~好きで引き受けた「時間」~
とは、言いながらも暫く忘れてしまっていた真剣な眼差しとの勝負。
中学校教員時代の高校受験前の中3生徒達のあの熱い視線。いや、あの日々には担任と生徒という「関わり」が、まだ心を和ませてくれていた。今は、まったく違う。有料の講師と合格だけを目指している受講生との他人の関係しか無い。当然のことだろうが「納得できる指導」への大きな期待だけで時間を共有しているのである。真剣さと熱意だけが試されている時間である。
昨日は第三回目の講義日であった。教員採用試験の受験者と過ごした180分間は拷問にも似た試練の時間であった。受験指導をした教員時代には高校受験と大学受験に関わった。共に情熱を傾けたことは今でも自負している。決していい加減に接したことなど無い。学級担任として、教科担当者として口角泡を飛ばす熱気で授業も展開した。
しかし、昨日の現実は異質であることは間違いない。
「生きる力」とは?論文作成に取り組む「教員の卵たち」諸君が走らせる鉛筆の音だけが響き渡る講習室を巡回する。高校受験や大学受験とは趣が違う。違って当然、と言えば二の口が告げない。「生きる」ためのプロセスを見せつけられている。講師からの質問にも沈黙はない。疑問に思ったり不安だったりしている事項も、先を競っての質問が飛んでくる。教員時代には味わうことのない体感である。
1つの講座が90分間。昨日は2講座連続の担当であったので10分間の休憩を取っただけの、ほぼ180分間連続の講義となった。疲れたはずなのに疲労感はゼロ。
帰路は、JR桜木町駅から横浜駅乗り換えで茅ヶ崎駅までの約40分間の車中。身体の火照りが消えていない老体に気が付いた。何となく「嬉しさ」を実感する我にも気づいたのである。真剣に挑む「教員の卵たち」に、ホンの少しでも役立つ時間を過ごしたい。「無い袖は振れぬ」と知りつつも背伸びをしている老輩が我ながら愛おしい。
今日は終日の雨。のんびりと休養が出来た。市川伸一教授の著書「学ぶ意欲の心理学」を読破した。面白い観点に思わず「合点」の雄叫びをあげてしまうほど元気な爺さんである(笑)。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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