2011/07/24

ラジオを聴きながら・・・(2)

 ~児童養護施設が僕の運命を変えてくれた~
 日課となっているラジオ番組「NHK第一・ラジオ深夜便」の『明日へのことば』(午前4時台)は、今朝はアンコール番組であった。聴かない時もあるのでこの構成は有難い。
 苦労は買ってでもしろ!
 耳にタコができる程に聞かされた祖母の言葉が脳裏を駆け巡った。貧乏百姓の三男として誕生した末っ子孫の小生に祖母(父方)は、不平不満を漏らすことの多かった(らしい)我儘な孫息子を捕まえては説教をした。贅沢を言えば限がない。贅沢は人間の敵だ。貧乏には感謝しろ。等々、決して子供には理解できない哲学を口角泡を飛ばす勢いで説いたものだった。父親の戦死には、(生まれた時にはもう出征して不在だったし、直後に戦死していたようだ)幼心の少年には不平不満を覚えなかったが、食事や衣類には一部の友人たちと比較すればするほど惨めで辛かった記憶は今でも鮮明である。貧乏が「人間性を育てる」なんて少年時代考えたことなどある訳がない。
 今日のトーク主は、元プロボクサー・坂本博之氏であった。彼は福岡の児童養護施設で育ったと語り始めた。(今で言う)子ども虐待の被害児としての壮絶な生きざまを振り返って語り続ける。そして、結婚してわが子を授かり、憧れの中に追い求めてきた「家族の温もり」に辿りついた幸せに言及した。小生の文章表現力不足ゆえにこの画面では論述できない。湯船で下半身を温めている老体に、氏の言葉は湯のぬくもり以上の熱さをふくらはぎに注入してくれた。飛び込んでくる言葉の全てに「血液」が通っていた。タオルで目頭を何度も押さえながら感涙を拭き取った。
 中学時代から高校時代にかけて母を詰って反抗期を生きた小生の暴言を恥じた。
 戦死して戻ってこない父親を求めた反抗的態度は亡母を苦しめたことに間違いはない。坂本氏は実の両親に縁が無く、養護施設に保護されたのである。一歳年下の弟と一緒に苦労して生き抜いた氏の生きざまを聴きながら、感動の涙から後悔の涙へと移行したが目から溢れる涙は止まらなかった。同時に、小生も70歳に近くなって亡き母の享年に近くなったことも無意識になることができない。意識すればするほど懺悔の思いが募り涙は止まらなかった。反抗期盛りの時期には、口うるさかった祖母ももう他界して家には存在感すら消えていた。父の母親だったので、「父親の顔すら知らない」末孫の小生には人一倍の愛情を注いでくれたのではないか、と肉親との生活がいかに幸せなことかを痛感すると、次の涙は小学校5年生の時亡くなった祖母への感謝の涙に変わった。
 ご多分に漏れず小生も老人の仲間に入ってしまったらしい(笑)。
 涙腺のゆるみがその証である。『鬼の角田』と異名をいただいた(?)教員時代を知る人は信じてくれないだろうなぁ~!!えっ?「鬼の目にも涙」だって?そう表現されても仕方ないほど、傲慢な教員人生を生きてきたのだから反省のしようもない。
 育てていただいた児童養護施設に感謝の気持ちを表現したく、東京にリングを作り施設を援助する事務所も併設して全国の「弟や妹」達への激励で東奔西走しているという氏の言葉を聴いて湯船から出るタイミングを忘れてしまった。感謝の気持ちで人生を歩くことの難しさと、素晴らしさのハーモニーを老脳に刻み込んで「新時代」を生きようと決意した時間でもあった。感謝することばかりで、お返しする力不足も実感した妙な記念すべき朝となった。
 時まさに、今日は「テレビ文化の新時代(=デジタル放送完全実施)」の開幕である。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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