2013/11/27

「尊敬する先輩」が、また一人、逝ってしまいました!!


 一枚の葉書を手にして老妻と共に愕然としてしまいました。

 喪中を知らせる葉書でした。差出人の氏名に「もしや・・・」との不吉な予感が当たってしまったのです。今年の3月に電話での交信がありました。お元気な声でいつも通りの意義ある会話をすることが出来た満足感を思い出しながら、「その頃も」闘病中であったことが判明しました。他者に決してイヤな思いをさせることがない接し方をされながらも、要所に関しては明言していただいて優しく厳しく指導をしていただいた「教頭先生」でした。その後、中学校長としてご活躍される雄姿を、こちらは市教委の立場から、誇らしい視線で見詰めたものでした。

 小生は32歳で市外転勤となりました。勤務地としては隣市への転勤でしたが、住居に近い学校勤務となり張り切って教壇生活を過ごすことになりました。その中学校での出会いとなりました。教頭職について沢山のことを学びました。

 拙著(『あせらない あわてない あきらめない』 教育出版)にも、尊敬する先輩としてご登場願いました。出来上がった本を「お届けすべきかどうか」と躊躇している間に書店の店頭に置かれた拙著を手にされたらしく、お叱りの電話を頂戴してしまいました。その折に、触れられた話材には受話器を置いてから声に出して泣いてしまいました。厳しい叱咤でしたが、胸は熱く涙も冷たいモノではありませんでした。その教訓は、今でも実践している程の偉大な人生訓ともなっています。

 枚挙にいとまがないほど多くの訓話を頂戴した「恩師」です。

 師の大好きだった「みかん」を、九州の従弟から直接に送り届けてもらいました。そのお礼の電話をいただきました。直接の会話を交わしたのが最期になってしまいました。闘病中だったことを微塵も見せない、いつもの「明るさと厳しさ」で声を聴かせいただいたのです。能天気な小生には、師の現実を受け止める事すら出来ていなかったという恥ずべき体たらくです。

 差出人はご長男であると思われます。

 請け負っている仕事が来月中旬には一区切りができます。その後、年内には遅まきながらの墓参に出掛けたいと思っている朝です。心より謝意を添えて、わが師のご冥福を祈るばかりです。
 
 
今日からまた、出講です。暫く休刊します。
 
 

2013/11/26

『誇るべき国民性』が、地に落ちたのだろうか!?

 

   このちっちゃな記事を読んだ日本人はどう思うだろうか?
 小生は無類の大相撲ファンである。知る人ぞ知る事実である。記事の主人公の横綱は外国籍の関取である。しかし、日本語の、いや相撲界に伝わる「古い日本語」を流暢に駆使するだけでなく、相撲道に徹する精神力は「誇るべき日本人」を遥かに凌駕していると常々から感心している。日本人横綱の誕生を待ち望む大相撲ファンの心理も十分に理解しているが、この記事を読む限り恥ずべき失態だと断言するしか無いような気がしてならない。

 諸外国の政策的な無謀ぶりに、時としてその国の品格を疑うことがある。

歴史認識の違いはその国の教育の経緯に因ることも認識している。国民性の基盤は「我が国・わが民族」という自意識に裏打ちされたモノである。苦境に立った大相撲界のピンチを救った功労者への敬意を表することができない。国民性が地に落ちたと判断すれば、「教育」という名称を語尾に着けた我が国の教育実情には「誇るべき国民性」の一部分が完全に剥がれ落ちたと評価されても仕方あるまい。こんな小さな事件にでも教育の手抜きは明らかに表出する。家庭教育も、学校教育も、そして社会教育も真剣に再考しなければなるまい。誇れる我が国が、小さな蟻の穴から崩壊するとも限らない。危機的現象と捉えてしまった記事である。

 2011年3月11日に未曾有の天災が東北地方を襲った。

打ちひしがれる思いで身も心も痛めつけられた被災地に向かって、現役力士のリーダー(=横綱)として「激励の姿を形にする」ことを提唱した力士である。その力士の敗戦の直後に取った観衆の態度には納得できない。(確認のため(当日は出向中で自宅不在)、ユーチューブの画面を見た)

記事を読んで敗者の心中を察する。

親愛なる敬意を表することが「誇るべき国民性」の再生のきっかけになって欲しいと願うばかりである。 

≪事務連絡≫

● 遅くなりましたが、今週末(29日)に登壇する広島市立湯来南小学校の研究発表会・案内版(第一次案内で)を寸心紀行(右枠欄の該当アドレスをクリックして)をご覧ください。
●  21日訪問の、広島市立中山小学校の訪問レポートは新ブログ【寸心紀行】にてアップしました。右欄内からお入りください。
 





2013/11/25

広島に通って10年にもなって「もみじ饅頭」をしみじみと見詰める



 訪問した小学校の正面玄関先で、思わず立ち止まってしまいました。大木の葉っぱの色を見て、「もみじ」って、こんな鮮やかな色をしていたんだ!!と思った瞬間に、足止めされたのです。絵心の無い小生には、「描いてみたい」心境にはならないのですが、写真には撮ってみたいと考えて立ち止まったのですが、ホテルにカメラを忘れたことに気付いて苦笑しました。

 子ども達の「登校の様子を見て欲しい」との学校長の要望に応じるために、宿泊ホテルからは徒歩距離にある小学校です。お迎えの車を必要としません。歩くことに決めました。そこで、背負うリュックの中身を厳選しました。軽くするためにデジカメも省いてしまったという経緯があったのです。ともあれ、こんな大木にふさふさと付いている大きな葉っぱの色の鮮やかさに感動してしまったのです。

広島から帰る時は、「もみじ饅頭」をお土産として求めるために「お土産コーナー」に立ち寄って驚いたことも思い出しました。それは、「色んな種類の」もみじ饅頭がある事だったのです。仕方がないので訪問の回数を掛けて、違う種類を求めてお土産としました。その内に家人や知人から「お気に入り」のモノが限定され、今ではご所望に応じて求めるようになりました。こうして「もみじ」との交際が続いていました。

 登校を済ませた児童たちが元気で校庭で遊んでいました。

 小生の掌にひらりと一枚の「もみじ」の葉っぱが落ちて来ました。拾い揚げて、「おや?」と思ったことがありました。それは、「どっかで見た」形だったからでした。お土産に買って帰る広島名産の饅頭を包んでいる箱や包装紙についている「形」だったのです。

 小生の脳裏に存在していた「もみじ」の形は違いました。勝手な思い込みであったことにも気づきましたが、「大木」と「大きな葉っぱ」の『紅葉葉』には結びつかなかったのです。

 講義をする前段にその話題に触れてみましたが、地元民の教員諸兄には深意が伝わらない程の異文化でした。「アメリカ楓」という種類だと教えてもらいました。生活に密着した知識が最大の宝物だと実感したのですが、気付いた年齢が少々遅過ぎましたなぁ~(笑)。




 

2013/11/24

身体は「疲労」していても、体内時計は「顕在」でした!


 04:00 NHKラジオ深夜便「特集・五木寛之≪歌の旅人」」

 この番組で、深夜から始まっている長時間番組は午前5時から通常番組にバトンタッチされます。リスナーの平均年齢は、「高齢者」のようです(笑)。眠れないで悩んでいる人にとっては「都合のいい」番組だとのメールが読まれたこともありますので特異な番組であることは否めないかも知れない。

 今日は月に1回だけ(最終日曜日)の特番である。

 主役である作家の作品を読んだ数は枚挙にいとまがないほどであるが、「語り」「口調」が、作風(活)とは違った雰囲気で好感を持って楽しみにしている番組である。前夜に就寝する時の疲労感からは、目覚めの確信はなかった。

 身体には全身隈なく「疲労」という釘が打ち込まれている状態である。しかし、いつものようにラジオのタイマーは午前3時にスイッチオンされて、「にっぽんの歌こころの歌~昭和歌年間~昭和51年の流行歌」が流れ始めた。ビューティフルサンデーという曲が睡魔を擽ってくれたのだろうか。全くいつものように老廃物化されている脳味噌に懐かしさを蘇らせてくれた。流行歌の威力を表現するには言外である。藤沢市立藤ケ岡中学校教員時代が走馬灯に映し出されたほどである。

 五木寛之氏の独特な語り口調で、今日は「三重県の旅人」としての進行が始まった。当方は公的な仕事(出張や出講)で行ったことの無い県の一つである。小生される機会もあったのだが、スケジュールの調整不調にて、未だに「旅人になっていない」県として進行中である。

 起床できない状態(目は覚めていても起き上がれない)のリスナーである。いつものように番組の内容をメモする気力も無い。ネット情報で、以下にご紹介することをお許し願いたい。手抜き手法なので読み辛いでしょうが、重ねてお許しいただきたい。

体内時計の威力に感激しながらも、時々記憶を飛ばしながら傾聴(?)して、『広島の旅人』の業務で疲れていた老体の一日が始まったのである。 

20131124日 日曜日

                  五木寛之  歌の旅人(三重県)
「鈴鹿サーキット」 何十万と云う人が全国から集まってきた。斎藤 緑雨 文学者 のお寺の一角に五木文庫がある。斎藤緑雨文学賞  途中で廃止になってしまった。津:県庁所在地  浄土真宗高田派本山 専修寺 御食国(みけつくに)」朝廷に海産物など送っていた、海の幸を税金代わりに送る国が3つあって、そのうちの一つ  若狭の国、淡路の国、志摩の国
 伊勢神宮の遷宮  20年に一回の遷宮   厳粛な雰囲気がある 古式のスタイルを守る。技能伝統が保たれている 技術者が途絶えない 音楽関係者が少ない  田端義雄 「帰り船」 「異国の丘」(シベリアに抑留されていた人達の望郷の歌)  阿部静江「コーヒーショップで」 西岡恭蔵「ぷかぷか」 鳥羽一朗「カサブランカ グッドバイ」
 文学関係者 本居宣長 江戸川乱歩 丹羽文雄(「親鸞」大作) 
笙野 頼子(新しい文学の作家) 松尾芭蕉  実業 松坂商人 伊勢商人 三井高利(三井財閥創建) 河村瑞賢(海運輸送の先駆者) 大黒屋光太夫(ロシア漂流して話題になった 体験した外国の事情を日本に紹介した) 松浦武四郎(北海道と云う名前を付けた人) 御木本幸吉(真珠) 映画監督 小津安二郎 市川昆 衣笠貞之助 高畑 勲 和田勉(「朱鷺の墓」の演出担当)
 伊勢路 人々の交流の多いところ 文学的土壌が或るところ  
佐佐木 信綱記念館   知的に評価されている 高田派 ユニークな存在 親鸞の教えを忠実に教える 専修寺 五木さんの「100寺巡礼」では三重県ではここだけが出てくる 天然養殖真珠の額日本一 海女さんの数 日本一高い牛肉 松坂牛  錠前の生産、出荷額 動販売機、火災報知機 生産高 農業も盛ん  イセエビは第2
 相撲、三重ノ海 琴風 大筒   野球、沢村栄治 バトミントン、小椋久美子 
レスリング、吉田沙保里  陸上、瀬古利彦 野口みずき 植木等(生れは名古屋 3歳で伊勢市へ)
 熊の古道 奈良時代、平安時代から通ったのかと思うと、木立ち、風景などがひとしお三重県は歴史のある県 日本文化とは何かとか、考える時にどうしても忘れられぬる事のできない土地柄だと思います






2013/11/21

7年後に「保育士」の不足が見込まれる??

 

 「前時代的な考え方」であると、耳も傾けて貰えないかも知れないが、夢多き青春時代の思い出話を披露する。

 「先生になりたい」と、高校時代の友人達に言った。「給料が安いんじゃないの?」との前置きをした彼らの意見は強烈だった。「生活していけないぞ。結婚も出来ないんじゃないのか?」とまで言及されたことを思い出した。還暦同窓会で再会した時には何人もの同業者が居たが、親しい友人の中には教員になった者はいなかった。

 卒業と同時に高等学校での教員生活が始まった。

 その後、公立中学校に転勤した。やがて、新採用の教員が複数以上の数で配置される時代となった。数年も経たない内に年度末の土・日曜日は「結婚式のラッシュ」になった。つまり、同僚の殆どが「共働き」の人生を選んだのである。数年間の内に親になって彼らの家庭生活のリズムも大きく変わって行った。我が子を保育園に預けての共働き生活は社会の常体となったのは言うまでもない。

 その時代の赤ん坊たちが今、列記とした親世代になっている。保育園が不足して「待機児童」という社会現象になってどのくらいの年月が流れているのだろうか。保育士の成り手が無いという新・社会現象にまで変化(到達)しているようだ。

 小生の古い職業観。

 笑われるだろうなぁ~!同僚たちの結婚ラッシュに招待された小生の家の家計簿は「火の車」だったと老妻が語ったことを思い出した。「結婚貧乏」だったと声を出して笑った。一輪車操業(=共働きではない)の家から「祝儀を持ち出す」のは罪にも等しかったようだ(笑)。

 貧乏は苦しい。しかし、その苦しさの中で家族が細々と生きる。美学と思ったことも無い。貧乏教員夫婦が3人のわが子を育てた。彼らは「もっと裕福な生活」を、と子どもなりにも夢見たかも知れない。教員も「子育て」のプロであるという意識が強かったので小生の教員人生には貧乏の陰りはなかったと自負している。保母さんや保父さんという名称が「保育士」と変わって市民権を得ているようだが、職業観までは市民権を得ていない??

懸命に働く人たちの子育てに付き添う職業への誇りを「心の財産」にして世の中の役に立つ職業人として活躍して欲しいのだが、時代遅れの着想として跳ね除けられるだろうなぁ~!?

 

 退職してもプロとしての「職業観」を捨てきれずに、今日も早朝の6時には家を出て遠隔地に出講します。待ってくれている後輩教員諸兄の顔が浮かんでくると、勇み立つ我が精神構造は「現世の遺物」になりそうです!(笑)行ってきま~す。





2013/11/20

思いがけない『贈り物』に驚きつつ感激して・・・・・。




 現在も主宰する教育実践『響の会』は、前身(=ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』)を創設したのが平成8(1996)年です。新任校長としてスタートした年度の夏季休業中に第一回目のセミナーを開講しました。

 発足当時の主力メンバーは茅ヶ崎市教委時代の指導主事職にある仲間でした。小生は、前職(=市教委・指導課長)のデスクワークに勤しみながら「将来の管理職」としての学びの場を創設すべく、有力な仲間の協力を得てスタートしました。一回も欠かすことなく、今夏の開催が第18回目となりました。その他に年間5~7回は小規模のゼミを開催しているので合算すると100回を超えての開催となっている教員の自主研修会になります。教育関係紙や月刊誌にも多く取り上げていただいたり、執筆依頼があって原稿を寄せたこともありました。小さな「学びの場」がこんなに長く続くとは、信じられない事実です。

 平成13(2001)年に浜松支部として発足したのは静岡県浜松市近隣の先生方の熱意に絆されたからなのでした。10年間で31回のゼミを開催しました。今年の5月を最後に休講になりましたが、沢山の出会いと感動がありました。

 一昨日、この手紙と一緒に写真の「作品」が届きました。

 送り主は浜松支部に足繁く通っていた小学校の先生です。奥様同伴での参加のおしどり教員夫婦です。新天地での活躍が期待されます。いただいた「作品」を実用品とするには少々勇気が必要ですので、写真に収めてから『見える』場所に置いて観賞することに決めました。

 浜松市に10年間も通い続けた足跡を肌で感じているような「贈り物」に、我が『感涙腺』が黙っている訳がありません(笑)。
 
 
                 お知らせ
 
新ブログ【寸心紀行】(右欄外から入ってください)に、来年1月に実施する恒例の『新春教育講演会』の案内をアップしました。1年ぶりの再会を、「お江戸のお正月気分」の漂う隅田川沿いの会場で、スカイツリーの雄姿を見ながら午後のひと時を満喫しましょう。お待ちしています。
 

 
 
 
 

2013/11/19

「紙上・読書会」を企画してみました。ご参加ください!!


 新聞記事の中から発見したコラムです。「読書する」分量には不足ですが、一読してみていただけませんか?先日、他界された天野祐吉氏の遺作です。世相と時代の変遷ぶりを振り返ってみるのに好材料として選択しました。

 お願い:感想は小生のアドレス宛 chts415@jcom.home.ne.jpにお届けください。無計画ではありますが、当ブログにてご紹介したいと考えています。

 

ブログ「紙上・読書会」(1)

「年代ごとに振り返る天野祐吉さんのCMコラム」より

2013年(平成25)11月18日(朝日新聞)

≪1990年代≫

父帰る?
 
 「父帰る」と言っても、菊池寛の話ではない。近ごろ、不況のあおりで、お父さんたちが早く家に帰るようになったという話である。

 あれって、ホントかなアと、相変わらず帰らないお父さんであるぼくは思う。行き場がないから家に帰るなんて、ぼくならそんなときは意地でも早く帰るまいと思うけれど、新聞やテレビを見ていると、みんな素直に家に帰っているらしいのだ。

 で、「父帰る」の第二章は。

 「なべ売れる」とつづく。これもぼくには信じられないのだが、土なべがやたらに売れているという。お父さんが早く帰ってくるようになって、夕飯は一家そろってなべ料理という家庭がふえたんだそうな。べつにアジの塩焼きでも焼き肉でもいいんじゃないかと思うけれど、久しぶりに帰ってきた家庭だんらんのイメージには、湯気の立つヌクヌクのなべ料理が似合うんだろう。

 となると、もう第三章はきまっている。「父帰る」 「なべ売れる」とくれば、人情としても次は 「妻よろこぶ」の番である。が。

 「父帰る」と「なべ売れる」まではマスコミでさかんに言われているけれど、「妻よろこぶ」という話は朝日新聞にも出ていない。それどころか、世間の奥さんたちの間では、「父帰る」 「なべ売れる」の次の章は「妻困る」じゃないかという声がささやかれているそうだ。

 さっき見た東京ガスのCMでも、早く帰ってきた夫が「ただいま」と玄関のドアをあけると、奥のキッチンでは妻がのうのうと電話をかけていて、電話の相手に 「あら、帰ってきちゃった」なんて、言っていた。ま、早く帰ってくるのがメイワクとまでは言わないけれど、いまや妻には妻の生活スタイル(夫ぬき)ができあがっていて、不況だからといって急に早く帰ってこられたりするのは、やっぱり「困る」んじゃないだろうか、とぼくは思う。

 念のために言っておくが、ぼくは日本の家庭にあたたかいぬくもりが帰ってくることに反対しているわけではない。不況もそういうことで役に立つなら、けっこうなことだと思っている。が、家族や家庭の再生というのは、そんなカンタンなものではないだろう。早く帰ってくるだけではなくて、男たちの意識が根っこのところから変わっていかないかぎり、何も生まれてはこないんじゃないだろうか。「父帰る」より「父変える」のほうが、ずっと大切なんだと思う。

 そこは変わらぬまま、なまじっか男が早く帰ったりすると、それだけ顔を合わせている時聞か長くなって、また「亭主元気で留守がいい」の大合唱が起こるんじゃないかね。        =1993年3月6日 記事=

2013/11/18

新聞記事で新語を発見(知って)して、愕然の思いになりました!



 皆さんはご存知だったんでしょうね。

 小生は『爆弾営業』かと、見間違いに気付きました。次の瞬間に、愕然の思いに苛まれてしまいました。新聞記事によると『自爆営業』だと確認したからです。恐らく辞書に登載されている四文字熟語ではないと思われますが、この状態が存続すればいずれは広辞苑等に解説が出るのでしょうね。

 販売ノルマを達成できず、自費で買い取る行為が『自爆営業』と呼ばれているとの波線(朱書き)部で理解しました。言葉の起源は分かりましたが、世相を通じての新作熟語の本意と言うか、成立条件の背景に合点がいきませんね。マークは付けませんが、「上司から年賀はがきの販売ノルマを突きつけられている」のが『非正規社員』とあるのにも哀しくなってしまいました。

 通常は読み過ごしてしまう新聞記事でしたが、何故か目が留まりました。

 「訳は、簡単です」と言語技術なる表現を利すれば、郵便局に行くたびに窓口の正規社員から「年賀状はどうしようか?」と声が掛かるのです。「買いましたよ」とでもあっさり嘘をつけば「嘘も方便」でその場は凌げるのでしょうが、今年は何だか「手作りの年賀状」に方向転換しちゃおうかな」の心情が込み上げて来ているんです。葛藤の基準は、「お年玉付き年賀はがき」という、喪中以外の投函には何の抵抗も無く実施して来たんですから・・・・・ね。

 青年時代には、売り出し日には郵便局の前には行列が出来て買い求めるだけでも重労働でした。「私製・年賀はがき」での投函には無神経さを恥じて引け目を感じた時代でもありました。パソコンを求めた頃には、「メール年賀」とやらに凝ったこともありましたが、玄関先に届けられる「年賀はがき」を見直してここ数年は、印字こそPC仕様ですが、年賀状を買い求めて投函しています。

 今日では、今、郵便局に行っても購入できる時代になりました。

 その裏側では、自爆営業マンが存在しても捌ききれない現代病が巣食っていることを、昨日の朝刊で知り愕然としてしまいました。経済構造も窮地に追い込まれていることを実感しつつ、同時に「経営(=利益の追求)」の厳しさも痛感している朝です。
 

お待たせしました!!
 去る12日の「横須賀市立横須賀総合高校」の訪問記を昨夕、新ブログ【寸心紀行】(=右欄外の該当名をクリック)に登載しました。





2013/11/17

念願の「カーペット」が手に入りました!!



「昼寝」と言えば、乳幼児には健康な発育のための王道的手段である。

認知症と判断された老人(?)は時間感覚も失せて「居眠り」状態を繰り返して昼間でも寝てしまう。小生は未だ古稀世代である。忘れっぽい症状だけは自己認識をしている。しかしながら、昼食後の30~45分ぐらいを「転寝」の時間にしているのは小生だけの「正常な日課」と認識もしている。二人だけのミニ老人ホーム(=老夫婦だけの呼称)の主要な日課は、朝夕6時と11時半に食事を摂ることである。いや、そのように準備を老妻には要請している、と表現した方が無難であろう。

それは『午睡』の時間を確保したいからである。

昼寝も転寝も、そして『午睡』も行動体系は同じであるが、弁明に使用するためにも小生は『午睡』と、勝手に表現しているだけである。

真夏の日中は風通しの良い部屋に大の字になって眠りこけるのも体力消耗を保障する手段として老若男女に容認されている。が、木枯らしの吹く季節にもなって昼寝の時間を確保するとは異常な行為と診られるようだ。昼間の時間も極端に短くもなっているのでその診断は正常である。

晩秋からは、畳の部屋とは言え直に横になるとヒンヤリ感が寒ささえ覚える。

昨年まで数年間は使用していた「一畳大の温カーペット」が故障した。その存在感の大きさを痛感しつつ、電化製品大型販売店やホームセンターで探し回った。「一畳」のサイズが見当たらずに寒さを感じながらも手前勝手な『午睡』の遂行にはこの時期でも躊躇は無い。

娘から「探したらあったので・・・・」との電話があったらしく老妻は「買って送って頂戴」と注文してくれたようだ。昨日の午後、日課(=『午睡』)を終えた時間帯に自宅に届きました!!

時間が取れれば(自宅の生活では)、届いた1畳大のホットカーペットの恩恵に感謝して『午睡』を貪ることが出来そうである。昼間の転寝の所為で「夜眠れない」症状は全く無い、古稀の老体には午睡が染み付いているようである(笑)。

決して、良からぬ行為の真似事に挑戦されないことを願っております!!


【歩禅記】 陽射しの温かみに誘われて9時に家を出ました。丁度60分を掛けて歩いて帰宅しました。6700歩の歩数は、老妻には丁度良い歩数だと判断しました。膝痛に無理強いは禁物だと配慮しての歩禅でしたが、疲労感も想像以上に少なく安堵した帰宅直後の老妻の様子でした。
小生は汗をかきました。下着を取り換えてスッキリしましたが、小生にはもう少し歩数を増やさないと、と自らに言い聞かせながら美味しいお茶をいただきました。

 
 
 
 
 

2013/11/16

こんな「お知らせの葉書」が届きました!



サンふじ出荷案内

 前略 本年は①春先に積雪、遅霜の被害、②夏期の旱魃など天候不順で大変厳しい状況の中、①9月に入り雨台風でしたので降雨があり、平年並の果実肥大まで成育しました。 しかし収穫量は少なめです。
 11月に入り、雨、曇りの目が続き、着色は遅れぎみですが初雪も観測され、やっと収穫期になりましたので11月末頃より発送いたします

     【丸数字と色分けと下線部は小生が手入れして表現しました。】

 
 
 10年以上のお付き合いを続けているリンゴ農家からの葉書です。

 長野県立須坂東高等学校のPTA主催の教育講演会に講師として招かれて行ったのがキッカケでした。当時のPTA会長さんが、この葉書の送り主です。

りんご。
九州生まれの小生にとって、「木に生っている林檎」の光景は大学生時代に松本市出身の友人宅に泊めてもらって初めて見たものでした。前掛け姿の友人のお兄さんが、リンゴをいで前掛けでキュッキュッと音が出る程に拭いて食べさせてもらった思い出にも繋がります。 

 この農家に依頼して、九州の親戚にリンゴを送ることにしています。

 年年歳歳、自然環境の予期せぬ変容にはリンゴ栽培だけに限らず様々な農家の方々の苦労は大変な様子です。この出荷案内の葉書は印字されています。葉書の余白には手書きで以下の文章(追伸)が添えてありました。

 今日は雪が降りました。これで収穫開始が少し遅れそうです。11/13
 
 
 
 
 

2013/11/15

「いや~、まいった!!」と、また恥じ入っています。


 いつものように今朝も3時からラジオを聴いていました。

 番組名は「日本の歌こころの歌」です。担当のアナウンサー(と、私は表現してしまいますが、業界ではアンカーと言うそうですよ)が、「今日は作詞家・星野哲郎さんの命日です」「命日にちなんでの特集番組として氏の作品を10曲選んでお聴きいただきます」との言葉に続いて、古稀世代の私には懐かしくなってしまう歌謡曲が流れ始めました。3年前(2010年)の今日の逝去だと情報を耳に受け止めながら「もう3年も経ったんだ!」と思いながら「この曲も星野さんの作品なんだ!」と実に愉しく能天気に聴き入っていました。

 どの曲を聴いている瞬間だったでしょうか!?

 11月14日。つまり昨日は親父の命日だったことを、すっかり忘れてしまっていることに気が付いたのです。昨日は何もない終日の「暇人」生活でした。天気も良かったので墓参りも出来た筈だ。目を覚ました老妻に、恐る恐る問うことにしました。「知っていましたよ」とさり気ない返答に「ムッとする」自分自身に腹が立ちました。

 今日は雨の予報らしい。雨さえ降らなければ墓参りしよう!

 妻の父親ですが、他界するまでのホンの数年間しか傍で生活することが出来なかった婿養子としての不義理ぶりは妻が一番知っています。転居を前提にして当地にお墓を作りました。せめて亡くなった後ででも「傍に居る」証しにしたかったのです。両親の出生地は九州です。墓参には遠すぎるからです。

 妻の両親にとって、孫は我が家の3人の子どもだけです。その3人の孫たちが集って、この秋に7回忌を済ませることができました。親父さんより3か月前におふくろさんが他界しています。菩提寺の住職の配慮で、法要(7回忌)は一回にして済ませることが出来ました。おふくろさんの命日には、墓参りをして「法事は親父と一緒にするからね」と言いながらお線香をあげました。

 ところが、昨日の日を忘れてしまっていました。

生前に親孝行の真似が出来なかった反省の上に立っていた筈の義理の息子です。そんな息子の不義理には、親父さんも呆れて豪快に笑っているだろうなぁ~と自省している朝です。
 
 
 
 
 

2013/11/14

番組変更の「再放送」に聴き入って老脳がシャキッとなる

 

 稼業が立て込むと、やっぱり個人の生活リズムは壊れる。

 現職時代は、多くの日々が「いつものように」時間は流れていた。大変動の日程の連続性はなかった。退職して“毎日サンデー”(=小生の「憧れ」を込めた造語)となった。人によっては糸の切れた凧のようになってしまうそうだ。しかし、小生には「憧れの自由時間」の連続は全く期待外れに終わって、現在も進行中である。現職時代の4時起床~10時就寝のリズムが我が意に反して崩れざるを得ない日が、しかも不規則的に勃発する。リズムを整える余裕も無い。復調への体力も減退している。良いとこなし!の毎日サンデーの日々である(苦笑)。

 そんな日々を過ごしながら、時として体内時計が顕在している朝がある。

 今朝は狭い和室も冷え込んでいた。目が覚めてトイレに立ったのが3時ちょっと前だったので、枕元に置いてあるラジオのスイッチを入れた。番組の急な変更を説明しているところであった。11月8日に亡くなられた歌手・島倉千代子さんの追悼番組として「録音インタビュー」を流すことになったとのこと。

 布団に入って耳を傾けながら、「知らなかった事実」として新鮮に受け止められる内容であった。歌手としてデビューされた昭和30年代の世相に聞き入った。懐古しながら、業界独特の文化を聴き取ることをできた。業界は違っても「人間社会の風潮」は教育界にも通じることが多くあると頷いたりした。新採用教員時代(=小生は昭和43年に業界入り)における上下社会に存在していた規律には、抵抗感が無かった訳ではないので、失敗談や苦労話を聞きながら胸が熱くなってしまった。

 マスコミの報道からしか得られない情報には随分温度差があるんだ!

 思わず、「ホント?嘘じゃないの?」と自問しながらご本人の言葉であるので信じることになるが、現実とのギャップにすっかり目が覚めてしまった。教育界を全く知らなかった友人が現職を退いてから現在、学校勤務をしている。彼が、「内外教育」という業界紙から情報を得た内容と、以前にマスコミから得た情報とのギャップの大きさに驚いたそうだ。正しい情報とは何か?とメールで訴えていました。

 正確な情報はどのようにして得るのか?

 情報過多の世相の中で生きるためには、この課題は最重要な案件であると感じている内に番組は終わった。島倉千代子という「歌手」への勝手なイメージは払拭し切れないので、ラジオから流れる著名な代表曲を聴きながら複雑な思いが去来した。

次代を生き抜く世代の人にとって、「より正確な情報を得る」ことが出来るかできないかが、『生きる力』になるのではないかと考えたのですが、皆さんはどのように考えておられますか?
 
 
 
 
 

2013/11/13

「二度あることは三度ある」と確信してしまう・・・


 1年に1回の「この快楽」が堪らん!!

 快楽と言う言語表現は不適切である。其の位は十分に理解しているが、使用したい気持ちに駆られて負けてしまう。その快楽の要因が「授業」にあるのだから読者諸兄もビックリされるだろう。

 横須賀市立横須賀総合高等学校。

当ブログの昨年≪2012年11月14日~16日=3回連続にて登載)≫もこの高等学校訪問の記録を報告している。右欄外の2012年11月分でご一読いただきたい。タイトルを「授業で学校を創る」として3日間も連載してしまった。当時は、新ブログ【寸心紀行】は創設していない。と言うより、この高等学校の感動と感激に急き立てられたようにして、新ブログの企画に手を染めたのである(笑)。

1回なら誰でも、どこでも出来る。

しかし、やっぱり本校は違った。今年の圧巻は定時制課程の「体育の授業」であった。詳細は、横須賀市教育委員会の担当指導主事に頼んで来た資料が届き次第、新ブログ【寸心紀行】(=欄外にて参照)に訪問記録をアップする予定である。つまり、今日のブログはその予告編であると理解いただきたい。

昨夜は帰路の常磐線が車両故障とやらで、上野駅で待機時間があった。時計の日付が変わった頃の帰宅となってしまった。≪つづき≫・・・・・・は、新ブログ【寸心紀行】で再会させていただきましょうか。この欄でご案内します。
 
 
 
 
 

2013/11/12

84歳のおばあちゃんの予言(?)が大当たり!


 昨日の午後、近所の農家のおばあちゃんが庭先に自転車を止められました。

 丁度、庭先を見た瞬間に視野に入った光景でした。80歳を数年だけ過ぎていると笑い飛ばしているおばあちゃんです。膝痛が酷くて歩けないらしく自転車に乗って近場を巡回されるようです。庭先から離れの我が家までは2~3段の段差があるので自転車を止めて一呼吸を入れておられたのです。自転車の籠には、採りたての野菜が満載でした。我が家に届けて頂いていることぐらいは百も承知ですが、玄関を開けて自ら受け取りに出るのも憚られていたのです。

 台所にいる老妻に、「おばあちゃんが庭先で佇んでおられるよ!」と声をかけると直ぐに玄関を出て行ってくれました。土地訛りで、しかも大きな声で話しかけられると周囲がパぁ~っと明るくなります。老妻の笑い声も聞こえます。

 里芋と葉物野菜をたくさんいただいたらしく「運ぶように」、と老妻から声がかかり外に出ました。こちらに向かって、屈託のないお声で、「明朝辺りは初霜が降りるかもしれないよ」との予言でした。

 嫁の実家からも沢山の野菜が届きました。

 茅ヶ崎での生活では考えられない程の「野菜天国」に恵まれ、老妻が本格的な漬物までするようになりました。野菜の高値をメディア情報で知っています。豊富な、しかも新鮮な野菜をふんだんに食べられる至福の時間が流れています。

 今朝は4時に起床しました。

 「冷え込み方が、今朝は・・・・」と独り言を言いながらトイレに立ちました。台所から老妻の声が飛んできました。「おばあちゃんの言われたとおり(=予言?)に、霜が降りてますよ」と。長い人生を田畑と共に生きて来られた「おばあちゃんの眼」は確かでした。感心ついでに(笑)、「今年は夏の熱かった分だけ、冬の冷え込みも酷いぞ」と捨て台詞(?)を吐いて自転車を押しながら帰って行かれました。後ろ姿を見送りながら、素直に「予言」として承る心境の朝です。

 皆さんのお住まいではいかがでしょうか?
 
 
 
 
 

2013/11/11

「歴史を辿れば」今日が浮かび上がる



 スポーツは全般に亘って好感を持っているが、近年は「世界トップレベル」で競技する日本人選手の活躍に目を見張ることが多くあり、嬉しい限りである。休日は家人もそれぞれの行動があるらしく老輩はゆっくりした自分だけの時間が出来る事が多くなった。これも嬉しい事かな?

 TVという娯楽器械は、ほぼ観戦か天気予報か時事問題への関心からの画面選びになってしまう。リモコン操作にも少しは熟れた(笑)。スイッチ一つで容易に画面を変更できるので助かる。

 女子プロ野球と女子サッカーの画面に暫し足止めを喰らった。

 歴史的には浅い種目だろうが、「時代背景を反映する画面」という小生の哲学からすれば、この二つの画面から新時代の歴史が始まりそうな予感がして、数分間ずつ観戦した。試合そのものはどうでも良い。この新歴史へマスコミが支援に回ってくれることを念じつつ、数チャンネルで同時刻に取り上げている種目に辿り着いた。やっぱり、「観戦に堪えられる」種目であることを実感して、老婆心の視点が変わった。このフィギュアスケートなる種目は、いつ頃からこんなメジャーなモノになったのだろうか? 

・・・・・近年シングルでの日本人選手の世界的な活躍が目覚しく、2006トリノオリンピック荒川静香がアジア初の金メダルを獲得したほか、浅田真央安藤美姫高橋大輔ら世界チャンピオンを筆頭に世界レベルの選手が多数存在する。また歴代でも男子で1977佐野稔が、女子では1979渡部絵美世界フィギュアスケート選手権で日本人選手初の3位となり表彰台に上ったほか、1989に日本人初の世界女王となった伊藤みどりや、1994に同じく世界女王となった佐藤有香村主章枝本田武史中野友加里らが活躍した。・・・・

 ざっと計算して40年ばかりの歴史が存在することがわかった。

 スポーツ(種目)が国民性に合うことも「大飛躍」の支援隊であることは納得している。それを「人気がある」と国民性は評価しているようだ。人気を得るためにできる現役の選手には限界があるので、それを取り巻く「連盟」(通称)の力量、取り分け「広報力」のエネルギーは軽視できないようだ。

 国技と言われる種目でも、運営力が手を抜けば奈落の底に落ちることには前例を見なくてもわかる事である。懸命に努力をする選手たちのためにも立派な「歴史」を積み上げて欲しいと願うばかりである。

 写真の晴れやかな選手の表情に至った現実には、長短はあっても「歴史がある」ことを忘れて欲しくはない。自らの誇りを次代に「謝意を込めて」伝えていく歴史の先導役(=広報マン)となって欲しいと願うのは爺脳からだろうか。




2013/11/10

『少年期の伸長度』に驚きつつ「老化現象」との逆転現象に!!

 

 気付かざるを得ません!(笑)

 8歳と12歳の「外孫」と初めて3日間も一緒に過ごして昨夜、帰宅しました。「内孫」との同居生活を始めて3年目に入りました。お互いの生活のリズムに不調も感じなくなりました。長男夫婦の共働きリズムにも老体が熟れたことが大きいと老夫婦は実感しています。取り分け、学校が長期休業に入る寸前の憂鬱さは言外でした。事故にでも遭って親に心配かけないようにと過度に神経を尖らせる老妻の言動に、ついつい当方までも巻き込まれる私生活が続きました。親たちは意外と呑気に考えているようですが、「託児」担当者としては肩腰に力が入ってしまっていました。

千葉に住む長女一家にも「行ってあげなきゃぁ・・・」と思いつつも御神輿が上がることなく、数日間の「滞在して」までの決断が鈍ってしまっていたようです。

 昨晩、帰宅した声を掛けに母屋に行った老妻に、小6の孫息子が「今夜まで泊まって来るのかと思っていたよ」とさらりと応えたそうです。内外に住んでいる5人の孫たちの甚だしいほどの成長に驚嘆したこの数日間でした。子細についての記述はできませんが、「伸長度」の著しさについては帰路の2時間の自家用車の中の話題はそれに尽きました。ダメ押しをしてくれたのが「もう、帰って来たの?」らしい心情を吐いてくれた言葉だったようです。

 次々世代の伸長は、先々代の縮小に繋がることを痛感しました。

 車中での老夫婦の会話には寂しさが伴っていたと述べているのではありません。寧ろ、嬉しさを言及し合っているとご理解いただきましょうかね。

 老い衰えて無気力な人生観は当方にゼロです。

両親の下で健やかに成長を遂げていることを確認すればするほど、寄る年波に課される「講演稼業」という難題に向かっても、過去の実績と経験値を十分に発揮してお役にたてる人生を送るべきだと心新たにすることが出来た「外泊旅行」であったようです。どうぞご安心くださいませ!(笑)

ビシビシと叱咤激励することを改めて宣言しておきましょう!!!!
 

ご案内
 ①ちがさき『響の会』の冬季特別セミナーの案内版が届きました。新ブログ・寸心紀行にアップしました。右欄の寸心紀行をクリックして覗いてください。今回もユニークな企画(=元・プロ野球「選手寮」長の講演)ができたようです。とても楽しみにしています。お時間がありましたらどうぞ、会場へお越しください。JR東海道線・茅ヶ崎駅(北口)から徒歩2分です。
 ②1月15日(土)(=午後日程)に、東京・浅草で予定している第12回 新春教育講演会のご案内は近日中に登載いたします。
 
 
 
 

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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