2010/08/09

長崎原爆の日

  ~畑から原爆投下の瞬間を見た~
 小生の出生地は九州・熊本県八代市。天草の島々を越えて西の空には雲仙岳が見える。村で評判だった祖母の「天気予報」は雲仙岳の様子が情報源だったようだ。幼心に「良く当たるなぁ~」と感心しつつ尊敬したモノだった。
 母は8月9日になると何かに取り憑かれたように必ず口火を切った。
 「畑におったらな、まぶしか(い)ほどの光が目に飛び込んできたので、思わず芋畑の中に潜ったとよ。恐ろしかった。そしたら真っ黒な煙が空に向かって黙々と上がって行くとたい。あ~、太か(大きな)爆弾が落とされたとばい。今度はこっちに来るとだろか。と考えたら家に居る子供達のことが心配になって走ろうとしたと。ばってん、足が進まんでな、あせったバイ」、と話すのだった。
後で「原子爆弾」という焼夷弾の何百倍も威力のあるアメリカの新型爆弾と知ったそうだ。それが昭和20年8月9日。夫である小生の父親はその時点では沖縄で玉砕していたのだそうだ。戦死の公報はそのずっと後だったと言うからこの日も夫の生還を信じて母は懸命に農作業をしていたのだろう。哀しい話ではありませんか。
 何もしない日があっても確かに歴史は刻まれる。呆然として原子爆弾の投下された方向を見詰めて動けなくなった母には動きは無い。しかし、何もしていない母にも明白な「戦争」という悲惨な歴史が刻まれていた。そんな苦労話を聞いて育った世代も、間もなく人生70年となる。戦争のことを語ることもできない世代は、我が子にその悲惨さすら伝えることが出来ない。益々、戦争のことは異次元の出来事のように「何も知らない世代」が日本という国を背負うことになる。どんな展開になるのだろうか。
 そんな事を考える日。それが今日なのだろうか。
 
※ 掲載したのは昨日の朝刊の記事である。ご紹介したい。この記事の主人公は中学校教員時代の小生が野球部で指導した選手の一人である。また、機会があったら個人的なエピソード等はこのブログでも紹介しましょう。教え子の活躍に触れると、少しはあった小さな苦労など比にならない。これを『教師冥利』と言うらしい。 この掲載は「教師冥利の押しつけ」?だったらゴメンなさい。頑張っている教え子を見るとあの頃の「若さ」が蘇って来るのです。許されたし!!
※ 今夏の請負事業最大の、来年度の教員採用を夢見て挑んでいる人たちの指導も、昨日全日程が終了した。立派な教員になって欲しいと「力を入れて」講義をした。『教師冥利』を実感できるような新しい後輩が多く誕生することを祈るばかりである。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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