2010/08/29

『忙しさは未だ似合う』と、思っていたが・・。

  ~久し振りの分刻みスケジュール~
 「仕事再開の初日」と言うとやっぱり大袈裟な表現になってしまう(笑)。
 午後1時半からの講演開始。講演終了時刻は3時半。学校現場での講演や講義と違い「地域の皆さん」相手の講演はどうしても時間が押してしまう。今回は2回目の講座であったが予定は未定と考えることにしていた。終了時刻が延びると、その後の主催者・事務局との「反省と次回の打ち合わせ」の時間も延びてしまうのは当然である。決して、本会の運営に不平を述べているのではない。これが「世の習い」なのだと自己認識していることをご理解いただきたい。全てのスケジュールを終えたのが午後5時直前だった。
 挨拶もそこそこに公民館(会場)の自転車置き場へ移動。
 約束通り自転車に乗る前に妻に「これから帰る」との電話を済ませる。会場から自宅までは自転車で5分と掛からない。自宅について着替えを済ませて、妻を乗せて車を茅ヶ崎駅に向かって走らせる。市営駐車場に置いてJRに飛び乗る。既に5時半になろうとしていた。茅ヶ崎から約30分間で横浜駅に到着する。横浜駅で時計は既に午後6時を回っていた。
 今夕の降車駅は横浜駅ではない。乗り換えて「関内駅」である。皮肉なことは、これも「世の常」だ。根岸線が遅延という。京浜東北線の上野駅で車輌トラブルという構内アナウンスが耳に飛び込んできた。「何だよ~!こんな時に!!」と凡庸な人間は「身勝手な言葉」を発してしまった。同伴者の妻が、「どうせ遅れついでですよ。もうゲームは始まってしまっているんだし」と冷めた意見を述べてくれる(笑)。
 今日は数年に1回のプロ野球の観戦である。
教え子がご当地横浜で登板することは珍しい。プロ野球の試合日程は、身勝手な希望などが通じないのは十分承知である。だからこそ、滅多に見ることの出来ない雄姿を見る千載一遇の機会が昨夕だった。興奮した脳も妻の一言で「水入り」となり、遅れて到着した電車にぎゅーぎゅー詰めの状態で関内駅まで運んで貰った。
 ゲームの見切りは、お目当ての教え子がマウンドから消えた瞬間である。出口が混雑するので早めのご帰還は、せっかち爺の通常リズムである。逆コースの帰路は電車の遅延もなく、すんなりと茅ヶ崎駅に到着できた。
 ここで、余談は苦笑談。
 横浜駅で到着した東海道線に乗り込んだ。1人分だけ席が空いていたので妻を座らせようと手招きをした。妻が座ろうとした瞬間、隣の席に座っていた青年が小生に向かって「どうぞ」と席を立った。「近いですから大丈夫ですよ。ありがとう」と応えたが立ってしまった青年には通じなかったようだ。「有難う御座います」と妻が言ってくれたので座ることにした。御礼を言って降りようとしたら降車駅は青年も茅ヶ崎駅でありました。帰路の車の中で運転しながら考えた。(久し振りの分刻みスケジュールで)『疲れた老人』に見えたのだろうか、と。ともあれ、最近は良く席を譲られる・・・・。そんな高齢者であることを自覚しなければならないらしい。「温かい敬老精神を持っていてくれる若い人たちに感謝することを忘れてはいけない」と自分に言い聞かせた夜となったので御座います。

 写真版は、夕べの結果を報じた今朝のスポーツ紙です。「親バカ」ならぬ「教師バカ」の証です。苦笑しながらご覧願います。プロ野球選手としては超・高齢の教え子の活躍には、夕べも観戦どころか「感動をありがとう」という思いで見詰めていました。肩が凝りました。腰も痛いです(笑)。

2010/08/27

爺の長期休暇も終了!

  ~明日から業務の再開~
 活字にすると大袈裟になりますね。大した業務でもない癖に「再開」だなんて変ですが、他の表現が無いのでお許し下さい。ただ、「大した業務ではない」なんて言うのは主査祭謝に対しては失礼極まりないことになりますね。謙遜することも難しい!!(笑)
 お盆休みを前後にして可愛い孫達との「再会」で英気を養いました。いいえ、孫達の1年間の成長に時として、心底から実感する事が多く英気と言うのは老輩の見栄でございます(笑)。ともあれ今夏に予定していた私的用務は全て完了しました。
明日から、お請けしている講演の再開です。
7月に行った第1回目に続く二回目の講座です。そして9月に最終回となる「3回連続講座」ですので、先ずは錆びた老脳にオイルでも射して潤滑油としましょう。それは、第1回目の講座内容をまさぐることです。そして、今回は折り返し点でもありますので最終回への誘いも意識することにしましょう。
幸いにも第1回目の講座修了後、直ちにアンケート集計と参加者の感想とを整理された「まとめ」を主催者(担当者)から届けていただいています。大変参考になります。取り分け、今回の講座のように連続的に講義をする場合にはこの資料は「鬼に金棒」です。今日はじっくり読み直しながら明日への準備に取り掛かりたいと、久し振りの公的業務に弛んだ爺の脳味噌にも気合いが掛かり始めています。嬉しい朝です。第1回の「まとめ資料」を入手ご希望の方は小生のメールアドレスにてお申し付け下さい。会場の多くの意見や感想がご覧になれるかも知れません。明日の講座内容を写真にて掲載しておきます。爺の奮闘ぶりをご想像願います。 

2010/08/26

もう学校が始まったのでしょうか?

  ~今夜は「満月」~
 遠くから花火を打ち上げる音がドーン、ドーンと響いて来る。
今夜はどこの花火大会だろうか。引っ越してきたばかりの頃は我が家のベランダからも江の島の花火大会を見ることが出来た。当然ながら茅ヶ崎海岸の花火も対岸の平塚の花火も横になりながら見ることが出来た。しかし、住宅の建設も高層となり、今では全く見ることが出来なくなってしまった。
 音だけを楽しみながら書斎から夜空を眺めるとご覧のような「満月」。
思わずデジカメで写してしまったが、レンズの拡大はこれが精一杯。しかし、きれいな姿にうっとり。
 ところで今日は木曜日。
 3週間ぶりの鍼診療日だった。帰宅していつものように全身の倦怠感と付き合いながらも雑務も滞ることなく済ませることが出来た。
 全国のあちこちで、もう学校の新学期が始まったとか。
 この暑い日の始業はまた、厳しいモノがあるでしょう。しかし、今年の9月は当分の間はこの猛暑の延長らしいですよ。大変だな~と想いつつ、がんばって欲しいと祈るしかできない身としては仕方がない。
 もう少し、満月を眺めながら寝ることにしましょう。

2010/08/24

『心ぽかぽか』ニュース(8)

  ~「小林牧場」にお嫁さん
  以前、このブログにも紹介しました山梨県甲斐市の小林牧場でのホットなニュースがまた新聞紙上に出ました。(この牧場主は、主宰する『響の会』に講師としてご登壇いただいた関係でその後も親交が続いています)牧場にヤギ?不似合いですが、この牧場では迷子になったヤギを助け、飼うことにしたとのニュースが前回の記事の内容でした。前回も今回も、牧場主からのご一報があった訳ではありません。偶然ですが、記事が目に留まるのです。これも妙縁とでも言いましょうか。
 これは、もう10日以上も前の記事です。お盆があったり孫守りが続いたりしてこちらのブログも情報が満載でしたので今日まで延びてしまいました。この記事は葉書にプリントアウトして「残暑見舞い」の葉書として牧場主には一昨日投函してあります。
 家族による高齢者の放置事件や、児童虐待事件が後を絶たない「変な世の中」になってしまい、「どうしてこんなことに・・」と胸を痛めることばかりの昨今です。今度は、助けた雄のヤギさんに「花嫁さん」を迎えたというぽかぽかするニュース。異常気象の真っ只中にも、すこぶる正常で「ホッとする」ニュースに感謝したくなりますね。今日は、少々遅くなりましたが、そんな思いを皆さんにも「お裾分け」いたします。 

2010/08/23

庭から虫の音が・・・

  ~こんなに暑いのに~
 お盆が過ぎると日没が早くなることを身体が覚えている。あと1週間で9月である。直ぐに秋になってしまう。そんな思いが強かったが、長期天気予報では9月までは「夏」のままだと言うではないか。
 秋に運動会を予定している学校では、この暑さの延長線上で練習をすることは大変だ。そんなことを考えながら閑かな部屋に居ると、な・な・なんと・・・もう虫の音が聞こえるではないか!こんなに暑い日が続いているというのに「秋を告げる」虫たちはきちんと仕事をしているではないか。
 全国の皆さんの今夜は?虫の音が聞こえていますか?    処暑

2010/08/22

教え子が「勝った」朝は・・・

  ~数通のメールに先ず返信を~
 昼間のゲームだったので結果をネットで調べながら教え子の携帯電話にショートメールを送る。単なる一言であるが「やれるところまで悔いの無いように投げろ」とのメッセージだけではあるが、きちんと返信がある。「もう、開き直っています」は昨日の返信である。
 全国の知人友人(特別な球団ファンではない)からのメール送信のお礼が「嬉しい誤算」と言えようか。昨年は1回も勝利投手になっていないので、今朝の忙しさなど皆無であったのだから「有難く返信する」心境になって丁寧に御礼を述べることにしている。
  ~そして、近くのコンビニまで~
 目当ては「東京中日スポーツ」紙である。我々の関係をご存じらしい店員さんによっては、新聞を手渡す際に「おめでとうございます」と笑顔を戴く。20日に取材に来た中学1年生記者も帰省先でご両親と一緒にこの話題をしていることだろう。
教師冥利を実感する朝。
 ところで余談ではあるが、最初の教え子達が来年は還暦を迎えるらしい。年齢差が小さいのは小生の教師稼業が高校教員からの出発であるからだ。既に「招待状」が今年の年賀状で届いている。家族同伴の還暦同窓会らしい。孫も連れて来るという年賀状も届いた。これも、また楽しみである。教師冥利と言う妙薬は「老いぼれ」防止薬かな(笑)?
 
 猛暑はまだ続くようです。全国の読者の皆さんも、夏バテにならないよう健康管理をしっかり行って「収穫の秋」に備えてください。

2010/08/21

55年ぶりに「児童文学」を読む

 ~「少年の日」に戻って(笑)~
 出版社からの執筆依頼原稿があったことを忘れていた。暑さの所為?
 そうではないが、暑くてどうしても原稿執筆に気持ちが向かなかったと言った方が妥当かも知れない。同時に、生活リズムの変化に「意欲」を上手に乗せることが出来なかったと言っても間違いにはなるまい。8月初旬に始まった第1弾の孫守りからお盆行事への大移動。そして第2弾の孫守りと続いて、2つの取材の予約への対応と20日までは「自己中心」のリズムから遠ざかっていたという環境もあって、パソコンに向かって「原稿を書く」という時間設定が出来なかったのである。今日は久し振りに、忘れかけていた「自己中」リズムが復元できた。
 その手始めは「児童書」の再読である。
 再読と言っても55年も前に読んだ児童書である。ページをめくりながら「こんな内容もあったっけ?」「全く覚えのない場面だな」「主人公の苗字って、こうだった?」と老脳に問い直しながら午後のひと時を少年時代に戻って(戻れる訳が無い!!が)読んでみた。小学校5年生で読んだ時点での感想がどうであったかも朧気ではあるが、確かに視点も観点も違っているだろうな、と苦笑しながらの楽しい読書の時間となった。
 この(指定)児童書に関しての「執筆依頼」なので、このブログの読者には敢えて児童書名も伏せておきたい。その内に発刊されたら小生の担当部分だけでもこのブログでご紹介しようと考えている。期待は不要である。そんな類の原稿である。
 気が付けば「夏の高校野球」も決勝戦が終わってしまっていた。
 これが終わると日本列島には秋がやって来る。そんな風土記を意識しているからである。しかし、今年の夏は終わることを知らないのではないかと、逆に心配にもなる。しかし、しかし、不思議なモノで書斎を吹き抜ける風が午後は北風である。そうなると「秋近し」をふっと体感するような気になってしまうのが可笑しいではないか。気分では季節は変わらないが、「そう思いたい」というイメージでこんなにも感じ方が変わるのである。
 今日も数通の「残暑見舞い」のお葉書を頂戴した。懐かしい高校時代の級友からの葉書も届いた。元気で暮らしている様子になぜか安堵する。明日の朝は返事を書いて投函することにしよう。 

2010/08/20

可愛い「記者」の取材を受けました。

  ~30年前の記憶~
 午後2時の予約で中学1年生の記者が自宅に取材にやってきた。
 「わが町・茅ヶ崎 プロジェクト」での、茅ヶ崎にゆかりのある「ひと・もの・こと」を取材してレポートをする夏休みの課題だそうだ。小生の教え子のプロ野球選手(=中日ドラゴンズ投手・山本昌広)を「ひと」として選択した中学生が、事前に質問事項を書き込んだ用紙を読みながらの盛りだくさんの取材であった。
 「中学時代の山本マサ選手のこと」で幾つもの質問を浴びせられ、内心冷や汗をかく始末であった。なぜならば「記憶が蚊帳の外」に出てしまっている。中学生らしい、素朴で可愛らしい質問であればあるほど「記憶に御座いません」と応えそうになって焦ってしまった。野球部での活動以外の質問には応えに窮した。目玉の質問は「こんな立派な選手になると思っていましたか」であった。正直に対応すれば「少年の夢」を砕いてしまいそうで躊躇した。しかし、事実をストレートに応えることにした。賢い野球少年らしく、「中学校を卒業しても中学校時代に学んだ努力することの大切さを山本マサさんはプロの選手になっても続けたと言うことですね」と纏めた発言には「そう言うことですね」とろれつの回らない答弁になった(苦笑)。
 「僕も、山本マサさんみたいに、これからが大事だと言うことを心に言い聞かせて頑張ろうと思いました。家に帰ってきちんと纏めてみたいと思います。」
 しっかりした口調で御礼を述べて自宅に戻って行った。その自転車の後姿を追いながら「期待できる若者」との出会いに心豊かな気持ちになった。決していい加減な応答をしたわけではないが、『30年前の記憶』をまさぐりながら悪戦苦闘する老脳に加齢を実感した時間となった。しかし、「取材を有難う」、と中1記者に御礼を述べなくてはなるまい。

2010/08/19

『65歳』は人生の幾つ目のボーダー?

  ~「初めて」の経験では思考能力はゼロ!~
 可愛い孫軍団(孫台風第2号)が、昨日元気に帰って行きました。
 12日に土浦市に行ってお盆のお務めを終えて茅ヶ崎に戻る際、「茅ヶ崎に行きたい」という要望に応え、連れて帰って来たので丁度1週間を一緒に過ごしたことになりました。孫達を連れて小田原と横浜への2日間の「見学の旅」は、皮肉にも今夏最高の暑さとなってしまい熱中症の恐怖心とも闘うことになってしまいましたが、何ごともなく安堵。
 爺婆の二人だけの閑かな通常の朝は思考回路もほぼ正常値かな(笑)。
 そこに、見学先の「入場券」に目が届いた。『65歳』未満:『65歳』以上の区分と入場料の金額です。  ~65歳未満とは64歳までを充当し、65歳以上とは65歳からを充当する~
「未満」と「以上」という数学用語には苦しんだ思い出もあり、爽快感の伴わない表現であることは今も変わらないのが残念です。ケチな損得勘定をしているのではありません。入場券は既に、「当方、現在(8月時点)65歳」として入場券を購入したのです。窓口は「自己申告」制なので当方が窓口で申請して購入したモノです。
 自己申告ですから自己責任が生じます。従って「損をした」「得した」という感情論はここでは不似合いです。が、「おや?」とお気づきになりませんか?『65歳未満』までの料金が提示されているチケットとは、購入者は64歳以下の者となりますね。では、65歳の人の入場料は?認知症の検査尋問を受けているような気分になってしまいます。未だ受信したことなど無いですよ!!(笑)。
 識字率の高いわが国です。教育の普及率と定着度も高い日本ですから、「未満や以上(以下)」等の理解力も高いことは百も承知です。しかし、もっと分かり易い表示はないのでしょうか?しかも、自己申告による購入ともなると「65歳の壁」には、分かり易い「張り紙」が必要な気がしています。
 それは、どの会場にも「夏休みの祖父母と子供達」連れが大変多く目に映ったからです。会場は「老人と子どもの海」の状態でした。偶然ですが、65歳の壁にぶち当たっている当事者なので思考回路がに熱射病にでも罹ったように「ぼ~っとした」のかも知れません。
 何気なく見過ごしてしまいがちな「入場券」1枚からでも「数学の授業」が出来そうな気がしています。不得意な人の「愚痴と呟き」を拾うことも重要だと思いませんか?いかがでしょうか?65歳になっても「教師病」って着いて回っているようでゴメンなさい(謝)。
 暫く休養してから、今夏後半の仕事の準備に入りましょうか!

2010/08/18

本日は「ご帰還日」なり!



  ~上野駅で「引き渡し」~
 長女の孫達は東京駅での引き渡しでしたが、長男の孫達は上野駅です。昨夜は久し振りに「お母さん」の声を電話で聞いてホッとするやら興奮するやらの孫達でした。「母親」の存在感は大きい。寝顔を見ながらしみじみと父親業の軽さを感じてしまいました。
 横浜駅で夕食に、と買って帰った「しゅうまい」が偉く気に入った孫達。考えてみても爺も「久し振りの」珍味でした。今日は土浦に帰って行く孫達は、「しゅうまい」を土産に買って行きたいらしい。
 「昨日の横浜」をデジカメの写真をスライドショーで観る。
 ランドマークタワーの展望台から一望する「ヨコハマ港」が、写真で観ると実にキレイです。CDにまとめた「10 夏の思い出 イン 神奈川」を帰宅したら長男一家が覗くことでしょう。日毎に成長する息子達の姿は「側近過ぎる」と意外と分からないモノ。今回のように数日間、親元を離れて生活して戻ると、ホンのささやかながらも成長を感じるようだ。長男夫婦も頑張って3人の子育てをしている。少しでも役立てたら爺婆は本望です。
 今夜から、再び「閑かな」老人ホームに戻ります。
 猛暑日の連日を、良くもまぁ、遠路まで孫台風の面倒を看たモノだと我ながら感心してしまいます。2人だけなら家でゴロゴロ(笑)して「暑いね」の連発の筈。孫達のエネルギーに触発されつつ奮闘した爺婆に「自らの」手で『慰労賞』を差し上げることにしましょうかねぇ~。

2010/08/17

熱帯夜より上級の「夜」は何と言う?

  ~早朝から朝陽の熱気が・・~
 一晩眠ると「子どもは元気復活」である。
 起床するとコップ一杯の水分補給する光景に「逞しさ」と「若さのエネルギー」を実感する。ラジオのニュースによると昨夜は日付が変わる頃まで35度を下がらなかったらしい。連日の熱帯夜だと伝えていた。3年生の孫が「お祖父ちゃん、熱帯夜より暑い夜は何て言うのかな」と訊いてきた。「う~ん・・・超熱帯夜かね?」と、孫年齢の人種が濫用する『超』を使ってみたが、殆ど反応はなかった。きっと真面目な答えを期待したのだろう。期待を裏切った祖父ちゃんの不誠実さを反省した。
 開いた窓から朝陽が差し込んできた。(写真)
 家と家の間から昇る太陽光線が、今日もまた猛暑日を予感させる。今日の予定は横浜観光であるが、横浜港の海水の温度も高いだろう。孫達にとってホンの数日間の茅ヶ崎滞在である。お土産を買いに横浜まで行くことになっている。さぁ、今日も孫守りに奮闘することにしますか!!

2010/08/16

お盆のお務めも無事終えました。



  ~孫台風「第2号」と共に~
 お盆(供養)の務めに土浦の長男宅に行っていました。
 昨日の夕刻には自宅に戻り着きましたが孫達(2人)も一緒に帰宅です。8月初旬の孫台風に続いて第2号の上陸です。
 今日は、小田原市にある『神奈川県立 生命の星・地球博物館』へ孫達を案内しました。小田原市は小生の社会人として出発した処女地です。その博物館から、次は小田原城に連れて行きました。そして天守閣まで上りました。そこからは23歳で教壇に立った勤務校が至近距離に見えるからです。孫に説明すると真剣に聴いてくれました。
 そこで今日の珍事件。
 小田原城址公園でかき氷を所望する孫達に祖母ちゃんが買ってあげました。お相伴をするつもりでいたのに祖母ちゃんは祖父ちゃんの分まで「かき氷」を購入したのです。酷暑の誘いでこの祖父ちゃん、何と、かき氷を「完食」してしまいました(笑)。かき氷は20年間ぐらいは食べてなかったのでは!!異常な暑さは異常な食欲にも及ぶモノでしょうか。妙に感心しながら電車の旅30分間で茅ヶ崎に帰ってきました。
 久し振りの小田原も「里帰り」情緒が満点でした。
 明日の孫守は、今度は大学生生活を満喫した横浜がご要望の地です。孫は友人達に土産を買いたいとの要求が届いています。夏ばてをしている暇もない時間の流れが後数日は続きそうです。頑張りましょう!と声を掛け合っている爺婆です。
 夕食の後に見たテレビで「猛暑日」の関東だったとのニュース。孫台風一過で、バテが襲いかかってくるのでは、とチョッピリ不安の爺です。

2010/08/12

あの日から「◆◆年」

  ~日航機墜落から25年~
 最近のブログが『懐古』一辺倒になっていませんか?
 自問自答しながらも回答は「加齢の所為」となってしまうような気配にゾッとします。間もなく8月15日「終戦記念日」が来ると、更に重ねて「あの日から◆◆年」と回想してしまいそうだからです。加齢の所為でも何でもありません。そんな事件や事故が多すぎるのではないでしょうか。昨日はアメリカから日本人観光客の悲報がニュースとなって届きました。楽しかるべき旅行が一転して悲劇になってしまう。多すぎますね。
 一瞬で520人の尊い命が消えてしまう。
 東京~大阪間を1時間で移動できると言う文明の利器が飛行機です。1時間の移動は文字通り「あっと言う間」の時間です。うとうととする間もなく目的地に着いてしまいます。便利さと裏腹に大きな危険度も高くなると言うことなのでしょうか。小生の住んでいる茅ヶ崎市は、東京駅から茅ヶ崎駅まで(JR東海道線)で丁度1時間の距離です。東京駅を出て小生が自宅に到着する頃には、飛行機は東京からお客様を乗せて大阪に着いているというのですから、その格差には驚かされますね。それだけでも危険度は高いということでしょうか。東海道本線だって日進月歩、速くなっているんですからね。
 便利になればなるほど、ホンの些細なミスが命取りになってしまいそうです。
 ご遺族の方々にはお悔やみの言葉も見つかりませんが、哀しみとの葛藤は人生を貫くことになるのでしょう。新聞記事を読みながら、墜落していく機内で愛するご家族へ宛てて書かれた『遺書』(結果的には)の文字の一つ一つを見詰めるにつけ、居たたまれない気持ちになりました。あの日から25年の歳月が流れているんですね。心からご冥福をお祈りします。

 ◎両親のお墓を長男一家(茨城県土浦市在住)が護ってくれています。明日からお盆です。妻と一緒に今日から長男宅に移動します。お盆のお務めを済ませて帰宅します。数日間のブログ休刊となります。ご了承願います。

2010/08/10

「茅ヶ崎の昨日」はこんな日でした。


  ~故郷への帰国報告パレード~
 有名人になるとその人の『故郷フィーバー』は凄い。JR茅ヶ崎駅から茅ヶ崎市民文化会館までは徒歩で5分も掛からない。幹線道路・国道1号線を横切るので車輌の往来は頗る多い。地下道が出来ているので歩行者の姿が無くなった分だけ交通渋滞は随分緩和されたようだ。しかし、天下の「東海道」を時間限定(今回は30分)にせよ交通規制をするのは「大事件」でなければ不可能である。宇宙飛行士・野口聡一氏の「故郷への凱旋パレード~」の時間帯であれば茅ヶ崎市民にとっては喜ばしい大事件なのである。
 古いお話しで笑われそうだが小生の少年時代のこと。九州の片田舎で育つ男の子達には誰からと無く、「故郷に錦を飾る」というフレーズが聴かされたモノだった。「都会に出て出世して故郷に帰ってくる」のは、上京する時に誰もが描いた夢でもあった。しかし、その多くは大願成就どころか負傷兵の如く「言い訳を考えながら」の里帰りであった。ちょっと囓った大阪弁や東京言葉を発する彼らの間違ったプライドが余計に哀れに感じたモノだった。(小生が少なくとそう感じていたことだけは事実)
 素晴らしい偉業を達成した野口氏の実家への滞在は今回は無いらしい。今日はアメリカへの帰国だという。大出世した子どもを持つご両親は「我が子」と接することも出来ないそうだ。これもその大偉業の副産物か。親孝行と言う小生の「分類」で納めておこう。
 野口氏一家は校長として勤務した小学校から徒歩で2分ぐらいのところの居住者。愛娘の体験入学のお願いで野口ご夫妻が来校され親しくお話しする機会があった。まだヒューストンでの現場疑似体験の研修中の時期であった。その後2年間は体験入学者(夏季のみ)としてお子様をお預かりしたので親しみは非常に大きいモノがある。
 元気で世界の宇宙開発研究のためにご活躍を期待して止まない。



 

2010/08/09

長崎原爆の日

  ~畑から原爆投下の瞬間を見た~
 小生の出生地は九州・熊本県八代市。天草の島々を越えて西の空には雲仙岳が見える。村で評判だった祖母の「天気予報」は雲仙岳の様子が情報源だったようだ。幼心に「良く当たるなぁ~」と感心しつつ尊敬したモノだった。
 母は8月9日になると何かに取り憑かれたように必ず口火を切った。
 「畑におったらな、まぶしか(い)ほどの光が目に飛び込んできたので、思わず芋畑の中に潜ったとよ。恐ろしかった。そしたら真っ黒な煙が空に向かって黙々と上がって行くとたい。あ~、太か(大きな)爆弾が落とされたとばい。今度はこっちに来るとだろか。と考えたら家に居る子供達のことが心配になって走ろうとしたと。ばってん、足が進まんでな、あせったバイ」、と話すのだった。
後で「原子爆弾」という焼夷弾の何百倍も威力のあるアメリカの新型爆弾と知ったそうだ。それが昭和20年8月9日。夫である小生の父親はその時点では沖縄で玉砕していたのだそうだ。戦死の公報はそのずっと後だったと言うからこの日も夫の生還を信じて母は懸命に農作業をしていたのだろう。哀しい話ではありませんか。
 何もしない日があっても確かに歴史は刻まれる。呆然として原子爆弾の投下された方向を見詰めて動けなくなった母には動きは無い。しかし、何もしていない母にも明白な「戦争」という悲惨な歴史が刻まれていた。そんな苦労話を聞いて育った世代も、間もなく人生70年となる。戦争のことを語ることもできない世代は、我が子にその悲惨さすら伝えることが出来ない。益々、戦争のことは異次元の出来事のように「何も知らない世代」が日本という国を背負うことになる。どんな展開になるのだろうか。
 そんな事を考える日。それが今日なのだろうか。
 
※ 掲載したのは昨日の朝刊の記事である。ご紹介したい。この記事の主人公は中学校教員時代の小生が野球部で指導した選手の一人である。また、機会があったら個人的なエピソード等はこのブログでも紹介しましょう。教え子の活躍に触れると、少しはあった小さな苦労など比にならない。これを『教師冥利』と言うらしい。 この掲載は「教師冥利の押しつけ」?だったらゴメンなさい。頑張っている教え子を見るとあの頃の「若さ」が蘇って来るのです。許されたし!!
※ 今夏の請負事業最大の、来年度の教員採用を夢見て挑んでいる人たちの指導も、昨日全日程が終了した。立派な教員になって欲しいと「力を入れて」講義をした。『教師冥利』を実感できるような新しい後輩が多く誕生することを祈るばかりである。

2010/08/08

第15回 ちがさき『響の会』夏季特別セミナー




  ~平成8年の発足から~
 今は亡き大瀬敏昭君と「10年間続ける」との意気込みで1期5年間を基盤にして『ちがさき教育実践ゼミナール・響の会』(発足当時の名称)を起ち上げた。前哨戦はそれより遡ること3年前である。市教委の指導課長を拝命していた小生は、係長であった大瀬と一緒に現状の教育課題について夜な夜な議論していた。到達したのは目の前で活動している「指導主事」達を教育して現場に返してあげることだろうとの結論に達した。身近な「将来の管理職」候補者が10名いるのだから、最低でも10校の校長が誕生することの確率は高いと踏んだ。
 課内での指導主事研修が始まって2年間。そろそろ教頭先生として学校現場に戻っていく指導主事が出始めた。3年目の夏、「そろそろ小生も学校現場に戻る」予測が立ってきたので、一般教員を巻き込んだセミナーを創案したい旨を当時の指導主事達に伝えると全員が賛同してくれた。開設の準備に取り掛かるのも早かった。
 大規模にならない「ゼミナール」(大学時代の「ゼミ」を想定)形式での始発に落ち着いて年度内にほぼ準備を終えた。翌年には想定通りに小生が新米校長として小学校に着任し市教委の肩書きが取れた名刺には『ちがさき教育実践ゼミナール・響の会』会長が記されることになった。
 あれから15回目の夏季特別セミナーである。
天国の空から大瀬君も確認していることだろう。この大きなイベントが終わると墓参することが小生の年中行事である。「区切りの良いところで止めようかな」と、墓石に向かって話しかけてみようかな。ヤツは何と応えるのだろう。
 今回は、念願だった講師の基調講演にも満足した。研究者としての姿勢が実に分かり易く、現状を踏まえての話題提供には若い教員も身を乗り出すほどであった。
 実践発表(1)の盲学校校長の体験実習を取り込んだ時間も有効だった。教員5年目の溌剌とした実践発表(2)も素晴らしかった。この教員が在勤する学校の校長は大瀬君の秘蔵っ子として茅ヶ崎市立浜之郷小学校勤務次代に厳しい薫陶を受けている人物である。
 15年間の内に世代交代が進んでいることを実感した。若き教師の発表の裏に『響の会』の歴史を噛み締めた。何とも言えない感動である。瞼を閉じると熱いモノが込み上げてきた。そんな感動をバネにして、次代の運営委員さん達は来年に向かって始動するのだそうだ。懇親会も珍しく二次会まで盛り上がり暑い夏の夜も吹き飛ばしてしまいそうであった。
 暦の上では今日は、もう秋。残暑お見舞い申し上げます。残暑も厳しいことでしょう。どうぞ夏の暑さを乗り切って実りの秋をお迎え下さい。

2010/08/07

『8月6日 ヒロシマ』での愚問


  ~今日は何かあるんですか?~
 この愚問が、2001年8月6日 朝の広島駅での会話の始まりでした。
 今、思い出しても羞恥心に潰されそうです。当時は新設開校の小学校初代校長として勤務していましたが、校内研修会の講師としての招請に応えて初めての広島訪問だったのです。あの日から10年間、広島の学校訪問は脈々と続いています。あの羞恥な質問から「広島詣」が始まったのですから皮肉なモノです。
 今ほどの酷暑ではなかったでしょうが、「ヒロシマの夏は熱い」イメージ通りに強い陽ざしの向こうに広島駅前は騒然としていました。今までに見たことのない光景でした。街宣車らしき車が物々しさを掻き立てているような雰囲気でした。駅前のロータリーの人混みも尋常の沙汰ではなかったのです。
 改札口にお迎えいただいた広島市立井口明神小学校の原田備子校長先生が、「今日は特別な日ですからタクシーは使えませんのでJRでご案内しますがお許し下さいね」とご挨拶を頂戴しました。電車での移動には異存など無かったのですが、広島駅構内を含め周囲の喧騒に思わず、愚問を発してしまったのです。
 在来線も異常な混雑でした。広島駅から僅か10分間の乗車時間です。降車して目の前に訪問する小学校がありました。
 愚かな人間の証明は、その閃きの鈍さにあることを知ったのは校長室にご案内されてからなのです。羞恥心の欠片もない愚かさを露呈してしまいました。
 校長先生が「今日、8月6日はヒロシマにとっては大変な日です。身内に被爆者もおります。その親族をこの1年で亡くした者が教員の中に一人いまして、その教員だけは今日はどうしても出勤できません。どうぞお許し下さい」と説明がありました。
 愚鈍な小生は、『8月6日 広島原爆の日』という一般常識としての知識は確かに蓄積していました。「8月6日・9日」は広島と長崎の被爆という惨事があったという事実は「知識の一片」として注入され常識として知っていたはずです。
 知識の量で「学問」が測られるとすれば、小生は十分に合格する知識はありました。しかし、知識だけの「独り歩き」ではコミュニケーションのツールにはならないことを痛感したのです。脳天を殴られたような衝撃でした。座学だけの机上論では通じないことがあることを身に染みて感じたのです。
 そんな特別な日に一人の不参加者で校内研修会を実践された校長としての力量に今でも頭が上がりません。あの日以来「広島の学校からの訪問依頼」にはお断りすることなく訪広を続けざるを得ないのです。
 知識をどんなに詰め込んでも本当の「生きる力」の栄養源にはならない。この自らの愚問が気付かせてくれました。

 8月6日午前1時に咲いた「月下美人」の写真が京都から届きました。そして、小生が早朝歩禅で撮った夏の花(向日葵)写真も添えます。そして、被爆者の皆さんのご冥福をお祈りさせていただきます。写真提供の京都の知人にも感謝申し上げます。

2010/08/06

今日は「何の日」?




 ~広島・あの日から65年~
 孫軍団が帰って行って蛻の殻状態の昨日一日。そこから脱皮して(笑)、今朝から早朝歩禅を再開した。数日間のリズムで全身が、復活する事への抵抗でもしているようで可笑しくなる。いつもの出発時刻より30分遅れとなったので途中で、もうギラギラの夏の朝陽に襲われてしまう羽目になった。
 小出川沿いのコースでもすれ違う顔ぶれまで違った。
 川面を泳ぐカモの群れ。すいすいと泳いでいたのでカメラを向けたら何と!方向を変えてカメラ目線にして等間隔に並んでくれたではないか。妻が「え~っ!」と声を揚げてしまうほどの整列ぶりに思わず、「今の子供達より並んで上手だな」と夫も声を発してしまった。カメラなど分かるわけ無いのだから「偶然の一致」であることは確かである。しかし、早朝の川面と土手のコミュニケーションがユーモラスであったことは事実。
 帰宅したら妻が、庭先を指さして「ほら、ブーゲンビリアがこんなに咲き始めましたよ」と。母の日に長男嫁から貰った花。水やりを欠かさなかった賜らしい。嬉しそうに咲き出したブーゲンビリアの花弁をご覧下さい。
 田んぼの写真は、少なくなっていく我が家の前の田園風景。家の前は全面が田んぼだった頃と比べると寂しくなる。水田を渡る風で扇風機が錆びつくほど使用しなかった快適な生活環境だった。そんな日々から35年が過ぎてしまった。今日も猛暑日? 夏には珍しい風景。富士山が朝陽に輝いてきれいでした。
 お気に入りラジオ番組の一つに「今日は何の日?」がある。数分間のショートプログラムではあるが、頷きながら思い出す出来事もあり良い番組である。
改めて、今日は何の日?忘れてはいけない広島に原爆が投下された日である。もう65年の歳月が流れている。「この日」を境目にして数え切れない多くの人の人生が変わってしまったと思うと、胸が痛む。世界の政治状況も「ホンの少し」変わり始めたのだろうか。数カ国の代表が初めて被爆地「ひろしま」を訪れると言う知らせ。しかし、「この日」に消えた命は戻ってこない。自己利益ばかりに執心せず、広く世界全人類の幸せを見詰める鳥瞰図的政治が欲しいモノである。

2010/08/05

8月1日 『二十歳の集い』

  ~9年の歳月が流れて・・・~
 2001(平成13)年4月1日
 新設開校した小学校が開業しました。
 4月5日の入学式・始業式の前日準備のために新6年生が、4日に臨時登校となりました。二つの小学校の児童数増加に伴い分離開校したためにこの集合は6年生を担当する教員には「学級開き」の前哨戦でもありました。小学校生活残り1年となっての「学習環境の移動」なのですから、当事者にとっては何とも言えない不安と焦燥感があったようです。
 当時の校長としては知らないことばかりが飛び出しました。
 担任を請けた二名の教員には拷問のような日々が続いたようでした。真剣に取り組んでくれていた担任教師にはどんなに御礼を言っても言いすぎることは無いほど頑張ってくれました。再会したこの『二十歳の集い』の会場に、当時の校長・教頭・学級担任2名が会場のランチルームに入室した時点で2人の脳裏を掠めた思い出は急速回転する走馬燈に入りきらないほど沢山の画面が映ったことでしょう。
 2人の教師の「挨拶」にその深い思い出が詰まっていました。
 あれから9年間。当時の小学校6年生が、今や大学生になっています。そして、「校長先生の英語の授業」をハッキリ覚えています、と述べながら「将来は英語の先生になります」と宣言してくれた卒業生が2名もいました。驚きました。卒業直前まで「校長先生からの贈り物」として、元・中学校英語教師が数回の授業をしてみたのです。真剣に受講してくれたことは勿論覚えています。その後は、これが前例になりました。この前例に倣って卒業生には必ず『校長先生と英語の授業』となり卒業プレゼントとなりました。
 懐かしい思い出話に花が咲いていましたが、中座しました。その時点で持参したカメラで彼らの集合写真を撮りました。これからの更なる成長を祈るばかりです。

 遅くなりましたがお約束通りに新設開校の小学校・第一回生卒業生の「二十歳の集い」の様子をお知らせします。子連れの卒業生も出席していました。いずれは父親・母親になる卒業生達の前途に、幸多からんことを祈る祖父ちゃんです。

「孫台風」一過の朝

  ~閑かな・穏やかな・気の抜けた・・・~
 今日は木曜日なので定期・鍼診療日。
 孫達が昨日自宅に帰って行ったのも爺婆の鍼診療予定日であることも理由の一つ。僅か4日間ではあったが2人の孫との生活は「いつも」の生活リズムとは雲泥の差。すっかり大きくなっているので日常の行動で手を掛けることは全く無い。とは言いながらも、何かバイオリズムの格差を感じるので気遣いで一日があっと言う間に過ぎてしまう。
 親業と祖父母業とはこんなにも温度差があるのか。
 懸命に走り続けた親業時代にはその日の出来事を振り返るのが精一杯。10年後の我が子のことを冷静に考えることなど無理。そんな娘や息子の奮闘にエールを送りたい。
 今日も猛暑日だそうだ。孫達が元気で夏休みを過ごして欲しいと祈るばかりである。娘や息子が、現在、親業に挑んでいる最中。祖父母としては「何を、どうしてやれば」その責務を果たせるのかを考えている台風一過の閑かな朝である。
 これから鍼診療に行ってまいります。

2010/08/03

早朝の「茅ヶ崎海岸」




  ~県営駐車場が開いていない!・・・~
 7時開場の駐車場であることは知っていた筈?
 陽ざしの強さを少しでも避けるためにとんだ勇み足。開場時刻まで国道134号線をドライブ。1時間300円の駐車場に車を入れて徒歩2分の「茅ヶ崎海水浴場」へと向かう。当然ながら水泳客はゼロ。サーファーの皆さんが10名ばかり演技を楽しんでいる程度。孫たちは目標の「烏帽子岩」づくりに取り組み始めた。打ち寄せる波との勝負。最初は濡れないように気をつけてはいたようだが、一旦濡れると、もう後はどうでも良い。水着を着ているので楽しそうに温い海水で全身をビッショリにして楽しそうだ。
 その光景を写真撮りする祖父ちゃんは夢中になっている内に、半ズボンが海水に襲われてしまった。その光景が孫たちには大受け!気が付くと遠く西の空には朝陽を浴びた富士山が見えていた。孫たちに説明するが「雪のない富士山」は学習をしていないらしくピンぼけになったままの会話で終わってしまった。

2010/08/02

孫と一緒の「早朝歩禅」





  ~「境内」というイヤシロチ~
  (昨日の『二十歳の集い』は後日掲載します)

 昨日からやって来た第一弾・孫軍団の来襲。早速ご所望により隣町の寒川神社まで行くことになりました。当初の予定では今朝は茅ヶ崎海岸に行く予定でしたが昨晩の就寝時刻がかなり遅かったので自然回避となって明日に延期。
 神社までは車で15分。
 早い時刻なのでホンの数名の参拝者とすれ違うだけ。孫たちに、会う人皆さんに「おはようございます」と言うことを指示してみたら大きな声で発してくれた。驚きながらも全員の大人の皆さんが笑顔でお応えいただいて発した2人の子供達は流石に嬉しそうだった。境内の中でのできごとは、まさしく、それは心が清々しくなるようなイヤシロチであった。
 ボランティアらしい年配の方がお掃除をしておられる姿と遭遇。孫娘が「だから、ここってこんなにキレイなんだね」と祖父ちゃんに声を掛けて来た。そこで祖父ちゃんとしても「ご苦労様です」とその方々にお声を掛けた。笑顔で「お祖父ちゃんちに遊びに来てるの?」と孫たちに声もかけていただいた。「うん」と返事をした5歳の孫息子も誇らしげだった。 広い境内を散策しながら、池の鯉とも対話をする孫たちの後ろ姿に満足する祖父ちゃんにとっては至福の時間でございます
  (ホンの僅かな日数ですから・・(笑))

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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