2013/10/31

「何日ぶりか?」の問いに、応えられない程に日数が過ぎている



 歩数計を壊してから身に付けなくなった。打算は勝手な手段らしい。歩数計の数字が妙に心を逸らせて「一歩でも歩け!」と誘導するのは事実である。老妻の携帯電話には歩数計が付いている。しかし、彼女は常に不携帯なので意識変容への誘惑は効き目が無い(笑)。

 毎週のように台風の襲来に便乗した訳ではないが、いつの間にか田園地帯を「歩こう」との意欲も掻き消されてしまったようだ。この歩禅記に記してないのだから明らかである。

 午前9時に妻を誘って歩くことにした。

 鍼診療日の翌日は全身がだるいが、『外を歩こう』と言う気になったのだから実行するしかない。収穫が済んだ水田には例年であれば水分も少ないのだろうが、今秋は雨続きであるので田んぼにも水溜まりが眼に入った。切り株から二番手の稲穂が立派に「コメの粒」を呈していたが、今は獲り入れはないらしい。藁束が円柱形に包装されて田んぼに無数に転がしてある。まさに収穫の後に田園地帯である。久しぶりの歩禅につきデジカメを忘れてしまった。この光景は後日にご紹介することをお約束しよう。    (写真追加 11/1)

 雨上がりの快晴の田園地帯の北西の方向には、筑波山の雄姿が奇麗に見えた。秋の深まりを感じる長閑な陽射しが心地良かった。 (10月30日 歩禅=4800歩)
 

☆今朝のつぶやき・・・・
 ここんとこ、少々多くありませんか!?戦後の「一時代を築かれた」立派な大先輩が次々とお姿を消して逝かれて寂しくなりますね。昨日は郷土の英雄だった川上哲治氏の訃報を知りました。「時代が終わった!」と呟いてしまいました。少年の日の「憧れの偉人」でした!!
 
 
 
 

2013/10/30

たかが「地方の話題」、されど我を育てたビッグイベント!



 ネット情報の有り難さを実感する記事を紹介しましょうか!

 九州生まれの小生には、このイベントは「幼い日々」が彷彿とさせ、全身に熱い血潮が音を立てて流れるような気分になるのですから不思議ですね。読者諸兄にも、幼き日々を思い出させるようにして運んでくれるような行事やお祭りの風景が浮かんで来ませんか?

 地方紙、この内容は九州地方(山口県も含めて)の新聞ではスポーツ欄に必ず載る記事です。『九州一周駅伝』なる言語は、他の地方で生きている人たちには目にも留まらないでしょう。当然の事です。こんな見出しが眼に泊まってタイトルの部分をクリックしてしまいました。

 

日本陸上界の礎となった九州一周駅伝 終わるにはあまりに惜しい功績の数々

折山淑美

20131026 12:00


箱根駅伝生みの親も参加

 2011年の第60回大会から『グランツール九州』と名称を変えて行われていた九州一周駅伝が、今年10月27日から11月3日までのレースで、62回にわたる歴史に幕を閉じることになった。

 未練や寂しさではありません。

 郷愁に繋がる大きな存在感があるのです。学校の授業が「沿道を走る故郷代表の選手を応援する」という大義名分で手作りの応援旗を振っての応援に替わったのです。元教員としては、「教育課程」の運用に心温まるほどのノスタルジーが快感になってしまうという訳です(笑)。

 行事やイベントが続けば続くほど「伝統行事」として確立します。その行事が文化を築きます。毎年、この駅伝の応援に行くことが出来たのは校区をランナーが走り抜けると言う立地条件が幸いしました。同じ市内の小中学校で学んでいても駅伝コースから遠距離にあれば応援をすることは出来ません。従って、人それぞれの「育ち」を形作る生活集落だけに残る文化は軽視できませんね。

 家庭文化も同様です。

 その家庭にしかない「できごと」を家族が力を合わせて努力して続けると、どこにもない素敵な文化が出来上がるでしょう。他者の生活ぶりを羨んだり妬んだりするような家庭では「人は育たない」文化を創ってしまうのだとの思いを強くしています。

 このネット記事で、60年以上も続いたことを確認しました。

「おらが郷土を走り抜けてくれたランナー」の皆さん、60年間も継続するために多大なエネルギーを傾けて戴いた関係者各位に、心から感謝したい気分になっている朝です。
 
 
 
 
 

2013/10/29

「こんな筈じゃなかった!?」ことの多い今日この頃・・・。


  新聞記事の中で興味あるコーナーがある。

 現在読んでいる新聞では『かたえくぼ』と表して読者からの投稿で楽しませてもらっている。思わず吹き出してしまうような時事川柳がある。「川柳」は世の中の出来事を風刺するセンスが無ければ表現できない。小生には「憧れ」の言語表現領域でもある。 

 どっかが違う!?これって裏切り行為!?

 こんなことが多くなっていませんか?偽装行為が発覚して(?)社長が引責辞任するとのニュースも、昨日も飛び込んできている。「良くある体だ」と言えないとも限らない謝罪風景をTV画面で視る。鈍感になってしまう国民性も、併せて気になる昨今である。読者諸兄はどんな思いで視聴しているのだろうか?

 小生はクロネコメンバーズに加入している程にこの業者の存在は高く評価している。気が付いたら通信販売の「書籍」の配達もS宅配便業者からこの業者に替わっていて「配達時刻」もほぼ要望通りであり信頼して活用している。

 ある時、東京に住む次女に「当日便」(=この業者のアイディア手法の一つ)で荷物を送ったが届いていないことが判明した。配達員の業務処理を次女から聴いて地元の行きつけの営業所に他の荷物配達の依頼の折り、その現実を伝えた。「小さな裏切り行為は会社を潰すことになりますよ」と話を済ませて帰宅した。営業所の丁寧な対応とその後の処理にも杜撰さが消えたのでこの業者への憤懣はいつの間にか消えて、寧ろ信頼感が増幅していた。

 数日前の新聞記事で、利用者への裏切り行為を知って愕然とした。

 「荷物一つ」への杜撰な配送処理が大きな事件に発展する。爺の小さな苦言が現実となったのが早すぎる。全国のあちこちでこのような「裏切り行為」が発生していたことになる。

 サービスが過剰になれば従業員(=現場での労働者)への過重負担が発生することは当然である。業界内での競争原理が辿り着く現状である。驚くほどのサービスぶりに利用者も(驚きつつ)飛びつくのも人情である。

 「かたえくぼ」(川柳)にも苦笑いでは済まない事案である。過当競争の果てにこんな現状があるとなれば、市場原理の利益追求優先の営業手法も「考えもの」ではないでしょうかねぇ~!!
 
 
 
 
 

2013/10/28

「知の巨人」を引用した「卒業式の式辞」を読んで感動!



平成22年度大阪大学卒業式での学長式辞を拾った。

 卒業式と言えば3月であるので、平成23年3月に行われた卒業式である。「3・11の震災」が起きた直後に行われた卒業式となることを併せて式辞を熟読した。学長としての実績もさることながら、教育者として次代への期待を添える広角な内容に心底から脱帽した。

 感動すると、直ぐに周囲に「お裾分け」したがる性分である。既に数名の後輩諸兄に強制的に(笑)お裾分けをしてしまっていたが、この新聞コラムにある人物を発見して嬉しい衝撃を受けている。

 学長式辞に登場した人物への論及である。

 このコラムに登場した人物の功績が式辞に引用されていたのである。素晴らしい功績を為された錚々たる人物の一覧にお名前を発見した凡人は「棲む世界」の異次元を感じながら、また式辞を読み直してしまった。ご希望の方にはこの資料をお送りしますのでお申し出いただきたい。感動を共有したいのである。

 そこで、その引用人物の功績も確認したい。ここに新聞記事を登載した。ご一読いただきたい。 

「知の巨人」と形容させていただくことにする。大げさだとは思わない。精神科医で神戸大名誉教授の中井久夫さん(79である。統合失調症の治療や研究で名高い。阪神大震災では心のケアに力を尽くし、おととい文化功労者に選ばれた▼臨床を大切にする医師でありつつ際立った文筆家でもある。ギリシヤやフランスの詩を翻訳し、文学賞も受けた。その視野は誠に広大で、戦争と平和についての鋭利な「観察」や、「ひととしての」昭和天皇論といった重厚な論考も多い▼昭和9年生まれの中井さんは恐るべき子どもだったらしい。敗戦後、集めていた切手を売り払いラテン語の独習書を買った。西欧の同世代がライバルだと思っていたという。高校時代には、高名な哲学者の蔵書で英独仏の文学に親しんだ▼そんな中井さんが少年少女に向けた読書案内を書いている。異色の内容である。いわく、教室で輝きすぎるな。一番になんかなるな。児童生徒の間にもやっかみはある。〈あなたは今花咲く必斐はない〉。そして一目置く同級生を宝とせよ、と▼推薦図書の名前を挙げているわけではない。総じて背伸びの勧めといっていい。なかで思春期の男女への最高の贈り物かと思えるのが次の言葉だ。 〈読書は、秘密結社員みたいにこっそりするものだ〉。そうだ、10代の頃はそういう感じで本を読んでいたのだとヒザを打つ▼きょうから読書週間である。知の巨人をめざさなくても、中井さんのようなみずみずしい感覚は学びたい。
                                         20131027 天声人語


※追記 【寸心紀行】=教員と研修シリーズをアップしました。
 



 
 
 
 
 
 

2013/10/27

収集した『資料』すら忘れている現実に愕然とする!!


 
                  121129 東海道新幹線車中にて撮影

 収集して保存していた資料。

それすらも忘却していたことを「知った」時点のショックは読者諸兄には未だ経験があるまい。加齢の証を突きつけられる厳しいひと時である。亡くなった友人が「オレの人生の半分は物探しなんだよなぁ~」と嘯いた。周囲でそれを聞いた元・同僚(後輩)たちは半信半疑で聞き流したようだったが、只一人の同僚(先輩)の小生には現実として受け止めた思い出がある。この話は現役時代のことである。

そんな日々から10年以上が経っている。ホンモノの高齢者になってしまっているのだから「情状酌量の余地」があるのかも知れない。しかし、当人にとっては「いつまでも若い」思いが先行するので大打撃である(笑)。

写真をご覧いただきたい。

2012年11月29日の日付で保存しているフォルダーである。何気なしに開いてみた中身の写真がこれである。フォルダー名を付け忘れたために、収集した記憶も薄らいでしまったようだ。その後、暫くは意識の枠に存在したのだろうが、いつしか忘却の彼方に消え失せてしまって、収集した事すら完全に消滅してモノと考えられる。莫大な量を保存できるパソコンと言う偉大な利器の恩恵には感謝しつつも、かようにして「振り回されている」現状も否めない。

学校教育現場を訪問する度に「旧態依然」の現実と遭遇する。その都度、この写真を思い出していた。

この写真は、広島市立庚午小学校への指導訪問の日ではなかったかと確認する。自らの脳の記憶ではない。パソコンのカレンダーで判明は容易である。午後日程の訪問の為に乗車した新幹線の車中で収集した写真資料であると判明した。収集日の数日後の学校訪問では指導助言の中に取り入れたかもしれない(記憶は飛んでいる)が、改めて使用したい衝動に駆られて懸命に捜索した(笑)時間があったことだけは記憶から飛んでいない。しかし、諦めの早い小生は直ぐに決断したのだろう。「探し物に時間を割く」ことを断念する決断である。

思わぬ発見を「記憶に留めるために」、全国の読者諸兄に発信する当ブログで(=恥を忍んで??)ご紹介しようと英断をした朝なのである。

北関東の今朝は、書斎の椅子の脇にはミニストーブを用意する程冷え込んでいる。酷暑の夏に傷んだ老脳の緩み具合には、「木枯らし一番が吹いた」というニュースの良薬が効いたのだろうか。ほぼ1年ぶりの「物探し」が成就してしまったからである(笑)。

この資料の感想は、いかがであろうか!?
 
 
 

2013/10/26

今回も「台風様(=運命)」に妨害されてしまいました!!




 自然界の脅威には立ち向かうことは出来ません。

 3週連続の台風との対峙には「運命のスケジュール」としか言い様がありません。8~9日(24号)、16~17日(26号)、そして今回は太平洋上には複数の台風(27・28号)の攻勢を受けたことになるのでしょうか。最終日に予定していた小学校への訪問は早めの決断をしていただいたので新幹線の切符の変更も可能となり、主催者サイドのお心遣いに感謝して台風から追いつかれることも無く帰宅できました。

 こんな行動になることぐらいは運命の神様はご存知だったんでしょうかねぇ?

 もし、あの時に「あれが無ければ・・・」とか、あの日に「変更しておけば・・・」と考えても現実は現実ですので、「このようにしかならない」という事になる訳です。しかし、不思議な感情が走ることも頷けないことも無いでしょう。読者の皆さんにも「あれがこうなっていたら・・・」とか、「あの人と会っていなければ・・・」「あそこで働いていなければ・・・」「あの仕事を選ばなければ・・・」等々と複雑な思いが脳味噌を擽り続けた経験はありませんか?

帰路の長時間の新幹線の旅を過ごして足腰も痺れていました。旅の伴の携帯ラジオ(昔ながらの)のイヤホンから『プロ野球選手ドラフト会議』の情報が伝わって来ました。小生の脳裏をかすめた「運命論」が浮かんで来ました。

 関係者には「運命の日」になってしまうメモリアルデーです。

 脳裏をかすめたのは、『運命の悪戯』という記事を雑誌で読んだ記憶でした。帰宅してコピーしていた記事を探し出しました。ホンの一部分を紹介しましょう。
 

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蓋を開ければ、田口はオリックスと日本ハムが競合し、オリックスが当たりクジを引いた。萩原を評価していた大洋は1位で東北福祉大の斎藤隆を入札するも、中日と競合。大洋が当たりクジを引く。その結果、オリックスと大洋が2位で萩原淳を入札した。1位ではともに当たりくじを引いた大洋の須藤豊監督とオリックスの土井正三監督が抽選に臨み、またも土井監督が当たりクジを引いた。打撃で評価していた中日が指名しなかった幸運。1位田口、2位萩原淳、3位に本東。当銀さんは、さすがに4位にイチローは残っていないのではないかと予想していた。「イチローを上の順位で指名するとしたら中日だろう、と。バッティングで評価していたのは中日とウチくらいだったからな」 しかし中日は2位で徳島商の投手、佐々木健一を、3位で佐賀学園の内野手、高校通算46本塁打の若林隆信を指名。4位で鈴木一朗を入札したのは、オリックスだけだった。もしもの話ではあるが、1位の田口をオリックスが外し、さらに斎藤隆を大洋が外し、萩原を両球団が外れ1位で競合したとしたら、そのクジ次第で、オリックスは鈴木一朗を1位で指名していたのである。(写真・雑誌記事『運命の悪戯』より)              
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世界的な選手に成長した一人。

「運命の悪戯」と断定できる人生の展開をこの記事から覗いて見れば「もしも、あの時・・・・・だったら?」と考えてみても現状を衝き付けられれば『悪戯』も意地の悪い「いたずら」ばかりではなくなるような気がしませんか?

 ブログの書き出しの事例と、雑誌の記事の例示との温度差があるので主旨がずれてしまいましたが、これが誰も知らない「個の人生」なのかも知れませんよ。 

追記:
今朝2時10分に体感した震度4の地震には目が覚めました。旅の疲れがすっかり取れているってことでしょうか(笑)。揺れに落ち着いて気付いたのは台風の影響で降る雨の音の凄さでした。高知や静岡、愛知、伊豆大島の雨の心配をしながら、また束の間の微睡を満喫(?)して定刻の4時に起床しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013/10/22

突然の訃報記事(=天野祐吉さん逝く)に愕然として・・・



 小生は「ラジオ好き」人間である。

 お気に入りのラジオ番組の中に、更にお気に入りの「月例番組」がある。先月はゲストに大竹まこと(タレント)氏を迎えての楽しい対談であった。リスナーが勝手に誤解していたゲストの人柄を是正された衝撃の『天野祐吉の隠居大学』(番組名)だった。早朝4時からの番組ではあるが、思わず正座して聴き入ることも多い。大竹まこと氏を視る目が変わったのはこの番組で語りかけるソフトタッチの天野さんの言葉を耳に受け止めてからであった。

 「~らしい」とは、実に無責任な判断力であることを天野さんが語りかけると、傍若無人な(=と、思い込んで「大竹まことらしい」と判断)ゲストが、「そこが、僕の特長ですよ」と謝辞に替えた辺りは、今でも耳に付いて離れない。「評判や噂」ほど当てにならないと厳しい世論批判に導かれる天野さんの話術には「広告批評」精神が貫かれて胸がスーッとして寝覚めが良いのである。ゲストの中村メイコさんとの対談には腹を抱えて笑い転げ、三輪明宏氏がゲストとして登場した時間には思わず涙が流してしまった。天野さんらしい切り口(=言葉掛け)がそんな症状をリスナーに授けてしまうのだと懐かしく思い出してしまった。

 酷評をすることの方が楽である。

 深意を衝いて「人生論を本音で」語りかける方が難しい。天野さんの『隠居大学』の聴講学生としては、もう少し早く傾聴すべきだったと後悔した。新聞記事を読み終えた瞬間、「人生は楽しく遊ぶためにある」と番組の中で1~2度は必ず、優しく語りかけられた言葉が、「厳しい温かさ」を今でも感じているのである。

 今日も「請負仕事」の任を果たすために現地に出向く「ご隠居さん」の小生である。来春に「我が子が小学校に入学させる保護者」を相手にして講演をする仕事を今日は請け負っている。責任重大である。

「きりきり・かりかりして子育てをしてもらっては学校教育も為す術がないですよ。」と優しく語りかけてみようか!

力量を育てることに努めていない人生を旅して来た小生には天野さんのような語りかけは真似すら出来そうもない。せめて、本音で「子育て論」をぶつけて来ることに意を決している朝である。 

事務連絡:当ブログは金曜日まで休刊です。土曜日には悪戦苦闘を業務報告(?)が出来る予定です。今回も「台風の歓迎」を受ける予定です(笑)。自然界の営みには太刀打ちできませんので、自然界の流れに身を任せて務めてまいります!
 
 
 
 
 
 
 
 

2013/10/21

色んな種類の「節目」過ごしてここまでやって来ました(続く)!



 社会人生活は教員としての勤務だけで終わってしまった。

大きな組織の中ではちっちゃな存在感ではあったが、教員と言う職業観は意識として高く抱いて生活していた社会人であった。それは、退職しても消滅していない。着任式に始まって離任式で一区切りを終えるリズムは数回を経て、そして退任式を迎えることになる。新たな「節目」を意識して現職から離れる。これが一社会人(職業人)としての流れであった。その折々に「意識を鼓舞する」ためにも存在感があったのが「節目」であった。これは事実である。

 退任式を済ませると「ただの人」となる(笑)。

 「ただの人」になった筈の本人でも、人によっては死ぬまで「現職を引き摺る」人生が待ち受けている場合があるようだ。どちらかと言えば当方もその部類の「隅っこ」に存在しているように思える。

 生まれ故郷を18歳で離れ、大学生生活を送るために仮住まいにした茅ヶ崎市が「家庭生活」の本場に変わっていた。子育てにも色んな節目がある。我が子の成長と共にその節目に一喜一憂することもあったような気がする。

 その節目は最期の日まで顕在する。いや、世の中から実体は消えても「回忌」(=仏教では)という節目があることも他界した両親を偲ぶ機会に、つい先日実感したばかりである。節目の存在感は「その人なり」に多種多様に受け止めるように出来ているのだろうか。

 我が人生の、最近の大きな節目は50年間住み慣れた神奈川県茅ヶ崎市から生活拠点地を茨城県土浦市に移したことである。70歳近くになっての転居は、『無謀な人生』と敬愛する鍼診療師に言わしめたほど稀有な節目らしい。気候風土が違う。生活習慣が異なる。この地の文化の香りを異文化と呼称するのに抵抗なし!

 だからこそ、「大きな節目」になったと強く意識している。

 そんな日々を過ごしていると、「ただの人」にも年に1回は小さな節目が必ずやって来る。60歳代最後の節目が否応なしにやって来た。孫たちの唱和するメロディを聴きながら至福を感じる。幸せな後期高齢者がここにも居ると実感した夜だった。手作りの贈り物、少ないお小遣いをはたいて買ってくれた物を贈ってくれた孫たちと、習っている曲のリコーダー演奏で贈り物にしてくれた孫の存在感は、転居の大英断が『幸せな節目』となっていることをしみじみ味わった昨夜だった。







 

2013/10/20

「10月の第3日曜日」って何の記念日か、知ってますか?



 “広島市中区で「孫育て検定試験」が初めて実施されました”(アナウンサーの声)

 こんな情報が早朝のラジオから流れました。丁度起床する時刻でもあったのでラジオのボリュームを上げて既に起きている老妻にも聞こえるようにしました。直ぐに反応がありました。そこには(=早朝の寝室に)「老夫妻」の苦笑がありました。三択方式での問答だった、との詳細の情報が1例を添えて提供されました。

 Q:孫が泣き出してなかなか泣き止まない時、あなたはどうしますか?

   1.直ぐに抱き上げてあやす

 2.しばらく放置して様子をみる

 3.音楽を聞かせたり赤ん坊向けのVTRを見せる

 書き取った訳ではないので正確な問いの再現ができませんが、このような問答形式の「検定試験」が実施されたそうです。「正答の限定ができない」検定試験が流行るのが怖い気がして聴いていました。(参考までに正答とされるのは(1)だそうです)

今日な「孫の日」だそうです。認知していなかった祖父ちゃんは情報を探りました。こんな時間が必要で早朝起床しているのではございません(笑)が、時としてこんな時間に化すこともあります。記念日協会(?)が1999年に認定したと言う記念日の中に「孫の日」という言語を発見しました。老妻は知っていました。(=知らぬは己ばかりなり!!)調べを進めながら「孫の日」の提唱団体を知って愕然としました。

市場主義を歪めるような「売るためなら手法は問わない」理念でこのような「●●の日」を制定する我が国の経済発展手法に首を傾げています(=政治の責任)。孫の日にはケーキを買って孫たちに食べさせるのが例示されていました。『母の日』をその記念日の代表として、家庭教育の基幹を問うべき記念日を市場経済主義にお先棒を担がせてしまうようでは本来の家庭教育が損なわれてしまいますよ!ね。小さな(国家の)大問題です!

私事ですが、最近は、全国の各地から「親・保護者対象の講演」(=「子育て」講演)への出講依頼が増えました。請けるたびに大役であると自覚しています。「お祖父ちゃんとしての視線・観点」を頑固なまでに大正時代生まれの我が親世代の「子育て」法に移乗します。そして自らの身体で「学んだ」子育て手法を蘇らせます。じっくり勉強をし直したいと考えています。そんな思いを、と心新たにしている≪10月の第3日曜日≫の朝です。

NHKラジオでは、「今日は何の日?」という語りかけとその回答が紹介されるミニ番組もあります。ビックリしたり感心したりする貴重な時間となっています。

自分だけの中に「今日は〇〇の日」と決めて、一日を過ごすのも良いのではないでしょうか!市場主義と無縁なひとりのお祖父ちゃんの提案です!!
 
 
 
 
 
 

2013/10/19

『5年間の大仕事』の任を何とか果たせたでしょうか?



 所長さんの慰労の言葉を戴きながら、年に一度の講座とは言え、体調不良等でキャンセルすることもなく業務を終えることが出来たことを実感しました。更に歳月の偉大さを感じさせる再会がその前にあったのです。

 一枚の名刺を手にして女性が応接間に入って来られました。「先生、その節は有益な時間をいただきまして有難うございました。」と切り出されましたが、いつ?どこで?と自問しながらも即答できません。

 「5年前のこの講座の受講生です」との行が述べられても思い出せません。翌年は指導主事として二度目の聴講が出来たことを嬉しそうに話が続きました。しかし、『研修係長』という名刺の肩書名がこびり付いて当時の記憶は全く蘇りません。聴講の後、上野駅前で数名の指導主事と一献を傾けた話に移ったあたりから記憶が朧気に戻って来ました。「髪を切っているから」と老輩の記憶力の薄さを補う言葉を耳にして記憶は戻りました(笑)。

 最初の講座は2009(平成21)でした。校長推薦の教諭が聴講できる講座です。雰囲気は「別世界」です。20名限定の聴講者数ですので一種の緊張感もありました。今、懐古すれば講師自身が一番緊張していたのだと笑って言えそうです。

 わずか5年後には、聴講生の立場から「行政の立場」に棲む世界を替える程の変化を遂げる世代の人たちにとっては貴重な時間であると、今、感じるのですからやっぱり能天気モンです。

 立派な職を請けて活躍される聴講者に向かって、放談で終わった5回の講座でした。品の無さや教養の少なさ、そして人間性の粗さ等々今更に反省しても取り替えること等出来る訳がありませんが、恥ずかしさも無く全てを吐露したことを反省している「一区切りを終えた」後の祭りであります。

 ただ、現場を直視した感情を飾らずに論及した事だけは言い訳を述べておきたいのも偽らざる現況です。前例を踏襲することばかりでは新しい空気は作れません。失敗は付き物です。恐れずに頑張れるよう勇気が持てるような話題は提供したと自負しています。

 新ブログ『寸心紀行』(右欄をクリックして)に、過去5年間の講演レジュメの圧縮版と『回顧録』を登載しました。どうぞ、ご覧ください。






 

2013/10/18

お気に入りの「うた」は、歌詞で選ぶ?曲で選ぶ?歌手で選ぶ?


 
 「ラジオを聴く」ことで生活のリズムを作っている小生です。このことをご存知の方はこのブログを愛読して頂いている証拠になるのでしょうかね。幾つもの「お気に入りの番組」があります。その殆どが番組の初めに流れてくるメロディーなのです。『音の風景』という10分ばかりのラジオのミニ番組もあります。その番組のテーマ音楽が耳に届くと「遠い昔の時代」が蘇って来るから不思議ですよ。

 『ラジオ深夜便』という番組の話題は当ブログで多く登場させています。この番組は、前夜の11時過ぎに始まって翌朝の5時に終わります。決まって流れる「深夜便のうた」というのがあります。決まった時間に、「一か月間」流される歌です。10月の「うた」も寝ている脳味噌を擽りますが、全く知らない歌手の声です。
 

 昔 見えなかったものが

 今は見えるよ

 昔 ぼんやりしてたものが

 はっきり見えるよ 

         ずっとずっと この先 僕が

         眠りにつく その時に

         浮かぶ 歌は

         君と昔 口ずさんだ あの歌
 

 この歌詞から、この歌のタイトルが想像つきますか?作詞・作曲者も小生には今まで聞いたことの無いお名前です。しかし、この歌詞からはタイトルは決して浮かんでこないと確信します(笑)。実際にタイトルを確認した時点から、当方は妙に愛着を感じてしまった訳でございます。上段4行の「詩」の言葉の意味を自らの深意で妙に納得している、と説明を加えておきましょうか。

 以前、この時間に流れた曲で、何故か胸を締め付けられるほどの郷愁を覚えたものがありました。その曲名は「パーマやユンタ」と言うのですから沖縄の歌だと想像するのは容易です。作曲と歌手は、ビギンというグループで皆さんが沖縄出身の人(たち)らしい。沖縄独特の楽器の音色と歌詞とメロディーが妙に合致して心を打ちました。明らかにメロディーでの選択になったと言えます。見たこともない「戦死した父」の最期の地が沖縄だという歴史を聞かされて育った心情が吐露したとも言えるかも知れませんね。

 今月のうたは、実在の故郷を思い出させるような郷愁の佇まいはありませんが、

歌詞を味わえば味わうほど「何と感激的な表現なんだろう」と、ラジオに耳をくっつけて聴いてしまいます。

 皆さんは、好きになる「うた」を決定的にするモノは何ですか?①歌詞派?②歌手派?③メロディー派? 三択でお願いします(笑)。 

 朧気な寝覚めが「4時に流れる」今月のうたに促されているのがいつの間にか習慣化してしまったようです。皆さんの「好きな歌」を、この三択の観点から分類してみると、想定外の面白い発見があるかも知れませんよ!!

 今月の「うた」もあと10日足らずで終わります。4時の時報の前に決まって流れてきます。一度、早起きして聴いてみてくださいませ!!
 
 
 
 
 
 
 
 

2013/10/17

「17年ぶり」の歯痛は、グッドタイミング!?

 

 昨日の出来事。
 老妻が、自らが行きつけの歯科医に電話をしてくれる。

 昼食後の出来事。「痛がりますので、少々待っても構いません・・・・」と先方を説得してくれる老妻の声に「神頼み」をする思いで耳を傾ける老夫の不甲斐ない体を露呈してしまった。しかし、殆ど歯痛との対応の無い人生には堪えられない状況となってしった。老妻の説得で先方でも折れてもらったのだろうか。「3時半ごろに来てみて下さい。しかし、長い時間待っていただきますよ・・・」との応答だったようだ。

 「取り柄は丈夫な歯だけです!」

虫歯の痛さを知らずに70年近く生き延びるとこんな愚かな自慢話をしてしまうんだろうなぁ~、と反省しきりの夕暮れであった。台風が関東を襲って来なければ、高知の学校訪問に行っている時間帯である。神経過敏症とやらで1本の歯を失くしたのは平成8年の夏だった。校長職に就いた年の夏休み中だった。口内に麻酔注射をされたことも、歯を一本抜いてしまった後の複雑な痛みは今も覚えてはいる。その後17年間は「歯の掃除」のためにだけ半年に1回通院していた。「歯痛」との闘いの意識は消え去っていた。

3日前辺りから症状を訴えると、老妻は「虫歯ですよ」と言う。

歯科医はレントゲンを撮った。抜歯した後をブリッジしてある両サイドの歯が虫歯になっているとの診断だった。直ぐに処理してもらうことを承諾したので麻酔注射を受けることになって、30分ぐらいで今回の治療行為は全てが完了した。

痛みも消えて帰宅した。自転車で5分かからない場所にある歯科医との出遭いである。今後の「老後の生活」の一助になるんだろうなぁ、と能天気な人間は考えてしまう(笑)。台風一禍(=一過ではない・造語)を狙い研ぎ澄ましたような歯痛が、高知行きもキャンセルさせ近所に歯科医を紹介してくれたのである。

恐る恐る食べた夕食の後、パソコンでメールを読んだ。高知市の訪問予定だった中学校の研究主任からであった。「とても残念だ」との文言も心に沁みて、能天気な人間にも「複雑な心情」の血液も流れていると苦笑したのである。
 
 
 
 
 
 

2013/10/16

公的条件付きの『ドタキャン』は初めての体験です!


 台風の影響で欠航となりました。

 航空便で高知市へ出講の予定でしたが、予約便の欠航が昨夕には決定してしまいました。ネットで予約して購入して、欠航とわかればネットでキャンセルしてカードに返金される。玄関から一歩も出ないでパソコンが全て仕事をしてくれました。信じられないような「体験」を台風26号がさせてくれました。

 先週の高知便は台風24号との対決でした(笑)。

 24号は山口県の西海を通って日本海へ逃げて(?)くれて、機内は嘘のように快適な空の旅だったので、今回も他人事のような発想で高知へ飛ぶ算定をして準備は整えていました。ところが、台風26号は、真正面から向かって来てくれましたので断念せざるを得ません。

 そして今(午前8時)、まだ雨戸を開けることは出来ません。外を吹き去る風の音に凄みを感じるような気象状況です。隣接する栗畑の栗の木の倒木被害を心配する程地元民になってしまっています(笑)。

 停電のことを案じて枕元に懐中電灯を準備する老妻を見詰めながら「同郷出身」を改めて認知して苦笑しました。「台風銀座」と教科書に載っていたことも思い出しました。台風の被害で停電になった真っ暗な天井を見詰めながら「オトナになったら台風の来ない所で生活したい」と夢を描いていたことも笑い話になってしまいました。当時は「台風=九州」だったのが、上京と同時に関東地方にも、台風が多くやって来る時代になってしまったからです。

 今日は、孫たちの学校も保育園もお休みらしい。爺婆学校で終日のお世話をすることになってしまったようです。

 

事務連絡:

 926日実施・27日版で速報した『文書での実践報告』に、主催者から届けられたアンケート集計を再編集をして「自己分析」を新ブログ【寸心紀行】にリアップしました。頗る利己的な見解で纏めていますので、「自己」をしっかり持ってご一読ください。右枠欄内の 新ブログ【寸心紀行】をクリックして入ってください。






 

2013/10/15

「また、台風とぶつかっちゃいました」と電話対応!!


 
 先週の高知訪問は台風24号との激突(笑)だった。

 幸いにも往復とも台風の影響を感じない飛行で無事に任を果たることが出来た。そして、1週間後の明日、再び高知訪問の予定である。昨日は主催校の研究主任からメールが入った。四国と関東と離れていても当事者は天気図と睨めっこしている。前回は晴天の地から台風の進路方向に向かって往くところであり、今回は台風がやって来る地点から、晴天(らしい)地に向かって往く所の違いはある。訪問先の悪天候を心配した前回とは、随分温度差があるようだ。

 待ち受ける地が晴天では、出発地点の悪天候には意識が及ばない。当然である。しかも、今回のスケジュールは午後日程(16日)の学校訪問の要務だけである。用を終えたら宿泊して翌朝には、高知から羽田にとんぼ返りである。さらに、翌日(18日)は、さいたま市での出講予定が入っているので日程の変更も出来ない。

 従って、今回の高知訪問は16日の午前中のフライトが可能かどうかだけの問題となる訳である。さらに細かく分析すれば、フライト時刻より3時間前の鉄道時刻も問題となって来る。台風が直撃すると常磐線の運行も覚束ない。つまり、早朝の時点の気象状況の影響も受けるという事になる。

 遠隔地からの要請に応じるのも善し悪し???

 近隣在住の講師であれば、小回りも利いて日程の修復も可能であろう。そんなことを考えさせられている朝である。遠距離からの要請に安請け合いをしてしまう小生の人生哲学も修正の時期になっているようだ。 
 
 
 
 
 
 

2013/10/14

「あと何年?」こんな時間が必要なのかな?


 
【遊園地付き運動公園】

  
 
 
 父親は休日出勤。母親は長男のサッカーの試合の送迎。次男は友人の家で遊ぶと言って出かける。残された6歳の孫は寂しそうに独り遊びが始まった。母屋には静かな時間帯が流れる。

 自宅からは近くにある『霞ヶ浦』周辺には沢山の運動公園があるらしい。総合体育館がある周囲には各種運動競技場があるのは知っている。しかし、幼児が遊べるような公園は知らない。午前中は6歳の孫息子が一人になるので祖父ちゃん祖母ちゃんは相手をする手段が見当たらない。

 そこで、近くの公園でも探しながら出かけることにした。

 知っている道路を頼りに当ての無い運転で霞ヶ浦周辺を周るつもりで出発した。JR土浦駅を通過する辺りから道路が混雑している。とにかく前進して車を勧めると一度だけ行ったことのある総合体育館の方向へ走った。渋滞の原因もわからないままに行き着くと、『大相撲土浦場所』が開催される体育館であった。力士幟の中に一際目立つのが「稀勢の里」と「高安」という地元出身の関取の名前だった。


 そこを通過して、霞ケ浦・予科練記念館【写真・上】の駐車場に向かった。ここは一度、興味があったので見学に来た事がある。Uターンするつもりでハンドルを回してビックリした。視野に広がる大きな遊園地づくりの公園とぶつかった。目敏く「ここで遊びたい!!」との孫の大声に誘われて広いスペースの駐車場で車から降りた。公園内では、退屈もせずに知らない子どもと楽しい遊びに興じる孫を視ながら老夫婦は木陰でゆっくり休養することが出来た。

 イベントでもあれば混雑するのだろうが、隣接する他の多くの施設や駐車場は全く余裕のある歓迎ぶりである。この生活文化が何とも言えない至福感に包まれる。当地に転居して感じるのは「駐車場探し」に苦労しない所かな?

 遊びに興じる孫を促して帰路に着いたのは、友人宅に遊びに行っているもう一人の孫が昼食の為に帰って来る時刻を見計らっての事であった。未練がましい態度も認知しつつ、途中で昼食を買い求めて帰宅した。すでに帰って来たらしい。鍵の  掛かっている玄関先に座って待っていた。

 美味しそうに食べる孫たちの様子を見ながら老夫婦の会話である。

「あと何年かねぇ~?」「せめてあと2年ぐらいかね?」。孫の成長を想定している祖父母の会話には「成長の嬉しさと相手をしてくれない寂しさ」を含んだ複雑な祖父母の心情を吐露しているとご理解いただきたいモノである。お若い読者にも、いずれはこの真情がわかる時期が訪れる事間違いなしと添えておきましょう!
 
 
 
 
 
 

2013/10/13

他人事に考えていた「仏教のしきたり」



 子どもは1人。孫は3人。曾孫は5人。子にも孫にもそれぞれ配偶者がいるので総勢11人になる。「七回忌」法要の主人公2人の至近直系の参列者である。本堂で副住職の読経の後、法話を聴いて帰宅した。

 若い副住職であるが、短い説法に参列した我が一族は惹きつけられてしまった。

 どうしたら幸せになるのか、と民が僧に問うと、僧は「良いことを行いなさい」と答える。しかし、民は「良いことがどんなことかがわかりません」と、更に問うと、僧は「良いことには後悔はありませんが、悪いことをすると後悔します」と答えた、と説法は閉じた。

  説法を聴きながら、この「ことば」(=色紙)を思い出しましたのでご披露しましょう。

 10分間も無い短い説法だったが6歳の孫も小学生の孫たちもその間は、静かな語り口に私語も無く聴き入ったのは感じ入るモノがあったのだろう。ふと、「一日一善」という言語を教わった遠き昔の日々を思い出した。小学校5年生だった。級友との戒めの合言葉が「一日に1つだけでも善い行いをしましょう」だったからだ。

 その後、帰宅して賑やかな昼食を終えて楽しい半日を過ごして二人の娘たちはそれぞれの予定に従って自宅に帰って行った。

 9時過ぎに、いつもより遅い入浴を済ませて床に就く。

老妻が徐にお礼を言い出した。老夫も神妙に耳を傾ける。若い日々には、今日のような仏教のしきたり(=法要等)への参列には気乗りがしなかったのに、小さな一族が盆や正月とは違う時期に参集すると言う意義がとても感動的だった、との旨を老妻は語り始めた。老妻はきょうだいがいない。一人っ子で育っている。3人の子どもたちを産んだ。その子供たちが孫を連れて時ならぬ時期に参集することの重さを感謝の気持ちに換えて語ったのだと考えながら聴き入った。

 冗談半分に、老夫が「夫婦そろって次回のお役目を果たせる約束はない」と伝えると、「同居する長男一家はじめ嫁いだ娘たちが協力して執り行ってくれるでしょう」との結論らしき考えを老妻は返してきた。

 古い習わしやしきたりに「振り回される」と考えた日々には、その本質を追究する心が宿っていなかったんだろうなぁ~」と考えながら目を閉じた。「天国の両親も安心してもらえただろうか!?」と、思いを馳せている内に睡魔に襲われた。

無事に果たせた法事の責任感が心地よい眠りに誘ってくれたようだった。
 
 
 
 
 
 

2013/10/12

あの日に生まれた赤ん坊が、もう6歳になりました!



 平成19年8月19日に義母が他界(熊本県八代市)、9月20日に5人目の孫が誕生(茨城県土浦市)、そして11月14日に義父が他界(神奈川県茅ヶ崎市)したことをこのように列挙してみても、僅か数か月間の悲喜こもごもの我が家の様子がわかります。両親の葬儀を立て続けて行う羽目になった娘の心境は察するに余りある状況下にありました。まして、「きょうだい」が居ないので心内からの相談も出来なかったことや支えが無かったことを考えると良く堪えたものだと感心しています。
 
 その後、流石の妻も体調を崩してしまいました。今となれば理解が容易です。

 つい先日、満六歳の孫のお祝いをしました。曾祖父ちゃんの記憶があるのは当時小学1年生だった長男孫です。「この子が6年生になったら七回忌だぞ」と言った日が昨日のようです。仏壇の上にある曾祖父母の遺影を見て、現在6年生の孫は意識していることでしょう。

 今日は、その七回忌法要の日です。

 嫁ぎ先の親族に葬儀が出そうだと心配していた娘も重複しなかったとの安堵の電話をくれました。正午の法要時刻に間に合うよう二人の娘たちも家族そろって帰って来るようです。面倒くさい!と跳ね除けていた葬祭関係の儀も、精神修養のためには要るモノだと感じるようになっています。加齢をしないとわからないモノだとも感じています。

 そして、老妻に言いました。

 「十三回忌は東京オリンピックの前の年だよ」と。老妻が応えました。「生きていたら、の話ですよね。長男にしっかり伝えておかなければいけませんね」と。

「おい、俺も死んでいるってことかい??」と、聞こえないように独り言を呟いています(笑)。
 
 
 
 
 
 

2013/10/11

「日本体操史上最年少」という最高級の賛辞に潰されないで!!


                                                                                    13-10-07 『新聞記事』を読んで

 我が国の「文化」を支えると表現しても過言ではない最高の賛辞がしばしば使用され興味関心のあるその領域・分野の国民の視線が集中して想定外の言動に移る。最高の賛辞を貰えないわが身への愛おしさを吐露しているモノではない。最年少でも最年長でもその結果はその当事者の研鑽の途上での向上心を軽視は出来ない。だからこそ、心からの祝福を制限してはいけない。

 当方が余計な思案を巡らせてしまうのは??

 最年少で到達した『最高峰』が、そのまま自身の最高峰となってしまうことを実証した多くのアスリートを知っている。中学生や高校生の「発展途上」の人生で、周囲の称賛に酔ってしまうことだけはどの若者たちにも避けさせたいと思うのは薄っぺらい人情論だろうか。

ホンの一例ではあるが、「甲子園(=高校野球の殿堂)」での活躍が、まるで今後の人生を終わるまで保障されたかのように持て囃され「プロ野球(=職業=生業)」の道を選ぶ選手が多い。「夢心地の春」気分のままで努力を怠ったままで「戦力外選手」として通告されるまでの楽園生活を過ごしてしまう。「我が人生の目標を失した」選手は枚挙にいとまがない。高校生として頂点に立ったことが、次の人生のステージに強いエネルギーをもたらす様な「人生勉強」も叩き込むことも指導者には要求したいのである。向上心を支える努力する気持ちまでが慢心で緩みに誘われてしまう。最年少記録の保持者が、たゆまぬ努力を講じて最年長記録の保持者になることを期待するのは、蚊帳の外に居る曲者・評論家の小生の勝手な期待なのだろうか。

人生は長くなってしまった。信長の時代は50年だったらしいが、現時点では更に30年も延びてしまった。そんな時世を生き抜くためには「定年退職」してからのエネルギーも必要とされるのである。二十歳前に燃え尽き症候群の軍団があちこちで堆積されれば「使用済み核燃料」と同様に時代のお荷物となってしまう。こんな取り越し苦労も老婆心からだろうと一笑されそうだが、言っておきたいのである。

 同日の同一新聞の記事にも注目した。

 読者の注目を呼ぶべく設定されている『ひと』と言う欄に冒頭の賛辞がのべられているが、『天声人語』というコラムでは同一人物を主人公として論述しながらも「観点の違う」文章表現であることに違いを発見した。この新聞のコラムは非常に著名である。大学入試にも出題されることでも識見の高さが証明されているほどである。美辞麗句で主人公を褒めている箇所はない。事実と努力の経緯を述べながらコラムの読者を「学び」に誘導する表現には舌を巻いてしまった。(1064)
 
 
 
 
 
 

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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