2010/04/23

新聞を読んで・・・(2)

  ~「大人」の定義と意識の養成~
 昨日の朝刊「神奈川県版」の記事。
 新聞に目を通しながらこの記事で「ハッと」して思考回路が立ち止まってしまった。数年前から気になっていた内容が、「ここまで」来てしまった事への落胆である。「大学」というのは一般人としての教育機関としては最高学府ではないか。そのキャンパスの片隅にこのような類の「掲示板」が立っていると言う現実を、日本人の「大人たち」はどんな思いで読むのだろうか。大学教育関係者だけの責任かな?大学という教育機関はこんなことにエネルギーを費やしていて良いのか?胸が痛む思いに駆られた小生の心情をお察しいただける大人仲間が多く存在して欲しい。
 小生は「教育する」専門機関(=学校)に勤務して「大人としての大半」を過ごしてきた。
 時代の流れと共に教育に関する考え方も大きく様変わりしている。ここのスペースでは到底述べる事など出来ない。誕生した赤ん坊は、幼児期~少年期~青年期を経て「立派な大人」に成長する。その成長の源は、その時期に関わる「大人たち」が見本であり手本なのである。とすれば、その作用すら機能しない集団の力が衰えたとしか言えないのではないか。
 一時期流行った表現に「指示待ち人間」がある。
 まるで指示を待っている未熟な青少年を愚弄するような感じに取られるのが辛かった。未熟である時代を生きているからこそ「指示を待っている」のは当然の成長過程での現象ではないのか。的確な指示と意欲を掻き立てるような指導をすることが出来ない大人たちの未熟さに大きな問題があることを気づいて欲しかった。大人には急に慣れるモノではない。年齢だけが達している大人はその「禊ぎを受ける儀式」を正しく通過していないのである。成人式の体たらくは新聞をはじめテレビ等でも不愉快になるような話題として「今の若者はここまで・・・」と評した。そうさせてしまった大人集団の「大人力」(あまり好きではない表現だが)の体たらくであることを真剣に考えるべきではないのか。
 今日は午前中に講演会に出講の予定である。対象は幼児期から小学校に通う子どもを育てている「親集団」である。この種講演会への講師招請が多くなっている。その事自体が良いのかどうかわからないが、一人でも多くの親が「大人力」の必要性に気が付いてくれるような話題を提供してお務めを果たしたいモノである。
 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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