2013/06/22

「内助の功」への感謝の言葉を述べるための里帰りです!


 平成3(1991)年に研究所長として出会う。

当方が47歳の若輩所長1年目に指導主事として市教委に採用されて来た。僅か1年間の所長生活で、直ぐに小生は現場に異動した。また1年間の中学校教頭生活から市教委に異動した。そして、今度は指導課長を拝命した。研究所の指導主事から指導課に異動させられて当方の下での業務に就いて以来、お互いの異動はあったが、平成13(2001)年4月1日に新設開校した小学校の校長と教頭で再会するという『運命の総仕上げ』の時間に強烈な協働力を発揮してもらった。

 その後、小生の退職の後を受けて二代目の校長職に就き未完成のままに退職した小生の学校運営を立派に形あるものにしてくれた。その功績には頭が下がる思いである。ずっと支援してくれる立場にいたので、いつまでも「若い」と思い込むのも仕方が無いが、既に還暦を迎え、この3月に現職から離れたのである。

 今日は、小生も「現職時代に里帰り」である。

 PTA主催の「校長先生・ご苦労様でした」会への案内が届いている。偏屈な頑固者(=「ひごもっこす」)は、こういう類の集いが嫌いなのである。しかし、この人物への「ご苦労様」は言わせて欲しいので勇んで(笑)出かけることにしている。

 小生が退職するまでの最後の3年間の「内助の功」を述べるには枚挙にいとまがない。学校経営に楽しさなど無い。毎日が真剣勝負だから浮いた喜びなど殆どない。ただ、学校経営の柱になるべく幾つかの企画実践に挑んだ無鉄砲な校長としては、走馬灯には幾つかのシーンが刻み込まれている。

 「校長塾・眞心舘」の新設は、スクール・イン・スクールの理念に基づいたものだった。「親も勉強しよう」のスローガンで起ち上げた。校長としての最後の勤務生活3年間で26回も実施できた。月例・土曜日に実施したが「無理を承知で」、信頼できる教頭に運営を任せた。勤務校以外からは市内は問わず県外からも大勢の聴講者が集ってもらった。取材も多く受けた。その雑務も教頭は受けてくれた。思い出の写真を2枚ほど紹介して当時の教頭に敬意を表したい。
  
 久しぶりの再会も楽しみだが、正面から「謝辞」を述べることに出席の意義がある。肝に銘じて里帰りに行って来ます!

 
【写真の説明』 (上)開設して1年が過ぎた頃、教頭も講師として専門領域での講釈をしてもらった。(下)この半年後には退職を決意している時期の現職校長としての講義風景です。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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