2013/11/21

7年後に「保育士」の不足が見込まれる??

 

 「前時代的な考え方」であると、耳も傾けて貰えないかも知れないが、夢多き青春時代の思い出話を披露する。

 「先生になりたい」と、高校時代の友人達に言った。「給料が安いんじゃないの?」との前置きをした彼らの意見は強烈だった。「生活していけないぞ。結婚も出来ないんじゃないのか?」とまで言及されたことを思い出した。還暦同窓会で再会した時には何人もの同業者が居たが、親しい友人の中には教員になった者はいなかった。

 卒業と同時に高等学校での教員生活が始まった。

 その後、公立中学校に転勤した。やがて、新採用の教員が複数以上の数で配置される時代となった。数年も経たない内に年度末の土・日曜日は「結婚式のラッシュ」になった。つまり、同僚の殆どが「共働き」の人生を選んだのである。数年間の内に親になって彼らの家庭生活のリズムも大きく変わって行った。我が子を保育園に預けての共働き生活は社会の常体となったのは言うまでもない。

 その時代の赤ん坊たちが今、列記とした親世代になっている。保育園が不足して「待機児童」という社会現象になってどのくらいの年月が流れているのだろうか。保育士の成り手が無いという新・社会現象にまで変化(到達)しているようだ。

 小生の古い職業観。

 笑われるだろうなぁ~!同僚たちの結婚ラッシュに招待された小生の家の家計簿は「火の車」だったと老妻が語ったことを思い出した。「結婚貧乏」だったと声を出して笑った。一輪車操業(=共働きではない)の家から「祝儀を持ち出す」のは罪にも等しかったようだ(笑)。

 貧乏は苦しい。しかし、その苦しさの中で家族が細々と生きる。美学と思ったことも無い。貧乏教員夫婦が3人のわが子を育てた。彼らは「もっと裕福な生活」を、と子どもなりにも夢見たかも知れない。教員も「子育て」のプロであるという意識が強かったので小生の教員人生には貧乏の陰りはなかったと自負している。保母さんや保父さんという名称が「保育士」と変わって市民権を得ているようだが、職業観までは市民権を得ていない??

懸命に働く人たちの子育てに付き添う職業への誇りを「心の財産」にして世の中の役に立つ職業人として活躍して欲しいのだが、時代遅れの着想として跳ね除けられるだろうなぁ~!?

 

 退職してもプロとしての「職業観」を捨てきれずに、今日も早朝の6時には家を出て遠隔地に出講します。待ってくれている後輩教員諸兄の顔が浮かんでくると、勇み立つ我が精神構造は「現世の遺物」になりそうです!(笑)行ってきま~す。





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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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