高等学校の「授業」が学校教育における授業の最終段階だと実感した。
小中学校の授業を観察することが多いこの稼業を9年も続けている。自らの高校教員としての反省をする機会も無く過ごして来てしまった。僅かな教壇生活(3年間)とは言え、今回の横須賀市立横須賀総合高等学校の授業を観察しながら、自らの授業については猛省させられる機会を得てしまった(笑)。同時に、義務教育期間での「授業の価値観」が全く違うことも体感した。それは、受けている授業の「価値」を高校生なら判断できると確信したからである。「高校生が付ける授業価格(=値段)」について考えてみたくなった。
需要曲線と供給曲線との合致点が「価格」を決定する。
この命題を「高校生が受ける授業」の場面で考えるとすればどうなるだろう。小生は次のように考えてみた。
需要は高校生が受けたい授業内容であり、供給は高校生に教えたい指導内容である。市場価格決定の道順で授業価格を計算する。需要曲線が低迷する生徒にとっては供給曲線が高いと価格決定が出来ない。価格が決定されないとなればその市場(=授業)は成立しないことなる。つまり、この高校生には全く意義の無い授業であるとなってしまう。需要曲線がかなり高い生徒にとって、供給曲線が低いと「価格」は暴落である。つまり、この高校生にとっては受ける価値の無い授業となり無意味な授業時間となる。市場は成立していても、倦怠と怠惰で過ごさざるを得ない授業となってしまう。それどころか供給者(ここでは教員)に対する不信感が募る付加価値まで生まれることになる。
当ブログではこの程度しか論述できないが、「授業の経済学」(仮題)での論及も考えている。この論究対象は「高校での授業」しか該当させることは出来ない。「需要曲線」が確立できるのは小中学校での基礎学力の構築が確認できるのが高校生であると確信するからである。
今回の授業観察で、強烈な印象は「聞き合う」力を醸成している高校生の姿勢であった。批判的な考えを培いながら自らの考えを他者に対して述べる光景を見ることが出来なければ「授業の経済学」等の観点について模索することもなかっただろう。小中学校の授業でも、それなりの「授業の経済学」は成立することは考えられるが、需要曲線の不鮮明さが気にならない訳でもない。
経済学の不勉強で、例示に迫ることが出来ないことが致命傷ではあるが、読者諸兄のアドバイスをいただけることを期待したい。
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