2011/05/20

『旅』の振り返り(1)







5月14日 教育実践・浜松『響の会』 初夏セミナー



 やっぱり、こんなに大きな違いがあるんだ!


 終了後の懇親会でも話題は尽きなかった。それは、民間教育産業(ここでは「日本公文教育研究会」と公立学校での「小学校英語教育」というジャンルでの指導手法の違いがあまりにも明白に表出した発表になったからである。「公文式英語」と公立小学校での「外国語活動」との間には、決して歩み寄ることのできない教育の目的の違いがあるのがわかった。小生は、双方に関わっているのでその大差は十分納得しているが、本会で初めて公文式英語の発表を聴いた公立学校の先生にとっては青天の霹靂であったかもしれない。


 教える・育てる。


 つまり「教育する」手法には「創設の理念と哲学」が不可欠である、と考えると本会の発表から生じる差異への衝撃は当然発生し得ることである。「個々の学び」を理念として築かれた一方の教育手法と、「集団の学び」の良さを追求して誕生した教育手法とでは、『根っこ』から違っているのである。「公文で学ぶ子供」は、わがままで利己的だと評価されるとすれば、公文の理念が学習者に十分に浸透されていると評価されることになり、創設の目的が達成されていることになるのかも知れない。一方の公立学校の教育手法も決して侮れない。長所も沢山備えている手法も編み出されているではないか。双方に優劣は付けられない。学びには目的がはっきりする場合が多い。「個で迫る」手法が得策と考えられる場合と、「集団の総力で迫る」手法が功を奏する場合との間には評価には優劣が付けられないということである。
 教える(指導する)立場の人たちには、双方の良さを十分に理解して臨機応変に駆使する能力が要求されるのではないだろうか。


 そんな学びを実感した聴講者が多かったような気がする。当然ながら会場には、公立学校の教員だけでなく公文式指導者、公文教育研究会の職員も一堂に会していた。参会者の脳裏を駆け巡った刺激の中に排他的発想はなかっただろうと推測している。


 教育には「官」も「民」もない。
 これが小生の教育理念の一つでもある。強引な融合や不合理な対立など教育には向かない。それは指導者サイドの理不尽な理屈だけが生じさせる結果である。学習者サイドで満足できる手法が駆使されることを祈る思いである。今回もそう感じながら、夜の新幹線で浜松から新横浜駅に向かった。


写真は、上から①「官」の発表、2「民」の発表、3聴講風景、4希望者参加・懇親会後の記念撮影









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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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