~公式確認から56年経過~
小学生の悪童たちは猫が七転八倒する光景を見て爆笑していた。
屋根から猫を落とすと途中で回転して立派に着地することを知ったのもその頃だっただろうか。動物の異常なほどの特殊能力に仰天したモノだった。誕生地名が「浜町」というのだから海までの距離が計り知れる。潮が引いてしまうと数キロ先まで歩けるほど遠浅であった。眼前に雲仙・普賢岳が迫って来るほどの距離まで貝堀り行かされた。重くなったアサリを背負って遠浅を恨んだのも子どもの頃の記憶として残っている。満潮になると釣竿を垂れて魚を釣った。沢山釣れて帰宅すると祖母が頭を撫でてくれた。即刻に捌いて夕食のお数になった魚を渋々と食べたのも少年時代の日常風景でもある。
飼い猫が苦しみもがきながら命を絶える光景を何回か目にすると笑ってばかりでは済まないと意識し始めたのが中学生の頃だった。
高校に入学すると水俣市や天草の島々の出身者がいることを知った。知っている範囲でも2名の同級生が高校を退学した。理由はわからなかった。当時の高校では、謹慎・停学・退学等の措置は頻繁に掲示され、学校に来ない生徒の理由は判明した。しかし、その2名は卒業するまで解らず仕舞いだった。そのまま故郷を離れたので交信もなく忘れかけていた所に、天草出身の級友から、「川崎市の会社に勤めている」と手紙が届いた。退学の理由にはお互いに触れることも無く月日は流れた。還暦同窓会で物故者の氏名を追いながら理由不明の友人もいたが追及もしなかった。噂では「水俣病」という病名を知らされた。
八代海(有明海と続く)の魚介類を生活の糧にした地域には公害の影響は甚大であったことは誰も否定しない。公害に侵された魚介類を食したら猫のみならず人間だって大変な被害を受けるのは当然である。未だに病魔に侵され苦しんでいる人たちがいることを新聞も言及している。多くは苦しみながら悔しい思いで他界されたとも報道している。
経済至上主義は今でも健在である。
どれだけの犠牲者を産めばこの社会現象の病理は治まるのだろうか。「水俣病」が公式確認されて後4年で『還暦』年数に到達する。被害者自身は当然ながら胎児として生を受けて誕生して、障がい者として生きておられる「声明文発表者」のお顔をTV画面で見詰めながら心が痛んだのは小生だけではあるまい。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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