2012/05/16

連続する来客

~疲れも二倍??~
 先週の土曜日に孫の結婚式に参列するために九州の従兄夫妻が上京して来た。82歳になる妻の従兄である。「孫娘の晴れ姿」を見ることへの執心は高齢者にも生きる力が芽生えるモノらしい。
 14日から当方まで足を延ばしての訪問であった。
 妻の父親の実家を継いでいる長兄で、妻を本当の妹のようにかわいがってくれた兄貴分の訪問とあって我が家は総出(母屋も)で歓待ムードとなった。妻の両親のお墓を当地に作っているので墓参を兼ねての訪問でもある。妻の父を慕っている従兄は墓前に額ずき数分間の黙祷。何をお墓の主に語りかけていたのかは定かではないが、感動した場面であった。お墓参りが終わると、「大任を果たした!」との言葉が飛び出したが、その言葉に妻のみならず小生も目頭が熱くなった。
 夜の懇親会(?)は大盛り上がり。
 九州弁の飛び交う部屋では、「外国語紛い」の理解困難な言語に、時として通訳が要求された。孫たちも「何を話しているの?」と方言の難しさを感じ取ったようだ。
 そして、昨日は予定外の「予科練平和記念館」を訪問することになった。
   訪問者(82・従兄)が、後数か月戦争が長引いていたら、「ここに来ていた」と大昔の話に登場した『予科練(=霞ヶ浦隣接)』訓練場が側近にあることを知ったために「どうしても行ってみたい」との要望に応えて、我が長男が仕事を休んで案内することになった。
 戦争の惨さをまた知る羽目になった。「ななつボタンは桜と錨 きょうも飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ ・・・・」という歌詞が頭を過る。七つボタンに合わせて記念館の展示場が7室に構成され、どの部屋でも涙がこぼれそうになった。感動より回想に浸った従兄は、涙を見せたくなかったらしく一人で一足先に会館を出て館外から霞ヶ浦を眺めていた。その後ろ姿に「沖縄返還40周年」のラジオ番組が飛び込んできた。戦後70年ばかり過ぎた今、爪痕や後遺症は顕在していることを痛感した。
 常磐道のインター入口まで送って別れた。
 一団の来客が去ると、次女夫妻の里帰り訪問である。お彼岸の墓参が済んでいないとのお詫びを前面にしての久しぶりの里帰りで、再度の夕食・懇親会であった。連日の来客に母屋の孫軍団の興奮は上り詰めたようだ。興奮状態のまま眠りに着いた孫たちの声が聞こえると、爺婆の疲労度もピークに達した。娘夫婦なので「勝手知ったる我が家」なので、爺婆は母屋の別室(仏間)にて休むことにした。
 妻は就寝前に仏壇に向かっていた。何かを告げる時間だったのだろう。小生はあっという間の熟睡モードになってしまった。連続する接客はやっぱり大変だが、孫たちの育成には重要な時間であるとも感じている。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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