2013/06/15

『気配りと心遣い』がなければ活きた「組織」は編めません!


 
 

 この写真は今回の訪問中学校の正面玄関です。

 これは小生の靴です。
 これを履いて外に出ました。体育の授業を観察するためでした。この時間帯も前半に1つの授業を観察して、移動をしてグランドでの授業を観るためにこの「現場に遭遇」しました。小生は、確かに下駄箱に靴を入れてから応接室に入ったのです。

 授業から授業へ移動するために時間との勝負です。教室から小走りで玄関に回って運動場に移動する老輩をご想像ください。

 授業をする教員も人間であれば、受講する生徒たちも人間です。人間と人間の「関係づくり」に、お互いの『気配りと心遣い』は欠かせません。双方に要求される行為です。片方だけでは「関係づくり」は失敗します。授業の成立条件の一つでもあります。

 学校経営に神経を遣っていた日々に、非常識な教員の言動を窘めました。廊下ですれ違う外部の人に会釈もできない現状を見て愕然としたからです。日本にしかない独特な礼儀作法も『気配りと心遣い』の象徴です。教員たる稼業を生業とする集団に欠けていることを許せなかったのです。イヤな校長としてのイメージは自らが最も深く理解しておりました(笑)。

 急ぎ足の小生には、玄関先に揃えて置いてある自分の靴が他人のモノかと一瞬の疑いの眼が踊りました。足を入れて運動場の「体育の授業」観察に移動しながら訪問校の教職員の「どなたか」の配意を感じました。老輩の足取りも軽くなりました。溌剌とした中学生の大きな声の挨拶を受けました。この中学校の「将来への期待」が胸一杯に膨らんだ瞬間でした。

 感情で生きる(?)教員集団です。いがみ合っていては教育など出来る訳がありません。「勉強する(=学び合い)」スキルは独りで習得できる代物ではありません。子ども同士の学び合いと表現すれば「カッコいい」ものには見えますが、中身は「教育に情熱を掛ける」教職員集団に、子どもたちへの深い愛情に包まれた『気配りと心遣い』の裏地がないと成就する出来るモノではないのです。子育ては大人(教員や親)の愛情があれば大丈夫なのです。

 こんな『気配りと心遣い』のできる教職員が育っている学校経営に頭が下がるお思いで、小牧山に聳える素敵な小牧城に見送られて帰路に着きました。
新幹線の中でも「犯人捜し」(笑)をしてしまいました。
          この『気配りと心遣い』の犯人は誰なんだろう?、と。

0 件のコメント:

コメントを投稿

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

フォロワー