~「疲れたぁ~」の一言は?~
何が発せさせるのでしょうね。
42キロもの長距離を走った(ことは無いが)ら、その一言は確実に全身が発する指令なのでしょうが、肉体的疲労感が伴えば自覚症状が証拠となることは確実です。しかしながら、時間的には1時間ばかりと言う短さであっても、その場から解放された意識が確立さえすれば疲労感がドッと襲ってくることもあるのですから疲労度と所要時間とは無関係だと痛感したのが昨日のことでした。
5年間「顧問」という肩書で契約をさせていただいた会社と本日を以って満期となることで、昨日は本社までご挨拶に行ってまいりました。形式的だ、と言われても小生の気持ちが収まらないので出向いただけです。先方からの強制や要請があったわけではありません。5年前に身に余る優遇措置にて契約をさせていただき今日まで至りました。当時、どぎまぎした思い出が妙にくっきりした画面で走馬灯を駆け巡りました。単なるご挨拶だけで本社社屋に訪れたはずなのに精神的には「感謝の意」を上手に伝えられるかどうかの動揺もありました。お礼を述べて世間話をしながら程よい時間を見計らって失礼の無いように退社するのも神経を遣ってしまい、疲労度を高めてしまいました。
総武中央線に乗り込んで空いていた席にへたり込むほどの疲労感に襲われた自覚症状は何だったのでしょうか。会社の採用の目的を果たすことが出来なかったことへの謝罪らしい一言も添えられなかった反省がその重さの中心になったようでした。言葉不足はこの場を借りて謝意をお伝えします。本当に有意義な時間を5年間もいただきましたこと心より感謝申し上げます。
皆さんにもこのような「所要時間の長短」とは無関係に疲労度が高かった記憶があるのではないでしょうか?経験談も機会がありましたらお聞かせください。
明日から孫たちは学校が再開するようです。長かったようで短かった夏休みが今日で終わることになります。40日余りの「長期」にわたった「孫たちとの生活」には、上述内容とは全く異質な疲労度が顕在します。しかし、そこには老輩としての充実度も、それ以上の高さを示しています。孫の宿題のお世話にも祖父としての新鮮な生き甲斐を見出しました。明日から、また、爺婆のみの「閑静な時間」の復活です。夏に読み残した本でも読みましょうかね(笑)。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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