会う人毎に「来年古希を迎えます」と言うのが癖になりました(笑)。
それはこの本を一読してからのことです。退職する前は、「10年間ぐらいは形だけでも恩返しになるような仕事が出来れば・・」と考えていました。たまたま、退職直前に義父母(当時揃って88歳)の介護が必要となり1年早めての退職手続等でバタバタしたのでそんな「夢物語」もどこかに飛んで行ってしまいました。その両親も今年は七回忌を迎えるまでに歳月は流れました。
退職して10年目を進行中です。
「そろそろ」退く潮時と考えていました。浜松『響の会』がこの5月に13年間・31回継続開催したセミナーの最終回を宣言して戴いたのはグッドタイミングでした。幾つかの『響の会』開催地にも、徐々に時機到来を告げる予定にして心中では真剣に『引き際』の時期を考えていました。
そこに、降って湧いたかのような前触れ(情報)が届いたのが3月でした。
そして、6月25日。びっくりするような多くの参加者と役員をお引き受けいただいた現職の校長・教頭先生と一堂に会しました。事務局長の発声で≪高知・『響の会』≫が新規発足となりました。挨拶代わりに配布した資料を以下にご紹介します。
「美学」など持ち合わせませんが、『引き際』の時機の到来は十分に意識はしています。しかし、高知の会場の盛り上がりに遭遇してみますと、暫くは言い出せそうにない状況下に追い込まれました。お役に立てる内は・・・、と再度の自らを鼓舞している平成25年上半期最終日(=6月30日)の朝です。午後日程の業務ですが、今日は横浜へ出講します。
記念講演資料
2013(平成25)年6月25日 18:30~19:30
高知市はりまや町1-6-1『葉山』
「泥を肥やしに咲く花」(松原紗蓮)
【2010/3/28】 致知出版社編集部発行
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松原紗蓮(まつばら・しょうれん=浄名寺副住職) 月刊『致知』2009年3月号「致知随想」 肩書きは『致知』掲載当時のものです http://www.chichi.co.jp/monthly/200903_index.html
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私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、2歳7か月の時です。
幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、親代わりの庵主様や、世間様の 「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。同級生からはその逆に、お寺の子であることや、実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが 「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、 泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。
張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。
役所に、ある書類を提出する際、庵主様から「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。
自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。一体何を信じて生きてきたのだろう?事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。
そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、 あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。14歳で手を出した薬物はその後7年間、1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。
心配をした庵主様は、私が20歳になった時に「最後の賭け」に出たといいます。私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。
例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。私がグレていた7年間、普通の親であれば間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。 それは親心を越えた、仏様の心というものでした。
また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」と言われました。人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、初めて自分にとっての大事なものが見え、本当の生き方ができるようになるのだというのです。
私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。庵主様はお洒落もしなければ、食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、他の楽しみに時間を使うこともなかった。ではその分、一体何に時間を使っていたか。
そう考えた時に、庵主様はすべての時間を「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。私の思いの至らなかった陰の部分では、どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、 世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。
そして教科書を読み進めれば進めるほど、止めどもなく涙が溢れてきました。修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、庵主様は
「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、かえって反発を生むだけだった。いまおまえが分かるということは、おまえに分かる時がきたということだ。仏道は待ちて熟さん」とお話しになりました。
庵主様には1つの願心があり、私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙ってこの子を見守ろうと決めたのだといいます。そして自らには、何があっても「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた孫悟空のようなもので、自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、私はその大きな大きな慈悲の中に生かされていたのだと知ったのです。
23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に「紗蓮」という法名をいただきました。後にある方から 「美しい蓮の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」と教わりました。
振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの自立支援相談や講演活動を行ったりしています。
非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。人一倍光るようになるよ、この子たちは――。私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。
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あらゆるものに機縁がある。人と言葉と出合うのでしょうか。おそらく無数・無限の人と言葉を出合います。その中で、ある時、ストンと心に落ちる言葉がある。心の土壌と、言葉の種がうまく合致した時、その言葉はその人の心の中で大きく成長し、その人の運命を招来する力となる。そういう言葉をキャッチする心の力を養っていきたいものです。
幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、親代わりの庵主様や、世間様の 「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。同級生からはその逆に、お寺の子であることや、実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが 「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、 泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。
張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。
役所に、ある書類を提出する際、庵主様から「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。
自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。一体何を信じて生きてきたのだろう?事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。
そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、髪の毛を金色に染めて、耳にピアスの穴を開け、 あらゆるものに歯向かい、強がって見せることでした。暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。14歳で手を出した薬物はその後7年間、1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。
心配をした庵主様は、私が20歳になった時に「最後の賭け」に出たといいます。私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして叱られ通しでした。ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。
例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。私がグレていた7年間、普通の親であれば間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。 それは親心を越えた、仏様の心というものでした。
また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」と言われました。人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、初めて自分にとっての大事なものが見え、本当の生き方ができるようになるのだというのです。
私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。庵主様はお洒落もしなければ、食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、他の楽しみに時間を使うこともなかった。ではその分、一体何に時間を使っていたか。
そう考えた時に、庵主様はすべての時間を「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。私の思いの至らなかった陰の部分では、どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、 世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。
そして教科書を読み進めれば進めるほど、止めどもなく涙が溢れてきました。修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、庵主様は
「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、かえって反発を生むだけだった。いまおまえが分かるということは、おまえに分かる時がきたということだ。仏道は待ちて熟さん」とお話しになりました。
庵主様には1つの願心があり、私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙ってこの子を見守ろうと決めたのだといいます。そして自らには、何があっても「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた孫悟空のようなもので、自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、私はその大きな大きな慈悲の中に生かされていたのだと知ったのです。
23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に「紗蓮」という法名をいただきました。後にある方から 「美しい蓮の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」と教わりました。
振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの自立支援相談や講演活動を行ったりしています。
非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。人一倍光るようになるよ、この子たちは――。私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。
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あらゆるものに機縁がある。人と言葉と出合うのでしょうか。おそらく無数・無限の人と言葉を出合います。その中で、ある時、ストンと心に落ちる言葉がある。心の土壌と、言葉の種がうまく合致した時、その言葉はその人の心の中で大きく成長し、その人の運命を招来する力となる。そういう言葉をキャッチする心の力を養っていきたいものです。
(2009年3月1日配信 月刊誌「致知」メルマガより)
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