この写真は今回の訪問中学校の正面玄関です。
これは小生の靴です。
これを履いて外に出ました。体育の授業を観察するためでした。この時間帯も前半に1つの授業を観察して、移動をしてグランドでの授業を観るためにこの「現場に遭遇」しました。小生は、確かに下駄箱に靴を入れてから応接室に入ったのです。
授業から授業へ移動するために時間との勝負です。教室から小走りで玄関に回って運動場に移動する老輩をご想像ください。
授業をする教員も人間であれば、受講する生徒たちも人間です。人間と人間の「関係づくり」に、お互いの『気配りと心遣い』は欠かせません。双方に要求される行為です。片方だけでは「関係づくり」は失敗します。授業の成立条件の一つでもあります。
学校経営に神経を遣っていた日々に、非常識な教員の言動を窘めました。廊下ですれ違う外部の人に会釈もできない現状を見て愕然としたからです。日本にしかない独特な礼儀作法も『気配りと心遣い』の象徴です。教員たる稼業を生業とする集団に欠けていることを許せなかったのです。イヤな校長としてのイメージは自らが最も深く理解しておりました(笑)。
急ぎ足の小生には、玄関先に揃えて置いてある自分の靴が他人のモノかと一瞬の疑いの眼が踊りました。足を入れて運動場の「体育の授業」観察に移動しながら訪問校の教職員の「どなたか」の配意を感じました。老輩の足取りも軽くなりました。溌剌とした中学生の大きな声の挨拶を受けました。この中学校の「将来への期待」が胸一杯に膨らんだ瞬間でした。
感情で生きる(?)教員集団です。いがみ合っていては教育など出来る訳がありません。「勉強する(=学び合い)」スキルは独りで習得できる代物ではありません。子ども同士の学び合いと表現すれば「カッコいい」ものには見えますが、中身は「教育に情熱を掛ける」教職員集団に、子どもたちへの深い愛情に包まれた『気配りと心遣い』の裏地がないと成就する出来るモノではないのです。子育ては大人(教員や親)の愛情があれば大丈夫なのです。
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