~明けきれない空に「月」が・・~
満月を愛でながら夏の夜空の「大三角形」とやらの星座を長男孫に教わったのが数日前のことだった。昨夜も、お祭りのお囃子太鼓に参加している孫を迎えに行った帰りに、自転車の後ろに乗っている3歳の孫が「あっ、お祖父ちゃん、お月様が追いかけて来るから急いで!」と自転車の速度アップを要求された。話題の主はその満月であった。都会では味わうことのなかった月夜の風情を実感した。
今朝はこの3日間で最も早く出発した早朝歩禅である。
昨夜のお月様がまだ西の空に君臨していた(写真)。今朝のコースはほぼ昨日と同じであるが、未知の「道」を探りながら鶴沼(通学路にある)を一周することにした。魚を釣っている人たちが多いのに驚いた。ジョギングする人たちとほぼ全員と挨拶することができることが、都会との大きなギャップであるとも実感した。コミュニケーションとは「交わす・交わる」意味が基であるならが、すれ違う人たち同士が「挨拶を交わす」ことは、生活の中の基礎基本ではないだろうか。挨拶をしようとする瞬間に「目線を外す」都会人とは大きなギャップを感じた。これこそが「嬉しい誤算」である。
そんな挨拶の交信から一日の生活が始まる。まさに至福の時間ではないか。自慢ではないが、今朝の挨拶交信で「知っている人」はゼロである。知人友人でも挨拶をまともに交わすことを避けるオトナ集団の人間関係からは、子供たちのコミュニケーション能力など育成できるわけがない。
たくさんの爽やかな挨拶を交わしながら帰宅した。
西の空に傾きつつある「お月様」にも、挨拶をすることにした。「いつもありがとう」と呟きながら両手を合わせる自分の姿に老いを感じた。しかし、これは避けることのできない現実である。
今夜は、また、一つ楽しい約束が待っている。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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