後輩教員からメールが届いた。
「角田先輩の育成稼業に期待する」ような文章が続き、その中に何回も繰り返し書き込まれている「育成する」という単語が目から離れない。40年近くを稼業として挑んだ育成業こそが学校教育現場であったことは否定できない。23歳で教壇に立った青二才が「せんせい」と呼ばれた。照れくささを感じながらもいつの間にかその代名詞と一緒に生きてきてしまった。
「角田先輩の育成稼業に期待する」ような文章が続き、その中に何回も繰り返し書き込まれている「育成する」という単語が目から離れない。40年近くを稼業として挑んだ育成業こそが学校教育現場であったことは否定できない。23歳で教壇に立った青二才が「せんせい」と呼ばれた。照れくささを感じながらもいつの間にかその代名詞と一緒に生きてきてしまった。
巣立って行った卒業生を立派に育成できたのだろうか?
そんな反省心が無いわけでもない。今更反省してももう、後の祭り。時として実力以上に見せようと背伸びをして説諭した光景も蘇る。教員としての立場の正当化に苦慮した風景も浮かんでくる。また、自分だけの功績でもあるかのように他者に誇った恥ずかしい場面も妙に懐かしく思い出す。
昨夜届いた後輩からのメールを読み返しながら、「育成する」ことの意義について、この歳になっても「挑む」ことを、改めて意識することを意識した。それは、大きな事件や事故との遭遇がない限り意識の変革はできないことを暗示していることに気が付いた。
地上に目を出したばかりの葉っぱ(人間)が、何の施しもなく育つことはあり得ない。光や水やと肥料に類する「手だて」が必要であることぐらいは百も承知であるが、「人間の双葉時代」から成長を促すためには何が必要なのかと思案してしまう。
期待される「育成稼業」に挑むともなると、この始発点の研究も必要とされるのかも知れない。
朝からずいぶん難しく、しかも硬いお話になってしまった。それもそのはず、今日は来年度から正規の教員になるべく勉強している受験生諸君が集う講座に出講する日でもあるからだ。偶然ながら、後輩教員に期待される「角田先生流の育成手法」を、存分に披露して「明日の教師」を目指す諸君のために有益な時間を提供しなければならないのである。時として、こうして「力む」小生は異常な老輩なのかも知れませんね。
双葉がいつの間にかその生態から花や草や樹木の種類が判別できるほどまでに成長すると、その種類に合わせた介護と看取りをしなければ大きな成長は期待できない。
その人に合わせた忠告や叱咤が人間の成長に不可欠であることを自然界が教えてくれる。優しさだけでは育たない。風雨に晒され、雪に覆われながら春の日差しを待つことも育成には必要なのかもしれない。
数日前に、大きな仕事が降りかかってくる予兆があった。それも「育成する」ジャンルに属するようだ。人が人を育成するのは、動植物の育成とは全く異質であるようにも思えるが「自然体」という技法の偉大さも決して侮れないことを意識し始めた雨の朝である。
新居完成のお祝いに、と長女から「モミジの苗木」が届けられた。昨日の夕刻、枯れかかっている状況に気が付いて、慌てて水をかけた。そうしたら今朝から強い雨である。台風から流れる雨雲が関東にも相当な雨量をもたらすという。昨日、掛けた水は余分だった?!(笑)後悔は先に立ちません。
育成することの難しさを実感しつつも怯むことなく「明日の教師」を目指す集団の待つ横浜市に出向くことにしましょう。
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