
高橋治氏という著名な作家とは知らずに家庭訪問をした。
中学校の教員時代の、「今だから話せる」お話である。ご長女の担任として定例行事の訪問であった。通されたのが書斎だったのだろう(とは、後日の結論)が、四方の壁は全て書物で覆われ、出入り口のドアと明り取りのための窓の部分を残す壁は全てが「本」であった。ご案内されて通され、父親が登場されるまでの数分間は立ちすくんでしまった。書物に歓迎されるというより威嚇されていたという表現が相応しい雰囲気での家庭訪問であった。こんな経験は後にも先にもこれだけであった。
恥ずかしながら32歳の小生は、「オトナの恋」を表現されることで著名な作家が生徒の父親であることなど全く予備知識もなく訪問してしまった。東京大学でフランス文学を専攻された氏の人生哲学を拝聴し、執筆活動をされている現状もわかった。「娘のことは先生にお任せします」との一言だけが家庭訪問での父親の言葉として承ったままにお約束の30分間を過ごして学校に戻った。
能天気、というより「恋愛小説」のジャンルに興味が無かったことも功を奏して(笑)、読書のジャンルに登場してくる著者ではなかった。保護者の氏名を確認しても(本名でご執筆)意識の中にすら入りこんでくることが無かったのが、今となれば後悔するばかりである。
娘さんも卒業して数年経ったある日、テレビ画面に映る作家らしい人物の話し方に耳が傾いた。そして以前にお会いした卒業生の父親である氏に気づいたのである。アナウンサーが著書を紹介された時点で筆記するのが精一杯だった。すぐに書店で取り寄せて読んだ。それが、『風の盆恋歌』という不倫を描いた小説であった。小生にとっては未経験な世界を「覗き見する」感情で読み終えた。鼓動の高鳴りを抑えることが出来なかった。異才の世界に君臨する父親であったことを知ったのも後の祭り。
その後、
蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉 若い日の美しい私を抱いてほしかった 忍び逢う恋
風の盆
石川さゆりさんという(個人的にも好きな)歌手が、この歌詞で熱唱する姿をテレビで見る度に、僅か30分間しか滞在しなかったとは言え、この歌の元本が描かれた空間の空気を吸った興奮が飽きることなく続いたものだった。
帝国劇場で舞台も鑑賞した。これも大ファンである佐久間良子さんが主役であったのも因縁を感じた(=ファン気質)。玄関先に鉢植えにされて咲いていた『酔芙蓉』に語り掛ける佐久間さんの色っぽい演技で、酔芙蓉という花を幻想的に見詰めてしまったのは帝国劇場の雰囲気だったのかも知れない。
街路樹のように大きな木に咲く酔芙蓉の花が今年も目に付き始めた。この花を見ると、9月1日から3日間開かれる「越中おわら風の盆」の光景が浮かんでくる。
退職しない限り観に行けない日程である(9月1日から勤務開始)。退職して「いの一番」に飛びついたのがこの盆踊りへの観光であった。来週の今日(9月1日)から、今年も富山県の八尾という町は、胡弓の音色で幻想的な盆踊り一色に塗り替えられることだろう。この頃になると、毎年「また訪れてみたくなる」のも小生の年中行事である。
小説の中で「創り上げられた」花と、現実の花の違いに戸惑いつつも郷愁を感じるのは何故なのだろうか?皆さんにはこんな「花」との思い出はありませんか?
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