久しぶり(昨年度は訪問していない)に訪れた小学校の子どもたちの動きが違和感を与えてくれた。7年前から継続訪問している小学校なので、その間に学級の治安を壊すような数名の子どもたちが存在したことも記憶している。
しかし、今回は以前との差異が明確だった。
つまり、この学校だけでなく「どこでも・いつからでも」気が付いた時には火の手が上がって消火が後手に回ると言う教育現象が起きているようだった。全国各地でこんな現象への対応策等の指導助言を要請される。しかし、小生にはそんな処方箋は持ち合わせていないのでお応えが十分に出来ない。力量不足は否めない。
生徒指導を特枠として設営して管理するのではなく教科等の日常の授業で積極的に取り上げられれば「荒廃・崩壊」などの現象は起きないだろう。これが小生の「授業こそが積極的な生徒指導」という持論なのである。
教育(指導)手法には「特効薬」は似合わない。
薬や注射のような即効性を期待するような手立ては、その場しのぎであって永続的な効果には決してならない。授業こそが積極的な生徒指導と力説する小生は、だからこそ「授業研究」に教師はエネルギーを費やすべきだと考えるのである。
数日前から咽喉の痛みもあり、咳き込んでしまう状況下にあった老体ではあったが、懐かしい顔ぶれの教員集団の前に立った小生は、力んだにも関わらず咳が出て中断することも無く近くまで歩み寄りながら力んでエールを送ることができた。
示範授業(=小学校英語)も公開したが、体調不良も「きらきら輝く」6年生の子どもたちの視線は感知した。負けまいと(笑)、G先生(=じいちゃんせんせいの英語版?)は奮闘してしまった。参観者の中から一人の固有名詞を出して「あの子があんなに集中して授業を受けたのが信じられない」との意見を述べた。これは、G先生への最高のほめ言葉などではない。そっくり教員集団にお返しする言葉になった。こんなにも輝く(きらきら)視線を持っている子どもたちは、授業への期待があるのだと言う証ではないか。「教員が頑張らずに表面上の打開策だけに依存してはいけませんぞ!」と。
学級崩壊と言う珍現象(時・所構わずに発生するから)に振り回されずに授業づくりの研究には精力を傾けて欲しいのである。なぜならば、数名の珍現象発起人のために、「授業への関心」すら放棄してしまった児童がその学級には多く居るからである。
9月に再訪することになった。学校を上げての意識の高揚を期待しながら快適な空路で帰ってきた。
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