~とても涼しい風が・・・~
新潟や福島での水害をテレビの画面で追いながら「梅雨明けした」後にも集中豪雨があることを、ずっと昔の記憶を弄っていました。あのころの「季節観」では、その状況の急変は大ニュースになっていたような記憶が残っています。いつ頃からなのでしょうか?季節感と実態にズレが生じても大した異変とも感じなくなってしまったのですね。自然界の異変は「生活を脅かす」最大の敵だったはずですよね。
食卓の野菜や果物にも、今の子供たちには「季節観」を判断する生活力は無いかも知れません。つまり、科学技術の進歩(?)が、夏野菜も冬に栽培したりして高値で売れることが優先されたからかも知れません。年中通してイチゴのトッピングが可能であるのでショートケーキを食べられるのですから、『旬のイチゴ』を実感することなく、いつでもおいしいイチゴを食することが出来るわけですね。
石油を利用したビニールやガラスハウスの中でトマトを栽培していた実姉の農業経営を具に見て育ちました。トマトが夏の陽射しを受けて青臭さが強く、それがたまらなく嫌いだった子供時代の思い出も同時に蘇ります。そのトマトをお正月の食卓に「採れ立てのトマト」として姉が運んできました。そんな光景も思い出しています。
夏は夏らしく・・・。
つまり、自然界で自然のままに生きるモノには『旬がある』ということです。社会科の地理の授業で促成栽培や二期作を学んだ時は「知識だけの世界」でもありました。学びながら驚いたのも感動だったのです。先般、栃木県でゴーヤを出荷している農家の記事を読みました。「沖縄の気温」が栃木までやって来てしまった!と思わず嘯いてしまった爺の独り言も季節感のズレを敏感に感じ取らせる自然界の変貌ではないでしょうか。
温度計が無いので気温はわかりませんが、異常な程に冷たく感じる北風が部屋を吹き抜ける8月1日の夕暮れです。この度の豪雨の襲来前は、エアコン消費電力の増加を案じた爺でもありました。我が家(=離れ)にエアコンの設備が無いことを心配してくれていた母屋の住人達も、今ではすっかり忘れてしまったような陽気になっています。
今日から8月です。何の意味もありません(笑)が、どんな夏になるのでしょうか。そんな老婆心が頭を過る一日(ついたち)の涼しい夕暮れです。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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