老妻が老眼鏡をかけて「針仕事」をしていました。
6歳の孫息子がその光景をじっと見ていて、「お祖父ちゃん!おばあちゃんって昔の人みたいだね」と声を掛けました。と言うことは「おじいちゃんも昔の人になるんだ」と小生は考えました。ところが、お祖父ちゃんは自らの両親と同じようにパソコンを使っている光景が目に留まっているらしく「昔の人」ではないのだそうです。老夫婦は苦笑してしまいました。
世代を飛び越えるから、祖父母と孫の関係が成立します。
我々の祖父母は明治時代の産まれでした。孫世代から見れば、話題から遠い昔の風景を空想してそこから匂いも勝手に感じてしまうのです。「いのちのまつり」という絵本では、今、生きていることはお祖父ちゃんやお祖母ちゃん、曾祖父母のどちらが一つ欠けても「きみの今」は成立しないというストーリーになっています。
意識の有無にかかわらず、小生も「お祖父ちゃん」になってしまっています。孫との対話一つからも「いのちのつながり」を痛感させられます。日本語には「内孫」と「外孫」があるようです。孫には変わりませんが生活の温度差は存在します。つまり、日常的な接点の回数の差だと考えても良い感覚の温度差です。
嫁がせた娘にはその時点で言い聞かせて送り出しました。実家の両親より嫁ぎ先の両親を大切にしなさい、と。かなりきつく言い放ったことを懐かしく思い出すことが多くなりました。それは外孫たちも成長して、苗字の違う家庭での生活文化が孫世代にも脈々と連なっていることを体感することが多くなったからでしょう。とても嬉しい事です。双方の孫たちが素直に成長してくれていることを心底から祈っているからです。
6年生になっている外孫娘から演奏会への招待が届きました。
年に数回しか会わないので情報過多にはなっていません。金管楽器を演奏するのだそうです。中学校でも楽器の演奏は続けたいらしいのです。今年のお正月にその話題になって、お祖父ちゃんとしては約束をしてしまいました。「上手な演奏が出来たら中学校の入学祝に好きな楽器を買ってあげるぞ」と。
その評定を付けるために今日から娘の嫁ぎ先に泊まり込みで出かけます。
当事者は「お祖父ちゃんの判定」を受けるとばかりに緊張しているようですがお祖父ちゃんにはその意気込みなど全くありません。「いくら(=楽器の価格)するんだ?」と、もう購入の心準備しているのですから、世代を飛び越えた人間関係の緩やかさと温もりを実感してしまいます。親子の直接世代での人間関係ではぎくしゃくすることは常識的な情景ですが、『祖父母と孫』とのぬるま湯の関係です。中々良いモノです。
今夜は、上の孫娘とお祖母ちゃん、下の孫息子と一緒の部屋にお祖父ちゃん。それぞれの部屋で寝ます。孫息子には先だって絵本を送っておいたので読んであげたいと考えています。
『鬼』というニックネームの現職時代の小生ですが、もう、その欠片も存続していません。外孫や内孫と言う言語表現をしているお祖父ちゃんも、やっぱり「昔の人」の部類に仕舞い込んでおきましょうかね!
行ってまいります。ホンのちょっとの間、当ブログは休刊です。
0 件のコメント:
コメントを投稿