~公営住宅の遺品~
引き取り先なく廃棄の自治体も多くなっている。
独身生活者の親しい友人と話をする。当方が孫たちの話題に触れると「羨ましいよ」と前置きして、高齢者となった身の寂しさが言葉について出る。若い頃は兄弟姉妹の家族とも親交はあったが、高齢者になると甥も姪もそれぞれの道の人生を歩み始めて「可愛がった日々」は幻になってしまっている、との愚痴で話が止まる。
我が子がいても新聞記事のように「遺品の引き取りを拒む」状態になるとすれば結末は大同小異の状態になってしまう。人間関係が血縁者間では以前は異なもので在った筈であるが、現代では、血縁の有無には無関係な人間関係になってしまっているようだ。友人の寂しさにも同意できる。遺品の管理が自治体の負担になっているとの関連記事を読んでいると背筋まで寒くなってしまった。
嫁の実父は僧侶である。多くの檀家を抱える寺院を営んでおられる。縁あって我が両親のお墓も寺院の霊園に作ることが出来た。ある時期に霊園の中に「慰霊塔」を建立された。遺骨をお寺に預けたまま引き取り手が現れない遺族が多くあるとの話を耳にして唖然としたことがある。僧侶的着想からなのだろうか、「納骨して慰霊をする」との意志で慰霊塔ができたのだそうだ。墓参の折りには時々、慰霊塔に手を合わせてから帰ることにしている。
遺骨の引き取り手と遺品の引き取り先との正確な関連性はできない。
いずれにしても「人間関係の薄弱さ」に思考が辿り着く。故郷を遠く離れている小生も、母親の17回忌で帰郷の墓参で感じたことがある。『先祖代々の墓』という意識が自らにも薄らいでいる事だった。結婚するとそれぞれの世帯を作る民法に法るとは言え一抹の寂しさを禁じ得なかったのは何故だろうか。
朝刊のトップ記事を読みながら、ページをめくって関連記事まで読み終えた。何故だかわからないが「ふ~」っと息を吐いてしまった。
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