2013/09/24

過ぎ去った年を数えてみても『驚き』、『感動と感激』に感謝するばかり!!

 

 29歳の青年教師が苦悩した日々。

 当時の校長先生との出遭いを思い出しては複雑な心境に陥る。非礼でもあり不謹慎だった言動を今でもハッキリ思いし、羞恥心が募る。今は故人となられた大先輩であった当時の校長先生を「恨んだりもした」若き日々の無礼を心底より詫びる機会をいただいた。40年間の歳月を超えてそんな心情に達したことを怪奇にさえ思える4日間の時間であった。去る9月11日より14日までの4日間の訪広(=広島への訪問)は、今までの授業示範とは異質なモノとなったことは嘘ではない。

 新ブログ【寸心紀行】への登載を予定していた中身の3分の2は完了しただろうか。何と言っても「40年ぶりの授業」への挑戦であったことがキッカケである。古希を迎える年齢になった老いを実感する頃になった今、「昔取った杵柄」を復刻させるような挑みを要請に恵まれたのは奇遇としか言い様がない。

 古びた手法と笑われそうでお断りした方が良いのではないかと躊躇したことも嘘ではない。しかし、何故か「孫たちに伝えたい」というお祖父ちゃんの立場から授業をするのも良いのではないか、と自らを奮い立たせたのも、また嘘ではない。

 授業のデザインを創り上げて、学校関係者と打ち合わせをしながら気付いたことが多い。その最たるモノは、「やったことがない」のと「失敗だらけでもやったことがある」のでは大きな違いが生じていると実感したことである。前述した校長先生の厳しい指導に辟易とした若き日々を過ごした己の失態でも、「やらされた」苦境の中で「やったことがある」実態として確かに残存していたことには驚愕の思いであった。流石に加齢による謝意の心情が感情を昂ぶらせられていたこと、これも紛れもなく事実であった。

 決して授業者の範に足りるものではない。しかし、この「授業の要請」が無ければ40年前の非礼ぶりは、そのまま何の回顧もなく朽ちて行ってしまっただろう。3つの小学校の子どもたちが真剣に授業者のG先生(=祖父ちゃん先生)に迎え撃ってくれた。お世辞として75パーセントのほめ言葉を計上したとしても、25パーセントの中身は(依頼された校長先生方には悪いが)自己満足で独占されていることは間違いない。

そんな折りに授業を要請された校長先生のお一人からメールが届いたのでご紹介しましょう。その学校の写真が届き次第、新ブログ【寸心紀行】にアップして今回のシリーズを完成させる予定である。 

 130923受信

角田 明先生へ 

こんにちは。
先日は,角田先生の「心の授業」と「教育講演会」に感激し,本校は大変幸せな時間を過ごさせていただきました。

一昨日も,学校協力者会議の方が,先生の講演会をお聞きになられ,「いのちのまつり」の本を3冊買って,兄弟に持って行きましたと言われました。

また,角田先生は,ズバズバ言われるけれど,決して嫌な感じがしないのと,あれぐらい言われないと心に届かないのですよ,私たちは。とも言われました。第1回目として,成功裏に終えることができたのも,角田先生のお陰だと思っております。本当にありがとうございました。

ところで,ご依頼のありました写真の件ですが,その職員の御尊父様が15日に他界されまして,先週いっぱい休暇をとっておりました。明日から,出勤してくると思いますので,写真を探してお送りしたいと思います。







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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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