哀しい事故がまた起きた。青春時代を「大きな川」で育った小生には「川下り」の風景は懐かしさだけで振り返る素敵なものである。故郷の母なる川・球磨川でも川下り事故で犠牲者が出て哀しい思いをしたことを思い出してしまった(写真は球磨川下りの風景)。以前の無謀なばかりの「スリル満点」川下りも、あの事故から驚くほどの縮小運営となり運行場所も危険区域を避けての営業に替わったという情報には「故郷の廃家」ではないが、名物行事がまた廃れてしまう寂しさすら覚え、哀しくも思ったほどであった。しかし、「いのち」が消えてしまうような営業では、また困ったことではないか、と若者なりに葛藤したものだった。
テレビ番組では天竜川の「事故現場」からのレポートがほぼ終日にわたって放映されていたようだ。事故が起きるとニュースになる。事件が起きるとコメント(適材適所とは決して思えない人材から)が発せさられる。そして、放映の最終段階が、管理運営責任者なる人物が画面の中央で腰を折って頭を下げて「謝罪会見」に登場する。
画面を変えて見ても、ほぼ同一の傾向で哀しい事故現場から悲痛な声で実況中継ではないか。
そして昨日も、ご多分に漏れず何の変哲もないシナリオで事故報告を「多局より興味関心を惹くような画面作り」で取材放送を構成しているだけである。
「正確さ」以前のスピードと印象付けの報道では一方通行になってしまう。そして、深く考えることも無く、「~らしいね」「~だったみたいだよ」と繰り返し放映される事故現場の光景だけを脳裏に焼き付けて世間話に移行してしまい、次の事件や事故が起きると脳裏にはもう残像すら無い。この繰り返しで東日本震災の「テレビ報告書」を見続けされたのではないかと思うと妙に悔しくなるのは小生だけではない筈である。
終日暇な小生にとっては、見ようと思えばテレビはいつでも見ることが出来る。
祖父ちゃんがテレビの前に居れば、孫たちもテレビの前に座ってしまう。居ながらにして情報を得るという便利な生活は大変危険な事態ではないか。また、起きてしまった川下りの哀しい事故を垣間見ながら、ふと、『現代生活』の進展の行く手を塞いでしまっているのがマスメディアであることを、次世代には正しく伝える必要があると実感した一日でもあった。
犠牲者のご冥福を祈りつつ、老婆心は昨日も大揺れに揺れた「感情腺」と共に過ごしてしまった(笑)。
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