に出向した昨日は、午前3時に起床して『腰湯』を済ませて体温を計って記録して日常化を続けている。11年間薬と言う名のつくモノは胃袋に入っていない。小生の薬は??晩酌である(笑)。今朝も駄弁を弄しました。予防は直前に施しても予防にはならないそうですよ。予防こそが「日常的」に行うことのようです!!晩酌は小生の日常的「予防薬」の服用であるとご理解くださいませ。

2011/11/17

急に『寒く』なりましたが・・・。

~寒暖を繰り返しながら確実に冬が迫る~
 全国の読者のみなさん。お風邪などひいていませんか?
 TV画面の全国の気温一覧を見ながら、前住居地との温度差に驚いています。南国九州で生まれ育った小生は、18歳で神奈川に上京した折の「冬」の寒さを当時の記憶では「風ばかり引いています」との手紙がその証拠を示しています。この手紙は上京したばかりの4月に送った母への手紙です。何故か何十年も持っていました。今度の転居で処分しましたが記憶は「書いて」みただけでも残るものだということも知りました。次兄と過ごした当時は、炬燵も持っていなかったので布団を卓袱台に掛けて暖をとったことも思い出しています。その年の暮れに、兄が薄給を叩いて炬燵を買ってくれました。あの温もりも感謝の念も贅沢に慣れると忘れてしまうのです。薄情なものですよね。
 今日は神奈川県藤沢市に出講です。
 今日はこの冬一番の寒気団が関東平野にも降りてくる、との天気予報です。一段と寒い地方に転居していますので「風ばかり引いています」との手紙を送信しなくて済むように健康管理には気を配らなくてはいけません。朝夕の気温の低さに馴染むには何回かの冬を過ごしながら寒気を肺や心臓に送り込むことが必要かもしれません。そんな思いで今朝も出講の準備のために3時に起床しました。6時半には電車に乗ります。幸か不幸か、駅まで徒歩でも5分かかりません。身体が温まる時間も無く車中の人になります。電車の中で「するべき仕事」の段取りも終わりました。
 寒さに向かう折りです。健康にはくれぐれも注意してお過ごしください。行ってまいります!

2011/11/16

『親バカ』を吐露します!!


 ~嫁がせて13年が過ぎた??~

 長女が嫁いだのが新任の校長として着任した年度末だった。その2前年に母親が他界したので孫の花嫁姿は見て貰えなかった。そんな朧気な記憶を弄っての表記であるので正確なものではないが、かれこれ13年ぐらいは過ぎているようである。当時は神奈川県茅ケ崎市に住んでいたので、嫁ぎ先の千葉県八街市までの距離はそれなりの「嫁ぐ」距離感は有ったような気がしていた。嫁ぎ先のご両親に大事に育てられて娘から嫁へと成長して行く言動に目や耳を疑ったことも多かった。感謝の一言に尽きる。  昨年あたりから、「ちっちゃなお店」を開く準備に入ったとの情報は届いたが、自営業とは全く無縁の給与所得者には別世界である。わが人生で資金の調達やその回転業務など話題にも付いていけない環境で育った娘が、自営業である嫁ぎ先の生活にはカルチャーショックも受けたことだろう。愚痴を零さないのは母親譲りなのだろう。父親の小生とは似つかない性格である。そんな娘が、ホームページを創設して「新業務」を起ち上げたのである。小生のHPにリンクすることぐらいしかできない無能な父親であることは自他ともに認めることであるが、何か「お手伝いの真似事」でもしたくなっている自分が滑稽である。これを『親バカ』と言うのであろうか。

 子育てにも神経質な言動を飛ばしたことも無い。進学も就職も全く関知せずに3人の子供を育てた父親も、孫軍団の存在で少々気風が変わってきたのかもしれない。そこで、写真(上)に商品を撮ってみた。
 そして、このブログにお目通しいただく読者のみなさんだけにでも広報できれば親バカとしての責務の一部分を果たせるのではないかと考えたのである。嫁ぎ先の千葉県八街市は落花生の特産地である。落花生を天日干しにしている風景(写真・右)が、初めて訪問した日の思い出としてもはっきりと浮かんでくるほどの生産地である。嫁ぎ先の家業の援助を受けて「ちいさなお店」をネットで開店した長女が動き出しました。お店のホームページ(小生のHPのトップ画面「やまよし」)を覗いて見ていただけるだけでも嬉しいことである。お時間がありましたらよろしくお願いします。

2011/11/15

10月18日付ブログの約束を果たします!




 ~講演資料として活用して・・~

 11月12日 千葉県八街市での『地域福祉フォーラム 』への登壇も3年目。

 去る10月18日の当ブログで「感動のスピーチ」を取り上げました。作者の祖父との告別のスピーチでしたので当事者には使用目的を話して、若干の書き直しも要求しました。完成したものを講演の朗読資料として更に手直しをして再度本人の承諾を得て 出来上がりました。会場で朗読しました。ハンカチで涙をふかれる光景が多数ありました。 告別式は先月の17日でしたので一か月掛からずに資料として活用できたことに満足しています。

 講演会後の懇親会でも資料への反応がたくさんありました。資料を欲しいと仰る方もありましたのでご要望の手段でお送りする約束をして帰ってきました。

 祖父母業に連日精を出している(笑)小生夫婦もこの「孫の眼」の観点を十分に理解して、次々世代への「申し送り状」として、古い生き方の存在感を残しておくべきだと考えるようになりました。時代は繰り返しながら変遷していくのでしょうか。小学生時代に「放射能・雨」というその時代の用語として日常化されていたことを思い出しながら時代の繰り返しと変遷を痛感している毎日です。

 久しぶりの外孫(娘の子供)とのゆっくりした数日間は、また楽しいモノでした。赤ん坊とばかり思っていた末孫が年が明けたら小学校に入学だという。祖父ちゃんも年を取る筈!!(笑)。

 とりあえず、気になっていたこのブログでのお約束をここに果たしすことが出来てホッとしています。

2011/11/11

森重久弥節を聴きながら・・・

~「知床旅情」に元歌があった?~
 1週間前と同時刻に起床したので早朝『腰湯』の時間も早い。
 3時からのラジオ番組を浴室で聴きながらうっとりしてしまった。今朝は森重久弥氏の「うた」特集であった。後に加藤登紀子さんという歌手が歌った「知床旅情」という作品の成り立ちをアナウンサーの解説を聞いた。「オホーツクの・・・・・」と言う氏の作詞作曲の元歌があったことを現物にて聴くことが出来たことは至福である。知らなかったので妙に新鮮に聞こえた。
 個性的??な芸能人。
 大好きな俳優さんのお一人でもある。主演された「社長シリーズ」を何本も観ているので歌声を耳で捉えながらも脳裏を掠めるのは映画の独特な雰囲気であった。ラジオ番組での特別シリーズは昨日が氏の亡くなられた日だったようである。95歳の人生を終えられたとの説明を聞きながら芸能人としての知性、つまり演技力や歌唱力を通して個性を十分に国民に知らしめた存在感はやっぱり素晴らしい人生だったのだと、ファンとしての感激してしまった。
 今日は「近くて遠い」地に出講である。
 神奈川県藤沢市に出向くのに、当地を6時37分の常磐線に乗車しなければならない。広島や高知、鳥取に出向く日程と変わらない。つまり、特急電車や新幹線を利用しないと合理的な旅の時間を使いこなすことにはならないということである。矛盾を感じない訳ではないが、当然のことでもある。
 明日も至近距離にある燐県・千葉県八街市が会場となる。幸いにも長女が近くに住んでいるので今夜は藤沢市の会場から直行することにしている。数か月ぶりに孫たちとも会えるのが、また別の楽しみでもある。従って数日間の本ブログを休刊いたしますのでご了解ください。

2011/11/10

教員人生の「転換」地点

 ~「38歳」の初冬の出来事~
 正式な日付で言えば29年前の「昨日=11月9日」の出来事です。
 英語の教員を務めながら、「海外研修」(留学も含めて)を経験していないのは肩身の狭い心情は常に脳裏を掠めていました。夏季休業を利用して学校長の許可を得て市教委の承認を受けて短期であっても海外に語学研修に参加する同僚(英語教員)を横目に見ながら、妻にも言えず悶々としていたことも事実です。3人の子供を育てる専業主婦の妻の苦労ぶりを知っているからこそ言い出すことはとてもできないまま教員生活を続けていた小生でした。そんな時期に、大きな転機となる研修機会が飛び込んで来たのです。文部省(当時)主催の中央研修を受講することになりました。2年前の2月のハプニングでした。当時、中学3年生を担任していました。入学試験と卒業の直前でしたので、そんな時期に担任が不在になったら学級の生徒たちの不安も大きいだろうから、と小生は校長先生に拒否の回答をしました。怒ったことのない校長先生から罵声を発せられ啞然として校長室を出たのを、本当に昨日のように思い出しています。詳細は省略しますが、その研修の延長線上に「海外研修」が待っていたのです。
 1か月間の長期研修旅行。
 「渉外」という通訳の仕事でした。最初の訪問国はブルガリアでした。日本語~英語~ブルガリア語~英語~日本語と数往復をしているうちに内容に大きなズレが生じているのに気づきました。真冬のブルガリアは雪景色でした。しかし、寒いこともすっかり忘れて背中は汗びっしょりでした。そんな体験を皮切りにロングランを終えて帰国しました。失敗だらけの研修でしたが、その後の教壇生活には大きな大きな変化が生まれました。帰国報告をするために市教委・教育長室へ伺いました。「公的なお金を掛けて海外研修に派遣したのですから、今後はその恩返しのために頑張ってくださいよ」との教育長のお言葉はその後の教員人生の支柱になっていました。
 そんな大きな人生の転換期となった思い出の日が「11月9日」なのです。
 あれから約30年の歳月が流れました。公費(=税金)を掛けていただいた御恩を「立派にお返し」することも少なく齢を重ねるだけとなってしまいました。せめて、後進の「同業者=教員」に対しては、『恩送り』の真似事でもしなければ、と心新たにしている朝です。

2011/11/09

実にタイムリーな話題

 ~「ゆでガエル現象」の深意~
 小生の鍼診療を終えて妻の診療に移った。

 診療の合間を縫って敬愛する師の言葉を求めて談笑する。診療自体に関わる忠告は当然ながら、氏が危惧される「生活環境」全般に渡る話題が小生夫婦の「健康づくり」に多大なる影響を与えることが実証されているので、更なる欲求を満足したく通常の生活の中で疑問に思っていることや不安に思っている自らの体調等について話題を振るのである。

 師が危惧されているの『電磁波』なのである。

 孫を持つ祖父ちゃんとしては、孫世代には必需品であると思われる携帯電話や電子レンジ等と電磁波の関連が心配な訳である。全てが「電化される」傾向から生活様式に不安が募るのは小生だけだろうか。そんな実態も語りながら情報を得るのである。

 実体験的な感覚に疎い小生にはピンとこないところがあったが某大学の教授が自らのゼミ生を中心に「ゲーム機」愛着度と脳波を調査研究した結果を書籍にして発行された。講演も直にお聴きしたのでデータと現状がダブルパンチで祖父ちゃん脳に大きな衝撃が走ったのは事実である。この話題は以前にしたことがある。この紙面では多くは述べられないので、偶然にも師の口から飛び出した言葉についてのみご紹介しよう。

 前日に読んだばかりの新聞記事である。(写真版) 恥ずかしながら、「ゆでガエル現象」という表現を知らなかったので、新聞記事を読み終えても妙にくっきりと記憶に残っていた。


 「ゆでガエル現象」そのものが電磁波による人体を蝕む現象を説明していることである、が開口一番であった。じわじわと電磁波が人体に向かって押し寄せているのに気が付かないままに体調を崩し、気が付いた時にはぼろぼろの病身になっている、ってことだよ、角田さん。


 師の捨て台詞にも似た言葉が今回も小さな老脳を刺激した。

 電力会社と電気製品メーカー。オール電化と生活様式の利便性。時間短縮と効率性。一対の言葉を並べながら妻の診療が終わるのを待った。

 モノづくりが日本文化の誇りだった、筈であるが「手作り」も全て消滅しそうな利器文明社会の実現である。人づくり(教育)も、同様に括られがちな時代も到来しそうである。電磁波に蝕まれた心身に「学力だけを積んで」その評価だけを競うような恐ろしい時代になってしまうことに恐怖すら感じる祖父ちゃんであります。

 「ゆでガエル現象」の怖さを、師の多角的なデータを通して聴いた余韻で、帰りの電車(ここも電気?)の中でも老夫婦の話題として事欠かなかった。 

2011/11/08

『立冬』の朝は・・・

 ~隔週設定の「鍼診療日」~
 深夜に雨音で半分目が覚めた(笑)状態で夢うつつでしたが雨戸を開けて地面の湿り具合が雨量を確認させてくれました。新潟県の上越地方ではまだ雨が降っているとのラジオを聴きながらこの雨がこれからは豪雪地帯の特徴を演出するのだろう、と考えつつパソコンに向かっています。
 転居しても東京都町田市の鍼診療所には通うことを決めた老夫婦は、今朝も出立の準備をしています。片道3時間弱の「乗車時間」に堪えられなくなったら通所は断念することになるでしょうが、現時点では意志が固いので出かけることにします。
 今日は立冬。
 暦の上での季節は、実態とはかけ離れることも多いのですが、心情では「もう、冬か!」と言う思いは募りますね。昨夜、卒業生からのメールを受信しました。「ミニ同窓会」の案内です。毎年の「暮れの行事」です。大掛かりな同窓会ではないのですが、毎回15名ぐらいは集まって来ます。勤務した中学校が藤沢市の関係から会場は藤沢市となっています。昨年までは茅ヶ崎市からの参加でしたので時間的な負担は全くなかったのですが、今回からはかなりの遠距離になってしまったので若干の躊躇いもありました。しかしながら、カレンダーには既に記入済みの行事ですので「参加します」の意志表示を送信しました。卒業生との再会は、また格別な思いに浸ることが出来ます(反省も多いですが・・)。
 寒くなります。
 茅ヶ崎より少しだけでも「寒い」地方に転居したのですから覚悟はしています。風邪などひかないように気を付けたいと心している立冬の朝です。読者諸兄も健康には気を付けてお過ごしください。

2011/11/07

万艱こもごも到る

 ~29回の積み重ねに・・・~
 さまざまな感情が次から次へと湧き起こる、という意味らしい。
 「万感胸に迫る」の表現が分かり易いのだろうが敢えて挙げてみた表現である。この実感を味わったのが5日(土)の浜松『響の会』周期セミナーでの代表役を押し付けている鶴見氏の開会の言葉が耳に届いた瞬間からだった。迫ってきた万感に押されてしまったのか、実践発表者の写真も取り損なってしまって猛省である。
 「加齢の証」をいくつも体験する年齢になっているが、「走馬灯の巡るが如く・・・」との比喩を使うようになってしまっていることもその証の一つである。この浜松市でのセミナーを開始させたのは当時の1つの小学校の先生たちであった。発信としである神奈川県茅ケ崎市は当然ながら、東京都立川市や広島県広島市にも『響の会』は開設され管理職の先生方の肝いりで定期的に実践されている。校長・教頭というトップリーダーの声掛かりがあると一般教員も刺激を求めて参加するのが「教員の自主研修会」である。自主研修であれば会費は付き物である。当然ながら主宰する『響の会』も受付で参加費を払って会場に入ることになる。
 茅ヶ崎で立ち上げた時点でも「参加費の額」では様々な考えを聞いたことを思い出している。「身銭を切って」、とは古い表現であるが、更に古い表現にすれば「木戸銭を払って」となるだろう。自らの修養する事まで「公費(=つまり税金)」を使うことに、身分保障とばかりに慣れてしまうことほど怖いものはない。つまり、主催者側の資金で運営され参加費無料と銘打って開催される研修会である。
 主宰者として推された時点で自らの考えを明らかにした。補助金をいただいたり、会場費を軽減して戴くことへの抵抗感が強かったのである。なぜならば、解説しようとする研修会の参加者は列記とした教育公務員であるからだ。公務員としての意識がややもすると公私混同に陥る。「なつやすみ」という学校文化でさえも教員も「なつやすみ」として定着しかかった恥ずべき時代に教員として生きていたからである。私的な会話で、「先生は良いですね、夏休みが長くて・・・」と挨拶代わりの言葉を掛けられとても嫌だった。考えてみれば現状に応じた社会通念だったのである。
 横道に逸れたが、この浜松のセミナーに集う「仲間たち」は、管理職のお墨付きも無く、全く自らの意志で参加費を毎回払って「学び」を求めて参集しているのである。正規の事務局もない。そんな状況下で参加費をやりくりしながら10年もの間継続して開催している関係者の苦労を察すると胸が熱くなったのである。様々な光景も浮かんでは消えた。走り出した頃の「向こう見ず」の運営ぶりも今となっては懐かしい思い出となって走馬灯を駆け巡るのである。鶴見・幸村両氏の姿勢には頭が上がりません。いつも受付をやり続けている美和さんにも感謝の言葉を探すほどである。
 「次回は30回目を迎えます」との代表の言葉は、帰宅後のメールで「記念すべき会」にしたいのでより一層のご指導をお願いします」、との内容で締めくくられている。日程の候補日も挙げていただきました。最優先です!ご希望の日時を選んでください、と返信しておきました。
 参加され聴講された方々に十分な講義ができたかどうか?自省をしている朝です。

2011/11/06

閑かに小雨の降る午後・・・。

 ~少し雨脚が強くなったような気がします~
 昨夜は関係者の配慮で予定していた時間より1時間早い新幹線「ひかり号」で浜松駅を発つことが出来ましたが、道程の距離は縮みませんから所要時間を同じです。しかし、夜の1時間の貴重さを痛感しつつ我儘を聞き入れていただいたことに感謝しながら車中の時間を過ごしました。
 缶ビールを買うのは一種の病気(笑)?
 おつまみに購入するのは気分次第で一定したモノはありません。小さなビニール袋を片手にして行列の後ろに並びました。夕刻の6時ですから浜松駅を発つには丁度良い時間帯でしょうか。新幹線を待つお客様の列はいつもとは違いました。1時間に1本の「浜松駅停車・ひかり号」ですから首都圏への戻り客には決しての無理のない時間帯と考えれば乗客も多いに決まっているのでしょう。それにしても背中にあるリュックの重さが肩から首にかけてずしっと食い込んでくる感じが強くなりました。自分との闘いに数分間堪えたらひかり号が到着してくれました。車内はガラガラでした。二人掛けのシートを選んで腰かけて荷物を置き直して腰を引いてゆったりしたことは記憶していながらも新横浜駅を新幹線が出る時刻まで眠り込んでしまったようです。「次は品川です」のアナウンスにビックリして目が覚めました。それはずっと昔に眠ったまま品川駅まで行ってしまったという苦い経験があったからです。当時は茅ヶ崎市に住んでいたので、新横浜駅下車で在来線に乗り換える行程だったからです。誰も知らない筈なのに独りだけで全身に暑さを感じてしまい苦笑している自分に苦笑してしまいました。
 東京駅は眠らない駅です。
 新幹線から山手線に乗り換えるのに構内を歩きながら「どこからこんなに多くの人が来ているんだろう」と、良く自問自答するのですが、結論は常に自らに返ってくるのです。「そういうキミも周囲の人から見れば・・・」ですよね(笑)。
 上野駅は東京駅とを、ちと違います。
 『東北』の地へ繋がる起点であることに違いがあるのでしょうか。構内のルックス(照明度)も少々暗いよな感じもします。でも、そこが何となく気に入っていることも事実です。地方に向かう「特急列車」の発車案内もそんな感情を掻き立てるのでしょうか。北海道へ直行する特急列車の後姿は東京駅では見ることが出来なくなってしまいました。40年前ごろは、九州出身の小生は何時間も前に乗車予定の特急列車の乗客が並ぶ行列に座って待ったものでした。故郷への郷愁の思いで何時間でも待てたのでしょう。今は、新幹線の普及で東京駅は様変わりです。
 昨夜も、上野駅では特急列車に乗車せず普通電車の「常磐線・勝田」駅行きに乗りました。下車駅までの所要時間は1時間半です。特急列車に乗車しても土浦駅で下車して在来線に乗り換えなければなりません。接続が不備な場合は25分間も駅のホームで待つことになります。従って普通電車で行ってもあまり変わらないのです。そんな生活環境部分でも、当地の生活に「慣れてきた」と言うことでしょう。
 途中から車窓に雨がぶつかる音も聞こえ始めました。
 旅慣れしている人の条件に、「傘の常備」があるそうです。小生も自他ともに認める旅慣れした旅人認めているのです。座席の横においてあるリュックから常備しているはずの傘を取り出そうとしてハッとしました。玄関先の定位置にぶら下げたままに出発してしまった光景が浮かんできたからなのです。出発時点で「リュックに入れれば・・・」と自意識はあったのモノの、現実にはリュックに傘が存在しないのです。出発時間を勘違いした症状(前回のブログ)の副作用が顕在でした。時間がありすぎたので「後で・・」の癖が出てしまったのを今更悔やんでも仕方がない状況下に押し込まれました。皮肉なことに取手駅構内で停車している電車の窓には叩きつけるような雨脚ではありませんか!!取手駅から下車駅まではまだ45分はあります。このままの雨脚が東に移動する時間に到着です。前途多難!
 この旅人は「晴れ男」と言われることが多いのです。しかし、昨夜は一縷の期待も持てない状況でした。しかし、しかし・・・ですよ。なんと下車駅では傘をさしている人はいらっしゃるのですが、差さないで歩いている人もいらっしゃるではありませんか。ほくそ笑んで改札口を出たことは間違いありません。傘も要らずに帰宅しました。妻は玄関先にぶら下がったままの傘に気づいていません。従って、電車内の心理状態の報告も解説も無用だったのです。ゆっくりと入浴を済ませてそそくさに布団に潜り込みました。即刻の深い眠りに陥ったことは間違いありません。
 眠ってしまえば過去の話は小生の人生には不似合なのです(笑)。
 そんな昨日の風景を思い出したのは午睡の直前でした。そして孫の襲来に目を覚まして、雨脚の強くなった庭先の栗林を見ながら2日間の『旅』を思い出しています。皆さん、ありがとう!!

2011/11/04

『勘違い』と爺の思い込み

 ~1週間後の出発時刻と・・・~
 昨夜の妻の問いかけを苦笑しながら思い出している午前4時。
 3時40分が体内時計の「起床時刻」である。目覚まし時計は殆ど使用しないのが日常。3時に起きる予定になった場合のみ外注する(笑)。つまり時計に時刻設定のアラームを利用することにしているのは非日常。昨夜の時点では「完璧なまでの思い込み」で、アラームを必要とする意識であった。アラームの音が鳴ったので、「そうか!今日は遠出だった」とばかりに老夫婦は無言のままに勝手な動きに入った。早朝の半身浴時間も日常より1時間早めであったが、疑うことも無く夫婦は黙々と早朝の出立準備である。退職後のリズムは時として非日常的な動きになることも慣れてしまっているので日常的な動きにはそれぞれが気にもかけない状況であった。
 来週の神奈川県藤沢市への出講のための出発時刻と勘違いしていたことに気づいたのは4時の朝食を終えて荷物の確認に取り掛かった時である。浜松駅に12時半に到着する新幹線なら東京駅を11時ごろだよなぁ・・・、と独り言を言いながら時刻を逆算すると誤差の大きさに気づいてしまった(笑)。
 近距離の普通電車利用での移動が、新幹線を利用した時よりも所要時間が長いのである。つまり、神奈川県藤沢市に向かう普通電車利用の時間設定より名古屋駅直行の「ひかり号」利用の方が短い時間で目的地に到着できるのだ。そんな日常的な旅のプラン作りの基本的な着想が、老脳を攪乱してしまったようである。
 笑って誤魔化す!!
 そんな夫の腹の中を見据えたかのような老妻の一言。「逆でなくて良かったじゃないですか!!」と悠然として録画しているらしいTV番組を見始めた。ご指摘の通り(笑)、逆だったらパニックを起こしてしまうだろう。間違ってしまったお蔭で(笑)、このブログも書き終えてからでも十分余る時間となっている。こうした失敗談をブログにすると反響が必ずある。それは異口同音に「ホッとします」と書かれているではないか。講演活動と言う「偉そうにモノを言う??」活動を主にしている小生は、失敗などすることなく立派に生きている人間として映っているらしい(?)。怖いことだ!
 自粛しつつ、何度となく自省しても生まれつきの能天気は変わる由も無し。
 そんな能天気者は余った時間を利して、読みかけのミステリー小説でも読みながら束の間の転寝を満喫することにしましょう。おやすみなさい・・・、そして、時間が来たら「行ってまいります!」。浜松『響の会』に参集される先生方との久しぶりの再会を楽しみにして出かけます。

2011/11/03

茅ヶ崎から運んだ「菊の花」が咲きました!

 ~植え替えて丹精込めた妻の作品?~
 親しくさせていただいていた茅ヶ崎のご近所の方から戴いた妻のお気に入りの「菊の花」がやっと見ごろになり多くの花が開き始めました。深紅色の花弁は夫も好きであります!震災の余震に揺れ、放射能とやらの攻撃も受けながらも見事に根を張って育ってくれました。
 妻は最初に咲いた一輪を特製の花瓶に挿して仏壇に供えていました。
 速いモノで三回忌も同時に済んだ義父母のお墓にも近々、咲き誇る菊の花を持参することでしょう。仏花を「買わないで」供えること、は転居の際の妻の夢でもあったようです。まだ、余裕もなく上手に栽培が進んでいませんが、茅ヶ崎の「猫の額」に比べれば何十倍もある庭です。また、近隣は農地(栗畑)でもあり、植物を育てるには絶好の土地であるのは今後の楽しみになること間違いありません。
 小生はこの写真を、戴いた茅ヶ崎の知人に葉書に転写してお礼状を作りました。そして、歩禅のコースで投函して来ました。夕暮れの農道が歩禅のコースです。西方に筑波山を見ながらスローライフを地で行っているような気分にも誘ってくれます。もみ殻を焼いている田んぼの方から流れる「煙り」に、農家の倅として育った幼い日々の「故郷の匂い」を思い出して感激してしまいます。何十年間も忘れていた故郷の香りの一つなのです。
 今日は、転居して初めて国旗を揚げました。
 転居してから数回の旗日にもゆとりがなかったのでしょうか。一度も揚げて上げていなかったのでホッとしました。茅ヶ崎だけでなく、この地でも軒先に国旗が揚がっている家はありません。国状として理解してしまっても仕方のない現実ですね。主義信条の問題でしょうから、他者への批判や中傷はありません。庭で遊ぶ孫たちの視界にその存在感が残像として思い出されれば祖父としての細やかな望みが果たせるというだけです。
 明日は暫くぶりに遠出します。
 早朝から愛知県豊橋市へ向かいます。明後日は静岡県浜松市に戻って仕事を終えたら宿泊せずに直帰する予定です。深夜の帰宅になりますが、頑張って仕事をしてまいりましょう。

2011/11/02

新世代ベアーズ??

 ~動物界にも新しい時代が到来~
 遡上してきた鮭を狙って川に下りてくるヒグマをテレビの画面で見ながら驚いた。
 同一画面に釣り人が数名映っているではないか。その距離は数十メートルだろうか。カメラマンが「クマがいるぞ~!」と大声を上げると双方が気づくが、声に危機感を持ったのはクマのようである。そそくさと森に逃げ込むが、三十分も経たぬうちに再登場するらしい。
 人間を警戒していたクマの世界にも新時代が到来したと関係者がインタビューに応えている。その人物から発せられた言葉が「新世代ベアーズ」であった。自然界にも異常気象が続く。その結果餌も少なくなったと想定しよう。動物界も「生き延びる」術を全身で得る必要が生じる。生きるためには「新・獲物の取り方」までが変貌していると考えてもいいのかもしれない。最終段階では、動物界では人間も餌に該当する世界が近未来は現実化することを避けられない?
 動物界に新世代が出現するとなると、我が人間界も霊長類たるエリートである動物としても更に優秀な新世代の出現が望まれることになる。動物界の「生命力」が衰えることの期待は薄い。一方では知能は霊長類でも生活する知恵はすっかり衰退している新世代の人間は動物界の餌食になってしまうことが予想できそうだ。
 文科省が新世代の子供たちに向かって、学校教育界に「生きる力の育成」を通達してからもう何年になるのだろうか。真剣に「生きる力」を養成するオトナの意識の低さに気づいてもいないことが恐ろしい。授業と言う机上論紛いの時間で「生きる力」が育めるなどと思うことが浅はかではないか。地域で生きる人間は、動物界と同様に「群れを成す」生活の中で育てることが最優先である。人間同士の「関係性」すらも面倒くさい意識でいる現状では、動物に勝る「知恵を生かす」生きる力すらも心もとない。本気で「生きる力」を新世代に伝える義務を現世代の大人は考えねば人類滅亡も時間の問題である。
 新世代ベアーズの特徴は、「人を恐れずに近づく」ことだそうだ。甘く見ると獰猛な肉食動物に餌食になる人間のニュースが届いてしまうかもしれない。本気で「共生する」知恵を産み出すことが人間界には急務ではないだろうか。
 朝から滅入るような話題になってしまいましたね。ゴメンなさい。

2011/11/01

早朝の「録画」視聴で・・・・。

 ~日野原重明 100歳 いのちのメッセージ~
 妻が録画していてくれる番組がある。
 多分夫が喜んでくれるだろうとの思い遣りで録画していてくれるのだろうが、時として「好みではない」番組もある。不平など口にしたことは無く「ありがとう」との一言は必ず添えるが、妻には心が読まれているらしい(笑)。妻もそんな夫の態度に対しても苦情を一言にも表出しない。
 数日前から「時間があったら・・・」と妻から誘いがかかっていた録画番組をやっと今朝視聴した。
 ドキュメンタリー番組なら何でも良い、とも思っていない。時として「やらせ」の影がチラチラする所を考えると「見せたい」意図が邪魔っ気で不快感さえ生じるからである。偉そうにモノ申しているのは、裏方で録画撮りをしてくれている人物に甚だ失礼である。このことも百も承知也。
 10月4日100歳の誕生日をお迎えになられた偉人の「生き様」は、ご著書も読んで承知している。しかも、御茶ノ水女子大付属小学校で「いのちの授業」を2回も参観している。氏が発せられる言葉は「生きている証」と「生きている目的」を、小生のだらしない人生にはぐいぐいと押し込んでもらえるような気がして緊張感が先行する。視聴し終えて妻に型通りの謝辞を述べる。今回こそ深意は伝わっていると思うが・・・。

 どの患者にも残された(いのちの)時間がある。我に授かった「与えられた命」で恩返しをすることが医師としてのミッションである。何が自分にできるか?出来ることを探し出して患者に恩返しをするのです。それが授かった命だからです。よど号事件で死を覚悟したあの日から助かった命は「授けられた命」に代わったのです。110歳まで生きます。生きて恩返しをします。

 氏の発せられた言葉=ミッションへの意識が興奮剤となった朝である。
 氏のように100歳まで生きる自信は全くないが、こんな凡庸な人生を生きている人間にも「授けられた命」は在る筈だ。大したことも「恩返し」できないが、せめてこの意識だけは偉人に学び、自己流にして真似をさせていただきたいモノである。恩返しの代わりに「恩送り」に徹したい。
 92歳の奥様を愛おしがられる光景が何だか眩しかった。ホンのちょっぴり妻への「感謝の念」を言動に表すべきではないかと自省した早朝のひと時でもあった。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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