昨夜からの独り念仏(=「明日は晴れますように・・」)の威力もなく空しいほど強い雨音が聞こえる朝になってしまった(誰かに頼まれたわけでもないのに!)。
二昔(20年)ぐらい前の入学式は、(視点は異なるが)昨今の入学式とは華やかさが違っていた。なぜ?それは親の装いである。現代風に解釈すれば「子どもの入学式に何で親がおめかしするの?」と詰問が飛んで来そうである。しかし、視点・観点を変えてしっかり考えてみてはどうだろうか。親の晴れ着は邪道と断言してしまって良いものだろうか。
母親が和服姿でわが子の入学式に参列する。
時代は移っているので「和装」は日常的ではないのは確かである。確かな事実であると万人が認めるのであれば考え方の視点を「通常ではない和装」に的を絞れば良いではないか。つまり、通常(普段着)には無い「特別な意識」の下での正装であると理解できるではないのか。親も「心引き締めて」わが子の入学を意識する出で立ちが和装であると理解すれば意義ある数時間となるのはないか。
本日の掲載資料は、愛知県教育庁海部教育事務所長・玉置崇氏のブログを勝手にレイアウト・編集したモノである(字句や表現は原文のまま)。通勤電車内での「高校生達の大人観」を読ませて貰った。大人の急所を突かれてしまっている内容だと感じる。大人は「自らの」立場の自覚とそれに伴う自己研鑽をどこかへ放棄して、若者達への要求と指示だけで事を済ませてしまおうとしているらしい。冷ややかにこの高校生集団は見抜いているということではないか。
学校行事の中に「儀式的行事」がある。
入学式や卒業式はそれなりの服装で教職員も対応するが、始業式・終業式・修了式等への意識はかなり低くなり、服装も普段着で済ませてしまっているような記憶である。先ず、指導的立場にある大人の「折り目正しいけじめ」が必要なのではないか。そして、ここまで言い切れる高校生達の成長に負けないためにも指導者としての自己研鑽を心して欲しいモノである。
窓を濡らす雨を見詰めながら、こんなくだらないことを呟くばかりの老脳である。
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