歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
2012/05/28
日本気象協会よ、胸を張れ!
~予報は外れても・・~
午後2時半ごろから空模様が急変して来た。
西の空に真っ黒な雲が目に入り始めると強いにわか雨が降ってきた。孫たちの下校時刻とかち合ってしまった。老妻は心配そうに窓の外に注目していた。雨が強くならない前の孫たちの帰宅を祈る思いだったらしい。結果は滑り込みセーフ!!
殆ど濡れることも無く帰宅した二人の孫息子たちは、真っ黒な空が怖かったと口々に訴える。雨戸も閉められた室内は異様である。おやつを頬張りながら、祖母ちゃんの子ども時代に経験した落雷の話に聞き入っていた。「雷で人が死ぬ」という事実と遭遇していない彼らには本当の怖さは分からないだろうが、老人の「昔話」も実話なので聞く方も真剣だった。雨戸のむこうで「防災無線」のスピーカーが『竜巻注意報』を訴えていた。
ところで、皆さん。
「天気予報」そのものへの価値観が変わっていませんかね。天気予報は外れて当然!時代の我々にとっては異常であるとしか言いようが無い。神経質なまでに気象情報を適格に伝えようと涙ぐましい努力を払う気象予報官の業務態度に思わず、「過剰な心配は要らないよ」と叫んでしまう。それはNHKの気象予報官が高校の後輩であるからでもある(笑)。
注意報を発しても自然の驚異に無防備なまでに勝手な行動をしている輩には自己責任を充当するしか処理はないはずである。天気予報は有難い。50年も前とは比較にならないほどに進歩しているのは気象衛星の恩恵である。天空に打ち上げられた気象衛星を含め、宇宙界には想像を絶する「宇宙ゴミ」も発生しているらしい。地球上とは別世界でもゴミ問題として浮上しているようだ。宇宙にまでゴミを打ち上げていれば自然界の変容も防ぐことが出来ないのかな??
より細かな情報を得るために開発される科学技術である。恩恵には頭が下がる思いでいるが、受け取るサイドの問題点は一向に開発進展されない。それどころか、反対に、天気予報のはずれに責任を転嫁してしまうという現状を知るにつけ「人間」という高尚な動物も絶滅を予感させる状況下に陥ったと思うしかない。
夕方になって晴れ間が出てきた。今度は「静岡県下に竜巻注意報が発令された」とラジオが伝えている。こんなに親切に予報を発する国は他にあるのだろうか。痒いところに手が届くような対応が本当に親切なことなのか、と訝しく思う夕暮れである。
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自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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