2011/03/08

『捨てる』意義と『拾う』意識

 【お断り】我が家のプリンターはA4版が最大の能力です。この新聞記事は、そのサイズを超えてしまいましたので範囲内の記事でご了解いただきます】  

 皆さんは、「捨てる」のと「拾う」のとではどちらが得意でしょうか?捨てることが苦手な人は「片付け」が苦手だと思いませんか?捨てることはマイナスで、拾うことはプラスだと理解されるとなれば拾うことを優先させてしまいます。これこそ人情なんでしょうか。
 敬愛した一人の野球人が人生を終えた、との記事が目に留まった(上掲)。
 最高の試合生んだ「自分で考えろ」 の大きな活字を追いながら、「教えてもらったのは一つ」という表現タイトルについて考えた。「どうしたら良いのか・・・」と尋ねると『自分で考えろ』と突き放した指導を受け、当の本人は反発した・・・、とある。小生が氏を敬愛するポイントがそこに存在する。
 広辞苑によれば、『捨てる』の意味には次の5点がある。 ①不用のものとして物を手元から話す ②見放す・突き放す ③大切な物を投げ出す ④しりぞける ⑤俗世間から離れる
 自分で考えさせるために「突き放す」指導こそが、『捨てる』意義だったのだろう。しかし、これは容易に真似が出来ることではない。それだけに、赤色で薄く塗りつぶした3行の氏のポエムが際だってくる。それほどまでに、その相手を愛おしく思っていないと荒療治は出来ないことの教訓ではないだろうか。人を育てることに関して『捨てる』意義の重要性をここで学ぶことが出来る。
 
 捨てる意義を考えながら、ふと数週間前の我々夫婦の対話を思い出した。老妻も年金受給者になった。正真正銘の老夫婦になった証でもある内容であった。要らないモノは捨てようよ、が対話の主旨であった。長年住み慣れた拙宅には「捨てても良い」モノが溢れているからである。
 モノを大切にするという観点だけを前面に押し出せば言い訳として通用しそうであるが、どうにもならない粗大ゴミ(次世代者には)を処分もしないのでは申し訳ない。人生の節目と言えば、丁度そんな時期に差し掛かっているのが我々夫婦ではないか。そろそろ、「捨てる」という行動に移そうとばかりに大掛かりな掃除に取り掛かったのである。
 ところが二人で整理を始めてから数週間が経っても殆ど片付かない(笑)。
 手にするモノ全てに思い出がつきまとってしまい「捨てる」意義の進展は捗っていない。全てが一旦「拾い上げた」モノであればあるほど、思い出というバリアは容易に飛び越えて廃棄できそうにないからだろう。
 これからも生きている限り、『拾う』意識だけは失せそうにないとすれば、我が家も「ゴミ屋敷」に類する家屋になってしまうのだろうか。『捨てる』意義を、夫婦で再確認することにしようか(笑)。そんな午後の昼下がり、睡魔が襲ってきそうなので横になれば、また片付けは進まない!!

 

 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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