2010/08/07

『8月6日 ヒロシマ』での愚問


  ~今日は何かあるんですか?~
 この愚問が、2001年8月6日 朝の広島駅での会話の始まりでした。
 今、思い出しても羞恥心に潰されそうです。当時は新設開校の小学校初代校長として勤務していましたが、校内研修会の講師としての招請に応えて初めての広島訪問だったのです。あの日から10年間、広島の学校訪問は脈々と続いています。あの羞恥な質問から「広島詣」が始まったのですから皮肉なモノです。
 今ほどの酷暑ではなかったでしょうが、「ヒロシマの夏は熱い」イメージ通りに強い陽ざしの向こうに広島駅前は騒然としていました。今までに見たことのない光景でした。街宣車らしき車が物々しさを掻き立てているような雰囲気でした。駅前のロータリーの人混みも尋常の沙汰ではなかったのです。
 改札口にお迎えいただいた広島市立井口明神小学校の原田備子校長先生が、「今日は特別な日ですからタクシーは使えませんのでJRでご案内しますがお許し下さいね」とご挨拶を頂戴しました。電車での移動には異存など無かったのですが、広島駅構内を含め周囲の喧騒に思わず、愚問を発してしまったのです。
 在来線も異常な混雑でした。広島駅から僅か10分間の乗車時間です。降車して目の前に訪問する小学校がありました。
 愚かな人間の証明は、その閃きの鈍さにあることを知ったのは校長室にご案内されてからなのです。羞恥心の欠片もない愚かさを露呈してしまいました。
 校長先生が「今日、8月6日はヒロシマにとっては大変な日です。身内に被爆者もおります。その親族をこの1年で亡くした者が教員の中に一人いまして、その教員だけは今日はどうしても出勤できません。どうぞお許し下さい」と説明がありました。
 愚鈍な小生は、『8月6日 広島原爆の日』という一般常識としての知識は確かに蓄積していました。「8月6日・9日」は広島と長崎の被爆という惨事があったという事実は「知識の一片」として注入され常識として知っていたはずです。
 知識の量で「学問」が測られるとすれば、小生は十分に合格する知識はありました。しかし、知識だけの「独り歩き」ではコミュニケーションのツールにはならないことを痛感したのです。脳天を殴られたような衝撃でした。座学だけの机上論では通じないことがあることを身に染みて感じたのです。
 そんな特別な日に一人の不参加者で校内研修会を実践された校長としての力量に今でも頭が上がりません。あの日以来「広島の学校からの訪問依頼」にはお断りすることなく訪広を続けざるを得ないのです。
 知識をどんなに詰め込んでも本当の「生きる力」の栄養源にはならない。この自らの愚問が気付かせてくれました。

 8月6日午前1時に咲いた「月下美人」の写真が京都から届きました。そして、小生が早朝歩禅で撮った夏の花(向日葵)写真も添えます。そして、被爆者の皆さんのご冥福をお祈りさせていただきます。写真提供の京都の知人にも感謝申し上げます。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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