~「常識」という固定概念~
久しぶりに老妻を伴って田園地帯を歩いた。
ここは北関東である。2年前まで住んでいた湘南(神奈川県)とは気温差があることは理解できる。しかし、昼間の北風の冷たさは想定外である。昼下がりの風の弱いことを確認して歩かないと身体が温まるどころか冷え切ってしまう。これが実体験から編み出した自己流の判定法である。
インフルエンザに罹った(医師の診察は受けていないので自己判断)老妻の完治(らしい)を認めて歩禅に誘った。陽射しがあると北風も柔らかく感じる。
午睡の微睡はマラソンのTV実況中継に疎外された。ゴールした優勝者のインタビューを聞きたくて起きてしまった(笑)。
自己流の勧めだ。高校の部活動での体罰や柔道女子選手からの暴力告発などが社会問題になる中、川内は「(指導者から)押さえつけられるだけが競技じゃない」と話した。
「陸上でも体罰や言葉の暴力で辞めていく選手もたくさんいると思う」とした上で、「僕みたいに自分のやり方でできることもある。続けるか悩んでいる高校生とかがいるなら、伝えていきたい」と神妙な表情を浮かべていた。(ネット記事・スポーツ新聞より)
「陸上でも体罰や言葉の暴力で辞めていく選手もたくさんいると思う」とした上で、「僕みたいに自分のやり方でできることもある。続けるか悩んでいる高校生とかがいるなら、伝えていきたい」と神妙な表情を浮かべていた。(ネット記事・スポーツ新聞より)
体罰問題がスポーツ界の指導者のあり方まで追究するような「社会問題」になっている。学校教育法で言及されている「体罰」という熟語が独り歩きしている。どうやらこの兆候は、当分の間、日本人生活文化の主流になりそうな気配である。
小生は元凶が日本式組織運営論が時代とのミスマッチにあるような気がしてならない。つまり、スポーツ界における組織の活性化が時代の流れの急変と国際的潮流との闘いで割れ目や裂け目が明瞭になって来たという事である。負けた組織には転覆しそうな危機状態が襲っているのだ。その組織の上層部が対応できなくなっているのは組織に委ねて生き延びた「自己流」の爪磨ぎを忘れてしまったからだと断言しておこう。
今日のマラソンランナーの勝利宣言に、組織人は目を覚ますべきである。
一流のランナーが指導者のポジションに就く。将来を嘱望される有望新人選手は輝くほどの戦果を持った指導者の傘下に入ることに抵抗がない。つまり、この時点で「自己」を捨てて「組織人」になってしまっているのである。一流の選手が一流の指導者に成れる保証が無いことぐらいは常識として認識したいモノである。
今回のマラソンの優勝者をマスコミは「市民ランナー」と表現している。明らかに「組織名」としての所属と指導者がないことを区別している。スポーツ記事を読みながら時代の流れを感じている朝である。
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