
2001年8月6日(月)
現職に在りましたが、お盆帰省が儘にならぬために一足早い帰省をしていました。この日が帰省先の郷里(熊本県八代市)から茅ヶ崎市の自宅に帰る予定になっていた日です。帰省前から要請がありましたので、広島駅で途中下車をして学校訪問するお約束をしておりました。妻と広島駅で分かれて新幹線から下車しました。改札口で(広島市立井口明神小学校・校長)原田備子女史が出迎えていただきました。ご挨拶代わりに発せられた「言葉」も深い意味があったのですが、小生にはただ単に状況報告としてしか受け止められなかったのです。ここから「恥ずかしい思い出」が蘇るのです。
「こんな日に広島での途中下車をお願いしてしまいまして騒々しい思いをさせて申し訳ございません」
「本来ならお車で送迎すべきですが、市街地が混雑していますので在来線での移動になりますがお許しください」と立て続けのお言葉が掛けられても、鈍な神経には響かなかったことが10年経った今でも恥ずかしさで落ち込んでしまう心境に変わりはありません。
学校に到着しました。
教頭先生(現在・広島市立幟町小学校長)から、欠席者数名があることを告げられました。校内研修会への出講ですが、丁寧に欠席者の理由を校長先生からご説明がありました。公務の出張や業務での不参加者の説明が終わり、「最後の一人は、全く個人的な理由での欠席ですが校長としてはやむを得ないこととして了解しておりますのでどうぞお許しいただけるようお願いします」。
校長先生の「了解事由」の説明の中に使われた言葉で、「被爆者の逝去」と「8月6日」の関係がやっとわかったのです。「この日」の意義も、「座学で知り得た知識」に波のように押し寄せられて小生の小さな思考回路は破壊されそうになってしまったのです。「この日」は広島の人たちだけの特別な日なんかではない。多くの恩師の言葉にもそんな類の説得調が耳にも心にも届いていたはずだったのです。しかし、所詮「教科学習」で得た知識でしかなかったことが悔しかったのです。
あれから、「8月6日」という特別な日は、小生にとっては「座学で得られない体験知」として生き続けています。全身に受けた衝撃は決して忘れることのできない「日」になりました。明日がその日です。小生は昭和19年に誕生しました。だから、明日という日は原爆投下から「66回目の日」になるでしょう。自らの生い立ちとこの日の繋がりは、戦争遺児である身であれば決して忘れてはいけない「日」なのに・・・。あの日の小学校の研修会場で受けた屈辱(自らだけの)は永遠に残っています。
どうして、そんなに熱心に「広島詣で」を続けるんですか?
親しい友人にそんな質問を受けます。応えは「広島から要請があるから」となりますが、深意には、わが人生最大の恥ずべき言動と行為に対しての罪の償いをしたい「ちっちゃな心」が蠢いているからなのです。
時代は70年近く流れて、「忘れ去られそうな」被爆という現象が、今度は福島県で起きてしまっている。放射能汚染という二度と起きてはならぬ、と教えられて育ったはずの我が国で起きてしまいました。世界で唯一の被爆国で起きたことを考えるだけでも心痛のあまり言葉になりません。
ラジオ深夜便の「明日への言葉」という番組でも、数少なくなった「原爆語り部」の方の「願い・叫び」が耳に痛いほどに伝わってきました。
明日は、そんな「日」ですが、小生は早朝から茅ヶ崎市に移動しますのでこのブログが書けません。本日の便でお届けししたことをお許しください。
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