2011/12/31

衝撃を受けないわけが無い!!


 ~ペットボトルのキャップが開かない!~
 この新聞記事を読みながら、妻の最近の愚痴が浮かんできた。
 未だ開けてあげられる夫は直ぐに手に取って簡単に開けてやる。雑巾がしっかり絞れない、との妻からヘルプサインが出ると絞ってやることぐらい簡単なこと。妻も歩禅のスピードが以前より遅くなっていることは気づき始めている。
 家の中で共に過ごすことが多くなったので妻の変化も掴める。決して老化が進んで心配で仕方が無いという状況ではない。介護のために郷里の九州で1年半ばかり移り住んだ日々の光景が浮かんでくる。それは、従兄の奥さんのセリフである。

 一挙に還暦を迎えるんじゃないよね。徐々に、確かに1年に1歳ずつ加齢しているのは重々承知しているんだけど、節目の年齢に達するとしみじみと体調の変化を感じるのよね。65歳になると、更に現実は厳しいモノがあるんよ。それがね、70歳を超えた瞬間から「こんな筈じゃないよ!」と叫びたくなるほど老化を感じてしまうからね。いつまでも若いつもりでいるから間違いが起きるんよ。年寄りの仲間入りはイヤだけど実態を正しく受け入れて生きている人が長生きしてると思うんよ。

 妻も彼女のセリフは覚えているようだ。
 今年の2月に「年金受給者」の仲間入りをした妻である。2年前に受給者になった夫は、手続きの煩わしさを知っている(=知恵)で全ての事務処理に当たった。それも「一気にこの歳になるんじゃない」との彼女の教えを意識していたからである。学歴が無いとの口癖の彼女から、学歴のある(?)我々夫婦が学ぶことが多い。学校では教わらない内容が多すぎるほど存在することの証明でもある。
 いつかは、いや、もう襲い掛かられている「老衰」の症状を真摯に受け止めなければなるまい。無理をしない対応策で「老衰と共に生きる」人生哲学を編み出さねばなるまい。大晦日の朝、静かな時間帯に「こんな事を考える」年齢になったことが、実は年齢相応だと考えると嬉しいのである。
 決して情熱や意欲が欠落し始めている訳ではない。小生のブログ読者諸兄には、今更述べることではないだろう。
 未曾有の大震災を体験した2011年を振り返ある。
 震災直後の4月11日に予定通りに転居に踏み切った。48年間も住み慣れた神奈川県茅ケ崎市を離れて、ここ茨城県土浦市に移り住んだ小生の決断を無謀とまで言及されたが、「それは違う」とここでも述べておこう。
 降って湧いたような転居話ではない。既に10年前から長男夫婦とは話し込んで来た「我が歴史」の流れである。その合致点がたまたま、東関東大震災と激突しただけのことである。
直ぐには老人にはならない。幾多の遍歴と共にしながら今日まで辿り着いている。そして、老脳には老脳なりの「眩しい程の明日の光」が差し込んで来ている。昨日のブログの発信者からも、全国の読者諸兄からも叱咤激励のメールが届いている。老化のスピードを弱める「栄養源」(=サプリメント)である。今朝も沢山のメールで元気を頂いている。
 この年齢なりの来年がある。
 お役に立たなくなったらそれなりの生き方もあるだろうから、その時点で考えるとしよう。従兄の嫁さんの言葉をしみじみ感じながら、さらに充実した2012年を「年齢なりの」人生哲学で、仕事(=たび)は続けたい。この熱い心を抑えるのに勝手に苦労をしている大晦日の朝である。

2011/12/30

素敵な『お歳暮』



 ~「冥利」という美酒(手紙)に酔いました~
 今秋訪問した小学校から贈り物が届いた。中身は夜の懇親会で舌鼓を打った美味である。その夜の光景が勝手に復元される。全国を巡業(笑)すると、その地の名産や特産物に巡り合う。旅の醍醐味でもある。だから止めれない?
冗談は論外としよう。
 贈り物の中に手紙が入っていた。荷物は妻に預けて小生の視線は手紙の内容に釘付けになってしまった(写真版・参照)。それは想定外の内容であったからである。こういう場合の礼状では「子どもたちが・・・」とか「教員の目から鱗が落ちた気分になりました・・・」等々美辞麗句が羅列されるのが常套である。しかし、この小学校の研究主任の「礼状の中身」は余りにも違い過ぎたのである。一読いただきたい。
 決して管理職の非難ではない。共に伸びて行くべきである管理職が、ややもすると他人事的発想で授業を観察する。それだけが職務と誤解している管理職が存在する。そういう校長に限って、自らの言い分や指導内容までも講師に「委託する」のである。ところが、この小学校では管理職がその後の態度で「自らの学び」を職員に示すことが出来たとのこと。この喜びは授業研究以前の「感激」となる。
こんな感動の「お手紙」を受け取る度に、(講師)『冥利』に酔うのである。そろそろ止めようかな、と脳裏が揺らぎ始めるとこの『冥利』がその思考回路に立ちはだかるのである。その繰り返しで退職後の8年間が過ぎてしまった。新年が開けると9年目の年がやって来る。
 そんな年の瀬に、「もう一度、この小学校に行ってみたくなっちゃいました」との熱きエネルギーが燃え滾ってくる老脳の異常性を我ながら驚いている朝である。

2011/12/29

いつもの『年の瀬』とはちと違う?


 ~環境の変化と心境~
 何かと気忙しい思いで過ごす「年の瀬」が、今回はちょっと違う。
新居と言う外的環境がそんな心情に迫っているのだろうか。いつものリズムで早起きして、「やるべきこと」(前夜の就寝時に考える)は7時までには全て終える日課は、ここ20年間は変わっていない。そのように確信している老脳が、それでもいつもの「年の瀬」とはちょっと違うような感じにさせられるのは何が原因だろうか。
 加齢が要因だと言及するには、まだ抵抗がある(笑)。
 昨日、小学生の孫二人を乗せて隣市・取手市に住む叔父宅に行った。助手席に妻、後部座席に二人の孫たちが陣取ってのドライブであった。はしゃぐ孫たち二人の会話で助手席の妻は笑い転げていた。九州の従兄たちや知人・友人から届いた野菜や果物をまとめて「お正月用」として叔父宅に届けるためであった。事情も説明して孫たちは同乗した。マンションの7階に住む叔父の部屋からは北に筑波山を背にして「牛久沼」(写真・左上)、南には冬の日差しに光を発しながら流れを見せる「小貝川」(写真・右下)がきれいに見下ろせる。孫たちの歓声が上がるほどだった。眼下を常磐線が走り去る光景もまた歓声の増量になったようだ。
 興奮を載せたまま車は帰路に着く。途中で昼食の所望があり駐車場に走り込む。希望のメニューで満腹になった二人は、さらにヒートアップして「漫才」紛いの対話へとエスカレートする。長男孫の発した言葉尻を捉えて祖父ちゃんから「考えるクイズ」を発信した。孫の級友が秋田県へ転校するという話題がきっかけであった。
 都道府県の「頭文字」一字だけを祖父ちゃんが発して、完成させる問題である。佐賀県・滋賀県・三重県・千葉県は「頭文字」の一文字だけが全てのヒントなのでかなり手こずる状態だったが、半分以上は解答が完成した。全部が完成する前に自宅に到着したほど集中した。サッカーをやっているという孫たちは、そのチーム名が都道府県名の名称当てに役立ったようで興味深くさえ感じた。
 こんな年の瀬を過ごしたことはなかった。
 つまり、今年の年の瀬が今までのそれと趣を異にする要因は「人的環境」の所為であることに気付いたのである。住居も地勢も変わったとしても、この年齢にもなると外的刺激からの動揺は無いのかもしれない。内的環境の変化、つまり関わり合う「人的」な質と量の変化の方が、影響が強いと実感した。

2011/12/28

「四字熟語」の深意

 ~「上意下達」の成立条件~
 新聞のトップ見出しが “東電の初動「誤り」”という朝刊。
東京電力福島第一原子力発電所の「(事故)当日」の事故調査・検証委員会の報告内容が掲載されている箇所は全てを読み込んだ。ふと「上意下達」(記事の中に引用されている)の深意について考え込んでしまった。

 上意下達とは、上位者の命令や指示、言葉などを下位者に伝えて実行させることを意味する。トップダウンもほぼ同様の意味を有している。上意下達は①上位者が発給する文書によって行われる場合と、②上位者の直接的な言葉によって行われる場合、③更に仲介者を媒介して行われる場合がある。(百科事典より)

 この記事(正真正銘の事実と認知すると)から読み取れるのは、海水注入の停止命令が(上位者から)発せられたにも関わらず、現場責任者の自己判断で注入を継続したという事実が判明する。つまり、上位者から(電話での)中止命令があったにも関わらず実行しなかったことになる。その時点から9か月の時間が流れた。そして自然災害に因る致命的な第二次災害が、今となれば本災害になってしまっている。 
 初動操作のミス?操作命令者の判断ミスと言うことなのか。
 新聞記事を読む限り、上意下達に即しなかった現場責任者の処遇はどうなるのか。なぜならば上意下達の意味は「戦略行為」の一つであるので、従わない限り効果や成果は齎さないのではないだろうか。
 現職時代に(このような「国益」に関わることではないが)、国~県~市~学校と上意下達(=文書による「通達」)の指示事項があったにも関わらず、小生はその指示に従わなかった。現職名は校長であった。行政からの注意や厳重指導を受けた。しかしながら、上意下達のレールに乗れない(細やかな)経営哲学が従うことに抵抗したようだった。従う、従わないということだけの問題であって死活問題にまで発展したことではなかったが、「上位者の責務」意識に信頼を寄せることが出来なかったからである。   
 上意下達という言語は組織の運用に関する重要な言葉である。
その深意は、命令や指示を発する上位者の資質に関することであることを意識しなければならないことではないだろうか。つまり、何でもかんでも「上位者」からの指示は次の下位者に伝える無責任さが本来のこの言葉が有する意義を割愛してしまうのではないかと愚直な小生(=下位者)は、今でも案じてしまう。教育界に従事する輩だからこそこんな反面教師的な発想をしてしまうのだろうか。少なくともこの言葉が成立するためには、「信頼される上位者」が育っていなければなるまい。退職者の傲慢な考え方であれば許されたし!

2011/12/27

「一枚の葉書」で考える



 ~全国の小学校で「英語の授業」をする~
 それは全てが先方からの依頼である。「昔取った杵柄」とは言え、対象が小学生となり、「教育の目的」に大差があることを認識すると請け負うには「ちっぽけな元・プロ」としての間違ったプライドまでがバリアとなってしまう。しかし、小学校では「藁にも縋る」思いでの依頼であるのがわかるので渋々、しかも勿体ぶって言い訳までが先行するほどの酷い状態で請けるのである。そんな老体に拍車をかけたのが愛知県教委の事業への参画招請であった。久しぶりの「教材研究」へ拍車がかかり、依頼された「地元」を活かすべく資料を探索し、教材化しながら『小学生が学びたくなる』英語の授業を探究した。30回ばかりの連続授業で度胸までつけていただいた。この経験値は表現できないほどの容量となった。関係者に感謝である。
 振り返れば現職の小学校長として自校の6年生には10単位の授業をするのが恒例となっていた。このことが土壌にはなっていたことは否定できない。しかし、自校と他校とでは授業前の「関係の確立」の背景が大きく違うではないか。授業の最大の条件は「学習者を理解している」ことであるのは持論でもある。と、すれば見ず知らずの「子どもたち」を相手に外国語の授業をするというのは無謀に近い。その授業を受けたばかりに「二度と学びたくない」とでもなったら責任の取りようがないではないか。しかも、教壇から遠ざかる時間は確実に増えている。授業のフィーリングが鈍くなっている。そんな臆病風邪はまさに向かい風になってしまう。
 そんな雑条件下でも授業をせざるを得ない。
 葉書の送り主は高知市の小学校の5年生の学級担任である。高知市内の他の小学校で授業をしているとの情報を得て直談判にて授業を依頼されたのだ。その心意気とそれを支える学校長の愛情に絆された小生は、高知弁の勧誘に載せられて美酒に酔って引き受けるという性癖(笑)が「安請け合い」をしてしまったのである。学級担任から、運動会で演じた組体操での合言葉が『だいじょうぶ だいじょうぶ』との情報を得た。その場の「だいじょうぶ だいじょうぶ」を英語では何と言えば良いのか、を突破口にして授業を構成して準備をして臨んだ。
 授業は失敗ばかり。
 この小学校でも例外ではなかった。しかし、外部の教育力を活かす学級経営力が功を奏して立派な感想文が届いた。その後の交信をしながら「授業づくりは学校づくり」という小生の経営理念の実践が行われている現状が垣間見えた。校長さんの「哲学を実践化する学校現場」として映って来た。たかがワンショットの英語の授業であっても活かし方では、学校も学級も、そして教員も大きく変容するのかもしれない。授業者冥利という嬉しさが激しい脈拍に乗って全身を温かく駆け巡った。最終章の交信がこの葉書の最後の小さな(追伸の)1行である。

     参考までに、小生から返信した葉書もご参照いただきたい。

2011/12/26

同音異義語シリーズ①


 ~「自立」と「自律」~
 写真版として搭載したのは『時に海を見よ』(渡辺憲司 著)の一部である。ここで著者が、親からも離れ、さまざまなことを遮断して物事を考え、自分の存在や自分と言う個の重さを感じて欲しい、と記している。見開き2ページだけを見ても「孤独をおそれるな」という若者へのメッセージが伝わってくる。このページの最後の行に注目したい。他人の目を気にし過ぎるあまり、自分の意志とは正反対の考えにも同調してしまい「いじめの輪姦」に身を落としてしまう若者世代への警告である。戦後の「民主教育」とやらはここまで他力本願の若者を育成するに至ったのだ。群れをなさないと不安になるような間違った孤独感を養ってしまったのである。孤独と孤立は違う。孤独の空間は寂しくもあり恐ろしさもある。しかし、少年から青年に至る時空で「孤独の醍醐味」を満喫(?)できた人間は、究極の難題に遭遇しても自力解決への懸命なあがきも可能ではないだろうか。
 世の中は扶助社会となった。素晴らしいことではあるが同時に感謝の気持ちも湧かない無感動な人間性を育てたとしたら乾燥社会ではないか。つまり、自立を育む社会ではない。自立することは、援助からわが身を切り離すことでしか育たない代物ではないだろう。言及すると、「親の支援」を親がどこでどのようにして切り離してあげるかの問題としか言いようがない。
 先だってラジオ講演で聴いた谷口浩美氏の言葉を借りよう。
 宮崎県で育った氏は地元有名校・駅伝部では超有名な選手として自立できたと確信して日体大に進学したそうだ。自立の次に立ちはだかったの「自律」だったと述懐していた。大学では高校時代のようにきめ細かな指導はもらえない。放牧状態の駅伝部だったらしい。国の親からもらう仕送り金がいつの間にか底をついてしまう。親には申し訳ないと思いつつも遣い込んでしまう。遊興費とまでは言わなくても食費も交際費も「自律心」の脆さにはどんどん食い込んでしまい中退を余儀なくされ故郷に戻って行った仲間を多く見たと話してくれた。貧乏な両親が借金を重ねて遠征合宿費を送ってくれているのを知っていた谷口氏には仲間の誘惑に踊るわけにはいかなかった。その分だけ孤独感を味わい孤立感に潰されそうであったが自立心を育ててくれた両親の顔を思い出しながら踏ん張ることが出来た。そこに「あらゆる欲望や誘惑に向かって自らが律する心」がなければ立派な大人になれない。氏の言葉には実感と言う体験が後押ししていて聴く耳を刺激してくれた。
 自立と自律の相関関係を考えてみれば、成熟しきれない大人社会がはっきり見えてくるではないか。自立できない子どもを育てる親には自律心はない。我が子を厳しく咎め、戒めながら本気の愛情で『突き放す』心こそ親にしかない自立心を育む大切な教育手法である。
学校教育もそうではないだろうか?甘い教員集団そのものが、「不毛な自立心」と「自律心の欠落」集団であるとすれば今後の我が国の教育に期待が持てなくなる。政治家集団をみても、派閥と言う群れから自立できない病状から「刹那主義」「短絡的決断」での活動に明け暮れる現実を視るにつけ我が国の将来が見えなくなってしまう。
 成長させなくてはならない時期に、成長させられる立派な(学歴や知性ではない)大人集団を作れなかった「贅沢・利便」社会の産出のツケは大きい。歴史上に汚点として残る「負の遺産」ではないだろうか。

2011/12/25

来年の「仕事」の準備を!!



 ~「読書で脳と心にスイッチオン」 

 届いた公開研究会案内(半分・写真版)を開いた瞬間に、片道50分を要する距離を毎日歩いて通学していた小学校の古ぼけた校舎を頃を思い出した。分校に通っていた2年間を終えて、3年生から本校に通い始めた少年には本校の校舎の中に「図書館」という部屋があったのが何故だか「眩しい存在感」となったのを記憶している。初めて入館したのは5年生になってからだった。驚きと感動は今でも忘れない。そこは「見たことの無い」夢のような空間だった。
 授業は何だったかは記憶していないが、帰り際に「好きな本を借りる」ことが出来ることを知らされた。指定された曜日の昼休みがその時間だった。初めて借りて帰った本が「次郎物語」。貪り読む少年の行動は、母や祖母には異様にでも映ったのだろうか。農家の手伝いをサボりながら「読書する息子」への冷たい視線は強まるばかりだった。そして、ついに6年生になったら「本を借りる事」への禁止命令が母から発せられることになってしまった。叔父が仲裁(?)に入って、借りて来ても良いが、家の手伝いをきちんとすることとなった。しかし、少年は「本の虫」に化していくばかりで母からの叱責は治まらなかった。ついに事件が起きた。少年が借りてきた2冊の本(野口英世物語・二宮金次郎物語)を、母がどぶに捨ててしまったのである。
 図書館との思い出はそこが始発点である。
 「学校図書館を活用した授業と読書指導」という研究を進めている広島市の小学校から、その成果を発表する公開研究会の全体会での「講演」の依頼があったのが9月であった。校長先生からの提案演題が『読書で脳と心にスイッチオン』というフレーズが示され、脳裏には小学校時代に「恋い焦がれた」1教室分しかないちっちゃな校内図書館を思い出した。つまり、当時の少年の「脳と心」にスイッチが入ったのが図書館だったことを懐かしく思い出させていただいた。
 図書館学習の研究など全くしたこともない素人が講演を請ける。それは無謀に近いが、「少年の脳と心」に火をつけてくれた母校の図書館に謝意を述べることの機会が与えられたと曲解しての受諾である。そろそろ、当日のレジュメを制作する時期になったようである。

2011/12/24

ラジオを聴きながら・・・(7)


 ~転んでも踏まれても立ち上がれ~
「こけちゃいました!」で有名になった谷口浩美です!
 会場かららしい集団の笑い声が耳に届き、起床モードになる。ここ土浦は、48年間住み慣れた湘南地方とは雲泥の差の寒さである。体内時計は寒暖の差はないようだ。目が覚める時刻は決まって3時40分であるのは未だに不明。妻の反対を押し切って購入した石油ストーブ(ファンヒーターではない)に点火するのが、ここ数日の寒波の朝の日課の始まりである。
 我が家のラジオは一晩中(就寝から起床まで)最小のボリュームで枕元で稼働している。今朝の「にっぽんの歌こころの歌」という番組は『宮崎県特集』らしく、大好きな宮崎民謡「刈干し切り唄」が地元の人の歌声で聞こえてきた。なぜか全身がシャキッとする。
 6畳間の和室は今朝も異常に寒い。しかし、小さな石油ストーブであっても火力が部屋を温めてくれる。妻は4時半には床を離れて台所に立つのが日課の始まり。小さな「離れ」の別邸でもエアコンが無いと堪える寒さであるが妻は朝食の支度に取り掛かる。小生も身支度をして立ち上がるが夏場とは時差があるいい加減さ。今朝は谷口浩美・元オリンピックのマラソンランナーの『あったかい語り口』に癒されつつ布団の中で聴き入る甘ったれ根性は妻とは違って我儘な性格である。聞こえてくる講演の内容に感動し、感激している内に立ち上がりたくなって飛び起きた。
 氏の「生きて来た人生を、1年・1ページにして何が起きたか」を書き込んでみるのが自己の人生を振り返るきっかけになる。こんな忠告が聴講者に向かって発せられた瞬間、我が老脳にもピリッとした『納得感』が過った。氏は51ページの人生ノートが顕在すると追加した。
 1944(昭和19)年から67年間の人生を進行中の小生には67ページのノートがあり、そこに「どんな事件や事故、出来事」が起こったのかを振り返ってみようと老脳にスイッチが入った。記憶にない幼少期のページも調べてみたくなった。
 氏の「この失敗があって」今日の自分がある。この言葉はずしっと来た。この失敗やあの哀しみ、思い出したくもない苦い思い出」が、今日の自分に脈々と生きていることを自覚させられた。72歳で他界されたらしい父親に息子として送った言葉は他言できないほどの重さだった。人様の息子さんの言葉であるが、「小生にも大事な苦言」として受け止めたいと妙に嬉しくなった早朝であった。

2011/12/23

寒波の中にホットなメール



 ~ ラストランに栄光あれ~
 この校長先生の、転勤後のどん底状態からの懸命な立ち直り方には脱帽した。


 勤務先の現場を覗いたわけでもないので当事者からの実情報告でしか判断は出来なかった。嘘をつくような性格ではないと直感できたので丸ごと受け入れることしか出来なかった。酷い症状を呈している学校現場を多く知っている。どのパターンに属するかも類別できた。しかし、現場を知らないと打開策を講じる(細やかでもアドバイスする)のにお先真っ暗であった。
 嘘のない実直なこのタイプの教育者は多い。逆に、信じられないほどの腹黒さと利己的な人間も多いのはどんな業界でも同じだろう。しかし、こと『学校』という一種独特なムードを醸し出す教育界には、私利私欲と出世欲とを「併せ着」(重ね着)しているような人種と出くわすと幻滅感で打ちのめされそうになる。悔しいかな、そんな現実と遭遇した経験値が老脳の中にも生きていた。この校長先生にはその観点からのアドバイスが出来たのではなかろうか。
 リーダー論が盛んに交わされる時代となった。
 小生が気になるのは「リーダーとしての資質」に言及されることである。資質の有無を論じられて満足に応えられる資質を有する人物など皆無に等しいと考えるからである。リーダーに「指導性」だけが要求されるとなるとその論議は不毛なモノになってしまう。なぜならば、本物のリーダーには、指導性だけではなくトータル的に見ても「寛容な人間性」が支柱にあると、小生は考えているからである。寛容性は、排他的ではないことが主要素になっていると考えられる。つまり、他者を受け入れ、認知して評価できる素養が期待されなければなるまい。
 追究するに、逆にリーダーをサポートする人材(複数が望ましい)の存在とその力量が「良いリーダーを育てる」要素になるということである。つまり、陰になり日向になりリーダーというポジションにある人材を支えるパワーの威力がとても重要になると考えているのである。この校長先生にはその「裏方さん」達の存在と威力が顕在したということである。それが、誰であるかは本人のみぞ知ることである。認識している証は「感謝です」と言う表現である。
 感謝すべき人材は校務にも存在していることは氏の学校のホームページ(今回のメール交信のきっかけともなった)のブログにも随所に観られている。この栄光の支柱であったと嬉しく思えるばかりである。退職する日を指折り数えて大過なく過ごそうという愚策は氏にはない。残された最後の時間も今までと同様に全力で走り抜けることを期待している。

2011/12/22

『昨日の記憶』は確かですか?

~「人名が思い出せない」のは苦悩の一つ~
 顔は思い出してもその人の名前が出てこないのは苦痛に近い。そんなことを数多く繰り返している内に「苦悩」だったのが「苦痛」に変わり、それが「諦め」に変色していることに気がつくと加齢の重さを痛感する。同年齢の仲間と談笑しつつ、そんな症状を確認できると何故かホッとするのは人情なのか。
 孫が離れのミニ書斎に勉強しにやって来る。想定外の質問を浴びせられ、「わかっている筈」の答えが出てこない。祖父としてのプライド??そんなモノはない。しかし、応えるべき答えが出てこないのは哀しい。たかが小学4年生の孫の質問ではないか、とわが身を奮い立たせるが現状は現状である。
 67歳を迎えた日に、この孫から「僕が大人になってお祖父ちゃんとお酒が飲めるように、元気で長生きしてね」と檄を飛ばされた。そこで、小生は呆ける脳みそを活性化する手段として、その翌日から「朝一番」の仕事を決めた。それは、パソコンに向かって「昨日の出来事」を時系列で書き上げることである。簡単そうで難しい。読者諸兄も一緒にチャレンジしませんか?
 小生のように「毎日サンデー」(=造語)になると、曜日によってリズムに特徴があった現職時代とは異なり、「毎日がほぼ同じことの繰り返し」になってしまうので『昨日の記憶』は脳外に飛び出してしまい残像すら消えてしまうようである(笑)。訓練として課しているので、その時点での記録やメモは残さないことにしていると、昨日の午前中が「真っ白」になっていることが多くなってしまった。
 老妻との歩禅の対話は、その欠落部分を舐めあう時間として有効である。
相手の記憶が途切れている部分は、不思議と自らの記憶に残っているのが可笑しい。逆も十分に成り立つので田圃道の途中で立ち止まって大声で笑ってしまう。他者が観たら『呆けた老夫婦』に見えるだろうな(笑)。
 そんな対話が済んでいると「昨日の記憶」の記録は実にスムーズなのである。冗談めいて、「この対話が消えたら一気に痴ほう症状が悪化するんだろうね」、と苦笑である。変化と刺激は、現職時代に「解放されたい拷問」でもあった。しかし、こうして毎日が義務と責任から解放されると自らの強い意識改善策を持たないととんでもないことになってしまいそうである。
 ご迷惑にならない程度で、「義務と責任」が伴う「変化と刺激」を求めて、来るべく平成24年も、請け負える「おしごと」に向かい合って行こうと心引き締めている師走の朝である。

2011/12/21

新聞記事を読んで・・・。



~常識はずれ?~
 そもそも「常識」を規定するための基準は何だろうか?記事の主人公は、誰が名づけたのか「市民ランナー」と言うらしい。市民ランナーと他のランナーはどこが違うのか?特称されるのだから、ランナーを規定するうえでは根拠になるのが「企業・会社」の組織に属し、専門のコーチや監督の指導を受けていることになるのだろうか。高校や大学で有名になったランナーは誘われたり望んだりして有能なコーチが在職している会社の職員として身分や生活も保障されながらその社名(=社命)を掛けて(=賭けて)、時としては自らの考えや展望を押し殺して練習と言う名の下で組織人と化すアスリートのことなのか。
 施設や設備を必要とする競技では個人負担では対応できないだろうが、何の投資も要らないマラソンランナーにとっては論外として選手が誕生しても良いと思い続けていた小生には、この記事のランナーには心底からエールを送っている。先だっての福岡国際マラソンでの終盤での悲壮な顔つきでのラストスパーの画面を追いながら解説者が「今までのマラソンの常識を覆した力走」という表現を何回も発した。思わず首を傾げてしまった。
 常識とは何だろう。35キロ地点からのラストスパートが常識外れと言われながらも、この選手は形相を変えて走り続けた。しかし、「限界かな」と応援者の心臓までバクバクさせながらも最後まで走り抜けてしまった。敗者となった大学ランナーとしても著名だった二人のランナーはそのスパートに追随できぬまま涙のゴールであった。決してこのランナーの走法にケチをつけているわけでもなければ、コーチの能力を訝っているわけでもない。
 常識はずれ?
 小生の学校経営にもこの言葉を多く浴びせられた。その度に「何を基準にして小生の学校経営手法が常識はずれなのか」と自問自答したものだった。こんなちっちゃな新聞記事からも『考えさせられる』人生勉強することも、常識はずれかな?こんな考え方で自己研鑽することが常識はずれを誕生させるのでは??
 有名人(基準は知らない)が結婚する。お相手は「一般人」と表現される。どうやらこの「一般」は「一般市民」という意味らしい。市民というのは「普通の人」の意味らしい。このランナーは、確かに普通の「学校事務」に携わる公務員である。普通の人が予想外の記録や勝利を勝ち取ると「異常者」になるのかな。つまり常識はずれとは、異常と評されるほど立派な業績を築き上げた褒め言葉のようである。こんな小さな記事から、自らを奮い起こしてくれるような結論に達することができるのである。この市民ランナーの常識はずれに大いに期待したい師走の早朝である。

2011/12/20

カレンダーの『始発点』は?

~現役時代を振り返りつつ・・~
 暦が新しくなる。
 こんなフレーズがありますよね。これって、「お正月から」という基点を是認しての表現?つまりカレンダーの始発点は、やはり正月・元旦(1月1日)なんでしょうね。大学を卒業してそのまま教員人生が社会生活の基盤になった小生は、「お正月」は4月1日だったような気が、今も失せません。若い教員時代は、新学期(4月)の暦の始まりは「新しい生徒との出会い」にその基点がありました。学級を丸ごと持ち上がった経験が2回ありましたが、それでも年度始めの学級開きの時間には『新鮮さ』は意識したものでした。
 職業上必携する「教務手帳」なる代物は、書き始まりは「4月の行事」と「年間授業計画」でしたので、この業界では4月がカレンダーの始発点であったことは否定できません。我が国における行政は、『年度』が4月になっています。9月や2月に始まる学校文化が世界に沢山存在することや、2月に「お正月」を祝う国もあるのですから始発点には文化の差異が生じるのでしょうね。
 退職して「年度」生活から遠ざかってみると、やはり始発点は「1月」のように感じるのです。家に貼ったり掛けたりするカレンダーも師走のうちに手に入れた時点ではカバーや表紙が付いています。それを取り去ると1月からのページになります。そして12月で全部が消えてしまいます。その繰り返しをしながら生活していると「お正月」の意識が高まるような気になっています。
 正当性を論じているのではありません。
 基盤となる生活からそれぞれののリズムが創りだされるということを考えを述べているだけです。皆さんのカレンダーの始発点意識はどうなっているのでしょうか?今日は今年最後の『鍼診療日』です。2011年(平成23年)は、3月の大震災に引き寄せられるかのように4月に、震災地に近い土地に転居しました。小生の人生史上、極めて大きな変動が起きたカレンダーとなりました。昨年まで毎週の定期便で通院した鍼診療所へも後半で月に2回ほど通えるようなカレンダーとなりました。壁に掛かっているカレンダーには9月からその予定も書きこまれています。新しいカレンダーは未だ壁には掛けていません。今日は来年の診療予約も確認して帰宅します。
 そろそろ、新しい始発点であるカレンダーに、色々な予定を書き込みたいと考えています。皆さんのカレンダーに記録する始発の出来事は何でしょうか?

2011/12/19

結局「手作り」の手帳にしました!

 ~革製・システム手帳の中身~
 毎年、中身だけその年に合わせて買い換えていました。
 そして5年も使っている愛着のあるシステム手帳です。近隣の文房具専門店が品数の不備な状態がわかりましたのでA5版の用紙を活用して、カレンダーもスケジュール書き込み用のページもオリジナルデザイン(笑)によるバインダー式の手作りをすることにしました。
 今日は朝からその案件で試作品の製作に老脳が疲れる程にチャレンジしてしまいました。手作りですから装丁デザインと出来上がりのギャップが随分大きいのです。苦笑してみたり、落胆したりしている内に冬の日差しはあっという間に夕暮れを連れてきてくれました。気が付いたら、当ブログも午前中には書き上げるはずがこんな時間になってしまいました。
 帰宅した孫たちが遊びに来た友人たちと楽しそうに庭先で遊んでいる声に「我に返る」ほどに集中していたのですが、「労作」も駄作に限りなく近い出来上がりになりそうなので、今日の作品は反故にして(明日は『鍼診療日』なので疲れた脳に充血を施して再度)、明後日に挑戦することに決めました。
 エクセルで創る手帳の中身。
 そのノウハウがお有りの読者がいらっしゃいましたら、高度なスキルによるアドバイスには対応出来かねますが、少々のヒントはいただけるだろうと考えています。よろしくお願いします。本日のほぼ終日にわたる取り組みも「徒労に空し」の状況下にあってもめげない小生は、やっぱり生来の能天気者ですね。今更わかったわけではありませんが、自意識の症状がはっきりしてきたという所でしょうか。
 夕暮れの冷え込みが強い北関東です。そろそろ、あったかい焼酎でも準備して老妻の手作り「酒の肴」でも頂くとしましょう。ちっちゃな書斎のワークデスクの上に失敗した印刷済みの用紙が目立つように存在しています。無駄なことをしているのかな?年賀状の作成で酷使したプリンターのインクもそろそろ心配です(笑)。

2011/12/18

わが師走の風物詩(4)・・≪続≫



 ~教師冥利に浸りつつ・・~


 今年も卒業生との再会が出来ました。

 中学校の教員として初めて卒業生を出したクラスの生徒たち。と言っても、もう50歳を超えているという卒業生です。久しぶりに再会した面々もあれば、毎年楽しみにして参加する者もいて年中行事になっているミニ同窓会です。顔ぶれによって話題も微妙に変化するのが、また楽しみであるのです。

 今回は、小生の転居と「同居する」生活リズムと祖父母が関わる孫の人間性の構築にまで話題が展開してしまって、僅か8ヶ月の同居生活から見える「孫育て」への祖父母の関わり方の重要性に言及することになってしまいました。既に「お祖母ちゃん」になっている卒業生もいましたので、その観点からの同質意見もあり、これからの自らに及んでくる立場論からの意見もあり、師弟の関係を超えて話に花が咲いて、今年の再会もあっという間の時間となってしまいました。小生の遠距離への帰路を心配して7時過ぎには宴の中締めをしてくれました。

 余韻と一緒に東海道線で東京へ一旦戻ることにしました。乗り換えて上野駅に着いたのですが、都合の良い電車の時刻まで30分以上もあり、退屈しのぎと胃袋の洗浄(?)も兼ねて入り慣れない喫茶店で珍しくコーヒー等を飲んでから常磐線の車中の人となりました。気がついたら取手駅でした。再度の睡魔を避けるべく単行本を広げ大好きな西村京太郎氏の推理小説を読みました。「上野駅13番線ホーム」という題名が、内容は、乗換駅での事件発生からの展開なので架空とは言え現場が空想の中ではないのが酔い覚ましには最適な本になってくれているようでした。旅の伴は、硬い本ばかりではありませんよ。特に氏の本はベストフレンドの1つであることは間違いありません(笑)。

 さほど酔わずに帰った老夫に老妻は当てが外れたような顔で迎えてくれました。教え子たちとの再会は当時を走馬灯に蘇らっせてくれるのでしょう。成長した教え子たちとの話題が「祖父母力」という言語を使用しても飽きない時間帯が築けたことがアルコールの力以外のパワーでも「心酔い」に誘ってくれるのでしょう。有難いことです。これで「忘年会」も打ち止めです。今年も『良い年』でありました。

 卒業生たちの家族にも「良い新年」が訪れることを祈りつつ、逢瀬に感謝したいと思います。

2011/12/17

わが師走の風物詩(4)

~50歳を超えた卒業生との再会~
 7年前に「学年同窓会」が開かれました。神奈川県藤沢市で勤務した中学校の卒業生によるものでした。偶然にも小生の『還暦』を迎えた年でもありました。7学級あった大規模な中学校でした。小生は26歳の「子連れ」新採用教員でした。つまり、中学校の教員として初めて出会った中学生でした。高校教員から中学校へ異動になった時点でのカルチャーショックはそれなりのモノがあったような気がしましたが、結果的には「最初の教え子」と言う新鮮さが未熟な教員を育ててくれたようです。拡大の同窓会も醍醐味があるが、こじんまりと毎年「学級だけのミニ」の同窓会ができたら、との要望があったようです。肝いり役を引き受けた幹事さん達がその後毎年準備をしてくれているのです。
 数年前に「50歳の大台に乗りました」と、幹事の発声でミニ同窓会(学級だけ)が始まりました。
 近況報告で「お祖父ちゃん・お祖母ちゃん」になっているとの自己紹介に年齢差以上の接近感に驚きました。そんな集団から今年も開催通知が届きました。小生の転居を考慮して開始時刻を若干早めてくれる心遣いに動揺しました。昨年までと違い、今回は茨城県から東京を超えて藤沢市まで行かねばなりません。少々の躊躇があったことも事実です。乗り換えて移動する時間が約3時間かかるので終了時刻から逆算しても深夜に近くなること、と寒冷地(現住所)との絡みで考えてしまったのも事実です。
 ところが、昨日あたりから「再会への興奮」が老体に鞭でも打ったかのように「行く気十分」の若い頃の担任教員に戻ってしまいました(笑)。今朝もラジオが「この冬一番」の冷え込みと報じています。確かに足元が冷え込んでいます。しかし、出席することへの躊躇は全くありません。「病は気から」と言う諺を証明するかのようで苦笑してしまいます。
 そこで、8分間ほど足を延ばして、茅ヶ崎の旧宅まで行ってくることにしました。
 ミニ同窓会開始時刻には、茅ヶ崎から藤沢まで移動することにしてスケジュールを立てました。旧宅を放置したままなので、知り合いの工務店と打ち合わせをして旧宅の今後の処置方法の助言を戴くために午前中に訪問することにしました。
 今夜の同窓会の報告は明日以降にいたしましょう。寒さに向かって行ってまいります!!

2011/12/16

師走の風物詩(3)

~12月15日は『オレオレ詐欺』最悪の日~
 ラジオが伝えた「最悪の日」。なぜ?
 早朝のラジオで得る情報でしみじみ考えさせられることが多い。「俺の携帯電話番号が変わったから」「交通事故を起こして示談になって」等々の電話が親や祖父母に掛かってきたら「怪しい」と思わなくてはいけません!とアラームを発するアナウンサーの声を耳にしながらどうしても合点がいかないのはなぜだろうか。この手口が振り込め詐欺の常套手段らしい。わが子やわが孫と声が違うように感じた当該者が聞き直すと「風邪をひいている」と堂々と応えるらしい。それでその場の疑問は解決するようだ。この点でも合点がいかない。しかも、殆どが男声である。男の子の教育が間違っている??
 なぜ、ひっかかる?
 家族の人間関係すらも希薄になってしまったからなのか。ただそれだけでこの詐欺に引っかかってしまうのか。言うなりになってしまう親子関係・祖父母と孫の関係(わが身を引き締める)の長い経緯がそこには存在しているのではないだろうか。
 その後のラジオでは面白い情報があった。
 毎月15日なると、小学生(児童)たちが銀行の周りに張り付くところがあるというではないか。それは予防策の一つとして実施されるらしくかなりの効果を上げていると言うので思わず苦笑してしまった。苦笑しながらも、「子どもたちの目」が銀行にやってくるお年寄りに元気と勇気を与えるらしいとの証言を聴きながら、また考え込んでしまう。孫の数が少なくなった時代では、親以上に「甘さ」を露呈してしまう祖父母力の減退を感じてしまった。そして今、祖父母として存在するわが身の重要性を噛みしめている。
 ダメなものはダメ。良いことは良い。
 是非善悪をきちんと教え込まないと、孫たちが成長して立派な大人になれないではないか。クリスマスプレゼントやらお年玉とやらの掛け替えのない(子供にとって)イベントが年末年始に目白押しである。金額の高低を競わせるような親では子供は育たない。高額を授与する祖父母が価値があるような親の視線があるようではその子ども達の行く末は案じられる。貧乏のどん底は避けたいのは人情である。しかし、そのやむを得ない状況下で「耐える・堪える」心情を育むことが子育ての基礎基本ではないだろうか。
 師走の風物詩として取り上げるには「哀し過ぎる」最悪の日である。15日は年金の支給日であることもラジオの情報で再確認した。小生は正真正銘の年金受給者である。我が子やわが孫たちが、「お祖父ちゃん、あるいはお父さん・・・・・なのでお金が必要になって・・・」と、のたまうモノなら、この祖父ちゃんのカミナリが落ちるだろう。甘ったれるな!自分でしでかした失敗は自分の力で補え!!と。
 こんな祖父ちゃんは孫にとっては可愛くないお祖父ちゃんなんだろうな!(笑)。
 年賀状の受付が始まる師走の時期となった。大昔から存在する「年賀状」の意味をじっくり考えながら日ごろの「人間関係」の成り立ちに感謝するのも良いかも知れない。そんな16日の朝である。

2011/12/15

師走の風物詩(2)

~「源泉徴収票」が届く・・・~
 給与所得者、つまりサラリーマンにとっては「身を切られるような説明書」である源泉徴収票を具に確認して検討することは殆どないのではないだろうか。小生だけのことではないと確信している。読者の皆さんで現役の給与所得者の方はいかがでしょうか? 
 源泉徴収票が郵送されてきました。裏面に次のようなコメントが記されていました。
 
 源泉徴収は確定申告で必要となります。紛失されないよう大切に保管してください。確定申告は、平成24年2月16日(木)から平成24年3月15日(木)までです。
 
 現職時代には、事務職員から1枚の確定申告票が配布されました。住所氏名を直筆で書き込んで印鑑を押して、生命保険等の書類を添付して提出するだけで要務は完了していました。それでも、職場では締め切りを護らない輩が事務職員を困らせていました。30数年間をその要務を「重要な手続き」とは意識せずに過ごしたサラリーマン(小生)は、退職後が大変です。自戒を含めて読者諸兄に心情を記述しているのです。老輩の「戯言・ぼやき」と軽視せずに意識を高めることを強調しておきますよ。
 師走の風が、『事務処理』=確定申告準備という要務を運んできます。
 来年の申告には、妻も今年から年金所得者になりましたので扶養者としての申告をする必要が生じました。妻の源泉徴収票もこの師走の風に乗って運ばれてくることでしょう。
 その場に至って「現実と直面」しない限りわからないことばかりです。市教委に勤務医していた頃、ある時期から市役所の駐車場に警備員が配備され車の出入りの整理している姿を見ても、「今日は何か大きな催しでもあるのかねぇ~」と同僚と他愛もない会話をしていた能天気者が、今となれば恥ずかしくもなります。市民の皆さんが確定申告のために庁舎に押し寄せていたわけだったのです。退職すると、その一列に身を置くことになります。
 税務担当の職員に、「虚偽の申告」を探し出すかのように錯覚してしまう尋問(?)に不愉快な思いもします。しかし、担当者は確認をしてくれているだけなのです。教員時代に生徒指導をしていた自分の姿を税務担当者の言葉に置き換えてしまうのです。不快感を味わう自省の時間にもなってしまうのが何回接しても同じ感情になります。貧しい人間性に失笑です。
 暗い話題になってしまいましたか?ゴメンなさい。決して悪気はありません。「まだ、先のこと」という意識への軽いジャブであるとやんわりと受け止めてくださいませ(笑)。

2011/12/14

方向音痴は「地図帳」音痴?

~「清掃センタ」ーに辿り着くまでの苦悩~
 引っ越し荷物が8か月経っても片付かない。
 妻の愚痴の音量もどんどん高まる一方である。それは、実家となったこの離れが、嫁いだ娘たちのお正月の帰省先になることが絡んでいるようだ。つまり、孫連れの宿泊客があれば、唯でも狭い離れの老人宅は片づけをしないと寝る場所の確保が難しいからであろう。事情は重々承知しつつも放置してきたツケが回ってきた。早朝から片づけたゴミ(笑)を、地域のごみ収集場所に置くには多すぎるらしく市の清掃センターに「持ち込み」処理で始末したいとの要望である。市役所の開業時刻を待って電話をして相談しつつセンターの所在地を確認した。
 お得意(?)の地図帳を片手に聞き込んだ目印と所在地のメモと照合し、ネットの地図も参考にしながら自信満々に、捨てるべきお宝物を軽自動車に積み込んで出発した。
 地図通りに運転した(笑)。
 しかし、全く見当違いの場所らしい風景に迷い込んでしまった。やっぱり、方向音痴は健在だった。同乗した妻は呆れ返って言葉が無いようだった。それは先週の土曜日の千葉県佐倉市からの帰路、長女が教えてくれた通りに運転したつもりが全く反対の方向に進んでいた時点の苦悩が脳裏から離れていないことの証でもあった。
 途中のコンビニで説明を受け、何とか目的地に到着できた。
 余裕で昼食時間には帰宅するつもりが大幅にずれてしまった、呆れている妻の苦情はもう無い。それでも自己嫌悪に陥らないところが性分なのだろうか。車社会を代表するような当地である。何とか、すんなり目的地に到達できるようなセンス(笑)を獲得せねばなるまい。時間のロスを最も嫌う人生を歩いて来たと自負する男が、このザマではどうしようもない。
 師走のつくば市は未だ道路が混んでなかったのが不幸中の幸いであった。
 自他ともに認める「方向音痴」第一人者である。帰宅して母親から報告を受けた長男がボソッと、「ナビを付けてやろうかな」と嫁に囁いたのが聞こえた。どうやら老人特性の「地獄耳」だけは健全なようである(笑)。読者のみなさん、同情は不要です。エールだけを待っていますよ!

2011/12/13

師走の風物詩(1)

~カレンダーと手帳~
 人生僅か70年足らず。
 カレンダーと手帳を意識したのは何歳ぐらいだったでしょうね。読者の皆さんはどうですか?教員と言う稼業では4月から『年間計画』に従って全てが回転しました。その運営方法や手法についての考えを述べるのはこの場では無理ですので省きますが、「計画する」という理念とカレンダーと手帳は密接な関係があるような気がします。「カレンダー通り」という慣用的表現を押し付けられた現役時代も懐かしく思い出します。この観点から判断すると、カレンダーは共有・共用の代物ですね。
 一方、手帳となるとプライバシーな内容が記述される代物だと考えても異論はないでしょう。皆さんの手帳の購入歴はいかがでしょうか?教員時代には「教務手帳」という硬い手帳がありました。児童生徒の個人情報が満載される異状な手帳です。紛失してしまったら大変なことになってしまいます。現在では、電子手帳なるパソコンを能力を持ち運びできる手帳もあるようですから保管の問題が、従来の手帳の世界とは比較にならないほどに重要になりますね。先生方は十分にお気を付け願いたいですね。
 そんな歴史を紐解くだけでも、カレンダーと手帳の変遷ぶりは計り知れません。
 ただ、どんな活用方法を考えようと、カレンダーと手帳の入手時期は大きくは変動していません。つまり、師走のこの時期になると今でも、文房具店や書店の店頭には夥しい数量の逸品がお目見えします。心機一転??そのためにもカレンダーや手帳の威力を借りる発想も有り得ることが認知していただけることでしょう。
 小生は、現役を退いてから『手作り』の手帳とカレンダーを作り始めました。
 それでも、この8年間で大きな変動も確認できます。その変遷に人生の変容を感じ取れます。皆さんの情報も教えてください。
 知人が経営する会社から今年もカレンダーが届き始めました。そこにも会社独特のプライバシーが覗けて楽しみです。ところで、以前に比べるとカレンダー配布も分量が激減していませんか?商店街の小さなお店でもこの時期に買い物するとレジでカレンダーがもらえましたよね。ところが、今?
 身勝手な心情の変化をカレンダーと手帳からも覗えます。「こんなに沢山カレンダーを貰ってどうするんだよ」と嘯いたわが人生の傲慢さを痛感する、2011年の『師走の朝』でございます(笑)。

2011/12/12

「漬け物」が上手になったね!

~白菜の漬物は大好物~
 近所の農家から一輪車いっぱいの「旬の野菜」をいただいたようだ。
 母屋から嫁が何回かに分けて離れの台所に運んでくる。白菜・大根・ほうれん草等々、この地にある葉物野菜もあり、狭い台所いっぱいになるほどの量である。数週間前に同じ農家の方から白菜を戴いたらしい。食卓に上がった「お漬物」に食欲をそそられて美味しく食することが出来た。「美味いね!」と連発する夫に妻は応える。「歳取ったのよね」と。茅ヶ崎市に住んでいる時も野菜は良くいただいた。当然ながら白菜も貰っていたように記憶している。塩梅??という日本語の深意をくみ取れるのが漬け物のようだ。塩加減の難しさに妻は苦労したが、お世辞にも美味いとは言えなかった。
 昔の村の様子が浮かぶ。大根漬けの味がその家によって異なると祖母が話したことを思いだす。それぞれの「漬け方」があるようだ。近所のおばあさんが漬けられた大根の漬物をいただいて家族中が「美味しい」と舌鼓を打ったことも浮かんできた。漬け物が得意でなかった母親は少々肩身が狭かったのではないかと、この歳になると優しく思い出すことが出来る。日本の食文化なのだろうか。この漬け物と言う食品が発する独特な匂いや食感は親しい外国人の友人には敬遠される。
 引っ越した住まいが、畑の隣に位置する。
 孫の友人のお祖母ちゃんも野菜を運んでくださる。有難く旬を戴ける幸せに、妻の「白菜漬け」が彩りを添えてくれる。どうしたんだろうか??白菜の漬物が実に美味になっているではないか。褒めれば褒める程「歳とったのよね!」と複雑な返答が繰り返され、褒めるのも躊躇してしまう(笑)。
 どうしてなんだろう?「漬け物上手」と「若い奥様」との互換性がない?
 妻の加齢を諸手を挙げて喜んでいることは無いが、漬け物が急に上手くなった妻の器量はやっぱり加齢の為せる技なのだろうか?この相関関係は何とも言えない。しかし、大好きな「白菜」の美味しい漬け物が食べられるようになったことを至福に感じつつ感謝することにしましょう!!

2011/12/11

21枚の「葉書」

~喪中葉書を戴いています~
 毎年、年賀状を書き始める頃までに喪中の葉書が届きます。
 3年前に小生も発送しました。それぞれの「思い」が込められている葉書に目を通しながら、卒業生の一人から届いた「思い」に心が曇ってしまいました。「二月に夫(〇〇)が48歳で永眠しました・・・・」との文字に早過ぎる人生の終わりを、卒業生はどんな思いで見送ったのだろうかと考えると辛くなってしまったのです。彼女は実母との別れもまだ中学生の時(小生が担任)だったことを考える人生の絵巻物が微妙に、人それぞれに異なっていることを実感したのです。
 尊敬して(させていただいた)いた上司の奥様から届いた葉書にも思いを馳せました。
 教員と言う身分で勤務した市教委で「教育長」として、厳しく且つ丹念にご指導いただいた当時の職場の風景が蘇ってきたのです。活気ある職場づくりにご支援いただいた「一言一言」が浮かんできます。忘れ得ぬ名文句(名言)は、新春教育講演会(1月21日・東京/浅草)で思い出として紐解きながら披露しようと考えています。成長しきれない『大人社会が生み出す負の再生産』の根拠に、この大先輩の名言を使わせていただきたいと企画しています。神奈川への里帰りで、また一か所「墓参り」が増えました。
 そんな思いが脳裏を駆け巡る師走の日曜日です。
 昨日は当ブログの書き込みをサボってしまいました。申し訳ありません。千葉県佐倉市に住む長女宅に車で行ってみたいと目論んでいたのを実行しました。往きは2時間でほぼ予定通りだったのですが、帰路を長女が示してくれた「地図帳」を頼りにして自宅に向かった筈が、全く違う場所を走っていることに気が付いて進路変更を繰り返している内に何と3時間以上も運転してしまったのです(笑)。疲れ切っての帰宅になってしまいました。心配した嫁から車中に電話がなるやら、老夫婦は若干のパニック状態になって疲労困憊の状態で帰着しました。ブログに楽しい旅の様子など書き込む余裕もなくダウンでございました(笑)。それでも、今朝は元気なお目覚めですので能天気な性格はご健在のようですよ!!
 そろそろ、真剣に「年賀状の作成」に取り掛かりましょうかね。読者の皆さんの進捗状況をお知らせください。

2011/12/09

早朝のラジオを聴きながら苦笑

~年寄りに必要な「教養」と「教育」・・~
 午前4時半の小さな「離れ」小屋から老夫婦の笑い声。
 認知症の相棒のとんでもない言動に介護者が思わず大声で笑う。その声に誘われて当事者まで笑い出す(認知症の親を介護したが大声で本人が笑ったことは無かったが・・・)。そんな状況にでもなったのかと、読者の皆さんはご想像なさることでしょう。
 ところが(笑)、まだ我が老夫婦にはどちらにもその症状はありません。自身が認知症を認知しないのがその症状の始まりでしょうから、この断言も弱いモノなのかもしれませね。今朝の話題はその観点に拘るものでもありません。
 ラジオから流れた千葉大の元教授の発言が早朝の老夫婦の大笑いを招いてくれました。
 氏の提唱される『楽老人生のススメ』の、老いを楽しむための最大要素は「教養と教育」と断言されたからです。わが耳を欹てながら夫婦の視線がぶつかった直後の解釈で判明しました。老人になって人生を楽しむ(氏の「楽老」)ための基本条件として、①「今日(する事)がある」②「今日行く所がある」かどうか、の2点を考えているとの説明が続いたのです。「きょう・よう」「きょう・いく」との語呂合わせに思わず納得して(笑)吹きだしてしまったのです。
 夫「それなら大丈夫だよ」と言えば妻「私だって大丈夫ですよ」と言い合って大声になる笑い声を産んだという訳です。行く所が無い!する事もない!!となるのも時間の問題だよ、と発した夫の言葉が更に納得した妻の笑い声になって狭い部屋中に木霊してしまいました。
 時刻は未だ午前5時前でした。
 母屋の嫁が起床するまでの時刻までには時間もありました。そんな時間設定もあり大声が出てしまったことでしょう(笑)。笑い声が治まった小さな離れの、未だ開けていない雨戸の外からは雨の降る音が聞こえるほど静かになっています。きっと冷たい雨の一日になるのでしょうか。やっぱり湘南の雨の日と「寒さ」が違うような気がします、健康管理をしっかりして風邪などひかないようにしたいと心に呼びかけて、今日も「すること」がある老人ですので元気な一日を過ごそうとスタートしました。

2011/12/08

これで、また『危険物』に・・・・。

~『肥後守』の運命も~
 やっぱり短命でした。
 埼玉県三郷市で少年が逮捕され持参物の中に「刃物」が大量に発見されたようである。昨日、臨時要請訪問のために訪れた小学校でも下校時に「緊急事態」との情報で集団下校にするとの慌ただしい動きがあった。千葉県に端を発した通り魔的な犯行が茨城県でも発生したらしい。模倣犯と表現されるらしいが、どうも心理(犯罪)が理解できない。
 先日の新聞記事(ブログ登載)で、地域ぐるみで取り組まれている協力者の落胆は大きいだろう。なぜならば、また「刃物持参禁止」らしき表現で子供たちから「危ないモノ」は遠ざけられてしまうからである。危ないこともその本質を体験しない限り痛みがわからない。苦痛を避けるために工夫と言う知恵が芽生えるのである。鉛筆削りに使った肥後守という折りたたみナイフは、時として竹を割って竹とんぼも作って遊ぶ工夫もした。出来上がったものを「商品」として購入する現代とは、「手作り」の工夫が温もりを子供たちに提供する過程から人間性形成の温度差が違う。
 故郷の九州でも冬は寒かった。
 5キロもある通学路を歩くと途中から背中に汗が出る。田圃で火をつけている農家の人が、汗をかいた子供に声を掛けてくれる。そして、汗を拭き取ってもらって暖を取ってから歩き出す。風邪をひかない知恵を教えてもらった。当時の子供にはその知恵はわからないが、大人になると身体の仕組みがわかり「生活の知恵(=予防)」に気づくのである。時として、焼きあがった芋を掌に載せてもらって「熱い!」を連呼しながら、何故か小走りになって、あっという間に登校した。「急いで学校へ行け!」などと言われなくても走って登校したのである。大人の立派な知恵であった。
 ナイフも火も、間違えは危険物である。
 危険だから子供を火から遠ざけ、理科の実験でもマッチが擦れない子供を産み出す。仏壇の蝋燭も文明の利器でスイッチオンで点火できる。利便性が追究され素晴らしい利器が生み出されることには異存は無いが、次世代~次々世代へと脈打つ「人類の生命連鎖」を考えると気が重くなる。
 時は、また「悪の連鎖反応」に振り回される。
 それに振り回されおののく現代生活が、またその中から何かを喪失してしまう!心痛する朝である。

2011/12/07

地図を「読む」力が不足している?

~4歳違いの兄は得意教科が「地理」でした~
 劣等感で過ごした兄の後塵はやはり「先の見えない」人生でございました(笑)。
 地図帳と電車時刻表を「人生の友」としていると豪語していた次兄の話はとても楽しかった。しかし、何か訊かれると一気に奈落の底に突き落とされた瞬間を今日は思い出してしまった。今日は、当方のHPのスケジュールに挿入する時間も無く、県内からの訪問要請に応じた学校訪問でした。
 今日の行程は、「すべて自分で」が誇りなのです。
 自宅から学校のある都市まで、車で2時間弱だと先住者の長男から指導を受けていました。12時半までに来校するようにとの依頼に応じて10時40分に自宅を車で出発しました。実は、この行程は妻と一緒に下見をしていたのですがあの日から、随分時間を経ているので車内には「地図帳」を持参しました。
 信号が「赤」になる度に地図帳と首ったけの走行でありました。「地図を見る」楽しみは子供の頃から全く無い小生は「方向音痴」でも有名なのです。出発しようとしている夫を見送る妻は、「だいじょうぶ?」との声を掛けたのです。今更、不安だとは応えられない。そんな心配を乗せて出発しましたがノーミス(笑)で目的地に到着できたのです。地図を読解する力は無いのですが読解できました(笑)。
 そして、たまたま、参観したのが4年生の社会科の授業で「私たちの茨城県」という単元でした。
 地図に興味のないまま成長して(笑)、高齢者になった小生にとって授業を見る観点は「苦手な子ども」の目線だったのです。「生い立ちは隠せないよ」と、帰路の独り車中では、得意だった次兄が話し相手となりました。
 教員になった人類は、比較的に「優秀な学習成績」獲得者が多いような気がしないでもありません。苦労せずに「優秀だった」人種には、学びに縁遠い軍団の苦しさが分からないのではないかと案じたことも多くありました。そこに、授業を通しての「学びの支点」があるような気がしたからです。
 他界した次兄の、異常なほどの(笑)「地図帳」への興味に、末弟の小生は劣等感を抱いた日々なのです。そんな光景を思い出しながら帰宅しました。Nと書いてあれば「北」と覚えた方向音痴も、無事に自宅に辿りつきました。「授業の成立」についての本質を考えさせられた半日でした。感謝。

2011/12/06

少年の日の思い出

 ~鉛筆を研いで見せると・・~

 小学校4年生になる孫から「昔の生活」という単元(?)での学習支援のために学校に来て話してほしいとの要求がありましたが、その日は以前から請けている講演があり対応できませんでした。申し訳ないと思いつつ、近所の同級生数名を対象にしてミニ講座を開きました。老妻の旧家(熊本県八代市)から『蚊帳』を運んできていたことを思いだして実物を引き摺りだして部屋に張って見せました。驚いた孫軍団は、これが何のために使われていたのかわからないのです。当然名称もわかりません。しかし、中に入った軍団から歓声の連続でした。折しも、「夏休み」中の自宅ショーですので興奮も収まりません。そして、蚊帳という生活用具の用途を説明しました。真剣にメモを取りながら感心する孫の友人たちを確認すると老妻と二人で「こちらが興奮したね」と苦笑いをしたほどでした。
 蚊帳を畳んで今度は、大事に持っていた折り畳み式のナイフを取り出しました。読者のみなさんでもこの「昔の道具」を使用したことのない人が多いのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

 この話題は我が家の今夏のことでした。

 孫の社会科の勉強で波及した祖父ちゃん祖母ちゃんの「懐古」授業でした。この写真で名前がわからない方は、新聞記事の見出しの文字をお読みください。小生の少年時代に必携だった生活道具がこの「肥後守」というナイフです。護身用??とんでもない!!生活用具でありました。使用頻度の高かったのは、『鉛筆削り』だったのですよ。

 孫たちの前で、『昔取った杵柄』張りに、鉛筆を削って見せました。感動と興味が4年生の男児たちには当然のように湧き起こりました。「やりたい」「研いでみたい」との要望で4人とも懸命に取り組みましたが、全く巧く研ぐことができないのです。その結果(笑)、お祖父ちゃんて凄い!!と言う感動の褒め言葉を頂戴してしまったのです。

 この「肥後守」が昨日の新聞記事で取り上げられました。

 孫と一緒に新聞記事を読みながら、彼は今夏の出来事を思い出したようですが、小生は遠い日々となってしまった「少年の日」を思い出してしまいました。このナイフは多目的使用が可能な「万能」なものでしたので「少年たちの宝物」的存在でもありました。殺傷するような野暮な使用方法等眼中にはありませんでした。社会で事件が起きるたびに制約や禁止の風潮が今でも続いているのが残念です。

 危険だから?怪我をするから?と想定内での大人たちの着想で、子供たちから本当の危険との勝負が取り上げられる時代が続いています。そんな孫たちの将来が心配になっている、『昔の少年』のボヤキでした。 

2011/12/05

ホームページのアップが遅れているようです!

 ~新春の江戸・下町散策のご案内~
 例年は、この講座は静岡県熱海市で開催していました。途中の1回だけは中止になりましたが、もう10回目となりました。ちがさき『響の会』事務局の熱意に頭が下がります。
 この4月に小生が茨城県に転居しました。
 静岡県までの会場がかなり遠くなりましたので、講師を請ける当方では辞退しようと思っていました。ところが、事務局での配慮(笑)で、常磐線で駆け付けることのできる下町・浅草の地に会場を設定しての開催を提案してくれました。
 お断りする理由もなく、お引き受けして第10回目の記念すべき講演会として出講いたします。既に案内の葉書が届いている方もあるのではないかと考えられますが、ホームページでのアップが遅くなっているようでもありますので、このコーナーでもご紹介すべきと判断しました。
 この欄で不明瞭な点がございましたら、当方のPCアドレス(chts415@jcom.home.ne.jp) にメールの送信をお願いします。こちらからこの案内を添付して送信いたします。
 この講演会は、教員だけを対象にしたものではございません。どなたでもご参加できますのでご遠慮なくご来場ください。
 会場は来春早々に開業する「東京スカイツリー」が散策できる場所にあります。浅草の「お正月気分」も十分に残っている時期でもあります。浅草観光も兼ねて会場まで足をお運びください。例年は宿泊できるホテルが講演会場でしたので、「宿泊」も申し込み時点で事務局が取り扱ってくれていましたが、今回はレンタルの会議場だそうですので「宿泊」は、参加者のご予定に従ってご自身での確保をお願いします。
 隅田川の川面を渡る風もまだまだ冷たく感じる頃です。身の引き締まる思いも含めて、新春の出発を東京でお迎えいただくようご案内申し上げます。

二つの大きな研究会

~神奈川県横須賀市から広島市まで移動~
 30日から始まった今年最後の業務を終えました。
 新幹線の駅で表現すれば、新横浜駅から広島駅の間を移動する日程でした。のぞみ号を使うと二つの駅は4時間で結ばれます。新幹線も開業当時に比べれば長足の進歩を呈し、かなりの速度に達しているようですが、乗客にとってはやはり静座する時間としては、「軽い拷問」(笑)になります。そこで、今回は名古屋駅で途中下車をすることを思いつきました。宿泊して翌日の広島への移動は半分の時間ですので決して拷問にはなりません。
 広島での日程は二つ目(30日に続いて)の研究会での講演が入っていました。
 横須賀市の小学校での講演と同様に責任重大な時間を担うのですから精神的な疲労度はかなりのモノになります。講演の評価は、「内容と時間」の整合性のようです。どんなに内容が素晴らしくても時間を無視されて延長されたのでは聴講者の満足感が減少するからでしょう。その兼ね合いが講師にとっては難題であるのです。まして、この時期の会場となる学校の体育館は自然冷蔵庫になります。足元が冷えてくると脳への充血どころではありません。現職教員時代には聴講者としての学びがあるからです。
 講演の評価はともかくとしても、今年最後の「業務」としての請負は終わりました。疲労困憊??ではありませんが、少なくとも以前と比べれば全身の疲労度は増していることは事実です。それもそうでしょうね。講演活動の開始年齢から8歳も加齢しているのです。
 請けることも億劫になるような加齢がくれば、この稼業にも終止符を打つことになるでしょうが、今朝、『腰湯』をしながら強行スケジュールを思い出しながらも、「まだ、やろうかな?」と思う気持ちになっているのが嬉しいような複雑な心境でもあります。
 関係者各位のお心遣いに感謝するばかりです。
 そんな時間帯に今朝一番の電話でした。県外の市教委から来年度の講座への出講依頼の電話が入りました。何だか「背中を押して」いただいたような気分でもあります。

自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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