~被災地の二次災害を案じながら・・~
このブログを書き始めようとデスクに向かったのが4時半前。
目覚まし時計は殆ど不要なほどに我が体内時計は確立している。目が覚めるのが3時半前後である。習慣とは恐ろしい?根拠は他愛もないこと(とは、失言だろうが・・)。仏教詩人と言われる坂村真民翁がそんな時間を起床時刻になさって晩年を過ごされたという文字に心を(勝手に)動かしただけである。そんな生活リズムを意識し始めてから早や20年以上が過ぎてしまった。
目が覚めた布団の中で、雨戸と屋根を叩く雨脚の強さに心が痛んできた。
霧島連山・新燃岳の火山灰が堆積して雨量によっては土石流になって生活地帯に流れ込むという二次災害を気象予報官が語っていたことを思いだし眠れなくなってしまったのである。真民翁の「自然界の夜明け」が2時頃だとの自説を読んだことも同時に思い出した。「雨は西から東へ」とは祖母が教えてくれた少年時代も浮かんできた。祖母の言葉の真意も分からずに成長したが、今では良くわかる。茅ヶ崎の今朝の雨・・・。霧島連山は昨日がこんな風な降雨だったとすれば、避難された方達はまんじりも出来ずに一夜を過ごされたのではないだろうか。案じてもどうにもならないとは思いつつも案じてしまう。
新潟・中越地震の被災もそうだった。これから降雪の季節に向かう時期だった。着のみ着のままに被災された皆さんが寒さに向かう時期だったと記憶をまさぐる。自然界の恐ろしさを感じたモノだった。九州は雲仙・普賢岳の溶岩流で酷い目に遭っている。その経験値が、今回の土石流警報に繋がっているようである。長崎から支援部隊も到着しているらしい。いずれにしても、自然界の猛威には、素晴らしい科学の進歩も太刀打ちできないモノらしい。スイッチオンで何でも出来るような便利な世の中を創り上げている「立派な人間社会」も、自然界への畏敬の念を無視してしまったらとんでも無いことになるのかも知れない。
霧島連山の雨量を案じつつ、久し振りの「早朝ブログ」を認めている。
このブログを書き始めようとデスクに向かったのが4時半前。
目覚まし時計は殆ど不要なほどに我が体内時計は確立している。目が覚めるのが3時半前後である。習慣とは恐ろしい?根拠は他愛もないこと(とは、失言だろうが・・)。仏教詩人と言われる坂村真民翁がそんな時間を起床時刻になさって晩年を過ごされたという文字に心を(勝手に)動かしただけである。そんな生活リズムを意識し始めてから早や20年以上が過ぎてしまった。
目が覚めた布団の中で、雨戸と屋根を叩く雨脚の強さに心が痛んできた。
霧島連山・新燃岳の火山灰が堆積して雨量によっては土石流になって生活地帯に流れ込むという二次災害を気象予報官が語っていたことを思いだし眠れなくなってしまったのである。真民翁の「自然界の夜明け」が2時頃だとの自説を読んだことも同時に思い出した。「雨は西から東へ」とは祖母が教えてくれた少年時代も浮かんできた。祖母の言葉の真意も分からずに成長したが、今では良くわかる。茅ヶ崎の今朝の雨・・・。霧島連山は昨日がこんな風な降雨だったとすれば、避難された方達はまんじりも出来ずに一夜を過ごされたのではないだろうか。案じてもどうにもならないとは思いつつも案じてしまう。
新潟・中越地震の被災もそうだった。これから降雪の季節に向かう時期だった。着のみ着のままに被災された皆さんが寒さに向かう時期だったと記憶をまさぐる。自然界の恐ろしさを感じたモノだった。九州は雲仙・普賢岳の溶岩流で酷い目に遭っている。その経験値が、今回の土石流警報に繋がっているようである。長崎から支援部隊も到着しているらしい。いずれにしても、自然界の猛威には、素晴らしい科学の進歩も太刀打ちできないモノらしい。スイッチオンで何でも出来るような便利な世の中を創り上げている「立派な人間社会」も、自然界への畏敬の念を無視してしまったらとんでも無いことになるのかも知れない。
霧島連山の雨量を案じつつ、久し振りの「早朝ブログ」を認めている。
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