2011/07/31

ラジオを聴きながら・・・(4)

 ~「旅の疲れ」の延長線上で~
 体内時計の「目覚まし時刻」は、3時40分になっている。
 今回の28~29日の広島遠征は、俗にいう「飛び込み要請」の学校訪問だった。小生のHP管理人さんにも伝えることも無く(「スケジュール追加」もせず)出講したので、幾つかの問い合わせがあり驚いてしまったが、ご迷惑をおかけしたことを反省している。
 昨日はその疲労感でぐったりしている老体を自らの感覚で捉えながら加齢の進捗を実感した。
 今朝はいつも通りに床から身体を起して、『腰湯』(=半身浴)のために追い炊きのスイッチを入れてパソコンを開けようとした瞬間(3:54)に大きな揺れが数十秒続き、老妻と共に「余震なのかね」と会話をしながら収まるのを身じろぎもせずに待った。ラジオは「緊急地震速報放送」の態勢になり緊張感を増幅させた。居住地は震度4だとの事実を放送から聞き取って改めての恐怖心が高まった、
 追い炊きの完了を伝える風呂場の音をキャッチしたものの、更に余震でも来ると湯船での身の置き場が無いのでしばらく待機してみた。「もう、良いね」と、自分に言い聞かせて浴室のラジオにスイッチを入れ1ヶ月に1度の「放送番組」(=五木寛之の『歌の旅人』)に聞き入った。氏の今日の「歌の旅」は、小生の故郷・熊本が旅先として氏の語りを聴くことが出来た。故郷の情景を浮かべながら氏の語る県民性を苦笑とともに聞き入った。懐かしい放言にも郷愁を感じつつも数回は目頭が熱くなった。
 氏の著書も書棚に沢山あるほどに大好きな作家の一人でもある。数年前に氏の講演を拝聴した光景も浮かんできた。90分間の講演時間を「短く」感じたほどの内容と、独特な人間的魅力を今でもはっきり思い出すほどである。
 浴室の窓を強い雨が叩きつける朝である。
 県南地方(居住地)に「大雨洪水警報」を告げる放送が、五木寛之氏の「語りの途中」で数回飛び込んできた。どうやら疲労度も完全に解消されつつあることを実感しながら浴室を出た。新潟県や福島県での水害のニュースを認知しつつ、自然災害の「今までに無い現状」を恨めしくも思えてきた。しかし、人間社会の欲求のままに自然環境を破壊し続けた「ツケ」が回ってきたのだろうか、と今後の展開が改めて怖くなっている朝でもある。
 今日は、午後日程で横浜市への出講である。そろそろ準備に取り掛かることにしようか!

2011/07/27

ラジオを聴きながら・・・(3)

 ~「酪農家」はアーティスト!~
 えっ、酪農家が芸術家だって?
 神奈川県伊勢原市で酪農を営むという27歳の男性の語りに耳を傾けながら、その説得力に惹かれて一緒に考えてしまった。中でも、氏の表現を受けいると軽いジャブを数回喰らったような脳への刺激を感じてしまった。

 作曲家・陶芸家・作家・画家・写真家・・と「~家」という言葉とその共通性を考えてみてください。この集団は『芸術家』じゃないですか!!その論理から言及すれば、私が従事している酪農は酪農家と言われ、農業に従事する人は農家と言われるわけですから酪農家も農家も列記とした『芸術家』であると、私は考えているんです。
 
氏の人生論と職業観はまだ続いた。

 芸術家は「夢を紡ぎ、夢を売ります」「芸術家には作品が付き物です。その作品で夢を売るのです」。農家では農産物、酪農家では酪農製品とでも言い換えられますが、それを『作品』と置き換えます。
 父や母が丹精込めて育てた乳牛から「牛乳」という産物を戴いて「アイスクリーム」という作品を産み出して、近隣の子供たちに届けたいのです。どこにもない「1つだけの作品」づくりに精魂を傾けることが親孝行につながり、ひいては地域に喜ばれる酪農家になれると信じています。都市化が今より進んで「牛を飼う」ことの立地条件が閉ざされようとする瞬間に、「牧場を無くさないで!」と地域から声がかかるような酪農家になるのが『夢』でもあります・・・・、

 と続いて番組は終わった。
 東北の酪農家の悲劇は、今日のラジオ番組とは全く違う次元で起きていることが哀しい。夢を抱いて先祖からの酪農を継承している青年たちの『夢』を強引にも奪い去った原点をしっかり考えねばなるまい。単なる自然現象だけで夢を断たれたのであれば激励も受け入れるだろうが、理不尽な状況下での営業を断たれた「酪農家」は、その憤懣をどこにぶつけたら良いのかもわからない。そんな現実とラジオとのギャップを埋めることもできずに悶々してしまった。
 「爽やかな朝」の筈が、どんよりとした気分になってしまった。
 

2011/07/26

昔取った杵柄も・・・。

 ~すっかり錆びてしまいました~
 夏休みになった小学生2人の孫息子たちに「野球を教えて・・」と懇願(?)されまして・・。
 お祖父ちゃんとしての「過去の実績(?)」がムズムズしまして、「いいよ」とばかりに勇んで庭に下りました。長年、ノックバットを振り回していた現職時代は「泣く子も黙る猛練習」を強いる監督として有名だった(本人だけのプライド??)お祖父ちゃんです。そんなことなど孫たちは知る由もありません。
 使用球はゴムボールです。
 言い訳になりますが、グローブを使わずキャッチボールをするのは実に難しいモノです。しかも、ゴムボールというのは弾きやすいので元・プロ(笑)にとっては新・試練となってしまいました。ビニール製のバットを使ってバッティングをします。打ち易く投げるのも困難です。打てないといじけるし、ちょっと当たると連続の要求として老体に疲労感を募らせます。
 その間、部屋の中から見ている老妻は苦笑の連続だったようです。それは、元・プロ意識で孫に迫る愚かな老夫の言動だったのでしょう。「無理に決まっているでしょうに・・・」と、すぐに昇天する老父の熱中ぶりが可笑しかったのでしょう。
 1時間ばかり戯れたばかりなのに、疲れがどどっと全身を襲いました(苦笑)。
 しかしながら、幼少年時代には大きな夢と期待が錯綜するのが醍醐味だと実感しました。時はまさに高校野球の花盛り。聴いたことも無い茨城県下の高校のユニフォームを毎日画面で追いながら、この孫たちが数年後にはどんな活動を選択して青春を謳歌するのかと考えるだけで老化している暇がないとも思ってしまいます。これぞ、「祖父ちゃんバカ」の証でしょうか。
 炎天下を避けて夕暮れの孫たちとの野球紛いの戯れです。しかし、筋肉痛につながると思うと老化を意識するのも、自己認識すべきことなのでしょう。「無理な頑張りで、転倒して骨折に繋がらないようにしてくださいね」と老妻の優しい(笑)言葉を忘れないように「孫との野球ごっこ」を楽しむように心がけましょう。

2011/07/25

注文書が届くと・・・。

 ~予定していた仕事ができない(笑)~
 わが子が夏休み中のお父さんの様子を絵に描いたことがある。
 何度見ても苦笑した。それは、本を顔に被せて昼寝をしている姿であった。遊びから帰って来た子供は、たまに家に居る父親と遊びたかったようだ。その度に転寝している父親の姿が恨めしくも思えたのだろうか。言い訳をすれば、その光景の背景には「注文した本が届いた日」であることを強調したいのである。子育て時代にはネットショップ等はなかったので、近隣の書店で注文していた。帰宅すると配達された本が机上に数冊置いてある。着替えをしながら書籍名を横目で確認する。読みたい本が届かない日もある。多くは数冊の注文にしていたので1冊は「飛びつきたくなる」本も確かにある。
 妻との約束も、予定していた仕事も脳裏から消える。
 そんな若かりし頃の光景を昨日は再現してしまった。3冊の本をネットで注文していた。幸か不幸か(笑)、3冊とも同時に配達されたのである。①日本辺境論 ②戦略の不条理 ③教えるな!の3冊とも単行本である。いつものように(笑)、横になって読みたい順を決めて読み始めた。至福の時間である。
 中でも②戦略の不条理の中身にはどっぷりと浸ってしまった。頷きながら読み続けてついに一気に読み終えた。興奮状態の老脳を考えると少々刺激が強かった?!流石に2冊目を手にした時には老眼に疲労度を感じて瞼を閉じることになった。子育て時代の光景の復元かな?
 今朝は4時に起きて、残りを読み終えた。
 3冊で2300円也の書籍代も二日間で使ってしまったことになる。しかし、久しぶりの刺激は心地よい。年金生活になると書籍代も控えめにしなければと思いつつも、性癖(笑)となってしまった読書病は未だに完治していないようである。(妻はとっくに「諦め病」)
 ここ数日は朝の風が冷ややかで快適である。長男一家と同居してからは朝刊の定期購読は止めて母屋から届いた時点で読むことになったので早朝の時間が手持無沙汰である。整理が進んでいない書庫を眺めながら、本格的に整理に着手して「早朝・再読時間」をしてみようかと考え始めた朝である。
 
昨日、茅ヶ崎から訃報が届いた。師と仰ぎ(ご本人は告げることも無く)ご尊敬申し上げていた小出忠啓先生(市教委勤務時代の教育長)が他界されたとのお知らせの電話が届いた。教育長室の机上に積んであった「書籍」が突然目前に浮かんできた。「本は借りて読むものではないよ」「本は1ページ読んでも、読んだと言って良いんだよ」「人の推薦書は当てにならないからね」等々の読書論を思い出した。読書家であった。何を訊いても笑顔でご自分のお考えでお応えいただいた姿勢から多くを学ばせていただいた。お通夜と告別式が、皮肉にも広島市への出講と重なったので参列する元同僚に気持ちだけを預けることにして、落ち着かれた時分にお線香をあげさせていただこうと考えている。心よりご冥福をお祈りします。

2011/07/24

ラジオを聴きながら・・・(2)

 ~児童養護施設が僕の運命を変えてくれた~
 日課となっているラジオ番組「NHK第一・ラジオ深夜便」の『明日へのことば』(午前4時台)は、今朝はアンコール番組であった。聴かない時もあるのでこの構成は有難い。
 苦労は買ってでもしろ!
 耳にタコができる程に聞かされた祖母の言葉が脳裏を駆け巡った。貧乏百姓の三男として誕生した末っ子孫の小生に祖母(父方)は、不平不満を漏らすことの多かった(らしい)我儘な孫息子を捕まえては説教をした。贅沢を言えば限がない。贅沢は人間の敵だ。貧乏には感謝しろ。等々、決して子供には理解できない哲学を口角泡を飛ばす勢いで説いたものだった。父親の戦死には、(生まれた時にはもう出征して不在だったし、直後に戦死していたようだ)幼心の少年には不平不満を覚えなかったが、食事や衣類には一部の友人たちと比較すればするほど惨めで辛かった記憶は今でも鮮明である。貧乏が「人間性を育てる」なんて少年時代考えたことなどある訳がない。
 今日のトーク主は、元プロボクサー・坂本博之氏であった。彼は福岡の児童養護施設で育ったと語り始めた。(今で言う)子ども虐待の被害児としての壮絶な生きざまを振り返って語り続ける。そして、結婚してわが子を授かり、憧れの中に追い求めてきた「家族の温もり」に辿りついた幸せに言及した。小生の文章表現力不足ゆえにこの画面では論述できない。湯船で下半身を温めている老体に、氏の言葉は湯のぬくもり以上の熱さをふくらはぎに注入してくれた。飛び込んでくる言葉の全てに「血液」が通っていた。タオルで目頭を何度も押さえながら感涙を拭き取った。
 中学時代から高校時代にかけて母を詰って反抗期を生きた小生の暴言を恥じた。
 戦死して戻ってこない父親を求めた反抗的態度は亡母を苦しめたことに間違いはない。坂本氏は実の両親に縁が無く、養護施設に保護されたのである。一歳年下の弟と一緒に苦労して生き抜いた氏の生きざまを聴きながら、感動の涙から後悔の涙へと移行したが目から溢れる涙は止まらなかった。同時に、小生も70歳に近くなって亡き母の享年に近くなったことも無意識になることができない。意識すればするほど懺悔の思いが募り涙は止まらなかった。反抗期盛りの時期には、口うるさかった祖母ももう他界して家には存在感すら消えていた。父の母親だったので、「父親の顔すら知らない」末孫の小生には人一倍の愛情を注いでくれたのではないか、と肉親との生活がいかに幸せなことかを痛感すると、次の涙は小学校5年生の時亡くなった祖母への感謝の涙に変わった。
 ご多分に漏れず小生も老人の仲間に入ってしまったらしい(笑)。
 涙腺のゆるみがその証である。『鬼の角田』と異名をいただいた(?)教員時代を知る人は信じてくれないだろうなぁ~!!えっ?「鬼の目にも涙」だって?そう表現されても仕方ないほど、傲慢な教員人生を生きてきたのだから反省のしようもない。
 育てていただいた児童養護施設に感謝の気持ちを表現したく、東京にリングを作り施設を援助する事務所も併設して全国の「弟や妹」達への激励で東奔西走しているという氏の言葉を聴いて湯船から出るタイミングを忘れてしまった。感謝の気持ちで人生を歩くことの難しさと、素晴らしさのハーモニーを老脳に刻み込んで「新時代」を生きようと決意した時間でもあった。感謝することばかりで、お返しする力不足も実感した妙な記念すべき朝となった。
 時まさに、今日は「テレビ文化の新時代(=デジタル放送完全実施)」の開幕である。

2011/07/23

『テレビ文化』大革命の日?

 ~東京オリンピックとTV文化~
 これは頗る私的な判断基準ですのでご容赦願います。
 ところで、唐突な質問です!「読者の皆さんは、東京オリンピックが開催された時は何歳でしたか?」小生は大学2年生の20歳でした。前年の昭和38年3月に、高校卒業して上京して来ました。既に社会人となっていた次兄を頼って上京したのです。神奈川県高座郡寒川町。ここからテレビ文化が始まったのです。九州の故郷では、当時人気が高かったプロレス放映を見るためにはテレビのある家の庭に出向いて見せたもらったものでした。力道山というプロレスラーの空手チョップに興奮しました。大相撲も人気がありました。栃錦・若ノ花という両横綱の取り組みは、夕暮れの街路の交通を妨害するほどの聴衆が理容店の前に集まっていました。
 そんな時代に、兄と一緒にアパート住まいを始めました。共同玄関・トイレ・炊事場の施設には不満等ありませんでした。兄は、せめて「自室にテレビを」と夜な夜な語っていました。しかし、上京して1年間はテレビとは無縁の生活でした。年が明けると「東京オリンピック観戦をテレビで・・」との宣伝が多くなりました。電車の中吊りにも目が行きました。6月のある日、兄が、「東京までテレビを買いに行くぞ」と弟に声を掛けました。わが耳を疑いつつ秋葉原という電気街に行きました。兄が賞与(=今はボーナス?)をもらったのでそれで購入に踏み切ったようです。
 自室に小さなテレビが鎮座しました。室内アンテナとやらで見るテレビでしたので画像は不鮮明で長時間観ていたら視力に影響がありそうでしたが、兄に感謝しながら生活をしたものでした。そして、東京オリンピックもそのテレビの前で正座して観戦しました(笑)。
 その日々から47年の歳月が流れました。
 デジタルdigital という言葉はもう耳新しいものではなくなりました。この言葉から逆に、アナログanalog  という言葉を呼び起こしました。デジカメという言葉は、独り歩きしていますがデジタル文化社会の水先案内人となっていたようです。
 テレビ文化の新時代が幕開けです。
 高齢者としての不安等どっかへ吹き飛ばされているようですが、関係各位の懇切丁寧な対応を懇願しています。本当にわからないことだらけなんです。以前にも当ブログでも記したように地デジ対応のテレビを購入すると付属品である必携のリモコンがあります。これ一つにもカルチャーショックを受けるんですよ。ホントに!(笑)そんな文化大革命に遭遇したことは幸せなんでしょうね。自分に言い聞かせながら7月24日を迎えている高齢者の戯言でございました。
 
 

2011/07/22

嬉しい返事が届きました。

 ~訪問した小学校から返事が届きました~
 この返事を書いている時間帯は、台風6号に襲来されて、豪雨の時ではなかったでしょうか。案じつつ子供たちの「まごころ」が、プールサイドのスナップ写真とともに届きました。訪問した時の光景も同時に浮かんできます。
 この学級では、訪問するたびに美味しいケーキを作って迎えてもらっています。5年間も通っているので低学年だった児童もすっかり年長者に成長しています。立派にリーダーシップを発揮してケーキ作りに精を出していました。
 小生はお土産に彼らの作品(ケーキ)をいつもいただいて帰っています。必ずお礼の手紙を送っています。(右上)今回は「質問をした」お手紙にしておきました。その「解答」がお手紙として届いたのです。  小生の住居から少し歩けば蓮田があります。
 その「はす」の花のことを訊いてみました。先生方の指導で見事に「答え」が出たようです。7月前半の学校訪問から1ヶ月も経ない内に問答が成立しました。先生方に感謝申し上げます。次回の訪問が楽しみになりました。

2011/07/20

「三日坊主」は一日で・・・。

 ~台風6号の影響で?~
 
 時として都合が良いのが自然界現象である。今朝も、早朝歩禅を続けようと張り切って起床しても台風の影響で降雨であった。三日坊主になんかならない!と力んでも三日坊主になってしまう場合もある。今日の場合は大義名分が付くので認知されるのだろうか?何も三日坊主にそんなに拘らなくても、とご忠告を受けそうであるが深い意図はないが次の行も軽く読み流して欲しい。
 前号で記した旧友(級友)のMくんが、悪条件でもめげずに頑張りぬいた事例を覚えていたからである。生まれ故郷が九州であるから「台風」とは幼馴染でもある。日付は定かではないが、台風のために村内が停電した日があった。自然界現象なので課題は出来なくても大丈夫だと思って胸を張って登校したのは小生だけではなかったはずだ。理由を聞かれた小生は大きな声で「やろうと思ったら停電したのでできませんでした」と答えた。次の級友も次の級友もそれらしき理由を堂々と述べ続けた。しかし、先生の手には一冊の「漢字練習帳」があった。Mくんは台風のために停電するといけないからと、明るいうちに課題をやってしまった言うではないか。
 先生の指導は「天気も読め」との大意だった。まだ6年生ではないか。今は苦笑しながら懐古するが、教科指導以前の「生き方」の指導内容だったと脱帽してしまう。その後も何度かそんな状況下を予測できた時でも、小生にはその苦言は活かされ仕舞いのままに人生は流れてしまっている。そんな想いが過ったので執念深く供述(笑)してしまった。許されたし。
 今朝の空気は数日前までの酷暑と違い快適である。
 巷では、そろそろ学校は夏休みのようである。当方は「毎日サンデー」の長期休暇なので心理的な動揺(?)はないが、現役の諸兄は待望の観が込み上げてきているころであろう。写真は、当方が主催する、第16回目の夏季セミナーの案内はがき版である。久しぶりの「茅ヶ崎への里帰り」ともなり、懐かしい面々との再会に心躍る思いである。
 三日坊主にならず16年間も継続できているこの夏季セミナーは、事務局を請け負っている後輩諸兄の努力に負うことが大きい。感謝である。お時間の都合が付けましたら顔を見に出向いてください。お待ちしております。
 



 

2011/07/19

今度は『台風』ですか!?

 ~今日から「三日坊主」復活~
 読者の方から、「三日坊主の繰り返し」の意味が分かりません、とのメールが届いた。
 きっと真面目で正直な人生を過ごして来られた方だろうと判断した(=決して嫌味ではありませんぞ)。三日坊主は明らかにネガティブな表現であることは間違いではあるまい。当方も、幼い日々に周囲の大人から「三日坊主はダメだぞ」と忠告を数多く受けたことは事実である。そして、純真な少年は三日坊主になってしまう自分を責めたものだった。
 クラスメートのMくんという少年は、『毎日百字練習帳』(というノート名称だった??)という漢字練習帳を1年間、欠かすことなく続けた。そのことで彼は担任の先生の絶賛で最高の評価をもらった。羨望というより憧れに近い、いや尊敬の念が育ったことも記憶している。
 角田少年も凝りもせず挑戦の連続だったことも事実である。が、人生も黄昏時期に達した今でも「三日坊主」を打破した(成就した)ことは未だに無い。自慢にもならない話である。3日間続けて途絶え、そして気分を持ち直して今度は1週間が続いた。しかし、また途絶える。捲土重来の思いでまた挑む。そしてすぐに途切れる。また、挑む。そして途切れる。
 これを繰り返しながらの人生も気が付けば還暦もとっくに過ぎた。
 角田少年は、大学を卒業して「せんせい」になった。熱く語る「せんせい」であったが、「三日坊主になるな!」とだけは決して言えなかった。そこで、自分に言い聞かせるような説得口調でこう言った。

 先ず、三日間だけは続けようよ。それを社会では「三日坊主」と言うが、中断することだけを恐れずに挑んでみようよ。途切れたら気を取り直して、また二回目の「三日坊主」に挑戦してみたらどうだろうか。そして、またまた途切れたら、またまた、やり直してみれば良いさ。だから、目標だけはしっかり持っていないといけないぞ。

 このようなセリフを25歳ぐらいの若い教師は(自分に向かって)語った。その教室にいた生徒の中で何と「せんせい」になったのが3名もいると言う。少々面映ゆい。誇りではないがプレッシャーに感じる。なぜならば「三日坊主」を、寧ろ奨励したような最低の教師だったからである。
 そして、今朝、3日間で中断してしまった早朝歩禅を実践した。
 歩禅中の話題は、「今度は台風か」であった。地震に揺れ、津波の怖さを教えられ自然界の恐ろしさを痛感している被災地に今度は豪雨を伴った台風が襲来するらしい。堪ったもんじゃない!歩いている間にぽつぽつと小さな雨が降り出した。方向転換して30分余りで帰宅した。
 日本には、間もなく「なでしこ」台風がヨーロッパから上陸するようだ。女性軍団であるから、やっぱり台風か。女性の名前が昔は台風に付けられていたような記憶からのシャレでしかないが・・・。
 放射能と牛肉の問題も、保障となると「国なのか東電なのか」と責任所在の擦り合いが起きていると言うではないか。そんなことしていたら「大和撫子」も鬼面になって怒り出すぞ!大和撫子も時代の変化で鬼面撫子に変わることだってあるさ!!
 と、三日坊主推奨の爺が豪語することなどお門違いでありました(反省)。
 台風の進路に係る地域ではくれぐれもご注意願います。

2011/07/18

「なでしこ」って何?

 ~「秋の七草」の一つだよ・・~

 秋の七草って何??矢継ぎ早に質問する孫に向かって説明している口調に苦笑いをしている老妻。言おうとしていることは察知している(笑)。「先生みたい!」と言いたいのだろうが否定はすまい。早朝からTV観戦の母屋も離れも歓声は同時に起こる。

 ◎◎ジャパンというスポーツの代名詞のネーミングには日ごろから不服を感じている。

 監督という大役を請けられた人物の固有名詞を「頭文字」に着けることに不満があった。ほとんど意識していなかった女子サッカーチーム名が『なでしこジャパン』と表現されている。大和撫子に由来しているのだろうか?程度の着想しかない小生にとっては、単に著名な人物の固有名詞を頭文字に使用されていないだけで好感度は高かったことは事実である。

 「国家意識」の低さを痛感する度に固有名詞で鼓舞する国民意識に反発さえ感じたものだった。日本という国を代表する団体や個人の技術や技能競技の選手を私物化してはいけない。私物化されなければ、その分だけ、誇りと責任を重んじる個や団体が存在すると確信するからである。国の代表であるからこそ「国旗」を背負う(ユニフォーム等に装着)のであれば、自国を誇り立派に戦う闘志も倍増するはずである。

 爽やかな笑顔と、国家意識を抱いたフィールド内のイレブンが走り回る姿に、日本独特のネーミングは更に、その語感から来る爽やかさと好感度を増すことになった。フェアプレー賞という団体賞を受賞したようだ。この賞こそが、まさに「誇れる日本」の武士道にも通じる名誉な勲章ではないか。場内でのコールに、思わず拍手をしてしまった。個人のMVP賞も、当然ながら素晴らしい。チームの金メダルも心から祝福したい。しかし、日本人が最も大事にしている文化にフィットするフェアープレー賞は何よりも『なでしこジャパン』を説明するに相応しい賞であると自己満足感に浸ってしまった。

 お祖父ちゃん、『なでしこ』ってなぁに?と問われて、少々難しかったが次の短歌を紹介した。

 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花・・・・。ハギ・キキョウ・クズ・フジバカマ・オミナエシ・オバナ・ナデシコ と読み上げたら最後に登場した「なでしこ」がやっぱり印象に残ったらしい。秋の七草も春の七草も、現世では存在価値など全くない。しかし、今朝は世界中に「秋の七草」の一種である『撫子』(写真)が轟き渡ったではないか。

 誇れる日本を、改めて痛感し大活躍した選手の皆さんに敬意を表したい。

 今日は早朝歩禅も止めて応援した。復活した早朝歩禅も3日間続いただけである。いつもの「三日坊主」となってしまった。しかし、素直でないこの老脳には、「三日坊主」をマイナスで評価することなく、それを繰り返して続ければ良いではないか!!との開き直り哲学が目を開いた朝でもある。

2011/07/17

新・歩禅記(52)

 ~明けきれない空に「月」が・・~
 満月を愛でながら夏の夜空の「大三角形」とやらの星座を長男孫に教わったのが数日前のことだった。昨夜も、お祭りのお囃子太鼓に参加している孫を迎えに行った帰りに、自転車の後ろに乗っている3歳の孫が「あっ、お祖父ちゃん、お月様が追いかけて来るから急いで!」と自転車の速度アップを要求された。話題の主はその満月であった。都会では味わうことのなかった月夜の風情を実感した。
 今朝はこの3日間で最も早く出発した早朝歩禅である。
 昨夜のお月様がまだ西の空に君臨していた(写真)。今朝のコースはほぼ昨日と同じであるが、未知の「道」を探りながら鶴沼(通学路にある)を一周することにした。魚を釣っている人たちが多いのに驚いた。ジョギングする人たちとほぼ全員と挨拶することができることが、都会との大きなギャップであるとも実感した。コミュニケーションとは「交わす・交わる」意味が基であるならが、すれ違う人たち同士が「挨拶を交わす」ことは、生活の中の基礎基本ではないだろうか。挨拶をしようとする瞬間に「目線を外す」都会人とは大きなギャップを感じた。これこそが「嬉しい誤算」である。
 そんな挨拶の交信から一日の生活が始まる。まさに至福の時間ではないか。自慢ではないが、今朝の挨拶交信で「知っている人」はゼロである。知人友人でも挨拶をまともに交わすことを避けるオトナ集団の人間関係からは、子供たちのコミュニケーション能力など育成できるわけがない。
 たくさんの爽やかな挨拶を交わしながら帰宅した。
 西の空に傾きつつある「お月様」にも、挨拶をすることにした。「いつもありがとう」と呟きながら両手を合わせる自分の姿に老いを感じた。しかし、これは避けることのできない現実である。
 今夜は、また、一つ楽しい約束が待っている。
 

2011/07/16

新・歩禅記(51)




 ~新コースは「孫の通学路」~

 義父母の眠る観音寺境内へのコースしか知らない新参者。

 歩禅のコースを設定するには地理不案内は致命傷であるが、妻の提案で「孫の通学路」を歩いてみたいとの要望を取り入れて家を出発したのが4時35分。「朝の歩禅は60分間」とは、いつの間にか老夫妻のきまりになっているように定着している。

 写真の下段は、家を出て歩き出した直後に昇ってきた今日の朝陽である。見渡す限りの平野なのでこんな角度から日の出を見ることが出来るようだ。思わず立ち止まって両手を合わせた。

 写真中断は、通学路に広がるハス田んぼに咲き始めた「蓮の花」である。時はまさに「七月盆」である。お盆には蓮の花が似合う。そんな光景が延々と広がる田園地帯を毎朝、孫たちは元気に通学しているようである。爺も婆もご機嫌な歩調となった。

 写真上段は、本コースの目的地:孫の通う小学校である。老脚で20分間で到達できる距離である。通学時間としては最適かもしれない。情報によると往路と復路で通学路が異なるらしい。生い茂った林の中を通る場所もある(確認した)ので、下校する復路は車の往来は激しいが一人で帰宅する児童の安全性は確保できるという判断らしい。

 今朝の歩禅は、通学路の復路は歩いていない。車で頻繁に走っているからでもある。朝陽が昇ってくる時間帯に歩き出して帰宅するまでの時間は丁度1時間であった。このコースは歩くには最適との老妻が気に入ったようであるから、今後続けてもいいかも知れない。

 一つずつコースを開拓する時間もたっぷりある。これからが楽しみである。早朝歩禅の本格的復活宣言としよう。

2011/07/15

新・歩禅記(50)

 ~「筑波山」に、おはよう!!~
 この風景は、自宅から歩いて5分の所から撮ったものです。
 朝陽が射して今日も暑くなりそうです。昨夜は孫に急かれて夏の夜空を眺めました。理科の教科書を見ながら「夏の大三角形」とやらの3つの星座を発見して童心に返った己に驚きました。今夜は満月だそうですね。夕べのお月様も綺麗でした。
 苦手なことやモノがたくさんあるのですが、理科教材の「天体」はその一つです。
 孫に急かれなければ敢えて、「あの星座は・・」なんてロマンチックな気分とは程遠い嫌気をたっぷり含んだまなざしで夜空を眺めることなどあり得ません(笑)。しかし、栗林を照らす月光の中から見上げる夜空のパノラマは何とも言えない夢の世界に思えました。やっぱり、ここは空気が澄んでいるのだろうか。妙に冷ややかな精神状態で、夜空の神秘に浸ったひと時でした。
 早朝の4時半は、ひんやりと夜気が残っているのが爽快です。やっとこの地の生活にも慣れてきた証でしょうか。地名も何もわかりませんが、迷子にはならない程度の土地勘も身に着きました。行き当たりばったりで歩いて帰ってきました。昨日の半分しか歩数は有りませんでしたが、未知の地を歩くと不安な思いもあり、歩数より多く歩いたように錯覚するのも何となくわかるような気がします。
 筑波山が朝日に照らされてとても立派に見える朝です。

2011/07/14

新・歩禅記(49)

 ~早朝の散歩・・復活!~
 北関東の朝夕は湘南海岸地方とは気温の差はさほど感じないが、空気の澄み具合が違うのか湿度の差なのかひんやりとした風が心地よく感じる。しかし、昼間の高温多湿はほとんど差異を感じない。新築した離れには老人独特の拘りでエアコンを設置していない。機能するかどうかは即時判断するとして設置だけはしておくべきだったかと、内心反省している(笑)。意地を張る??つもりは毛頭ないが茅ヶ崎の自宅でも使用していなかったので何とかなるだろうと考えたのは軽率だったのだろうか。長男は(老人に警報の)熱中症を気にしているらしい。老妻の動きの鈍さを見るにつけ反省は消えない。しかし、新型の扇風機は買い揃えたので大丈夫だと老妻は弁護してくれている(?)。
 1-1のスコアを知りながら4時半に家を出発した。
 久しぶりの歩禅である。上記に言い訳をしたが昼間の歩禅は少々躊躇ってしまうほどの日射と高温である。そこで、老妻と相談した。動かない老体には老化の激化しかない。老妻の「歩く」時間が激減したように感じる。ここでの散歩は義父母の眠る墓地へのコースが適量である。片道30分3500歩のコースで久しぶりの歩禅を済ませて帰ってきた。1-1のスコアが3-1の勝利スコアに変わっていた。日本女子サッカーチームの健闘ぶりが帰宅して直ぐに伝わってきた。すごい!!
 朝食を済ませた。陽射しももう強くなっている。
 読者の皆さんも、体調を崩さないようにして夏を乗り切ってください。

2011/07/13

昨日は何していたっけ??

 ~猛暑に茹だった老脳(笑)~
 昨日はこのブログに接していなかった!
 全く頓着しないほどに忘却の彼方にこのブログがあった。つまり、「日課としたい」筈のこのブログタイムすら意識の「蚊帳の外」に送り込んでしまったようだ。
 しかし、この暑さはどうした!
 生まれ育った故郷(九州)を離れてかなりの年数が経って家族連れで帰省した。その時、わが子の体調管理に気遣いをして「酷暑」を体感した。あの頃の日射と気温の高さが、ここ茨城県(北関東)にまで到達しているようだ。これを専門家風に表現すると「地球の温暖化」なのだろうか。
 暑さと衣類。
 小生のような時代人には、夏はステテコとクレープ(綿)のシャツがファッションである(笑)。ステテコ姿の高齢者の姿は時代を感じるが、暑さと関係している。ズボンとパンツの間にステテコの存在価値がある。若さのバロメータが下着の種類にあるらしい。ステテコ姿は老人の代名詞のようである。否定はしない。いや否定ができない。夏でも遠距離を旅する小生には直にズボンをはくと汗がズボンに纏わりついて歩き辛いのである。男性の読者で、この感触(=心境)を理解できる方は小生と同年配であると断言されても仕方がないことになる。異論は無いだろうか。
 大仕事が11日に終わった解放感も手伝い、あまりの暑さに放心状態となってしまったようである。
 子ども達から貰った現代流のナイロン製のTシャツの肌触りが良くない。同種の短パンも何となくべた付いてすっきり感がない。ついに老妻に向かって要請した。「ステテコを出してくれよ」、と(笑)。
 そんな他愛もない会話が意味もなく交わされているうちに何をすることもなく一日が暮れてしまったのでございましょう。夏の暑さに居た堪れなかった老体の「昨日」は、何一つすることも無く過ぎて行ってしまいました。お許しいただきたい。
 お断り:今後も気温の上昇と不快指数(とやらの)上昇の関係から、老脳が熱中症にでもなりましたら時としてこのブログは予告なしに休刊するかも知れませぬ。ご了解願います。

2011/07/11

「梅雨明け宣言」という日

 ~やったぁ、泳げるぞ!~
 小学校に通っていた日の思い出の一つの風景。
 最近の関東地方の気象状況がその頃の九州に良く似ている。気温と日射力がそうである。皮膚がんや日射病は九州だけで気を付けるモノではない。少年時代(九州・熊本)、梅雨明け宣言が待ち遠しかったのを思い出した。梅雨が明ける前には「泳ぐこと禁止」が子供の常識となっていた。
 通学路の隣に川が流れていた。
 ある日、あまりの暑さに5人の少年たちは「誰にも言わない」約束で泳ぐことになった。竹藪の中にランドセルと脱いだ洋服を置いて裸で川に飛び込んで楽しい時間(笑)を過ごして、何事もないような顔で帰宅した。今のように帰宅後の電話連絡手段などないので頓着することもなく翌日も登校した。朝の登校を済ませて運動場で遊んでいた。5人の仲間の一人がいないのに気が付いても「昨日の禁断の水泳」の結果が担任の先生にバレていることなど夢にも思っていなかった。
 恐ろしかった担任教師の形相が襲ってきたのは朝の会であった。 
 そして、梅雨も明けていない時期の遊泳は「絶対禁止」だったことへのご法度破りの刑が敷かれた。その後、中学校に入学しても高校生になっても「梅雨明けと水泳」の関係は「心の掟」として脳裏から消えることはなかった。
 梅雨時期の健康管理を「水泳と絡ませて」教えてもらった当時の大人力に、今となっては脱帽である。
 

2011/07/10

『お祖父ちゃん』の眼で授業参観・・・。

 ~こんな視野で授業を見ると微笑ましい~
 講師稼業(=昨日も使用した言語表現)のメインは授業を観察してからの「指導助言」である。
 周囲からは「怖い目線」を感じ取られつつも稼業を全うし続けているのが全身に染みついているのがよくわかった。昨日は孫が通学している小学校の保護者・授業参観であったので誘われるままに老妻同伴で行ってみることにした。
 お祖父ちゃん・お祖母ちゃんの視線を意識して教室を覗いた。
 二人の孫たちは入室したことは分かっている筈だが、意識しているらしく視線をこちらには送って来ない。授業に集中しようと頑張っていたのだろう。家の中で見る孫とは別人のように成長した姿を見せてくれた。
 自慢ではないが、わが子たち(3人)の授業参観も一度も経験していない父親である。しかし、お祖父ちゃんの眼での「授業参観」初体験は少々敷居が高かった。しかし、どっぷりと「お祖父ちゃん」業に浸りながら、校内見学もさせてもらった。3階から見下ろすと大きな沼もあり、遠くには筑波山の雄姿もくっきりと浮かび、見渡す視野を色分けをするとなれば「緑」である。素晴らしい環境に立地している学び舎で6年間学ぶことのできる孫たちは幸せである。たくさんの経験をさせていただいて、多くの友達を作って学校生活を楽しんで欲しいと心から願う想いは「お祖父ちゃんそのもの」であると苦笑してしまった。
 

2011/07/09

何が一番嬉しいって?・・。

 ~『講師冥利』に尽きる感激~
 誰が付けたか「講師稼業」という名称が抵抗もなく独り歩きしている。
 40年近く続いた現職を辞してから丸七年が過ぎた。講師として「講演」した回数も多い年は100回も超えた。ただ今でも信じられないのが、回数の増減は別としても未だに出講要請が続いているという現象である。今夏も、6月末の3日間滞在の鳥取市から帰宅して2日間の休憩後、今回の高知市(4日間滞在)への出講という頗るハードな日程の講師稼業となった。わが身ながらタフネスを実感している。訪問した四国でも丁度梅雨明けした日でもあり、気温の上昇は老体には流石に身に堪えるものもあった。しかし、帰宅後の笑い話でどんな旅であったかご想像願いたい。体重測定をして愕然としたのは、それでも体重が減っていないことである。傍らの老妻に、「楽な仕事をして、やっぱりご馳走ばかり食べてるんですよ・・」と羨望の意を含めて畳み掛けられて啞然としながらも苦笑してしまった。
 教員生活が長かったので「指導助言」スタイルは麻痺するほど慣れてしまっている。
 子供たちは成長の兆しが表出するので遣り甲斐もあったのは事実である。講師稼業になるとその喜びは半減以下である。なぜならば、指導助言の相手が「オトナ」集団だからである。成長期を過ぎたオトナ集団には多くの成長を期待すること自体が己を見ても明白であるからだ。
 しかし、また講師稼業の「指導助言」は教員時代とは格段の違いもある。
 小生の講師による指導助言の哲学は、「こうしなさい」「こうすべきだ」では効果は無いと言う考え方に準拠している。ただ、最初の一歩だけは「方向性」としてその学校の意向に沿うような実例を示すことにしている。そして、経験値を実例として話題提供をしたり、先進的な研究が進められている学校の様子を紹介したりしながら大きな流れができるように配慮をしている。つまり、その方向性や研究の進め方は講師の話題提供を受け止めての、当事者意識を期待するだけなのである。従って学校によっては何年間の通いでも「教わった通り」での校内研究に終始してしまい、オリジナルな進展は感じ取れないままに訪問が終了したこともある。年間に数回しか訪問できない現実を考えると、「その学校での工夫」に頼るだけになるのは仕方がないことでもある。
 そこに今回の訪問である。衝撃と感動の二重奏に悩殺される訪問であった。
 訪問校の高知市立一宮(いっく)小学校にはもう5年間継続して訪問指導をしていることになる。グループ別に研究が始まり、1年前には見なかった光景が目に飛び込んできた。慌てて校長室に戻ってカメラを持ってきた。そして撮影(=写真)しながら一宮小学校なりの工夫がレンズから飛び込んできて、目を見張ってしまった。そして、その究め方に「進化」を実感した。「これだ!!」と声に出してしまいそうな興奮となった。進化するオトナ集団を認知できた喜びこそが講師冥利である。通常は学校訪問の夜が懇親会であるのに今回は前夜祭(?)で懇親を済ませていたので、研究の進化を評価する時間が取れなかった。しかし、この学校の教師集団の勢いは『進化する』究め方を追求している現状として歓喜の写真撮影となった。焦点化した「児童の観察」は当初に指導をしている。そこから、教師集団の工夫と実践から、「折れ線グラフ」での表現は、まさにオリジナリティである。観察対象の児童一人一人の集中度と感情表現を折れ線にして、遠くからも読み取れる工夫には感服してしまった。
 何が一番嬉しいって?講師としては「オトナ集団の進化」と遭遇することではないだろうか。
 そんな喜びが、今回は、長期滞在に拘わらず疲労感も残さずに遠路(電車片道8時間の旅)の移動にも堪えられたのかもしれない。頑張っている教師集団に乾杯だ!!
 次回の訪問がまた、楽しみになっている講師バカである。

 今日は孫の小学校での授業参観に行って来ました。講師ではございません。一人の祖父として孫たちを見詰めてまいりました。不思議な感情が脳裏を横走りするのに苦笑しました。関東も梅雨明けだそうです。汗だくになりながら授業を受けている孫たちに溺愛心を感じました(笑)。

2011/07/05

亡き先輩の奥様からの書簡

 ~震災見舞いへの心遣いに感激~
 現役の中学校英語科教員最後の勤務校の学校長には大変お世話になりました。指導主事を拝命して現場を離れる時点で校長先生は定年退職でした。そして、数年後に呆気ない人生の幕を閉じられた時は大きな衝撃を受けました。その奥様から書簡入りの贈り物が届きました。
 鳥取市への出講だった6月30日。
 姫路駅で在来線特急に乗り換えるためにホームに居たところに携帯電話のコール。発信者の氏名が妻ではないか。余程のことがない限り出先に電話を掛けることのない妻なので内心ドキッとしてしまう。駅構内のホームの雑踏の中で聞き取ったのが、大先輩の奥様から『お届け物』を受け取ったが、「お手紙入り」とのメモが付いているので「急ぎの要件」であれば、鳥取から帰るのを待って対応することは失礼だと妻が説明した。贈り物の開封と同時に書簡も一読するように指示をして、ホームに入ってきた特急電車に乗った。
 ホテルに着いて詳細を聞き直した。転居のお知らせを葉書で確認され、即・震災見舞いを送ろうとお店に行かれたようだ。お店ではその時点での商品の発送は不可能だとの返答だったとのこと。今になってしまった遅いお見舞いを詫びる内容のお手紙であった。概要を妻から聞いて恐縮してしまった。お世話になったのは若輩の小生である。ご主人も他界されて20年以上は経っているというのにこのお心遣いである。現役時代には、指導主事であった奥様には多岐にわたりご指導ご指南を受けている。こちらの非礼と無礼の数々に頭が上がらないお相手である。
 帰宅して直ぐにご自宅に電話する。
 懐かしい声音と、親しみのある口調に緊張も綻び、ご指名でもあるので妻も電話口に出させていただいた。お声を拝聴する限りではお元気の様子で安堵もした。電話が切れて暫しの沈黙の時間は『人生訓』を得たように背筋が伸びた。先輩としての後輩への心遣い。戴いたカステラを賞味しながら考えた。大先輩ご夫妻に直に恩返しが出来るわけでもないが、「恩送り」ができるように、後輩教員へ愛情を注いでいこうと心新たにしている朝である。
 
 今日から四国へ。出立時刻もいつもより早い。多くの後輩諸兄が待ち受ける高知市で「恩送り稼業」に専念してまいります。行ってきまぁ~す。ブログは日曜日まで休刊です。
 
 

2011/07/04

『人生の参考書』が届く!

 ~これだけの分量の文章を書く??~

 昨日、謹呈本が届いた。

 近刊の情報は得ていたのだが、こんなに早く届くとは思ってもいなかった。封を開けて中から1冊の書物を取り出して表紙を開いて仰天した。表表紙の裏面見開きには著者のサインも入っているではないか。そんなことで「驚いて」は著者に対して失礼ではないかと心配される読者もあるかも知れない。小生のみが知ることではないが、著者は中学校を卒業して大工見習いとして故郷の秋田県から東京に出て来た、自称:無学歴の氏である。

 学校の勉強が嫌いで、嫌いで・・・。

 体育館の死角になっている場所で授業をさぼって寝ていたよ。

 高校入学なんて考えたこともなかった。

 そんな折り、校長先生が親身になって専門学校への進学を勧めてくれた・・・。

 氏を知ったのはNHKラジオ番組に出演された放送を聴いたことだった。その時点でアナウンサーが紹介された処女本名を書き留めて取り寄せ読んだことからである。そして、読後感を、ホームページのエッセーコーナー(現・ブログ『歩禅記』)で紹介した。その情報を家人が発見され、氏から手紙を頂戴したのが接触の始まりでもあった。

 身の上話(と、今でも言うのかな?)を聴いてわが耳を疑った。主宰する『響の会』にもご来場いただきご登壇をお願いした。独特な秋田訛りの日本語には郷愁さえ覚える。学問という学問を(学校教育)受けていないと豪語する氏が、辞書を片手に編集者や関係記者の皆さんにも助けを受けながら、自力で5冊目を刊行された姿勢には感動しか似合わない。

 表表紙の裏面のサインに仰天した理由がお分かり戴いただろうか。

 作文が苦手?どうも文章を作るのが億劫で、とか逃げ口上を先行される「高学歴諸兄」に、氏の爪の垢を飲ませてあげたいものだ。中学校卒という学歴で(とは、言い過ぎか!?)立派に社会に貢献する人材が存在していることを認識したいものである。


 このブログを書き終えたら、改めて氏に「お礼」を称賛の辞を添えてファックスレターを送ることにしよう。

2011/07/03

興奮冷めやらず・・の真実

 ~今後の学校経営への提言~
 業界では「地域と学校」は、様々の視点・観点から、「その関連性」について論じられている。
 小生も経営者だった過去の実績(?)を顧みても反省だらけの経営領域である。「地域を巻き込んだ」とか「地域教育力を活かした」、あるいは「地域への発信」等々と挙げたら枚挙にいとまがない。それほど「言語表現優先」で実効性も感じることなく、「校長が替われば学校は変わる」と括られてしまう。その都度、落胆しながらも地域の未来を憂いつつ鞭を打って学校教育への関わりに積極性を発揮していただく地域が多いことを(元・関係者だからこそ)実感として受け止めるのである。そして、省みつつ償いの真似事でもできればとの思いは深まるばかりであった。
 上掲したパンフレットは地域に配布されたものである。
 「走る書斎(=移動に利用する新幹線車中)」で脳裏を刺激されたのが、太い枠で囲んである部分の主催者の「思い・願い」のメッセージであった。読者の皆さんの熟読を期待したい。この会は、中学校1校と4つの小学校が一体となって「子どもを非行からまもる」運動を9年前に立ち上げられたようである。10年ひと昔、と言うとすれば「昔の時代」に先代の皆さんの苦慮の末に産み落とされた会であっただろうと推測できる。
 僅かなスペースの少量の文章ではあるが、「地域住民」の「地域の子供たちの未来」を思う気持ちが痛いほど伝わってきたのは小生だけだろうか?・・・いつか来た道を子どもたちが立派に歩むためにも、世代のバトンタッチを誠実に行えるようにしなければならないと思います。・・・この哲学が、この地域に確かな命として潜在しているとすれば、学校教育関係者が黙って見過ごしているようでは職務怠慢でしょう。飛ぶように消え去る車窓の景色を見ると重圧感も一緒に飛んで行ってしまう。しかし、走る書斎では、この熱いメッセージを発する地域への「お返し」をするために老脳にも熱い血液が循環してきたのを体感しながら「未だ見ぬ聴衆」を想定して講演の構想を再考した。
 350人ほどの参加者だっただろうか?定員が500名の鳥取環境大学の素晴らしい講堂は演壇から対峙するには眩しいほどの熱気も伝わってきた。講演のでき具合は問うて欲しくない(笑)が、走る書斎で編み出した「地域の皆さんへの」お返しは、最後の締めくくりで言及できただけでも重責のホンの一部分の責めを果たせたのではないかと、今朝になっても「興奮冷めやらず」の心境にあっても感じられることが講師冥利である。
 昨年も約100回の講演を熟してはいるが、今回のように「助言や提言」の類でまとめた講演は一回もない。主催者の思いがそれほどまでに伝わってきたという証である。書面での公表はしないが、会場でメモを取る関係者を確認できたことは至福でった。
 一方で、学校関係者の熱意も十分に受け止めることができた。勤務を要しない日に、特別な個人的事情が無い限り全教職員の出席を講じている学校も珍しい。応じた教職員にも敬意を表する。2日間日程のスケジュールは、初日は「授業研究会」であった。150人弱の小中学校の「せんせい」諸兄が集い、4つの提案授業とそれに伴う4つの分科会での協議も圧巻であった。同業者のよしみで、かなり辛口の講評をしたのは正解だったと、翌日の本講演会場で実感した。授業で「非行からまもる」術を追究するのが授業研究会であるというのは、ある雑誌に掲載された小生の原稿、「授業こそが積極的な生徒指導だ」という内容を、今回は小中学校の先生合同の協議会で伝えることが出来たのは何よりの充足感である。4名の中学校教員の提案授業も立派だった。個々の授業者を校長室で「個別指導」の時間も特設されたことは管理職の教師への深い愛情と理解できた。かなり厳しい評価を発することが出来たのは管理職な確かなフォローができると確信できたからでもある。
 最後に、関係各位と、ご参会の地域の皆様に心より感謝していることをお伝えしたい。そして、同業者の後輩諸兄には地域のために、子供たちの未来のために実りの多い授業を展開して行こうではないか、とエールを送って今回の「旅の報告」といたしましょう。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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