
教員時代に県外に出張、しかもほぼ1か月間もの時空を「研修身分」で過ごした時の仲間が全国にいる。その中で今でも(約30年前の出会い)交信できる人が存在することは至福である。その「旧友」から久しぶりに手紙が届いた。転居の知らせを受領したからであろう。
・・・(前略)・・・茅ヶ崎とはまた違った魅力ある地でしょうね。「筑波山」という音の響きが懐かしいですね。是非ともまた訪れたいものです。中国山地の山あいの村で生まれ育った小生にとって関東平野の広大さには度肝を抜かされました。時には富士山が見えると聞いて更に驚きました。(中略)貴兄のことですから新天地でまた色々と切り拓いていかれることでしょう。折々の情報をお届け願います。ところで、以前、話題にした飼っていた鶏のことですが、残念ながら死んでしまいました。(後略)・・・
同封された「執筆原稿」(県内の機関紙からの依頼)を読む。
癒しにも似たご夫婦の愛情を全身に受けて必死に「産卵して」喜ばせた鶏の話題になっている。広島での公務の帰路、岡山で立ち寄り30年余の旧交を温めた時の「老・爺」の話題は孫のことで話のネタが尽きた二人の他愛もない(と、言ったら氏に怒られる?)話題として、この原稿に登場する「二羽の鶏」さんたちがホットな心を運んできてくれたのである。
こちらが注いだ愛情分だけは反応してくれるのだろうか。この問いかけに、人間だったら・・・、と午後の眠気を吹き飛ばしつつ考えてしまう。人間だったら「掛けた愛」以上の反応は期待してもいいのではないだろうか、というのが小生の結論紛いの結論である。しかし、それは「いつの時点」か?それが問題解決のキーポイントになるだろう。小生は思う。それは、ひょっとしたら墓石に向かって語り掛けた時点になることも「人間だったら」考えて置くべきだと言うこと。従って、急がず、欲張らず、信念を込めて「愛を注ぐ」ことが前提かも知れない。いかがだろうか?
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